2015年11月25日

助動詞「だ」について(18)

 
〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(5)

 標記論考の「2.主観性 21 命題とモダリティ」を見てみましょう。

 主観性ということばは多義に使われるが、本研究では、モダリティ論における話し手の心的態度の現れについて用いることにする。モダリティ論によると、一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる。「モダリティ」はさらに、話し手による客体世界の把握の仕方と関わる「命題態度のモダリティ」と、話し手の発話態度と関わる「発話態度のモダリティ」とに分けられる。図3は発話態度のモダリティの中に命題態度のモダリティが埋め込まれ、さらにその中に命題が埋め込まれる様子を示している。

    【〔〔命 題〕 命題態度のモダリティ〕 発話態度のモダリティ】

           図3 文の構造

 文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つとされます。しかし、文とは時枝が明らかにしたように、客体的表現と主体的表現の組み合わせが入れ子型になり、一纏まりの思想を表現したものです。「起立。」「暖かい。」などは一語文と呼ばれています。この入れ子型構造は主体的表現による話者の観念的移行を伴った複雑な一体としての立体的構造をなしています。ここで言われる命題自体が、話者の心的態度である主体的表現なしには成立しませんし、客体的世界の認識を客体的表現と主体的表現の個々の語に分解し、再度組み立てる心的態度なしには表現はありえません。ここに定義された文の構造は、立体的な構造をもった構築物である文を線状に単純化し、命題、命題態度のモダリティ、発話態度のモダリティに形式化したものといわなければなりません。ここから、展開される具体例をみましょう。

 このことを具体的な表現で説明する。

(3)[[[雨]だ]よ]。

(4)[[[かなり雨が降る]だろう]ね]。

例文(3)(4)で命題に相当するのは「雨(である)コト」と「激しい雨が降るコト」の部分である。これらは話し手の存在とは独立に客体世界に存在するものであるため、客観的な命題として機能する。これに対し、モダリティに相当するのは「だ」、「よ」、「だろう」、「ね」の部分である。このうち命題態度のモダリティに相当するのは「だ」と「だろう」の部分である。これらは「雨(である)コト」、「かなり雨が降るコト」という事態に対して、話し手が確言(「だ」)や概言(「だろう」)の判断を下したものである。一方、発話態度のモダリティに相当するのは「よ」と「ね」の部分である。これらは「雨だ」、「かなり雨が降るだろう」という判断を、話し手から聞き手への情報提供(「よ」)として伝えたり、話し手と聞き手の情報の共有(「ね」)として伝えたりする機能がある。
これらの表現は、話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能するのである。

 ここでもまた、機能が並べたてられていますが、命題に相当するのは「雨(である)コト」というのは、「である」つまり判断時、<助動詞>「だ」の連用形「で」+<助動詞>「ある」を補って解釈しています。これを補っておいて、命題態度のモダリティに相当するのは「だ」というのは、本来、<名詞>「雨」+<助動詞>「だ」であった句を無理やり分離し解釈したものでしかありません。これは、「命題+モダリティ」という解釈のために立体的な句を平面化した形式的な解釈の誤りを示しています。そして、(4)では、「だろう」を「命題態度のモダリティ」としていますが、これは、<助動詞>「だ」の連用形「だろ」+<助動詞>「う」の二語からなる異なった意義をもつ二語で、主体的表現の累加であり、肯定判断+推量という想像の世界から現実世界への話者の観念的移行が表現されています。

 さらに、発話態度のモダリティが「話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能する」などと機能的な解釈を述べていますが、これは言語規範としての主体的表現の語の本質によるものです。■

  
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2015年11月24日

助動詞「だ」について(17)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(4)

 今回は、杉村 泰 稿「ヨウダとソウダの主観性」について検討してみましょう。金田一が提起した主観性が謳われています。「1.はじめに」を見てみましょう。

 一般に日本語の文末表現「ニチガイナイ」、「ヨウダ」、「ソウダ」、「ベキダ」などは、話し手の主観的な態度を表すモダリティ表現であるとされている。

  (1)a.太郎が来るニチガイナイ

   b.太郎が来るヨウダ

   c.太郎が来ソウダ

    d.太郎がくるベキダ

この考えに従うと、(1)の各表現は「太郎が来るコト」という客観的な命題について、話し手が「ニチガイナイ」、「ヨウダ」、「ソウダ」、「ベキダ」という主観的な判断を下したものであるということになる。これを図1に示す。

    【〔太郎が来る〕 ニチガイナイ、ヨウダ、ソウダ、ベキダ】  

           図1 従来考えられてきた文の構造

 しかし、「ソウ」と「ベキ」は客観的な命題として機能していると考えたほうがよい。その証拠に「ニチガイナイ」と「ヨウ」が疑問の対象とならないのに対し、「ソウ」と「ベキ」は疑問の対象となる。疑問の対象となるということは、「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表していることを示している。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

   b.*[太郎が来るヨウ]かどうかを考える。

   c. [太郎が来ソウ]かどうかを考える。   

  d.  [太郎が来るベキ]かどうかを考える。

こうした事実により、「ニチガイナイ」と「ヨウダ」がそれ全体でモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」と「ベキダ」は「ダ」の部分のみモダリティとして機能し、「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能することが明らかとなる。したがって、(1a)と(1b)は「太郎が来るコト」という事態について「ニチガイナイ/ヨウダ」という概言的な判断をした表現であり、(1c)と(1d)は「太郎が来ソウナコト」、「太郎が来るベキコト」について「ダ」という確言的な判断をした表現であるということになる。このことを図2に示す。

      【〔太郎が来る〕 ニチガイナイ、ヨウダ】

      【〔太郎が来ソウ、来ルベキ〕ダ】

         図2 本研究で考える文の構造

 以上の表現のうち、本稿では「ヨウダ」と「ソウダ」の主観性の違いについて考察する。なお、「ニチガイナイ」と「ベキダ」については稿を改めて論じることにする。

 これもまた、機能的な発想の塊で、さらに命題が文の内部構造として提示されモダリティ機能が論じられます。<「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能する>とされますが、これも言語実体観の発想で、本質が無視されています。認識を扱えないとこのようになるしかないのが分かります。<「ダ」という確言的な判断>がどのように位置づけられるかに興味があります。

まず気づくのは、いつもの生成文法のプラグマティクな発想である非文「*」の扱いです。何ら論理的な根拠もなく主観的判断で非文として論拠にする誤りです。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

これは、別に非文ではありません。「太郎が来るに違いないかどうかを考える。」とすれば、さらに明確です。また、「太郎が来るようなのかどうかを考える。」も問題ありません。

そして、主観性の相違により「ヨウダ」はモダリティとして機能し、「ソウダ」は「ソウ」+「ダ」と分離されて、「ソウ」は命題として機能し、「ダ」がモダリティとして機能すると結論づけられます。もっとも、「ヨウダ」が一語なのか、「ソウダ」が二語なのかは触れられていません。

なぜ、このような奇妙な論理が展開され、結論されるのかを辿ってみましょう。■

  
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2015年11月23日

助動詞「だ」について(16)

   <助動詞>「だ」の捉え方(3)

 金田一春彦は昭和305月に研究社から刊行された市河三喜・服部四郎編の『世界言語概説 <下巻>』の日本語の条に「文法」を書いています。この中の、「十一 助動詞」の項を引用します。

 助動詞は、付属語のうちで語形変化をするものの称で、学校文典で助動詞と呼ばれるものは、二十語内外ある。が、服部四郎博士の創唱の基準(1)によれば、その中には、語の一部とは認められぬものが多く入っており、真に、単語と認められるもの、すなわち、助動詞と呼ぶのにふさわしいものは、ダ・ラシイの二語にすぎない。もし、これ以外に加えるとすれば、ダロウを加え得る。また、有坂秀世博士(2)に随って、勉強スル・運動スルなどのスルを加えることも許されよう。また、連語で、一箇の助動詞と同様に用いられるものには、ノダ・ソウダ・ヨウダなどがある。これら助動詞は、それが自立語についた場合、全体が一種の動詞・形容詞のような機能を帯びるもので、橋本博士(3)は、その点から、これらと、助詞のうちの準体詞その他を加えて、準用辞という品詞を立てられた。

 (1)「附属語と附属形式」(前出)に見える。()昭和十四年ごろ筆者に直接もらされたお考え。(3)『国語法研究』七九ページ

 ここでは、橋本文法をベースにアメリカ構造主義言語学の影響を受けた服部説や先に触れた<抽象動詞>である「スル」を加えるなど全く機能的、形式的な見方であることが示されています。一語とは何かについても確たる根拠を有していないことが見て取れます。「ダ」を<助動詞>としながら「ダロ‐ウ」を加えたり、連語としながら「ノ‐ダ」「ソウ‐ダ」「ヨウ‐ダ」に何ら注意を払っていないのにも明らかです。続けて、次のように「ダ」について記しています。

 は名詞につけば、そのものに一致すること、そのものに属することを表し、~ナ型の形容詞の語幹につけば、そういう属性を有すること、そういう状態にあることを表す。ダの用法中、注意すべきものは、長い句を、「意味の上で根幹をなす名詞+ダ」で表現する手法で、「雨ガ降ッテイル!」という文は「雨ダ!」と言い換えることができ、「君ハ何ヲ食ベル?」に対して、「ボクハウナギヲ食ウ」と答える代りに、「ボクハウナギダ」と短く言えるがごときである。(『金田一春彦著作集 第三巻』193195p)

 ここには、金田一の語義解釈の特徴である、「そのものに一致すること、そのものに属することを表し」たり、「そういう属性を有すること、そういう状態にあることを表す」とする理解が明示されています。時枝は先の論文で、この解釈の誤りを次のように指摘しています。

  金田一氏は、私の詞辞の別を、表現される内容に結びつけて考えたがために、辞の表現性を問題とせず、辞が付くところの詞の表現内容を以て、直に辞の性質を考えてしまったのである。……確かに、すべての助詞助動詞は、それが付く詞によって表現される客体的(金田一氏の云ふ客観的)な事実や状態に対応している。それ故に、助動詞は客観的表現であるとするならば、辞はおそらく、すべて客体的な表現である詞に繰り入れられるべきで、特に主体的な辞を区別する根拠を失うに違いないのである。

このように、詞辞という日本語の基本的区分を捉え、助動詞の本質を捉えることなしに機能的、形式主義的な見方をしていては、<助動詞>「だ」が主体的表現で、話者の肯定判断を表す語であるという本質をとらえることなど出来ずに混迷を深めるしかなくなります。「不変化助動詞の本質 ―主観的表現と客観的表現の別について―」という論稿がどの程度のレベルかは、これで明らかかと思います。

