2017年04月30日

形容動詞という誤り (3)

                                    権 善和 「日本語形容動詞の研究」 
                                      松本靖代 「日本語教育における形容動詞の扱い―国文法との比較を通して―」

 形容動詞という概念の誤り①

[権善和稿:研究]の「 2. 形容動詞の概念」、「2.2.1. 形容動詞の種類」を検討します。
  形容動詞は、もと、「静カニ」「堂々ト」などの一部の副詞に、動詞「アリ」をつけて「静カニアリ」「堂々トアリ」となり、さらに縮約(母音脱落)して、文語の形容動詞「静ナリ」「堂々タリ」になったものである。それが漢語の流入によって、属性概念の漢語に「~ナリ」「~タリ」が接続した形態に発達し、後には「ダ・ナ活用」になって、今日の形容動詞の形態に定着したのである。
 形容動詞は、意味的には事物の性質・状態を表わす自立語で、活用があるという特徴を有するが、文語と口語で活用が異なる。
 先にも見た通り、この論文では<形容動詞>という品詞区分には疑問を持たず、否定論を検討しながら、「この問題を飛び越して、運用上の特徴を中心に考察を進めたい」と最初に述べられている通り<形容動詞>肯定論にたち、「運用上の特徴」を検討するだけの論となっており、単なる現象論、機能論となるしかありません。
 この種類の検討でまず問題となるのは、最初の、
 もと、「静カニ」「堂々ト」などの一部の副詞に、動詞「アリ」をつけて「静カニアリ」「堂々トアリ」となり、さらに縮約(母音脱落)して、文語の形容動詞「静ナリ」「堂々タリ」になったものである。
という文章です。ここでは、副詞とは何か、動詞「アリ」とは本当に動詞であるのか、縮約(母音脱落)して、文語の形容動詞「静ナリ」「堂々タリ」になったとする「ナリ」は活用なのかが全く検討されていません。このため、「形容動詞は、意味的には事物の性質・状態を表わす自立語で、活用があるという特徴を有するが、文語と口語で活用が異なる。」と<形容動詞>は自立語で活用を持つと安易に決めつけられています。
 口語の副詞は通常「品詞の一。自立語で活用がなく、主語・述語になることのない語のうち、主として連用修飾語として用いられるもの。」(大辞林 第三版の解説)とされ、「活用」を持ちません。文語でも同様であり、≪「静カニ」「堂々ト」などの一部の副詞≫と無造作に述べている所がまったく非論理的です。これらは、「静カ」「堂々」という語に<格助詞>「ニ」「ト」が付加されたものと見なければなりません。そして、<動詞>「アリ」は判断の助動詞「アリ」でなければばりません。当然、
 それが漢語の流入によって、属性概念の漢語に「~ナリ」「~タリ」が接続した形態に発達し、後には「ダ・ナ活用」になって、今日の形容動詞の形態に定着したのである。
と記す「ダ・ナ活用」の「ダ・ナ」も活用ではなく、判断の<助動詞>「ダ・ナ」でなければなりません。このように膠着語である日本語の単語とは何か、活用とは何かが全く検討されることなく、≪文語の形容動詞「静ナリ」「堂々タリ」になった≫と<形容動詞>という一語の品詞を承認してしまっています。
 こうなるしかないのは、「形容動詞は、意味的には事物の性質・状態を表わす自立語で、活用があるという特徴を有する」と記しているように、品詞分類の基準が意味と自立・非自立と言う形式、活用の有無という形式に依拠した形式主義的な観点にその本質的な欠陥があります。それは、学校文法である橋本文法の観点でもあり、この点に関する反省が全くなされていません。
 すでに、語の定義、活用の本質他についてはこれまで論じてきたところですが、この観点から形容動詞という誤りを明かにしましょう。■
  
Posted by mc1521 at 21:48Comments(0)TrackBack(0)文法

2017年04月22日

形容動詞という誤り (2)

                     権 善和 「日本語形容動詞の研究」
                      松本靖代 「日本語教育における形容動詞の扱い―国文法との比較を通して―」

 2) 形容動詞論の現状
 形容動詞の名称と品詞の扱いの来歴が次に記されていますので引用します。
 「形容動詞」という名称を初めて用いたのは、大槻文彦(1897)であるが、これは日本語の形容詞が、英語のadjectiveの訳語としての形容詞との混乱を避ける目的で提案したものである。現代と同じ意味で「形容動詞」という名称を最初に使ったのは芳賀矢一(1904)である。
吉岡郷甫(1912)は形容動詞を口語についても適用しているが、形容動詞が一品詞として定着されたのは、吉沢義則(1932)と橋本進吉(1935)による。
 反面、形容動詞を認めない説も現れている。
 佐久間鼎(1940)は形容詞と形容動詞を一括して「性状語」と呼んだ。
 否定論の代表的な学者である時枝誠記(1950)は、形容動詞を全面的に否定して語幹を体言とし、語尾を断定の助動詞とすべきであると主張した。
 そして、「橋本進吉(1935)の以前の研究ではカリ活用を形容動詞と認める見解もあるが、現在の研究では、カリ活用は形容詞の範疇とし、ナリ活用とタリ活用とを、形容動詞の範疇とするのが一般的である。」と現況が述べられています。これに沿って、教育が行われ第二言語の学習者のみならず、国語教育でも混迷を招いているのは、たとえばYahoo! JAPAN知恵袋やOKWAVE Q&Aの国語、日本語の質問等をみると、形容動詞の定義や、形容詞と副詞との相違、名詞との関係等多くの質問が毎回出されています。
 第二言語の学習者に対する日本語教育については、[松本稿:扱い]で次のように記しています。
 日本語教育では、国文法における形容動詞を、「ナ形容詞」と呼び「形容詞」の下位分類の一つとして学ぶ方法と、「名詞的形容詞」と呼び「名詞+だ」と同じくくりで学習する方法の2種類が一般的である。
 このように、形容動詞という分類を形容詞の下位区分とし、「ナ形容詞」とするのは単に名称の問題で、「健康な体」「彼は健康だ」の「な」「だ」を活用とし、「健康な」「健康だ」を一単語、一品詞とする点で「形容動詞」論の一変形でしかありません。
 [松本稿:扱い]では現状が前提され論じられているため、形容動詞否定論には触れられていませんが、[権善和稿:研究]では「4.2. 否定論」で、松下大三郎、時枝誠記、水谷静夫の否定論に言及されています。しかし、第一章 序論で、「形容動詞の認定論と否定論については、第2章で詳しく言及するが、これは研究史を探る程度の水準にとどめておき、本論文では、この問題を飛び越して、運用上の特徴を中心に考察を進めたい。」と、この問題を飛び越してしまいます。形容動詞を論じて、この問題を飛び越したのでは本質的な議論など出来ないのであり、教育方法もまた明確にはできません。この点で[松本稿:扱い]も[権善和稿:研究]も共に、その限界が明かといえます。