また、語の文中での意味と規範としての意義の区分が問題となりますが、時枝は意味論を正しく展開することは出来なかったため、十分な理解を得られなかった面もあります。

この金田一の誤りが渡辺実の構文論や寺村秀夫のシンタクス論に引き継がれ、教科研文法などとも結びついて仁田義雄らのモダリティ論へと混迷を深めて行きます。この誤りは先に挙げた、尾上圭介の「不変化助動詞とは何か―叙法論と主観表現要素論の分岐点」(『国語と国文学』平成二十四年三月号 八十九巻第三号)他の一連の論考にも明確に見られます。さらに、生成文法のHalle and Marantzの「分散形態論」と結びつけて論じられて、もっともらしい論文が展開されています。最近の「ダ」の論文を覗いて見ましょう。■

  
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2015年11月22日

助動詞「だ」について(15)

     <助動詞>「だ」の捉え方(2)

 金田一春彦の「不変化助動詞の本質 ―主観的表現と客観的表現の別について―」は、昭和281953)年2月刊『国語国文』第二二巻の二‐三号に発表されたもので、現在は『金田一春彦著作集 第三巻』に「同 再論」とともに集録されています。論旨は次の通りです。

1)意志・推量を表す「う」「よう」「まい」は助動詞と言われながら形が変わらない。(2)この意志・推量と言われる用法は終止形についてで、連体形では用法も意義も異なる。(3)終止形しかない助動詞は感動詞・感動助詞のように主観的表現をなし、他の活用形を具えた助動詞は客観的表現をなすのではなかろうか。(4)時枝の言語過程説では、主観的表現の語句を「辞」呼び、客観的表現の語句を「詞」と分類しているが、今回提唱する分類には適合しないので、主観的表現の語句を「主観表現」の語、あるいはmodusと呼び、客観的表現の語句を「客観的表現」の語、あるいはdictumの語と呼んでいただきたいと思う。

これは、表題からも判る通り、言語過程説で言う主体的表現と客体的表現を主観的表現と客観的表現にすり替えて、一部の形の変わらない助動詞の終止形だけが主観的表現の語とするものです。これまで、<助動詞>とは何か、<指定の助動詞>「だ」の本質とは何かを辿って来た視点から見れば、主観的・客観的の語義を理解できず、言語の表現とは何かも理解出来ていない形式主義的、機能主義的言語観の誤謬の論であることは明らかかと思います。当然、時枝は同巻の五号に【金田一春彦氏の「不変化助動詞の本質」を読んで】を寄せ、その誤りを指摘しています。同誌には水谷静夫の【金田一春彦氏「不変化助動詞の本質」に質す】も掲載されています。時枝は、その稿の結びで次のように記しています。

……氏の論旨をつきつめていけば、氏の立場において、主観的表現など云ふものは、当然考へ得られない筈なのである。

以上のような不合理は、どこから来るかと云えば、詞と辞の表現性、即ち、ある内容を客体化して表現するか否かといふことを全然不問に付して、ただその語が客観的事実を表現しているか否かの点だけから語性を決定しようとされたことから来たことである。しかしながら、これも、氏独自の文法体系の原理としてならば、自由であるが、言語過程説における詞辞論に対する批判といふことになれば、それは全く的を外れた所論であると云わなければならないのである。言語過程説における詞辞論の批判は、何よりも、主体的客体的といふ表現過程の別を考へることが、はたして正しいか否かの点に向けられなければならなかったのであるが、氏の論文は、それらの点には全く触れられるところが無かったのである。

以上、私は、金田一氏の所説の中、ただ私の学説に向けられた批判の点についてのみ釈明を試みて、他の点については、今回は保留しておきたいと思うのである。

 これに対し、金田一は同巻九号に「不変化助動詞の本質、再論―時枝博士・水谷氏・両家に答えて―」で返答していますが、全く時枝の主旨は理解されず平行線を辿って終わっています。そして、この金田一の誤りが渡辺実の『国語構文論』や尾上圭介の『文法と意味<1>』他の論に引き継がれ現在も大きな影響を与えています。ちなみに、尾上の先の著書には「不変化助動詞とは何か―叙法論と主観表現要素論の分岐点」(『国語と国文学』平成二十四年三月号 八十九巻第三号)他が集録されています。

 この要約だけでは、金田一の主張は良く理解いただけないと思いますが、そもそも言語表現そのものが主観的であるのは言うまでもないことであり、その内容が客観的であるか否かは別の問題です。対象―認識―表現の過程的構造、表現を支える認識とその相対的独立が理解されていません。先に紹介した野村剛史「助動詞とは何か―その批判的再検討―」でも主観―客観の関係が正しく理解されていません。これらの具体的な紹介と批判は別途とし、まず金田一の論で<助動詞>と<指定の助動詞>「だ」がどのように扱われているかを確認してみます。■

  
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2015年11月20日

助動詞「だ」について(14)

    <助動詞>「だ」の捉え方(1)

 <助動詞>「だ」が主体的表現で、話者の肯定判断を表す語であり、客体的表現の<動詞>は実体の属性を時間的な変化、運動し、発展するものとして捉え表現するもので全く異なる語であることを見て来ました。

 これは、時枝誠記による言語とは表現の一種であり、表現過程の一形式であるとする言語過程説の提起を唯物弁証法により基礎づけた三浦つとむが助動詞の本質を明らかにすることにより到達した地点です。しかし、時枝の主体的表現と客体的表現という区分は発表当時より種々の疑問や、反対意見が表明され現在も受け入れられてはいません。ソシュールの言語実体観に対する批判自体をソシュール言語学の誤読とする批判が現在も主流を成し、主体的表現と客体的表現という区分も受け入れられてはいません。その現状はたとえば、釘貫亨『「国語学」の形成と水脈 (ひつじ研究叢書(言語編)113)』(2013刊)が、服部四郎によるソシュール批判の『一般言語学講義』に対する看過できない誤解の存在の指摘により「今日その学理性が論議されることがなくなった」と評する情況です。また、フランス文学者の松澤和宏「ソシュールの翻訳と解釈―時枝誠記による『一般言語学講義』批判をめぐる予備的考察―」(名古屋大学大学院文学研究科,2010)が、

 時枝が批判したラングとは『講義』の編著者によってこの根源的二重性が解体され、二項対立に還元された末の一辞項に過ぎず、したがってソシュール的ラングの残骸であったと言ってもけっして過言ではないのである。時枝のソシュール批判を文献学の観点から検討することを通して、言語過程説において概念と聴覚映像を結びつける箇所に本来働いている筈のラングの不在が浮き彫りになると同時に『講義』が遮蔽した言語の二重性が、まさに否定的に浮かびあがってくるのである。

 と記すように、言語規範としてのラングの本質を指摘するところまでには時枝は進めませんでした。しかし、川島正平『言語過程説の研究』が次のように述べている事実は、正しく受け継ぎ発展させられなければなりません。

 ソシュールの犯した最大の過ちは、言語を表現として、物質としてとらえなかったこと、そして言語の過程的構造において、表現主体の認識する独自の概念の存在を無視してしまったことにあります。つまり、彼は言語をただ精神的なものとしてきわめて平面的に扱うと同時に、そこに人間の意志、人間の能動的な精神作用の介入してくる道を塞いでしまっているのです。時枝のソシュール批判の本質はここに起因するものと思われますが、この意味で、彼がソシュールを頂点とする近代言語学の理論を「人間喪失の言語理論」(『国語問題のために』)皮肉ったことも、まんざら的をはずした戯れ言とはいえないのです。ソシュールにとって、言語とは「音の心的な刻印」でありその本質は「関係」である、ということになるでしょう。けれども今日の言語過程説の立場からするならば、言語とは表現すなわち物質であり、かつその本質は「関係」である、ということになります。このように実体と属性を統一してとらえ、その背後に存在する矛盾の構造を、すなわちその過程的構造を論理的にたぐっていかなければ、言語の本質は解明できないのです。

 時枝のソシュールに対する構成主義的言語観、言語実体観批判を理解できなかった国語学者は時枝の詞・辞論に種々の批判を投げかけていますが、その中で今日の国語学に大きな影響を与えているのが金田一春彦の「不変化助動詞の本質」や「国語動詞の一分類」「日本語動詞のテンスとアスぺクト」等の論考です。工藤浩の「三鷹日本語研究所」―文法研究ノート抄 その2―「■不変化助動詞」でも、

  「不変化助動詞」という現代日本文法学の基本的な みかた(paradigm)も、人間でいえば、もう来年で還暦を むかえようとしている。半世紀以上にわたって現代日本文法学を支配しつづけてきた、ねづよい迷信ともいっていい。「20世紀後半の基本思潮」とでもいうべき過去の思想にはやくなってほしいのだが。迷信にも一理あり、よってきたかんがえのみちすじを たどってみよう。

 と考察を重ねていますが、教科研文法のparadigmで解明できるとは思われません。これは、現在のモダリティー論に繋がる問題でもあり別途根本的な批判を展開したいと思いますが、まずはテーマである<助動詞>「だ」がどのように扱われているのかを見ましょう。それにしても、「不変化助動詞の本質」というタイトル自体が正に形式主義的な見方であることに限界を感じてしまいますが、その当否はおのずと明らかになるのではと思われます。

  
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2015年11月18日

助動詞「だ」について(13)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
    <助動詞>「だ」の自立した使い方について(5)

  <助動詞>「だ」が主体的表現で、話者の肯定判断を表す語であり、客体的表現の<動詞>は実体の属性を時間的な変化、運動し、発展するものとして捉え表現するもので、全く異なる語であることを見て来ました。さらに、「だということです」、「ですが面会は致しかねます」等と日常会話で上の語なしに自立して使われる事実は、「だ」が一語であることを示し、内容的には話者の相手の言葉に対する追体験媒介として、相手の判断に結びついている場合や、追体験を媒介として聞き手の思想を形成し、聞き手独自の判断を示すという媒介関係にある判断辞であることを確認してきました。

 劉論文では、<形式動詞>説に対する反論として、<「だ」は助動詞であり、その前に復元可能な要素が省略されているという見方>を想定し、反論していますが、単に形式的な復元可能な要素ではなく、相手の判断とその追判断を捉えられないと正しい反論とはなりません。この追体験の問題は、「だ」「です」という接続助詞の問題に繋がっていきます。しかし、現在の言語学では追体験の問題を取り上げていません。この原因を三浦つとむは、次のように明らかにしています。

 西欧の言語学は、追体験をとりあげていない。なぜか?それは、追体験がソシュールのいうところの「言語活動(ランガージュ)」に属するものであって、「言語(ラング)」に属するものではないからである。具体的な言語表現と理解の過程的構造を言語学からタナあげして、言語規範のありかただけをとりあげているからである。言語学が「言(パロール)の運用によって、同一社会に属する話手たちの頭の中に貯蔵された財宝」だけを問題にしている限り、聞き手は話し手と同様にその「財宝」すなわち言語規範の持ち主であるというだけのことで、追体験問題は理論的にネグられてしまっている。現在支配的な地位を占めている構造言語学にしてもこのことに変わりはない。しかしながら、さきに見たように、話し手にしても文と文との接続においては、先行文における自分の判断を再判断して、「だが」とか「だから」とか表現しているのであって、「言語活動」における具体的な認識のありかたを問題にしないかぎり、聞き手の追体験はもちろんのこと話し手の<接続詞>の文法的な説明すら不可能なのである。

 (『認識と言語の理論 第三部』(1972)―追体験による表現の展開 五 <接続助詞>と<接続詞>との連関―)

 ソシュール言語学の亜流でしかない現在の言語学、文法論では本質的に扱いえない論理的構造になっていることが判ります。談話レベルの<助動詞>の在り方に疑問をだいたのは鋭い着眼ではありますが、それを解明する論理的支えが無いため、形式論、機能論の混迷に迷い込む他ないことを本論文は明らかにしています。

これで本論文の批判は終わりましたが、<助動詞>「だ」や<助動詞>そのものが他にどのように論じられているかを次に見てみましょう。■

  
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2015年11月16日

助動詞「だ」について(12)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
  <助動詞>「だ」の自立した使い方について(4)

  <助動詞>「だ」が客体的表現である、<動詞>の中の<形式動詞>とされたのですが<動詞>はどのように定義されているのでしょうか。リンク先では、次の通りです。

 動詞…自立語で活用があり、動作・作用・存在を表す単語で、述語になる単語。

     言い切りの形が「ウ」段で終わる。[笑う(u) 書く(ku) 寝る(ru)]

 これも形式と共に意味、機能が挙げられ述語になる単語とされています。客体的表現である<動詞>の本質はどのように捉えられるのでしょうか。

 日本語は、言語形態として膠着語あるいは粘着語と呼ばれています。プロイセンの外交官、言語学者でフンボルト大学の創設者でもあった、カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt1767622日~183548日)が1836年に提唱した形態論上の分類で、西欧の屈折語と対比されます。日本語は「彼 本 持つ」と客体的表現の語を並べただけでは不完全な表現であり、「彼は本を持っています。」と<助詞>、<助動詞>を使って語を粘着的に連結して初めて文として完全な表現となるところに大きな特徴があります。屈折語である英語の場合は「He has a book.」と語を区切って表現し、「彼 持つ  本」で表現として完全なのです。そして、「彼は本を持っていた。」と過去形になれば、「He had a book.」となります。この場合、<動詞>「has」は「have」の三人称現在形で、主語が三人称であり、現在であるという時制認識を表し、過去形の場合の助動詞「た」は動詞の屈折が担っています。<助詞>「は」「を」の表現は省略されていますが、SVOという文型規範により主格、目的格という格を名詞が担っています。このように屈折語にも日本語の<助詞>、<助動詞>に相当する内容は存在していますが、その表現を省略したり、あるいは一語の形式をとらずに単語の語形変化で表現したりする場合が多いのです。そのため、形式上は自立した一語でも、内容は多面的・立体的なものになります。しかも<動詞>に見られるように、単なる多面性ではなく動作、人称、時制という客体的表現と主体的表現という対立した性格の認識を表現した部分が癒着し結合しています。しかし、膠着語である日本語の単語は名詞でも動詞でも単独の概念を裸体的に表現するだけです。これこそが、膠着語と言われる日本語全体の特徴で、内容における「裸体的」性格と形式における「粘着的」連結とを相伴うところの言語形態なのです。

 このような、日本語の裸体的性格を踏まえれば、<動詞>は対象の属性を運動し発展する時間的に変化するものとして認識し表現するもので、この認識だけを表現しています。時間的に変化しない静的な属性は形容詞として表現されます。そしてこれら客体的表現の語に、話者の判断、感情、意志等を客体化することなく表現した主体的表現を組み合わせることにより一纏まりの思想を文として表現します。このように本質的に異なる表現である、客体的表現の<詞>と主体的表現である<辞>を混同してしまうのは、本質ではなく形式と機能を基に語を分類した論理的強制ということになります。

 この論文では助動詞「だ」が<形式動詞>とされますが、この内容も定義されていません。対象となっている属性について具体的に知らなかったり、知っていても簡単にしか表現できなかったり、簡単な表現で足りる場合は抽象的な内容の語で表現します。動的な表現では、

   どこにあるのか。        (ある)

   どうするつもりか。       (する)

   誰かいるのか。         (いる)

   どうなるだろうか。       (なる)

   こうやるのだ。         (やる)

   そうしてもらうか。       (もらう)

   そうなさい。          (なす)

   よろしくお願いいたします。   (いたす)

等があります。これらの<動詞>が<形式動詞>と呼ばれています。これらは、具体的な内容を持つ<動詞>と組み合わせて、「空を飛んでいる。」「川が流れている。」「捜査を依頼してある。」「窓が開いている。」等と使用され、対象の属性を具体的と抽象的にとらえ立体的に表現しています。そして、「誰か居るだろう!」「誰が居るの!」のように<指定の助動詞>「だ」と組み合わせ使われます。

主語、述語というのは屈折語の文がSVO、SVOC等の文型を言語規範として持ち、主語と述語の間に人称等の結び付きが対応している所から生まれた、スーツケース型の定形表現に見られる、文中の語・句の持つ機能の名称であり、この機能をもとに品詞を分類することはできません。

<助動詞>の表現としての本質を捉えることが出来ずに「実質的な概念内容を持たず」とするしかなく、記述文法、教科研文法のように「文法的機能」や、本論文の生成文法のように「述語を代用する働き」を本質とすり替えている現状では科学的な言語論、文法論を築くことはできません。■

  
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2015年11月14日

助動詞「だ」について(11)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
      <助動詞>「だ」の自立した使い方について(3)

 これまで、<「だ」はいわゆる助動詞ではなく、特殊な用言であることを物語っている>と言う解釈が誤りであり、「特殊な用言」ではなく正に助動詞であることを見てきました。この誤った、結論に基づき、

  「だ」自体は実質的な意味を持たないにもかかわらず、談話の中で文脈や発話状況を受けて、自立語などを代用して実質的な意味を指し示すことが可能である。(10)

と、「だ」が意味をもたないことにされ、代用などという機能を「だ」に押しつけます。この誤りは、「だ」が肯定判断の表現であることが理解できないための論理的必然といえます。この注(10)では、<渡辺実 (1978) [1953]「叙述と陳述—述語文節の構造—」『日本の言語学』第3巻文法Ⅰ: 261-283,大修館書店.>を引用し、次のように記しています。

「だ」は体言を述語化するもので、述語の一部として扱うべきだと指摘している。また、「だ」が用言に接し得ない理由として、「だ」のもつ力は用言にはすでに備わっているからだと述べている。

これもまた、「だ」に「述語化する」機能を押し付けたり、「だ」のもつ力を用言に押し付けたりする謬見でしかありませんが、機能的発想ではそうならざるを得ないことになります。本論文もこうした機能的発想と、同類の生成文法の誤りが結びついた現在の言語学、国語学の誤りを反映した論文であることが判ります。

 そして、次の結論に至ります。

 本稿は「用言」説を支持し、「だ」は体言に接してそれを述語化することによって、「体言+だ」で述語をなすと主張する従来の論考 (渡辺19531971、寺村1982、北原1981、小泉2007) に基本的に賛同する。「雨が降る」「山が高い」といった発話における「降る」や「高い」が実質的な意味を持つ用言として単独で述語をなすのに対して、「彼は学生だ」「だといいけど」といった発話における「だ」は実質的な意味を持たずに、「体言+だ」で述語をなしたり、あるいは単独の「だ」で述語を代用したりする11。本稿では、それ自体が実質的な概念内容を持たずに、本来述語でない語句を述語化するあるいは述語を代用する働きを持つ「だ」の機能を形式動詞である「だ」の機能として捉えたい。

  ここで言われている、<「雨が降る」「山が高い」といった発話における「降る」や「高い」が実質的な意味を持つ用言として単独で述語をなす>というのは、先に指摘した「雨が降る■」「山が高い■」と判断辞が零記号になっていることが理解出来ない形式論理の産物であり、<動詞>「降る」や<形容詞>「高い」に判断辞の機能を押し付けたものです。山田孝雄の「用言の用言たる特徴は実にその陳述の作用を表す点にあり。」という主張と同じ誤りです。そして、その淵源は西欧文法の<動詞>解釈にあります。

 この機能的発想から、<辞>である<助動詞>「だ」を客体的表現である<詞>の<形式動詞>と見なす誤りに辿りつきます。次は、<動詞>とは何か、<形式動詞>とは何であるのかを検討しておきましょう。■  
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2015年11月13日

助動詞「だ」について(10)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   <助動詞>「だ」の自立した使い方について(2)

 <(b) 形式上、「だ」は多くの助動詞に見られない単独用法を持つ。>とされる、「多くの助動詞」との差異について検討してみます。まず、次の指摘です。

 次の例(8)が非文であるように、同じく助動詞とされる「た」や「ない」「たい」「れる (られる) 」「せる (させる) (用言にしか接し得ない類のもの) は、自立語に付属しないと単独では使えない。

(8) A:昨日行ったよね。

B* たよ。

これは、<過去・完了の助動詞>「た」ですが、生成文法のプラグマティックな発想で「非文」と指摘するのみで、何故なのかを明らかにしていません。これまで、何度も指摘してきた通り過去の事態は話者の眼前にはなく直接対峙はできません。これに対峙するためには話者の観念的な自己分裂により過去に移行して過去の対象と対峙し認識、表現した後、現在に戻ってからそれが過去であることを示すために「た」と表現します。つまり、「た」と表現しているのは現在です。従って、過去と指摘すべき対象の認識、表現なしに「た」と言う事はありえないのです。一旦、過去への観念的な自己分裂による移行、認識があって後に「た」が表現されるのであり、そのような観念の運動なしに「た」だけが表現されることはありえないということです。否定の「ない」も同様で否定すべき対象の想像、認識なしに否定はできません。希望も同様です。そこに肯定判断との本質的な差異がありますが、主体的表現としての助動詞であることには変わりありません。受身謙譲可能使役が接尾語であることは既に指摘した通りです。

 次は、以下の通りです。

 一方、「らしい」や「だろう/でしょう」(体言と用言の両方に接し得る類のもの) といった助動詞には「だ」と似たような単独用法を持っていることが観察される。……一見「だ」の単独用法に似ているように見えるが、実際に幾つかの相違点が見られる。第一に、「らしい」「だろう/でしょう」はその前後に何も接せずに裸の形で用いられるのに対して、「だ」は裸の形では用いられない。