 残念ながら、この点を明確にした論文は現状では見当たらず、唯一明確にしているのは三浦つとむの言語過程説による解明です。
 これが、現在の日本語文法、文法教育の現状ですが、次に具体的な内容をみることにします。■
  
Posted by mc1521 at 18:13Comments(0)TrackBack(0)

2017年04月16日

形容動詞という誤り (1)

                    権 善和 「日本語形容動詞の研究」
                    松本靖代 「日本語教育における形容動詞の扱い―国文法との比較を通して―」
 1) 問題提起
 先に<判断辞>「だ」について検討してきましたが、これに関連するのが形容動詞の扱いです。現在の学校文法(橋本文法)では一品詞として立てられているがこれは誤りです。
 この問題を考えるには、言語とは何か、特に語、単語とは何か、品詞分類の基準は何か、活用とは何か、さらに、日本語の歴史がからみ、科学的、本質的な論理を明かにしないと明解な結論を導くことができません。
 その上、日本語を学ぶ外国人に対する教育の問題がからみ、ここでも安易な形式主義や機能論により論理の本質が見えなくなってしまうことになります。
 形式主義言語論に過ぎない、生成文法や日本語文法では当然解明することなど原理的に不可能ということになります。この現状と、本質的な解明を提示したいと思います。
 現状を見るために、二つの論考を検討してみましょう。
 仁荷大学校 大学院の権善和氏による「日本語形容動詞の研究」(2005年8月)<以下[権善稿:研究]と略称>と慶応義塾大学法学部政治学科の松本靖代氏の副専攻卒業論文「日本語教育における形容動詞の扱い―国文法との比較を通して―」(2015年1月27日)<以下[松本稿:扱い]と略称>です。

 [権善稿:研究]は最初に、「日本語の形容動詞が、日本語の体系の中でどのように位置づけられ、また、いかに運用されているのかについて考察したものである。」と述べ、[松本稿:扱い]では「日本語における形容動詞の位置づけを、国文法、日本語教育双方の視点から再確認し、日本語教育に於いて形容動詞を他の品詞と並べてどのように扱うことができるかを考えることである。」と述べられています。
 [権善稿:研究]は「最終的には日本語の形容動詞の意味範疇についての新たな解釈を試みたい。」とします。[松本稿:扱い]では「はじめに」で、日本語学習者のアメリカ人が、「嫌いだ」の否定形を「嫌いでない」ではなく、「嫌いくない」と表現した事例が挙げられ、「嫌い」を「悪い」と同じように活用させた事例が述べられています。これは、言ってみれば我々が英語やドイツ語の動詞の屈折形を誤ったのと同様なイメージで捉えられていることを示しています。そして、最終的にこのイメージに沿った解決法が提示されています。これらが、正しいか否かを検証しなければなりません。
 まず、[権善稿:研究]の「はじめに」の問題提起をみてみましょう。
 形容動詞とは、形容詞と同じく事物の性質や状態、人間の感覚・感情などを表す自立語で、意味的な性質は形容詞と同じであり、活用は動詞のラ変活用と同じくナリ活用・タリ活用をする日本語の品詞の一つである。
 日本語の形容動詞には、文語において「静かなり・まれなり」の「ナリ活用」、「堂々たり・整然たり」の「タリ活用」があり、口語には、「静かだ・まれだ」の「ダ・ナ活用」がある。
 このような、文語の「語幹+なり(語尾)」と口語の「語幹+だ(語尾)」は、形態的に「名詞+なり(助動詞)」と「名詞+だ(助動詞)と同じである。二つの異なる品詞の語が、同じ形態をしているのは、品詞の設定や用法などで混乱を引き起こす可能性があることを示している。
 このような形容動詞の設定と用法は、形容動詞を一語と見なすかそれとも、二語と見なすかという問題と、そこからはじまる形容動詞の認定論と否定論の両論化の現象を生み出しており、形容動詞についての研究の主なテーマになっている。■
  
Posted by mc1521 at 18:11Comments(0)TrackBack(0)

2017年04月09日

「非文」について(3)