 第二に、次の例 (12) が示すように、単独の「だ」は補文内に現れるが、「らしい」「だろう/でしょう」

は単独では補文内に出現できない。第三に、各形式の単独用法以外の特徴であるが、「らしい」「だろ

う/でしょう」は直接動詞に接続できるが、日本語の標準語では「だ」は直接動詞に接続できない。

  第一の、「らしい」「だろう/でしょう」はその前後に何も接せずに裸の形で用いられる、というのは、「だろう」が<指定の助動詞>「だ」の「未然形」「だろ」+<推量の助動詞>「う」であり、「でしょう」が「です」の未然形「でしょ」に<推量の助動詞>「う」の付いたもので「だろう」の丁寧語であり、単独の「だ」の使用法に他なりません。また、「だ」が裸の形では用いられないのは次のような事情です。

通常、判断辞は零記号として表現ないことになっていますが、敬語化すれば表面に現れます。

  本がある■。→ 本があります。    本である■。 → 本であります

また、方言では「本があるだ。」という使い方をします。このため、方言では「んだ!」という「裸の形」で使用されますが、普通は、「そう■!」→「そうだ。」「そうです。」となり、「裸の形では用いられない」のです。このように、肯定判断は省略されやすいので「だが、それは……」のような会話でも「■が、それは……」と追体験の追判断が零記号となる時があります。

 また、「と思うんだけどね。」を例に上げて、「らしい」「だろう/でしょう」は単独では補文内に出現できないとしています。これは、「らしい」「だろう」+「と思うんだけどね。」とは繋がるが、丁寧形の「でしょう」とは、「でしょうと思うんですけどね。」と使用できなくはありませんが、「らしい」「だろう」「でしょう」が推量を表すため、「思う」と意味的に重なるところがあり、やや不自然さを感じます。

 第三は、<各形式の単独用法以外の特徴であるが、「らしい」「だろう/でしょう」は直接動詞に接続できるが、日本語の標準語では「だ」は直接動詞に接続できない>です。これは、「彼は家を買うらしい。」「彼は家を買うだろう。」「彼は家を買うでしょう。」とは言えるが、「彼は家を買うだ。」とは言えないと言っているようですが、全くの誤りであるのはこれまでの説明で明らかと思います、

 「彼は家を買うだろう。」は、「だ」の「未然形」「だろ」+「う」で「だ」が直接動詞に接続しています。「彼は家を買うでしょう。」は、この丁寧形です。そして、「彼は家を買う■。」の場合は零記号となっており、丁寧形になれば、「彼は家を買います。」と<敬辞>「ます」が表現されます。

 このように、すべて形式的、機能的な誤った解釈によるもので、何ら肯定判断を表す<指定の助動詞>「だ」の品詞の性質が「らしい」「だろう/でしょう」のそれと異ってはいません。語の認定、品詞分類自体が誤っていることが理解されていません。■

  
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2015年11月12日

助動詞「だ」について(9)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 (通巻 29 2010) 
   <助動詞>「だ」の自立した使い方について(1)

 劉 雅静論文で問題とされているのは、

   (2) 「桂太君かっこよくない!?」

       ね、一際目立ってるかも…」『虹色の約束』

に見られるような単独の<指定の助動詞>「だ」の使用法です。橋本文法や教科研文法では、付属語とか付属辞とよばれて、かならず上の語に付属することになっているため、<助動詞>とすることに疑問を呈されています。たしかに、「付属語で活用があり、体言・用言に意味を添える単語」とすると、「意味を添える」べき「体言・用言」が存在せずおかしなことになってしまいます。しかし、これまで見てきた通り形式や機能は語の本質ではなく、表現としての語の本質により品詞を決めねばなりません。従って、話者の主体的表現で、肯定判断を表す語として「だ」の使用法を検討しなければなりません。

 この論文では、最初に先行説の検討を行っています。それらは、すべて形式的、機能的な観点からの解釈でしかないのですが、その誤りを明らかに出来ずに同じ枠内でしか思考していません。時枝誠記の詞・辞の説もこれらと一括りにされています。言語とは、対象→認識→表現の過程的構造をもった表現であり、<指定の助動詞>「だ」もまたこの本質に基づく表現であることを基に論文を見直してみましょう。三項目の問題点が挙げられます。順次、検討しましょう。

 (a) 伝統文法で規定されている文法単位が話し言葉の分析において必ずしも有効ではない。

  この点は、これまで見てきた通り、伝統文法自体が形式や機能に頼った誤った分析ですので当然のことです。

 (b) 形式上、「だ」は多くの助動詞に見られない単独用法を持つ。

 例文に挙げられている通り、会話の場合には「だね」「だよね」「ですね」と使用され、これがいかなる使用法であるかを明らかにしなければなりません。これについては、三浦つとむの「<助動詞>と<助詞>の自立した使い方について」(『言語学と記号学』1977.7.10 勁草書房刊)という論文がありますので、これに依拠して例文(5)を検討してみましょう。

 (5) (いつも朝早くから出勤する田中さんの姿がいないことに気づいた社員たちのもとに課長がやってきた。

そして、課長が社員A に向かって)

「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということ

課長が座席に戻って行く。社員A が自分の後に座る社員B に、

そうです」/「ってさ」 (作例)

 この場合、課長の言った「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということで」という言葉を社員ABも同時に聞き、課長の立場にたって内容を追体験することにより内容を理解します。この理解のためには、聞き手は観念的な自己分裂によって観念的な自分が相手の立場に立ち、追体験をすすめていきます。課長の「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということ」という表現を理解しようとするなら、追体験によって社長の体験を繰り返すことにより「だ」の連用形「で」をも追体験します。つまり、追判断が行われます。社員ABに、この体験を念押しのため表現する場合、この追体験をいま一度表現し、課長の言葉を「そう」と指定することにより、「そうです」となり、「だいうことさ」の「と」が「って」となり「いうこと」が省略されて「ってさ」となることにより、助動詞「だ」が文の先頭に現れます。これは、形式的には「だ」が自立していると同時に、内容的には追体験を媒介にして相手の判断に結びついているわけです

 さらに、三浦の論を筆者の責任で読みやすくアレンジし引用します。

判断辞が文の先頭に使われるのは、多くはこのような相手の追判断の表現ですが、相手の判断に直接結びついていない場合もあります。たとえば、面会時間におくれてやって来た相手が、「何とかとりついでくれませんか。事故で遅れたものですから。」と訴えた場合、聞き手はこれを追体験して、もっともと一応肯定しはしますが、とはいえ規則だからどうにもならないと考えた場合は、忠実に表現するならば、「それはそうです」とか「ごもっともです」とか、まず事情を肯定する形となりますが、「それはそう」「ごもっとも」を略して、肯定判断辞の「です」から表現するなら、ごもっともですが面会はいたしかねます。」が「ですが面会は致しかねます。」になり「です」が先頭にあらわれます。「です」に続く「が」は<接続助詞>で、逆説とよばれる使用法です。何に対して逆かといえば、表現されていない肯定した思想です。この「です」は相手の判断に直接むすびついているのではなく、追体験を媒介として聞き手の思想を形成し、聞き手独自の判断を示すという、媒介関係にある判断辞なのです。

 会話だけでなく、別れの挨拶をしたり、仲間に声をかけたりする場合にも、自分の思想を形成しいその判断を文の先頭に示しています。いろいろ考え合わせてみて、訪問の目的はこれで達したなとか、これではいくら話かけても拒否されるだけ無駄だとか、別の訪問客が来たので話さないのが賢明だとか、それなりに独自の判断を行って、「はこのへんで。」と表現します。あるいは、このくらい休憩すればみんなの疲れもいくらかとれたろう、出発する時が来たと判断して、「では行こうか」と表現してよびかけます。(引用終わり)

  このように見てくれば、肯定判断を表す<指定の助動詞>「だ」として論理的、合理的な使用法であり、談話という場面、前提を共有した直接的な文のやり取りという場で話者の追体験に対する判断辞が先頭に現れる文であることが判ります。

 この、言語表現の本質である過程的構造を理解出来ずに、言語実体観によりすべてを文・語の機能として理解するしかないところにこの論文の本質的な欠陥があります。それは、現在の言語学、国語学、日本語学の本質的な欠陥であり、時枝誠記が言語を表現と看破したコペルニクス的転回以前の学でしかないということです。

 次に、ここに言われている「多くの助動詞に見られない単独用法」とは何なのかを検討しましょう。■

  
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2015年11月11日

助動詞「だ」について(8)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
  <助動詞>とは何か

  現在の学校文法では助動詞>は、「付属語で活用があり、体言・用言に意味を添える単語」と形式的な規定を、「体言・用言に意味を添える」という機能主義で補強しています。このためリンク先の表にもある通り、<比況・例示・推定の助動詞>として「ようだ」、さらに、<伝聞の助動詞>「そうだ」と<様態の助動詞><そうだ>などが入っています。

しかし、これまで見てきたように語とは<表現主体が無意識的に運用しているところの規範において決定される>ものであり、語の分類にとってもっとも根本的なものは、<客体的表現と主体的表現のいずれに属するかという分類>からは、まず<助詞><助動詞><感動詞>等は<主体的表現>の語である<辞>として捉えられねばなりません。そして<助動詞>は話者の肯定判断、否定(打消し)判断、推量、その他を表現しています。これこそが、<助動詞>の本質的と言えます。<助動詞>という名称は英文法のAuxiliary verbを翻訳したものですが、日本語の<助動詞>は英語とは異質な、肯定判断、否定(打消し)判断、推量、その他を表現する主体的表現の語です。

このため、三浦つとむは、昔学者が使った<動辞>という名称を復活するのが妥当と提起しています。さらに、時枝はこの辞としての助動詞の定義から、『国語学原論』で新たに辞と認むべき「あり」及び「なし」の一用法辞より除外すべき受身可能使役謙譲の助動詞>を論じています。まず「あり」についてです。

 a. ここに梅の木がある。   b. これは梅の木である。

 aの「が」に続く「ある」は存在を表す<動詞>ですが、bの「で」に続く「ある」は判断的陳述を表しています。この「ある」は<動詞>から<助動詞>へ転成したものです。橋本文法では、補助動詞とされ、山田文法では「ある」を<存在詞>として別扱いしてこの違いを認識していません。bの「で」は肯定判断(断定)を表す<指定の助動詞>「だ」の連用形であり、判断辞の重加により肯定判断が強調されています。さらに強調を重ね「あるあります。」と、間に形式名詞の「の」を挟んで使用されます。橋本文法では、<補助動詞>とされ、山田文法では、「ある」は<存在詞>として一括特別扱いされています。

 また、動詞「ある」に対し「なし」は本来「お金がない」のように形容詞ですが、これが、「花が咲かない。」のように否定の判断辞となり<助動詞>に転成しています。橋本文法では<助動詞>に入れられていますが、山田文法では<動詞><存在詞>の複語尾とされています。これについては、以前〔山田孝雄(やまだよしお)の<助動詞>「複語尾」説 15〕で取り上げました。

 受身可能使役謙譲の<助動詞>、「れる られる」「す せる させる」は客体的表現であり<助動詞>から除いて<接尾語>に入れるべきと正当な主張をしています。

 さらに最初に記したように、<比況・例示・推定の助動詞>として「ようだ」、さらに、<伝聞の助動詞>「そうだ」と<様態の助動詞><そうだ>などが入っていますが、これらも助動詞ではないことを論じています。「ようだ」は<助動詞>「よう」+「だ」、「そうだ」は接尾語「そう」+<助動詞>「だ」と二語よりなっています。

 また、過去・完了の「た」が客体的表現ではなく、主体的表現である<辞>であることは、以前新聞記事に見る時制表現について〕で、

  過去現在未来は、属性ではなく、時間的な存在である二者の間あるいは二つのありかたの間の相対的な関係をさす言葉にほかなりません。……過去から現在への対象の変化は、現実そのものの持つ動きです。これを、言語は、話し手自身の観念的な動きによって表現します

と記した通りです。このような、助動詞、時制が現在も形式主義、機能主義的な国語学で正しく理解されていないのは、野村剛史稿「助動詞とは何か―その批判的再検討―」や、北原保雄著『日本語助動詞の研究』で「いわゆる助動詞」と記して明確な助動詞の定義が出来ないことからも明らかです。

 もっとも多く使われる<助動詞>が肯定判断を表す「ある」「だ」の系列で、これを<指定の助動詞>とよび、<敬辞>化したものが「です」「ます」の<敬意の助動詞>です。この<指定の助動詞>「だ」の本質である肯定判断に基づき、劉 雅静氏の論考を検討してみましょう。

  
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2015年11月09日

助動詞「だ」について(7)

   
談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   語とは何か (6)

  三浦つとむ「語の分類について― 二 時枝誠記は客観主義に反対する」の引用を続けます。(注は省略)
 そこで時枝は、「言語の客体的存在としての把握を脱却して、言語をあるがま々の存在として、即ち主体的経験として、これを把握する」という、過程的言語観の立場から、「単位としての単語の本質を主体的な言語経験に於いて規定しようとする」のである。つまり言語の思想的単位を、表現主体から切りはなして客体的存在として扱うのではなく、表現主体自身の認識に求め主体的存在として扱い単語の本質をこのような一概念の音声に表現せられる一回的過程」に求めるのであって、それとともにつぎのような事実に注意を求めている。

 極単にいえば、甲によって単語として経験されたものが、乙には単語の結合即ち複合語として経験されることがありえるということである。しかしながさ、このことは当然認めなければならないことであって、時代を経、土地を隔てるならば右の様なことは当然起こり得ることであって、過去に二単語であったものが現今一単語として経験されることのあるのは寧ろ自然の事実であって、客観的に或語が過去の現在を通じて一単位であると断定されることが寧ろ事実に反すると考えなければならない。……

……「白墨」は現今の主体的意識に於いては「白い」「墨」といふ二個の概念単位に還元されるのではなくして、「チョーク」という一概念単位を表すに過ぎない。従って「赤い白墨」「青い白墨」といふことが可能なのであつて、若し主体的意識に於いて「白墨」が二の概念に分析されるとしたら、「赤い白墨」といふが如きは全く非論理的表現といはなければならない。

 日常生活でも同様の例が少なくない。「茶碗」ははじめ「茶」を注ぐ「碗」として二個の概念から成っていたのであろうが、現在では「茶」という意識は消滅して陶器の一種をさすこととなり、飯を盛る器でも、「茶碗」とよぶ。「薬罐」も同じように「薬」という意識は消滅して金属製の湯わかしをさすこととなり、落語のように「矢」が当ってカーンと音がしたから「ヤカン」なのだとこじつけることさえ行われている。しかしながら、「鉄瓶」はいまもって二個の概念から成っており、鉄製のものにしか用いられてない。「とうなす」「とうがらし」における「唐」すなわち中国産の意識も消滅しているし、「とうもろこし」に至っては「もろこし」がそもそも「唐」の意味でありながら植物の名となり、さらに「唐」を意識して加えたところそれすらも意識から消滅して、現在では「とうもろこし」全体が植物についての一概念である。「さつまいも」の「薩摩」という国の意識も消滅して、芋の一種を指す名となった。語の内容についても、辞書の説明どおりに解釈すれば正しいとはいえないのであって、流行語の「ハレンチ」は内容的に「破廉恥」とまったく異なっているから、これも表現主体の意識いかんから説明しなければならぬことは明白である。時枝の言語観は言語規範をネグっているから、正しくいいなおすと、一の語であるか否かは客観主義的に辞書的に規定された規範においてではなく、表現主体が無意識的に運用しているところの規範において決定されるのである。これが本質的な分類の基準である。すなわち、圧倒的多数の表現主体によって現に運用されている規範が、一般的な分類の基準となるわけであるから、時と場所から規定された相対的な分類となるので、絶対化してはならない。

それでは言語にとってもっとも根本的な語の分類は、どんな内容をもつものであろうか?それを把握するには、これまでの言語学がとらえることのできなかった言語の表現としての本質的な特徴を見なければならない。絵画や写真が客体的表現と主体的表現との直接的な統一であるのに対して、言語ではこの二種の表現が分離して別個の語によって行われることを、私は『日本語はどういう言語か』以後指摘してきた。語の分類にとってもっとも根本的なものは、この客体的表現と主体的表現のいづれに属するかという分類であって、これは日本語のみならずあらゆる言語に妥当する。松下大三郎があらゆる言語に普遍的な一般文法を論じて、<文節>的なものを<単性詞>と<複性詞>に先ず分類したのは、言語表現の本質を把握することなく与えられた言語表現の論理構造で区別するという、構造論的発想に自分をおしこめていた結果であった。

時枝が鈴木朖の言語観における<詞>と<辞>の区別に注目し、これを客体的表現と主体的表現との区別と受けとって西欧の言語学を超えたものと評価し、「この事実は、文法における品詞分類の第一基準として、文法学に重大な変革をもたらすものでなければならない」と主張したことは正当である。現在行われている<詞>と<辞>の区別は、橋本や空西に見るように内容における本質的な差異を意味するものではなく、形式における独立非独立に修正されているのであるから、朖の真意を読みとってここに分類の根本的な基準を置いた時枝の功績は高く評価されなければならない。けれども先の分類の一般論に照らして考えるなら、朖の言語観の再発見によってまず内容についての大きな分類を行うという仕事がようやく達成されたにすぎないのである。一般論として正しくとらえたということは、さらに具体化していく場合にすべて正しということを意味しない。蝙蝠を鳥ととらえ鯨を魚ととらえるような誤りは訂正しても、鳥と獣の中間に位置するような動物や生物と無生物の中間に位置するような存在にぶつかって、あれかこれかと機械的に区別することの限界を思い知らされる事実は、言語学にとっても教訓的である。すべての語が<詞>と<辞>に機械的に分類できるわけではなく、中間に位置するような存在にもぶつかるのだが、このときにこんどはそれまでの発想の裏返しに転落して、<詞>と<辞>を区別してきたことまで疑い、この区別をなげすててしまう学者が出てくるであろうと予想することもできる。》

 このような、語とは何かの本質的な定義もなく、語の分類にとってもっとも根本的なものが何かを捉えることもできずに、語の機能と形式にたよって分類を繰り返している現在の言語学では、助動詞とは何かを明らかにすることさえ出来ません。「語の分類について」は、さらに山田の分類と「<体言><用言>とは何をさすか」が論じられますが、これは後日、必要に応じて参照することとします。この、語の本質的な分類に基づき、次に助動詞とは何かを明らかにしましょう。■

  
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2015年11月08日

助動詞「だ」について(6)

言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   語とは何か。(5)

 三浦つとむ「語の分類について ― 二 時枝誠記は客観主義に反対する」の引用を続けます。(注は省略)

 英語学者の空西哲郎はつぎのような分類表を提出した。

 

 

体 言

名 詞

代 名 詞

形式名詞

 

用言

動   詞

形 容 詞

付 属 動 詞

付属形容詞

付属用言

 

副  詞

 

助  

接 続 詞

 

  体言は「もの」「こと」を表す語であるが、名詞の「机、人間、花」は総称的、共時的、一般的な語であって、それだけで独立した意味を有している。ところが代名詞の「それ、かれ、君」は文脈(context)や環境(situation)を抜きにしては意味がはっきりつかめないものである。言い換えると、代名詞は名詞と違って、独立性の乏しい語である。つまり辞である。……代名詞が辞であるのは、たとえば「それ」「かれ」がそれだけで独立して使えないからというのではなく、「それ」「かれ」がそれ自体では、名詞のような総称的、共時的、一般的な意味を伝えることができないからなのである。ところが、形式名詞が辞であるのは、たとえば「こと」「もの」が「……ということ」「……するもの」というふうに、他の語句につづかなければ使われない語、という意味で言うのである。辞といわれるものは、この後の意味で用いられるのが普通であろうが、代名詞を辞とみることも、独立性の乏しい点では、不当ではあるまいと思う。

 空西が<付属動詞>と<付属形容詞>、またはひっくるめて<付属用言>とよんでいるのは、いわゆる<助動詞>である。英語学者が日本語を論じるときには、英語の文法がプロクルステスの寝台になって、膠着語の表現構造が屈折語的に切断されることが多いが、空西の扱いかたもそうである。日本語における<活用>は英語の「屈折」に近いものと解釈され、<接尾語>の「れる」もこれまた<動詞>の<活用>の形態にぶちこまれる。明治二十二年に大槻文彦が批判した「洋文法ノ忠臣」と同じことを主張しているわけである。

  「子供たち」の「たち」は接尾語としてcodeから切り離し、「お手紙」の「お」は接頭辞としてcodeから切り離す。このような接辞は語としては取り扱わないから、品詞を決める必要もないのである。

 これでは日本語の膠着語としての特徴に規定された語彙である、敬語についての体系的な理論は出てこない。「おみ足」という場合には、「足」に古い敬語の「み」だけでなく、さらに口語の敬語「お」を加えて強めた、敬語の重加である。「お」「み」がそれぞれ一定の意味を持つからこそこのような表現がなされたのである。「で」「ある」と判断の<助辞>を重加するのと似ている。これに対して「おみくじ」は、はじめわれわれのこしらえる「くじ」に対して神社仏閣のそれを敬語化し、「み社」「み仏」というのと同様に「みくじ」と言ったのであろうが、口語で「お」を加えることによって「み」は敬語の意識を失い、いわば「籤」から「籤」に、特殊なくじの意味に変わったものと考えられる。「おみき」「おみこし」も同じであろう。