 
 宮下眞二による「変形文法の展開とホーキンズの冠詞論」の「三 非文とは何か」の後半を転載します。
          ………………  ■  ………………

 非文法性とは文法違反のことである筈だから、文法違反とは言語のどういう事実であるかを反省してみよう。言語は規範に媒介された表現である。所謂文法とは言語を媒介する言語規範のことである。文法違反とは、言語が文法に依って正しく媒介されないことである。詳しく説明すれば、言語は対象―認識―表現という客観的関係をもっていて、この関係は文法に依って媒介されねばならない。文法とは、或る種の対象を表す場合には或る種の音声や文字を用いると云う表現のための約束である。話手が赤くて酸っぱいリンゴを表すために、リンゴの語彙を用いて「リンゴ」と言えば、対象と認識と言語とは正しく媒介されて、聞手は内容を正しく把握することが出来る。しかしこの場合に、話手がリンゴの語彙を忘れたり、又は間違えたりして「ミカン」と言ったとすると、これは対象―認識―表現の関係を正しく媒介していないから、文法違反即ち非文である。このように、文法違反か否かとは、言語の過程的構造が言語規範に依って正しく媒介されているか否かであって、言語の内容が常識に適っているか否か、又は言語の表面的の統語構造の辻褄が合っているか否かではないのである。チョムスキーらは、文の背後にある、話手が何をどう表現したかと云う表現過程を無視して、文の内容を日常的常識と比べて、文法的とか非文法的とかまことに安直に判定して、それを土台として変形文法の理論をデッチ上げたのである。
           ………………  ■  ………………

 この指摘は、原理とパラメターのアプローチからミニマリスト・プログラムへと変転しても何ら変わっていないといえます。そして、この非文を安直に取り込んでいる現在の日本語記述文法もまた同様であり、これまで検討してきた、杉村泰稿「ヨウダとソウダの主観性」でも明かかと思います。先にたまたま見つけた博士論文もまたということになります。■

  
Posted by mc1521 at 14:16Comments(0)TrackBack(0)文法

2017年04月07日

「非文」について(2)


 次に紹介するのは、宮下眞二による「変形文法の展開とホーキンズの冠詞論」という1981年9月刊の三浦つとむ編『現代言語学批判  ■言語過程説の展開』の中の論考の一節です。宮下はすでに、1970年5月に雑誌『試行』に「構造言語学の変形としての変形文法―チョムスキー『言語と精神』の批判」(『英語はどう研究されてきたか―現代言語学の批判から英語学史の再検討へ』1980年2月刊に収録)を発表しており、この論文では変形文法が統語的解釈と意味的解釈との対立から折中ないしは総合へと展開してきた跡をたどり、変形文法の混迷が、その意味の把握が、日常的常識的な意味観を流用した安直かつ曖昧なものであることを指摘し、生成文法の意味素性の概念を、意味そのものではなくて、意味を媒介する語彙の対象の諸側面を分類したものに過ぎないと断じています。そして、非文という安直な発想による生成文法のデッチ上げを明かにしています。この「三 非文とは何か」を転載します。
            ………………  ■  ………………
    三 非文とは何か (1/2)
 変形文法のもう一つの特色は、何らかの意味で「変」な文即ち変形文法で云う非文(ungrammatical sentence)を資料として、正常な文を「生み出す」規則を探り出そうと云う研究方法である。変形文法以前には、正常な文を資料としてその背後にある文法を明かにしようとしていたから、変形文法の研究方法は「画期的」とされ、変形文法の「一大特徴」とされている。しかし変形文法では、母国語話者が直観的に、常識的な意味で「変」だと感ずる文を、すべて「非文法的」と見做し、これを根拠として言語の研究を進めている。変形文法化に言わせれば、母国語話者の直感こそ経験科学の唯一の基盤という訳だろう。しかし科学は、言うまでもなくこの直観を反省するところから始まるのである。
 変形文法で云う非文とは、内容が非現実的又は超現実的なものや、表現がくど過ぎる物や、統語構造が複雑で一読したのでは語と語とのつながりが掴みにくいものなどである。これらは母国語話者には一見して「変」だと思われるために、変形文法家に依って非文法的文と見做された。一例を挙げれば、チョムスキーはAspects(1965年)に於いて、‘The harvest was clever to agree.’(収穫は懸命にも同意した)や、‘Harry drank his typewriter.’(ハリーはタイプライターを呑んだ)を非文と判定して、このような非文を生み出さないために語彙の選択を制限すべき「選択制限」と云う規則が必要であると主張している。しかし、常識ある者ならば、非現実的なものや超現実的なものを空想して言語に表現したら、内容が非現実的又は超現実的になるのは当たり前で、すこしも変ではないと思うだろう。又、人間は嘘をつくことも出来るが、変形文法化に依れば、超現実的な文は非文と云う事になるだろう。ホーキンズは‘The harvest was clever to agree.’は「お伽話」‘a fairy tale’では全く自然でありうると指摘している。彼はイギリス人だからさすがにアメリカの変形文法家ほど非常識ではない。常識ある者ならば、表現がくどくても、複雑で一読では意味が掴み切れなくても、それだけで非文法的とは云えないと思うだろう。そこで変形文法家の非文法性と云う考えそのものが間違っているのではないかと云う疑問が生じる。■
  
Posted by mc1521 at 21:17Comments(0)TrackBack(0)文法

2017年04月05日

「非文」について(1)