 山田ないし橋本流の発想は、独立非独立を基準とする点で形式主義ということができるが、形式主義としては中途半端であり、さらに極端におしすすめたところに位置づけられるのが、かつての松下大三郎と現在の教科研の文法論である。橋本は、山田文法と松下文法とを部分的にとりいれたのであって、松下のように極端なところへまでは行かなかった。橋本は、音声で表現するときに実際に区切って発音される部分を一つの単位としてとりあげて、これを<文節>とよんだ。右の時枝の説明にもあるようにこの文節を構成する語をさらに独立非独立で区別して、詞と辞と名づけた。松下は橋本のいう<文節>それ自体を一品詞と見て、これを詞とよび、<助詞><助動詞>のようなものはこの詞をつくる材料(原辞と呼ぶ)でしかないから、一品詞とは認めなかったが、橋本はそこまで伝統的な文法論から逸脱しなかったわけである。ところが教科研文法は、橋本文法の批判者として登場し、これを事実上松下文法的に改作して、われこそ科学的文法なりと主張しているのである。教科研文法では、橋本のいう<文節>それ自体を一語と解釈し、橋本文法の<付属辞>や<補助用言>はすべて一語とは認めない。「学生ではなかったでしょう。」も<名詞>の<用言なみの語形>で一語であると規定する。

 時枝は山田ないし橋本流の発想と対立して、その形式主義を拒否しながら同様に一つの語とは何かを検討した。彼は『国語学言論』において、言語を表現主体の活動から切りはなして「専ら客体的表現として考えようとする処の主知的立場」、正しくいえば客観主義が言語学において伝統的なものであることを指摘し、つぎのようにその弱点をついて客観主義からの脱却を主張する。

  か々る見地に立つ処の単位としての単語の本質は、一方には概念単位によって決定せられ、他方音声群によって分割せられるとする。概念および音声は、相互に相手方としての役割を持ってゐる。こ々に一方には思想的単位を以て単語認定の基準とする内容主義が成立し、他方には音声群の終止や音調を以て基準とする形式主義が対立する。音声・概念の結合を以てする構成的言語観に立つ限り、右の二の対立は避けることが出来ない。》

  劉 雅静氏の論文では時枝のこの主張は無視され、<表1「だ」を「助動詞」と見なす先行研究>のなかに、<「だ」は独立して一文の文頭に用いられないことや独立せず、常に他の語に伴って現れるといったことが主張されている>、松下・橋本他と纏めてひと括りにされています。■

  
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2015年11月07日

助動詞「だ」について(5)

言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
  語とは何か。(4)

 続けて、三浦つとむ「語の分類について ― 二 時枝誠記は客観主義に反対する」を見て行きます。

 時枝は山田の述べた分類の基準を、『国語学言論』でつぎのように批判した。

 ……山田博士は、これを具象的な独立観念の有無といふことで説明されようとするのであるが、てにをは或は詞といはれるものが、他の語に比較して具象的な独立観念を持たないかといふのに、必ずしもさうとは云えないのである。博士が、観念語と云われるものの中にも、極めて抽象的な概念しかあらわさない「こと」「もの」のやうな語もあり、関係語の中にも、「か」「も」の如く疑問、強意の如き具象的な思想をあらはし得るものもあって、独立観念といふ点で、この両者を截然と分つことは困難である。山田博士は、更に独立的に思想をあらはし得るものと、さうでないものとの別を以て説明されようとする。この分類基準は、橋本進吉博士もとられたところのものであって、博士は語が文節を構成する手続きの上から、一はそれ自からで独立して文節を構成し得るもの、二は常に第一の語に伴って文節を構成し得るものに二大別され、前者を詞、後者を辞と命名された。しかしながら、語が独立して用いられるか否かといふことは、必ずしも絶対的なものでなく、語を分類する絶対的な条件とはすることが出来ないものである。例へば、用言の活用形、「行けば」の「行け」は、「ば」と結合してのみ用ゐられるものであって、「行け」はそれだけで文節を構成するものとは考へられない。また、「八百屋」「肉屋」の「屋」も、決してそれ自身独立して文節を構成するものとは考えられないにも拘はらず、「屋」を助詞の中に入れることはない。

<助詞><助動詞>はふつう独立して用いられないが、会話の場合にはしばしば独立することがある。「彼は私に気があるのよ。」「かもね。」とか、「この仕事をやってのけたらおやじも驚くぞ。」「だろうな。」とか、客体的表現の存在しないことが決して稀ではない。文法学者が会話における表現のありかたを正面からとりあげようとしない現状は、いろいろな意味で問題にする必要があろう。
 山田ないし橋本流の発想は、内容においてこれこそ基本的なものだという基準をとらえることができないために、その弱点を形式的な独立か非独立かでカヴァーするものである。それで内容で基準をとらえられない学者は、みな同じような発想になるけれども、内容をまったく無視するわけではないから、内容をどう考慮するかによっていろいろちがった分類が生まれてくる。》
 問題としている論稿は、正に<会話における表現のありかたを正面からとりあげようとしない現状>が、談話を取り上げるようになった現在での問題提起で、鋭い着眼です。しかし、何ゆえに<「だ」を「用言」と見なす先行研究>が4種類も存在するのか、<形式名詞>とは何であるかに疑問を抱くことなく、機能主義的な言語観の中で、新たな見解を加畳するだけという点に本質的な問題があります。
 さらに、この先でも明らかになるように先行研究の内容の検討が不十分であることが判ります。
 続けて、三浦の論の展開を見て行きましょう。■
  
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2015年11月06日

助動詞「だ」について(4)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   語とは何か。(3) 

 三浦つとむ「語の分類について ― 山田孝雄は西欧模倣に反対する」の、分類についての一般論に続けて山田孝雄の分類を論じています。劉 雅静氏の論文では、山田他の<「だ」を「用言」と見なす先行研究>を取り上げていますが、なぜそのような見解が生まれたかについては問う事なく、単に新たな説を加畳するにすぎません。これを明治からの西欧文法受け入れの歴史的批判に立ち戻り誤りを正しているのが三浦の論考です。この節の最後の部分です。

 西欧の言語は、現象的に一語のかたちをとっていても、その内容が多面的・立体的であって、日本語の複合語ないし二語に相当するものがすくなくない。このことは、語の分類をさらに困難なものにしている。古代のアリストテレスの四品詞観も、現代のイエスペルセンの五品詞観も、ともに現象論にとらわれた平面的な分類であって、西欧の言語にすら妥当なものとはいいがたい。日本語の特殊性にある程度の理解のある学者なら、たとえ西欧の言語に妥当な分類であってもそのまま日本語に持ちこめないくらいは見ぬけるのであって、大槻文彦が西欧の文法論と日本の伝統的のそれとを折衷させて自分の文法論をつくりあげたのも無理からぬことであった。山田はさらにすすんで、語とはなんぞやと問い、自分の回答の上に語の分類を行おうとした。いわく

……これを独立の観念の有無によりて区別すれば、一定の明かなる具象観念を有し、その語一個にて場合によりて一の思想をあらわし得るものと然らざるものとあり。一は所謂観念語にして他は独立の具象的観念を有せざるものなり。この一語にて一の思想をあらわすことの絶対的に不可能なるものはかの弖爾乎波の類にして専ら観念語を助けてそれらにつきての関係を示すものなり。この関係を示す語と、それら関係語によりて助けらるる語との区別はかの具象的観念を単独に有するものと有せぬものとの区別に該当す。この故に、先ず単語を大別して観念語と関係語との二とす。ここに観念語と目するものは所謂名詞、代名詞、数詞、形容詞、動詞、副詞、接続詞、感動詞なり。これらは皆何等かの観念を代表し、時としては一語にて一の思想を発表し得べき性質を有するものなり。その関係をあらわす語は或る観念を明かに指定せるものにして、一定の関係に立ちて用ゐらるるものなり。その関係をあらわす語は極めて抽象のものにして所謂助詞と称せらるるものなるが、これは元来国語に於いて観念語操縦の為に生ずる種々の範疇を抽象したるものが言語の形をとれるものなりとす。

この観念語と関係語との区別はたゞ意義形態の上より来れるにあらずして、実に談話文章を構成する上に及ぼす職能作用の異同より来れるものなりとす。……

言語には、意義・形態・職能とさまざまな側面があるが、山田はそのうちのどれが基本的かを問うことなく、全体をひっくるめて直ちに分類の基準に持ちこんだのである。これによって、彼は意識することなしに西欧の学者たちの弱点を受けつぐ結果となった。形式と内容との間には矛盾がある。言語も例外ではない。意義と形態だけではその間の矛盾にぶつかってどう処理するかに苦しむから、そのとき第三者である職能に援助を求めるのである。そこで<観念語>と<関係語>との区別も、「三の点において著しく認めらる」ということになった。第一は、「観念語は必要に応じて一の語を以て一の思想を発表し得る性質を有す。然るに関係語たる助詞にはこの性質全く欠如せり。」という点である。第二は、「一は他を助くるを職能とする性質のものにして、他はそれらに助けらる々性質のものにして、この差別はその本性上の差異に基づくものにして、論理上二者は判然と区別せらるべきものなりとす。」という点である。第三は「関係語たる助詞は必ずその助くる対者たる語の下について決して上には行かぬといふ語なり。」という点である。第一は意義からの、第二は職能からの、第三は形態からの規定だというわけである。ところが、第一と第三だけだと、のちに時枝誠記が指摘したような問題にぶつからざるをえない。意義においては具象的観念で<観念語>というべきものでありながら、形態においては他の語の下に必ずつくから<関係語>といわねばならないような、<助動詞><接尾語>が存在するのである。そこで職能として他を助けるという第二の規定を持ち出して、二対一でこれらを<関係語>に入れるというやりかたである。最後には、「職能作用の異同」を持ち出すことになったわけである。1

嗜好飲料の分類を、山田的に行う者はいないが、もし行ったらどうなるか?酒は愛好する者が集まって、楽しくくみかわし、親睦を深めていくところに価値があるといい、そこで中味だけではなく各自が容器を手に持ってついだりつがれたりする形態と機能を加え、三つの点から分類するとしよう。殺人の目的で青酸加里を入れた酒は酒ではなく、またガラスびんやプラスチックびんは酒の中に入るが醸造元で桶やタンクの中に入れてあるものは酒の中から追放されてしまうであろう。嗜好飲料をまずどこで分類するかという場合に形態や機能を捨象しているのが正しいなら、同様に言語をまずどこで分類するかという場合にも、形態や機能を捨象するのが正しいことになるのである。

 先の注1は、次のように記されています。

どんな学問の分野でもそうであるが、本質論を正しくとらえることができなければ、形式論・機能論・構造論のどれかを本質論にスリ変えなければならない。同じ機能論者でも、どこまでそれをおしすすめ、どこまで機能主義的に解釈しているかは学者によってちがうし、またそこから学者の能力いかんを読み取ることができるのである。■

  
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2015年11月04日

助動詞「だ」について(3)

   語とは何か。(2)
談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」劉 雅静
― 言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
 三浦つとむの「語の分類について ― 山田孝雄は西欧模倣に反対する」の引用を続けて行きます。

 言語は表現としての過程的構造を持っている。現象的な音声や文字のありかただけが言語の構造ではなく、その背後には表現主体の認識が、ひいては対象の構造がかくれているのであるから、立体的な存在である。語を分類するときにも、この立体的な存在のある側面においておこなうのであるから、語の分類もそれぞれの側面での分類が相互にむすびつくことになり、平面的ではなく立体的になる。この一事をもってしても、西欧の文法書の品詞分類の弱点が指摘できるし、さらに仔細に見るならば、ある品詞は意味の側面で、ある品詞は機能の側面で、ある品詞は構造の側面でというように、さまざまな側面でとらえたものをならべているだけで、基本的な側面でこれとこれが区別されるのだという扱いかたがなされていないことがわかる。分類ということは、何も言語だけの問題だけではない。他の事物についても必要なことであって、これまでにも多くの事物がいろいろ分類されて来た。この分類は、いずれも対象の構造によって規定されているのであって、言語とても例外ではありえない。つまり、分類についての一般論が科学として成立するのであって、この一般論をふまえながら語の分類を考えていくならば、一応ふみはずしを防げるといってよい。それにもかかわらず、言語学者は分類の一般論をふまえて語の分類を考えているとは思われないのである。それゆえわれわれは、まずはじめに手近な、立体的ではあるが簡単な構造を持つ事物をとりあげて、分類の方法を反省してみよう。

 嗜好飲料には、ジュースやコーラやビールや酒など多くの種類があって、それらがガラスびんやプラスチックびんや缶や樽などに詰めて売り出されている。店頭にならんだこれらの商品について、何が基本的な問題かと言えば、中味は何か、であって、それに伴う第二義的な問題として、どんな容器に入っているか、がある。具体的にいうなら、コーラはきらいだからジュースをのもうというのが第一で、登山に持っていくのだからびんではなく軽い缶のほうがいいというのが第二である。軽ければ中味はどうでもいいというわけではない。それで嗜好飲料の分類も、まず中味でわけた上で、つぎに容器の特殊性をとりあげてどれがどんな長所を持つかを明らかにし、これによって中味の分類を補うのである。「登山やハイキングには、軽くて持ち運びに便利な缶入りジュース(缶入りビール)を」というCMにもなる。この方法を普遍化すると、中味は内容で容器は形式であるから、事物を内容と形式の統一においてとりあげる場合には、まず内容についての大きな分類が基本となり、それを形式についての分類で補うべきだ、ということになろう。これはまた、形式を不当に重視して第一義的に考える形式主義では正しい分類を行うことができない、と教えているわけであって、形式主義者の行った分類をうのみにするな、と警告していることになる。

 同じ嗜好飲料に属するジュースとコーラも、容器の壁にかかる圧力の点では大きな違いがあって、周知のようにコーラはしばしば爆発を起こしている。容器のありかたがジュースとコーラとではちがってくる。一般論でいうならば、内容は形式と区別されなければならないが、相対的な独立であるから、内容の変化はある条件において形式のありかたを大きく規定してくるのである。ビールのびんもしばしば爆発を起こしているが、これを現象的にとりあげて、ビールもコーラも同じアルコール性の飲料だというならそれは誤っている。言語は一般的な認識を直接表現するのだが、概念にしても抽象のレベルはさまざまであって、きわめて高度の抽象になると形式面を大きく規定してくる。<名詞>はふつう自立して使われるが、「もの」(物、者)「ところ」(所)「こと」(事、言)のような高度の抽象になると、「ものがものだから大切に」「ところ変われば品変わる」「ことと次第では考えよう」などと自立して使われることは少なくて、「きもの」「くいもの」「はれもの」「おとしもの」「くせもの」「しれもの」「おろかもの」「いどころ」「みどころ」「うちどころ」「かんどころ」「しごと」「ひめごと」「こごと」「ねごと」「うわごと」などのように、多面的・立体的な把握のときの複合語として使うことが多い。<動詞>も同様に「ある」「いる」「する」「なる」のような高度の抽象になると、「ひろげてある」「死んでいる」「つめたくする」「暖かくなる」などのように、多面的・立体的把握のときに他の具体的な属性表現と連結して使うことが多い。抽象的であろうがなかろうが、自立して使われなかろうが、これらはやはり<名詞>であり<動詞>であることに変わりはない。それが客体の把握であり客体的表現であることに変わりないからである。その特殊性に目をつけて、これらを<形式名詞><形式動詞>などと分類しているけれども<抽象名詞><抽象動詞>とよぶのが適当であろう。抽象的か具体的かで、大きな分類が変わるわけではない。<抽象動詞>が<助動詞>と同じように抽象的で<活用>があるからという理由で、いっしょくたに扱ってはならぬのは、ビールを薄めてもサイダーといっしょに扱えないのと同じである。》

  現在テーマにしている論文の筆者が、<形式動詞>をこのようなレベルで理解できていれば、おのずと異なった展開になったはずなのですが。しかし、根本的には「言語は表現としての過程的構造を持っている。」ことが形式主義的発想では理解できないところにあるということでしょう。引き続き、「語の分類について」の展開を追ってみましょう。■

  
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2015年11月03日

助動詞「だ」について(2)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」劉 雅静
― 言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010) 
  語とは何か。(1)

 題記論稿では助動詞「だ」を<形式動詞>と見なすのですが、助動詞と形式動詞とは何であるのかが機能的に比較されているにすぎません。これは現在の言語学の品詞分類が機能に依拠した屈折語文法の分類を模倣しているに過ぎないことを明かしています。これを乗り越えるためには、まず語とは何かを明らかにし、さらにその分類方法を見直さねばなりません。この点を根本から見直し、論じたのが、三浦つとむの著書「認識と言語の理論 第三巻」(勁草書房刊197211月)に収録されている「語の分類について」です。長くなりますが、まずこれを引用します。

  語の分類について

    一 山田孝雄は西欧模倣に反対する

  語の分類ということは、一見さほど困難でないように思えるが、実は容易ならぬ問題である。日本語は西欧の言語のようにわかち書きをしていないから、日本語について論じる学者はそれをどう区切って一語とみとめるかという、いまひとつの問題をいっしょに負わされている。そしてこの二つの問題は決して無関係ではなく、一方でのふみはずしは否応なしに他方の解決を歪めることになる。区切りかたについての自分の原則を持たないと、西欧の言語のわかち書きから類推して区切りを行い、これに西欧の文法論を焼き直した分類を与えるということになりかねない。日本の学者は、明治のはじめから今日に至るまでこれらの問題をつきつけられている。類推や焼き直しもいまもってあとを絶たない。

 自主的にかつ科学的にこれらの問題を解決するには、語或いは単語とはいったい何であるか、その本質を把握することが不可欠である。山田孝雄(やまだよしお)はその把握の必要を理解するとともに、それが困難であることをも自覚していた。『日本語文法概論』はつぎのように述べている。

  実に語の単位といふものは文法研究の一切の基礎となるものなり、これは吾人が一つ一つの語と考ふるものをさすなるが、その一つ一つの語とは何ぞやといふ問題に対してはこれに答ふることは容易のことにあらず。従来これを単語といひ、それを説明して「箇々の語」などといへるが、かくの如きはたゞ語をかへていへるに止まり、説明とは見るべからず、われらの要求する所はその箇々の語とは何ぞやといふことの説明なり。

  彼はこのように、西欧や日本の学者が思考停止していた基礎的な問題をとりあげて、自分の理論を提出したのである。いわゆる<名詞>を一つの語と認めることでは誰の見解も一致するが、問題はさらにそのさきに控えている。たとえば、「なべぶた」(鍋蓋)は「なべ」と「ふた」の二語から構成された一の語であることは、漢字で表現する場合からみても明らかであるが、「まぶた」(瞼)は同じように「め」と「ふた」の二語から合成された語でありながら、誰もこれを二語の合成として扱わないし、漢字で表現する場合にも一字で記している。これは合成語として扱うべきものか否か、その理論的根拠はどうか。これに答えなければ語とは何ぞやという問題を解決したことにはならない。また「辛い」(からい)を一つの語と認めることでは大体において異議はないが、「辛み」「辛さ」「辛め」という場合の「み」「さ」「め」を<接尾語>として一つの語と認めるかそれとも<形容詞>の語尾変化と認めるかでは意見がわかれているし、<接尾語>説の中には「辛い」の「い」もまた<接尾語>だという主張も存在する。これにも理論的に答えなければならないのである。

 西欧の文法書は、現象的に区切られている語を平面的に羅列して、八品詞とか十一品詞とかいろいろ分類している。山田はこの西欧の分類も吟味して、哲学者の手になるものであるから無用のことを規定したかに思われるものもあるといい、日本の学者に向かっては、現に八品詞または九品詞の分類を行っているが果たして事実を充分にしらべてから日本語の品詞を定めたのか、おそらくそうではなくて漫然と模倣したのであろうとたしなめている。そして山田以後の学者も、それまでの平面的な羅列ではなく、個々の品詞を超えた基礎的な分類の中にそれらを位置づけようとしているのである。それゆえ焦点は、その基礎的な分類が果たして合理的であるか否かに置かれることになったが、ではそれをどのように吟味したらよいであろうか、語とは何ぞやという問題は、この基礎的な分類いかんという問題と結びついているし、それはまた言語とよばれる表現の本質的な特徴は何かという問題とも直接にむすびついている。言語学者の分類の失敗は、この最後の問題についての正しい答えを持ち合していないことと無関係ではない。》

  この論が記され、公刊されてから既に43年が経過していますが、事態は何も変わっていません。むしろ、欧米の日本語学習者に合わせて欧米言語学へのもたれかかりがより進行し、国語学もまたこれに引き摺られているのが現状で、この誤りを正さねばなりません。それは西欧言語学の機能主義の誤りを正すことにもなります。この点は今問題にしている論稿に見られる通りです。続けて、みていきましょう。■

  
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2015年11月02日

助動詞「だ」について(1)

 「壁塗り構文」問題について格助詞の扱いを見て来ましたが、形式主義、機能主義的言語論で助動詞がどのように扱われるかを肯定判断の助動詞「だ」に関する論考により見てみましょう。

 <談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―>【劉 雅静: 言語学論叢 オンライン版第 3 (通巻 29 2010)】ですが、扱われているのは次の文です。 

  (1) 彼は学生だ。

 そして、次のように問題が提起されます。 

 例 (1) における「だ」は体言に接続し、助動詞として理解されやすいが、しかし、談話において、次の例 (2) (3) が示すように、「だ」は単独で文頭やターンの冒頭に出現したり、完結した文そのものに付いて用いられたりする場合もある。 

(2) 「桂太君かっこよくない!?」

 「だね、一際目立ってるかも…」『虹色の約束』

(3) どうせ、わたしはバカですよーだ。 (メイナード2000: 201)