 これまでの検討で、非文の非論理性に触れて来ました。これは、以前に<チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (2)の「非文という主観的判定法 」>で論じた通り、「文法の妥当性をテストする一つの方法は、その文法が生成する列が実際に文法的かどうか、即ち、母語話者にとって容認可能かどうか等を確認することである。」という母語話者が容認可能か否かという直感的な判定でしかありません。「辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書」を見ると次のように説明されています。
 文法が誤っており、正しい文章として成立しない文を意味する語。非文であることを示すために、文の先頭や誤った部分などにアスタリスクが付け加えられることがある。
これを読むともっともらしく思われますが、現実には「文法が誤っており」と判断できるような文法論自体が確立されていないため、「母語話者にとって容認可能かどうか等を確認する」という曖昧な概念でしかありません。それゆえに、現在の研究論文や英語、日本語教育でその定義も示さないまま次のように安易に重宝に使用されています。 
 2. 例文の‘*’は、その文が非文であることを示す。
   (「博士学位論文:聞き手領域に対する配慮が言語形式の選択に与える影響―テクレル・テモラウ及びノダ文・非ノダ文の場合―」)
と最初に記されています。この点に関する文章を二件ほど紹介させていただきます。最初は、日本語学説史/奈良時代語音韻史、研究者の釘貫 亨氏の「日本文法学に於ける「規範」の問題―学説史的考察―」(名古屋大學文學部研究論集. 文學. v.42, 1996, p.251-287)から、終わりに近い部分を引用します。
 ところで最近の現代語の文法研究の潮流は、生成文法の方法の導入以来、文と非文の選別を基本にする方法を軸にして展開している。文と非文の選別を基礎にする方法は、あたかも音韻論における交換テスト commutation test に対応するものである。しかし、音韻論における交換テストと文/非文の判定テストとの質的な相違は、前者が最小対 minimal pair の構成に基づいて行われるために、音声的な対立が弁別的機能をもっているか否かの判定に個人差が生じることが有り得ないのに対して、文/非文の判定にはかかる客観的基準が確立しておらず、たとえ統計的方法に依存して客観化を図ったとしても、最終的な判定は、研究者の内省に頼らざるを得ないのである。そしてその内省は、おそらく彼が保有する規範と密接にかかわっているだろう。個人による判断差のない文/非文の客観的判定基準は、未だ開発されていない。遺憾ながら、現代語の文法論は、その最先端を行く理論的研究において、重大な主観主義をはらんでいると考えざるを得ないのである。
 ここでの規範は、いわゆる規範文法でいう規範で、「真の意味での文法の歴史的研究が今日に至るまで存在していないのは、文法研究がいまだに克服していない規範の観念が障害となっているからである。」という主旨の論理が展開されています。国語学からも、このような真っ当な批判が出されているのですが、残念ながら無視されているのが現状です。というより、これに答える手段をもっていないというのが現状です。
 これは、1996年に発表されたものですが、既に1981年に言語過程説の立場から本質的な生成文法批判が提起されていますので次にそれを紹介致します。■
  
Posted by mc1521 at 17:03Comments(0)TrackBack(0)

2017年04月03日

助動詞「だ」について(28)

                                    杉村泰「ヨウダとソウダの主観性」
                        〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
 
  モダリティ論という誤り
 
 「ヨウダとソウダの主観性」を検討してきましたが、最終的に膠着語である日本語を命題やモダリティという屈折語文法の用語を借りて解釈する誤りという結論に至りました。結局、最初に戻りここでモダリティ論の誤りを言語過程説の立場から明かにしておきましょう。「 2.1 命題とモダリティ」でのモダリティの定義を次に引用します。
 主観性ということばは多義に使われるが、本研究では、モダリティ論における話し手の心的態度の現れについて用いることにする。モダリティ論によると、一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる。4)「モダリティ」はさらに、話し手による客体世界の把握の仕方と関わる「命題態度のモダリティ」と、話し手の発話態度と関わる「発話態度のモダリティ」とに分けられる。 
 《一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つ》としますが、この内容が誤っています。文は、客体的表現である詞と主体的表現である辞との組合せから成ります。そして、これが入れ子型に組み合わされます。時枝は彼の機能主義的な発想から辞が詞を包むと見なし、風呂敷型構造形式と呼んでいますが、これは観念の運動形式と捉えるべきものです。「話し手が切り取った客体世界」は当然、詞として表現されますが、「怒り」「怒る」、「判断」「判断する」、「思考」「思考する」「意志」「意志する」等、「話し手の心的態度」も一旦客体化されて概念化されれば詞となります。感情、判断、意志等を客体化することなく、直接に概念化したのが辞です。これを区分することなく(できずに)、「モダリティ」「命題」と名付け立体的な構造を平面化してしまっているのが判ります。当然、主観の概念も曖昧になってしまいます。

 英語のような屈折語では動詞の場合、時制/人称/動的属性という主体的表現と客体的表現が一語となり、日本語の句に当たります。この一語に複数の概念が一体化されているという矛盾とその相対的独立が正しく捉えられないところに、「命題」「モダリティ」概念が生まれ、現象的・形式的・機能的な解釈がなされることになります。

 しかし、膠着語である日本語は一語が単純な概念しか表さず、これを粘着して文を構成していることはこれまで論じてきた通りです。このような安易な発想の根底には言語を実体的、構成的にしか捉えられないソシュールの、言語規範をラングとする誤りがあることもこれまで論じたところです。このため、言語とはパロールである表現であることを理解できず、屈折語の概念を膠着語である日本語に適用し語の意義と文での意味も区分出来ないまま錯綜した論理を展開しているのが本論考であるのが理解いただけると思います。三浦つとむが時枝の『国語学原論』を言語学の「コペルニクス的転換」と評価した意義がここにあります。
 
 この様な発想に基づく、統語論もまた錯綜したものになる他ありませんが次にいくつかの事例を見ることにしましょう。■
  
Posted by mc1521 at 23:03Comments(0)TrackBack(0)文法

2017年03月27日

助動詞「だ」について(27)

                                        杉村泰「ヨウダとソウダの主観性」
                     〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
  「そう」の捉え方[2]
 「ヨウダ」と「ソウダ」の主観性の違いについて、次に「が/の」交替テストが論じられています。「が/の」交替というのは、機能主義者である三上章が『現代語法序説』で<形式名詞>「の」と<格助詞>「の」の相違を認識論的に明かにすることができず、「の」を「が」に変えられるか否かで、その名詞の度合いを判定し、「名詞くずれ」という誤った概念を提起した特有な機能条件です。
 ここでは、その「名詞くずれ」により「そうだ」の主観性を判定しようという三上の機能主義を引き継いだ機能判定がなされます。もともと、「ヨウダ」と「ソウダ」の違いを論理的に説明、解明できないためにモダリティ―論を持ち出し主観性の差異に帰着させようとすること自体が形式主義、機能主義的言語論の限界なのですが、さらに屋上屋を重ねる結果にしかならないのは致し方ないところです。
 この交替テストのため、「の」の後ろに名詞性成分「予感(がする)」を補った次の文が提示されます。

   (48)a. 今年のクリスマスは雪が降りソウナ予感がする。
      b. 今年のクリスマスは雪の降りソウナ予感がする。
   (49)a. 今年のクリスマスは雪が降るヨウナ予感がする。
      b.?今年のクリスマスは雪の降るヨウナ予感がする。
そして、
 ここで注目したいのは、(49b)は依然(49a)に比べて許容度が落ちるということである。この文法性の差は「ソウダ」と「ヨウダ」の主観性の違いに基づくと考えられる。すなわち、「ソウダ」は命題表現であるため容易に従属節の中に入るのに対し、「ヨウダ」はモダリティ成分であるためそれが困難なのである。一方、(49a)が適格となるのは、「今年のクリスマスは雪が降る」が主節として機能し、「ヨウナ予感がする」はそれ全体でモダリティ表現となっているためであると考えられる。
としています。ここでは、<格助詞>「が」と「の」の相違を論理的に解明することができず、許容度や主観性の相違などという曖昧な概念をもて遊ぶしかなくなっています。「雪が降る」は<格助詞>「が」が対象の個別性の認識を表現し「雪」が<動詞>「降る」の動作主体として表現されているので、「雪が降る」という具体的な事態が認識され、「ヨウ」が推量を表し、判断辞「ナ」でその事態を肯定し、それを「予感」の内容として理解されます。
 しかし「雪の降るヨウナ」とした場合には二つの解釈ができ、どちらもあまり適切な表現ではなくなるため、「許容度が落ちる」ことになります。<格助詞>「の」は名詞と名詞の関連を表現する語です。ここでは、《「雪」の降る「様(ヨウ)」》か《「雪」の「降るヨウナ予感」》となります。《「雪」の降るヨウ(様)》の場合これが「予感」の内容となりますが、「雪の降るヨウ(様)」≠「予感」であり、この場合は「雪の降る日のヨウナ予感」としないと文法的、論理的に繋がりません。他方、《「雪」の「降るような予感」》と解釈すれば、文法的、論理的には正しい表現となりますが、不自然な区切りとなります。
 つまり、《この文法性の差は「ソウダ」と「ヨウダ」の主観性の違いに基づく》わけでも何でもないということです。単に、機械的に「が」と「の」を入れ替える《「が/の」交替テスト》という形式主義的な発想そのもが誤りであり、それに依拠してモダリティ―論を持ち出し主観性の差異を判定しようとすること自体が誤りということになります。次に、時制との関わりが論じられます。
 次に時制との関わりの違いについて論じる。(50)(51)において時の副詞の係り先を比較すると、「ヨウダ」と「ソウダ」では違いが見られる。
  (50) a.昨日は雨が降ったヨウダ。
        b.現在雨が降っているヨウダ。
           c.明日は雨が降るヨウダ。
  (51) a.昨日は雨が降りソウダッタ。
        b.現在雨が降っていソウダ。
       c.明日は雨が降りソウダ。
(50)の場合、時の副詞は「雨が降る」の部分と関わっており、「ヨウダ」とは関わっていない。そのため「*昨日は雨が降るヨウダッタ」は非文となる。一方、(51)の場合、時の副詞は「雨が降りソウダ」全体と関わっており、「ソウダ」の時制に影響を与えている。こうした事実からも、「ヨウダ」が命題の時制とは独立に機能するモダリティ表現であるのに対し、「ソウダ」は命題の時制の中に含み込まれた命題表現であることが証明される。
 ここで時の<副詞>といわれているのは「昨日」ですが、<副詞>とは「花がハラハラと散る。」や「とても美味しいお菓子だった。」のように、<動詞>「散る」や<形容詞>「美味しい」に添えて属性の立体的な内容を表現する語であり、「昨日」は<副詞>ではありません。用言と関係があるから<副詞>だという形式主義的な分類の誤りです。さらに、「時の副詞の係り先」などというのは語が「係る」機能を持つという機能的な見方でしかありません。語の意義という本質をとらえられない、形式的、機能的な言語観の欠陥がここにも露呈しています。
 「昨日」は話者の居る「今日」との関係を表す<関係詞>いわゆる<代名詞>か、この関係を実体的にとらえた<名詞>です。≪「*昨日は雨が降るヨウダッタ」は非文≫と感じるのは、《時の副詞は「雨が降る」の部分と関わっており、「ヨウダ」とは関わっていない。》からではありません。「非文」などという曖昧な概念で感覚的な正非を唱えてもなんら説明にはなりません。
 「昨日は雨が降るヨウナ気配だった。」と比況の意味で使用すれば正しい文です。ここでは、「雨が降る」は<動詞>の連用形です。しかし、「昨日は雨が降るヨウだった。」は推量の意味にとるしかありません。この場合、最初の「昨日」という関係表現により、話者は昨日という過去に観念的に移動し、現在として対峙し「雨が降る」と断定した後に更に「ヨウ」と推量するため論理的な不整合を感じことになります。「c」の「明日は雨が降るヨウダ。」は、話者は観念的に明日という未来に観念的に移動し「雨が降る」と判断し、その後現在に戻り、「ヨウダ」と推定しています。これは、ごく普通の未来形でしかありません。
 「(50) a.昨日は雨が降ったヨウダ。」の場合は話者が現在の立場から何らかの徴候により、昨日の「雨が降る」という事態を追想している文で、これも通常の表現です。この場合、話者は「昨日」で過去に対峙し、「雨が降る」と判断した後に、現在に戻り「た」と追想しています。形式主義では、このような話者の観念的な自己分裂という認識の運動を理解できず、時制の本質を解明できません。
 「非文」という曖昧なプラグマティックな用語で機能的な解釈をするしかなくなります。結局、ソシュール的な言語実体観、煉瓦的構成観が根底にある誤りで、そこから生まれた、命題やモダリティーという屈折語文法の用語を借り、膠着語である日本語を解釈しようとする誤りでしかないことが判ります。■
  