談話における「だ」の出現位置と「だ」の意味機能の関係は興味深いことであるが、本稿では、例 (2)のような「だ」を考察対象とし、文頭やターンの冒頭に単独で出現する「だ」のことを単独の「だ」と呼ぶことにする。本稿の目的は、「だ」の単独用法を指摘・考察することによって、「だ」はいわゆる助動詞ではなく、形式動詞であることを主張するとともに、単独の「だ」の談話機能を明らかにすることである。 

タイトルからして「意味機能」で、「だ」の言語表現としての本質ではなく、意味機能や談話機能が問題とされます。本質から機能を導くという科学的な発想は見られず、機能が本質とされてしまいます。現在の国語学界や言語学会の論文や著作はすべて「~の機能について」なので、レヴェルが窺えます。

まず、品詞分類の先行研究の定義が示されます。 

「だ」の品詞分類に関して、従来から「助動詞」説と「用言」説の二つの立場がある。表1 が示すように、「助動詞」説には松下 (1961)、時枝 (1966)、橋本 (1969)、鈴木(1972) 等がある。「だ」を助動詞と見なす根拠として、「だ」は独立して一文の文頭に用いられないことや独立せず、常に他の語に伴って現れるといったことが主張されている。 

1 「だ」を「助動詞」と見なす先行研究

先行研究

松下 (1961)、時枝 (1966)、橋本 (1969)、鈴木 (1972)

 

主  張

・独立して一文の文頭に用いられない

・独立せず、常に他の語に伴って現れる

・他の語と共に一文節をなす


 これらの定義は、全て独立しているか否か、他の語と共に文節をなすかという形式や機能により定義されています。他方、助動詞と見なさない説もあります。

 一方、表2 が示すように、「だ」を助動詞と認めず、一種の用言と見なす立場もある。本稿では、こういった先行研究の立場をまとめて「用言」説と呼んでおく。その中に、山田 (1936) では「だ」は存在詞で、陳述作用を持つと述べている。渡辺 (19531971) や寺村 (1982) では「だ」は判定詞であるとし、北原 (1981) では「だ」は形式動詞で、詞相当のものであるとしている。小泉 (2007)では「だ」を準動詞と呼び、名詞的形容詞や名詞を述語化するための語尾要素にすぎないと指摘している。

         表2 「だ」を「用言」と見なす先行研究     

先 行 研 究

主 張

山田 (1936)

存在詞

渡辺 (19531971)、寺村 (1982)

判定詞

北原 (1981)

形式動詞

小泉 (2007)

準動詞

 ここでは、動詞他の類に入れられ、山田は助動詞を動詞の複語尾としていますが、「ある」との意味の類似性から存在詞とするという特別扱いをしています。小泉でも語尾要素にされています。さらに、形式に対して意味機能に対する先行説が示されています。これに対し、先の問題提起がされます。

 本稿では、自然会話を考察対象とし、文頭やターンの冒頭に立つ「だ」の単独用法を指摘することによって、「だ」は助動詞ではなく、形式動詞であることを主張する。また、談話レベルにおける「だ」の使用を考察することによって、「だ」は言語的或いは非言語的文脈を代用する機能を持つことを主張する。

  「だ」を形式動詞とし、「言語的或いは非言語的文脈を代用する機能を持つこと」が主張されます。何と、代用機能までもたされてしまいます。形式動詞というのも形式だけで内容がないということであり本来誤った名称と言えます。このように、本質を考えることなく形式と機能にたよる分類では見方によりそれぞれ恣意的な解釈が生みだされることになります。そもそも、名詞、動詞、形容詞類と助詞、助動詞類に本質的な差異があるのか否かも不明です。現在の記述文法や教科研文法では語彙機能と文法機能などという基準まで持ち出されています。

 この論考の主旨は、談話文においては、(2)(3)のような、文頭に単独で「だ」が使用される例が頻出し、構文の意味論的・語用論的考察から導かられた助動詞の定義ではこれを説明できないというところにあります。

 たしかに、文であろうと談話であろうと言語であることには変わりなく、これらに対し一貫した説明が出来ないような定義は論理的、科学的とは言えません。

 北原 (1981)でも「いわゆる助動詞」と助動詞の明確な定義を示すことができず、日本語文法、生成文法、や記述文法も同様なレベルです。この点、時枝誠記の助詞説が特徴的です。この点は、また別途論じましょう。

談話での使用例は何も談話に限る話ではなく、小説中の会話表現にも出てくるもので、いまさら談話などと特別視するのがおかしいと言えなくもありません。そもそも、助動詞の機能的、形式主義的な定義そのものに問題があるというのが本来の課題です。

これは、やはり言語とは何かの本質に立ち返り考察することなく、機能と形式を玩んでも根本的な解決になるとは考えられません。先ず問題になるのは、単語とは何を言うのか、どのように定義されるかです。■

  
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2015年11月01日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (13)

     「ニ格とデ格の交替について」、「感情動詞におけるニ格とデ格の交替について」 張 麗(大東文化大学)

 最後に題記2編の論文についてみましょう。この論文の特徴は、国立国語研究所が提供している『現代書き言葉均衡コーパス(中納言)』を通して、相当文を検索し使用実績を調査、検討していることである。このコーパス(中納言)の概要は次の通りです。

 『現代日本語書き言葉均衡コーパス』(BCCWJ)は、現代日本語の書き言葉の全体像を把握するために構築したコーパスであり、現在、日本語について入手可能な唯一の均衡コーパスです。書籍全般、雑誌全般、新聞、白書、ブログ、ネット掲示板、教科書、法律などのジャンルにまたがって1億430万語のデータを格納しており、各ジャンルについて無作為にサンプルを抽出しています。 すべてのサンプルは長短ふたつの言語単位を用いて形態素解析されており、さらに文書構造に関するタグや精密な書誌情報も提供されています。著作権処理も施されていますので、安心して使っていただけます。 

 さて、最初の「ニ格とデ格の交替について」は「1.はじめに」で次のように記しています。例文は、(1)(2)のみ示します。 

(1)~(4)が示すように、「とる」「もつ」「かかえる」「だく」のような動詞は格体制の交替(~ヲ~ニ形と~ヲ~デ形)を起こす。

1a)彼女はグラスを手にとり、一口飲んでみた。 (海老沢泰久『男ともだち』講談社 1998

1b)茶碗を右手でとり、左手で扱って、右手で勝手付に仮置きする。  (千宗左『小棚の点前』主婦の友社 1990

2a)すると、雑誌を手にもって農家の人が大勢たずねてくるようになった。  (横森正樹『夢の百姓』白日社 2002

2b)ときどき六寸ぐらいある基盤を片手でもって、五十匁蝋燭の火を団扇のように煽り消したそうです。      

 この、(a(b)を「格体制の交替(~ヲ~ニ形と~ヲ~デ形)」と捉えているわけですが、これまで見てきた通り、単に形式的に「ニ」と「デ」が交替している訳ではありません。「ニ」の場合は動作の始点・終点を指し、「デ」は動作の手段・手段を表しています。つまり、表現している意味が異なっているのであり、単なる交替と捉えること自体が誤っています。先行研究について次のように記しています。 

 「とる」「もつ」「かかえる」「だく」はニ格とデ格の交替が可能だと言われるが、それぞれニ格とデ格の使用率はまだ明らかにされていない。先行研究(言語学研究会 1983309)ではに格の名詞は主に身体の部分(とくに手)をしめすものであると指摘しているが、「手に~」以外にどんな表現があるかまだはっきりわからない。また、どんな場合、交替ができるかも分からない。

 先行研究ではニ格は古い道具を示す指摘もあり、空間の意味を示す研究もある。本稿ではデ格は道具性を表し、ニ格は空間性を表すと考える。 

「ニ格とデ格の交替が可能だと言われる」こと自体が現在の日本語学の誤りを示しています。「ニ格とデ格の使用率」などあまり意味があるとも思えません。論者の日本語の使い方も若干おかしな所が見られ、どのような教育、指導を受けたかの方が気になるところです。「デ格は道具性」、「ニ格は空間性」を表すというのは、方法・手段と支店・終点を言い替えものと考えれば当らずといえども遠からずというところです。

「感情動詞におけるニ格とデ格の交替について」では、「感情動詞の定義を筆者なりに述べておくと、人間の心理、感情にかかわる動詞としてとらえ、思考動詞などは対象外とする」として、「驚く」「怯える」「苦しむ」「困る」「悩む」「びっくりする」「迷う」について調べています。それぞれ「ニ格、デ格の使用率」と「ニ格とデ格の交替条件は何なのか」を明らかにすることを目的としています。「とる」「もつ」等の動詞については、<「手に~」以外にどんな表現があるか>も調べられています。

使用比率など興味はありませんが、結果はリンクを張っておきますので論文をみていただきたいと思います。明確な方法論もなく、安易にデータベースを使用する傾向も気になります。交替可能の条件は次のような結論になっています。 

以上、「手にとる」「手にもつ」「手にかかえる」と「手でとる」「手でもつ」「手でかかえる」の用例が全部見つかり、「とる」「もつ」「かかえる」のニ格とデ格の交替可能の用例は身体の部分「手」と結ぶことであると思われる。また、「かかえる」のもう一つ交替可能の用例は身体の部分「腕」と結ぶことであると考えられる。

 これは、交替でも何でもなく、「手持つ」と「手持つ」の意味の相違が現れているだけです。感情動詞については、次のように纏められています。 

考察した結果、日常生活を描く抽象度の低い名詞と接続する場合、デ格しか使えなく、ニ格が使いにくく、ニ格とデ格の交替が難しいということが分かった。もう少し抽象度が高くなった人間の生活を表す名詞や病名を表す名詞の場合、ニ格とデ格の交替が可能だと考える。抽象度が高い名詞と接続する場合、デ格の使用が限られている。ニ格とデ格の交替が不可能という結論が得られた。しかし、一見抽象度が高い名詞でも、デ格の使用も可能の場合があるため、抽象度が高い名詞にはデ格が使えないとは言い切れないと思われる。ニ格とデ格の交替についての研究を深めたいなら、名詞の抽象度についての研究もさらに深まる必要がある。それを今後の課題とする。
  先の論考の、「外的原因」や「欠乏」とは異なり「名詞の抽象度」とされていますが、抽象度自体の意味が判っていないのではと考えられます。「名詞の抽象度についての研究」は深めてもらいたいと思いますが、それは格交替とは別の問題です。このような、機能的、形式主義的な研究が見掛けの取り付き易さから、意味もなく繰り返されていることに問題があります。
  時枝誠記は、「ただ現象的なものの追求からは文法学は生まれて来ない」と忠告しています。   
  これまで見てきたように、言語表現を直接支える認識を無視してピント外れの「壁塗り構文」問題や、格交替という現象を論じていては言語の科学的な解明は不可能であることに気付くべきと言えます。■
  
Posted by mc1521 at 15:55Comments(0)TrackBack(0)言語