Posted by mc1521 at 10:56Comments(0)TrackBack(0)文法

2017年03月16日

助動詞「だ」について(26)

                                        杉村泰「ヨウダとソウダの主観性」
                             〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
 「そう」の捉え方 [1] 
 
 <代名詞>「ソ」+意志・推量・勧誘の<助動詞>「ウ」の使用方法をみてみましょう。
 良く使うのは応答の時で、「はい、そうです。」と答えます。このときの「そ」は相手の質問自体を指し、それに対して意志、つまり同意の意を述べています。これは、一般には<副詞>とされていますが、「なるほど、そうだ。」「そうしよう。」「そうか!」等、用言に続く形式をとらえ<副詞>と名付けた形式的なものです。これらは、全て相手の発現を<代名詞>「ソ」と捉えたものです。
 次は、「美味しそう。」「今にも食べそう。」等の<形容詞>の語幹、<動詞>の連用形に接続する使用法で、時枝が<接尾語>としたものです。これは、「美味しそうだ。」「今にも食べそうだ。」と、判断辞「だ」が付加され、話者の確信が示されます。例文に挙げられている、
  (36) やさしそうな表情は女たちの流行。(中島みゆき『誘惑』)
  (37) 崩れそうな強がりは男たちの流行。(中島みゆき『誘惑』)
  (38) 人々はみな髪を光にすかして幸福そうにすれ違ってゆく。(吉本ばなな『ムー ンライト・シャ
      ドウ』)
  (39) 夫は煙草をくわえて煙を吐き、目をけむたそうにしかめた。(松本清張『ゼロ の焦点』)
等、この論考で連用形について「兆候や様相の現れ」を表すものと呼んでいるものです。この場合、<代名詞>「ソ」で指定しているのは、<形容詞>の語幹、<動詞>の連用形が意味している属性そのものです。そして、それに対してその属性を断定する根拠をもたないため推量の<助動詞>「ウ」を続けて、更に判断辞の連体形「な」や<格助詞<「に」を続け比況の意味を表しています。これに対し、
  (43) これで横綱への夢もどうやら実現しそうです。(総合「大相撲夏場所千秋楽」1999.5.23)
  (44) 私はびっくりして目を見開いてしまった。かなり歳は上そうだったが、その人は本当に美しかった。
      (吉本ばなな『キッチン』)
  (45)「教習所ここにしようかと思って家からも近いし設備もよさそうだし」(臼井儀人『クレヨンしんちゃん④』)
では推量の<助動詞>「ウ」の後に肯定判断の<助動詞>「だ」「です」が続き「推定」を強調しています。
 さらに、「雨が降るそうだ。」「これは貴重な写真だそうだ。」のような、終止形に続く場合は、<代名詞>「ソ」が指定しているのは「雨が降る」「これは貴重な写真だ」という、句そのものです。時枝の入れ子型で示せば、[雨が降るそう]だ。]と、前の属性表現の<動詞><形容詞>そのものではなく、句全体を「そ」で指定しています。この場合は比況/推量ではなく、伝聞になります。この時、「雨が降る」と言っているのは話者から自己分裂した観念的自己で、そう言った人になり変っています。そして、「そ」と言う時に現実の自己に戻り、<助動詞>「う」で当然・適当の意を表しているわけです。比況の表現の場合にはこのような観念的な自己分裂は発生していません。この時の<助動詞>「ウ」は「はい、そうです。」と同じように意志、同定の意義で使用されています。
 このように見てくれば、「そう」が表現する「意義」が「う」の多義に対応し一貫していることが明かになります。
そして、杉村論稿の次の記述が明かに誤りであることが判ります。一つは、
本研究では、「ソウダ」は前接する動詞や形容詞と一体となって、それ全体で一つの形容動詞として機能すると考える。
と言うところです。「前接する動詞や形容詞と一体となって」というのは、「そ」が属性を捉えるために<形容詞>の語幹、<動詞>の連用形に続いていることを指していますが、「それ全体で一つの形容動詞として機能する」というのは、全く意味不明です。これは、「そうな」「そうだ」の「な」「だ」を「そうだ」の活用と捉え、活用の形式から判断しているに過ぎません。そもそも<形容動詞>の「機能」とは何であるのかを明確にし、それを生む「本質」を明かにしなければなりませんが、それはなされておらず、しょせん無理というしかありません。さらに、続けて、
 「ソウダ」は兆候や様相の現れを表す形容動詞であり、決して推量表現ではない。その証拠に、単に眼前の様相を述べる文では推量の意味が入らない。……
 推量の意味が感じられるのは、未実現・未確認の事態を推測する文脈である。
(43) これで横綱への夢もどうやら実現しそうです。(総合「大相撲夏場所千秋楽」1999.5.23)
(44) 私はびっくりして目を見開いてしまった。かなり歳は上そうだったが、その人は本当に美しかった。(吉本ばなな『キッチン』)
(45)「教習所ここにしようかと思って 家からも近いし設備もよさそうだし」(臼井儀人『クレヨンしんちゃん④』)
しかし、この場合にも「ソウダ」自体は兆候や様相の現れを表すのみで、推量の意味は「横綱が実現しソウ(に思われる)」、「年が上ソウ(に見える)」、「設備がよさソウ(に思う)」のように表現上隠された部分が担っていると考えられる。その証拠に、これらの「ソウダ」は「実現しそうな横綱の夢」、「年が上そうな女」、「設備がよさそうな教習所」のように連体修飾成分になる。
 ここでは、推量の意味を担うのは、《「横綱が実現しソウ(に思われる)」、「年が上ソウ(に見える)」、「設備がよさソウ(に思う)」のように表現上隠された部分》とされてしまいます。これは、牽強付会としかいいようがありません。明かに、論理的破綻を示しています。そして、《これらの「ソウダ」は、……連体修飾成分になる。》といってみたところで、単に言い替えでしかなく何の論証にもなっていません。「推量」という主体的表現を隠された、「見える」や「思う」という客体的表現に担わせることなど全く論理性を欠いています。
 ここには、現代日本語学が意味と意義の相違を理解出来ない欠陥、その根底にはソシュールのラングを言語とする根本的錯誤が露呈しているのが明かです。その結果、品詞分類の根拠を示すこともできず、肯定判断の<助動詞>「だ」を形式的にとらえ、形容動詞という品詞を唱え、「だ」を活用と見做す混乱に陥るしかありません。
 形式主義、機能主義的な言語観の欠陥が露わです。■
  
Posted by mc1521 at 11:59Comments(0)TrackBack(0)文法

2017年03月05日

助動詞「だ」について(25)

                                                     杉村泰「ヨウダとソウダの主観性」                                            〔『名古屋大学言語文化論集』第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕

   <助動詞>「だ」の捉え方(12)

 本ブログを諸般の事情から丸一年間以上お休みをいただきましたが、再開させていただきたいと思います。
 休止した理由の一つに、判断辞「だ」が助動詞であるのはこれまで論じてきたように問題ないのですが、ここで扱っている「ヨウ」と「ソウ」の本質的な相違がどこにあるのか、特に「ソウ」をどのように捉えれば良いのか今一不明な点がありました。これを明かにしないと、杉村稿が注で、

1)「ヨウダ」には「比況」、「推量判断」、「例示」、「婉曲」などの用法があるが、特に断わらない限り、本研究では「推量判断」の場合を指すことにする。
2)「ソウダ」には「雨が降りソウダ」のように連用形について「兆候や様相の現れ」を表すものと、「雨が降るソウダ」のように終止形について「伝聞」を表すものとがある。このうち本研究では「兆候や様相の現れ」を表す「ソウダ」について考察する。
と記していることの妥当性がはっきりしません。恣意的に都合の良い所だけを論じているのか、全く別の意義と考え論じて良いのか、この中だけでは判断できません。その点を明かにすることにより、論考の誤りも明確になるのではと思われます。この点が、ほぼ明らかになったので以下論じてみたいと思います。
 杉村稿では、
 推量判断の「ヨウダ」がモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」は命題として機能することが明らかとなった。ただし、厳密には「ソウ」の部分と「ダ」の部分では主観性に違いが見られる。
と結論しているわけですが、「ヨウ」と「ソウ」の本質が明確にできないため機能を論じ、<「ソウダ」は命題として機能する>と意味不明なことを述べているわけです。「ヨウダ」ではなく、「ヨウ」が推量であることをこれまで論じてきたところです。そして、「ソウ」は結論からいえば<代名詞>「ソ」+意志・推量・勧誘の<助動詞>「ウ」です。「ソウダ」は、この「ソウ」+断定の<助動詞>の終止形「だ」です。現在、辞書や国語文法では「ソウダ」一語で<助動詞>とし、注2)に記しているように、様態と伝聞に区分しており、この論考では、様態だけを扱っているわけです。これでは、様態と伝聞の関連が不明になってしまいますが、これは語の意義と句、文の意味との相違、関連が捉えられない現代日本語文法の欠陥であり、このため、「ヨウダ」「ソウダ」を一語の助動詞として扱い、本稿の結論、
 5.まとめ
 以上の考察の結果、推量判断の「ヨウダ」がモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」は命題として機能することが明らかとなった。ただし、厳密には「ソウ」の部分と「ダ」の部分では主観性に違いが見られる。このことを「雨が降りソウダ」を例に説明しよう。「雨が降りソウダ」を「雨が降りソウナ気配ダ」に置き換えた場合、「ソウ(ナ)」の部分は客観的な連体修飾成分となり、「ダ」の部分は話し手の確言的な判断を表す。したがって、「ソウ」の部分は命題として機能し、「ダ」の部分はモダリティとして機能することになる。
となります。機能を比較し、良く分からない結論を導く結果になります。これでは、伝聞との関係はどうなのかは明らかになりません。「ソウダ」では、なく「ソウ」の意義が何なのかを解明しなければなりません。これは「ヨウ」も同様で、これまで論じたところです。三浦は、<時枝文法では「そう」も<接尾語>に入れているが正当な扱いかたである。>と述べています。現在の慣用として、<助動詞>ではなく、<接尾語>とするのは理解できますが、こうしてしまうと様態と伝聞の関係は良く分らなくなってしまいます。
 (21)で記したように、「日本語の膠着語が裸体的に単純な概念を表し、これらを粘着的に連結していくのだという本質」から考えれば、「ソウ」も<代名詞>「ソ」+助動詞意志・推量・勧誘の<助動詞>「ウ」であることが判ります。この「ウ」は、金田一晴彦が「不変化助動詞の本質」[国語国文 22(3), 149-169, 1953-03 ]で文末にしか使用されない辞としての助動詞としたものです。この関連は後に述べるとして、「ソウ」の様態と伝聞の関係を次に見てみましょう。■

  
Posted by mc1521 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年12月31日

助動詞「だ」について(24)

〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(11)

 これまでの検討に基づき、論文「ヨウダとソウダの主観性」の論理性を見てみましょう。

 題名が示しているように「ヨウダ」と「ソウダ」を各1語とし、その主観性の相違を明らかにしようとしています。そして、註に記されている通り「ヨウダ」の推量判断の用法と「ソウダ」の「兆候や様相の現れ」の用法が比較されています。本来は両者の各々の意義と品詞について明かにすべきと考えますが、ここではモダリティ論により主観性の検討がされているためにこのような扱いとなっています。 そして<助動詞「だ」について(17>で見たように次のように結論されます。

 しかし、「ソウ」と「ベキ」は客観的な命題として機能していると考えたほうがよい。その証拠に「ニチガイナイ」と「ヨウ」が疑問の対象とならないのに対し、「ソウ」と「ベキ」は疑問の対象となる。疑問の対象となるということは、「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表していることを示している。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

   b.*[太郎が来るヨウ]かどうかを考える。

   c. [太郎が来ソウ]かどうかを考える。  

   d.  [太郎が来るベキ]かどうかを考える。

 こうした事実により、「ニチガイナイ」と「ヨウダ」がそれ全体でモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」と「ベキダ」は「ダ」の部分のみモダリティとして機能し、「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能することが明らかとなる。

ここでは、語の意義ではなく句の機能が論じられているため≪「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表している≫とされますが、その本質が明確ではありません。これまでの検討からすれば、「ダ」はいずれも肯定判断を表す<指定の助動詞>と捉えられねばなりません。「ヨウダ」の推量判断の用法と「ソウダ」の「兆候や様相の現れ」の用法に主観性の差異があること自体は確かですが、それは「ヨウ」「ソウ」という形式と意義の組み合わせの相違として、その言語規範としての内容が明らかにされねばなりません。上記例文でも「ヨウか」「ソウか」と活用ではなく、「ヨウ」「ソウ」に助詞が接続しており、2語となっています。日本語の膠着語としての本質が理解されていないと言えます。

 これは、依拠した主観的モダリティ論の欠陥と考えられます。言語道具説である記述文法では文の本質を明らかにすることなく、文を形式的に次の平面的な構造に単純化し、

    【〔〔命 題〕 命題態度のモダリティ〕 発話態度のモダリティ】

           図3 文の構造

一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる

とするしかなく、言語の実体論的捉え方の限界を示していると言えます。

 命題とは論理学の用語であり、「AはBである。」という真偽が対象となる特殊な文の形式を指しています。その論理学自体、現在まで文とは何か、意味とは何かが明かに出来ず問題となっています。この命題を文の定義に形式的に取り込むのは単に論理の混乱を招くしかありません。この論文では、最初に指摘した通り、≪[[[雨]だ]よ]。≫という文に対し、≪これらは「雨(である)コト」という事態に対して、話し手が確言(「だ」)の判断を下したもの≫で、≪発話態度のモダリティに相当するのは「よ」の部分≫とし、≪「雨だ」、という判断を、話し手から聞き手への情報提供(「よ」)として伝える機能がある≫としています。そして、≪これらの表現は、話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能するのである。≫と論じています。

 しかし、名詞「雨」は規範としての実体概念であるに過ぎず、これを文から分離して≪「雨(である)コト」という事態≫とすることはできません。こうなるのは、文を命題とモダリティに二分し、「雨」を命題とし、「だ」「よ」をモダリティとした論理的必然です。事実は、「雨」という客体的表現と「だ」という主体的表現が話者の認識に基づいて組み合わされ、表現されて初めて「雨だ。」という文、命題となります。「雨!」という一語文の場合もありますが、この場合は「雨■!」と判断辞が零記号となっています。言語道具説では話者の認識の言語規範を媒介とした表現という言語表現の立体的構造を捉えることが出来ずこのような矛盾をかかえこむこととなります。

 これが明白に露呈しているのは、3.2の次の部分です。

 一方、(23b)に示されるように、推量判断の「ヨウダ」は一般に連体修飾成分とはならない。しかし、次のような場合には連体修飾成分となるので注意が必要である。

(24) 禎子は、本多良雄が夫について、もっと何か知っているような直感がした。(松本清張『ゼロの焦点』)

(25)「いや、つまらんところです。年じゅう、暗いような感じがして重苦しい所で」(松本清張『ゼロの焦点』)

(26) もっとも、その直後に数百年に一度の大震災が襲ってきたというのは、あまりにも偶然がすぎるような気もするが。(貴志祐介『十三番目の人格-ISOLA-』)

(27) 今年のクリスマスは雪が降るヨウナ予感がする。

これらに共通するのは、「ヨウダ」の後に「直感/感じ/気/予感」という話し手の直感的な感覚を表す表現が続く点である。この「ヨウダ」は、(24)のように第三者の心的態度を表したり、(25)のように連体修飾成分となる場合には、客観的表現であることが明確である。しかし、(26)の「気がする」や(27)の「予感がする」のように、「発話時における話し手の心的態度」を表す場合には、「~ヨウナ直感がする/感じがする/気がする/予感がする」全体がモダリティとして機能する。推量判断の「ヨウダ」は、こうした表現が短縮されて「ヨウダ」一語で表されるようになったものであると考えられる。(強調は引用者)

 連体修飾成分という捉え方自体が形式主義にすぎませんが、これまでみてきたように「ヨウダ」が一語で推量判断を表すのではなく、「ヨウ」が推量判断を表し、「だ」は「ヨウ」によって推量されるその内容を肯定判断しています。これらの例文では「だ」は「な」と連体形に活用し、続く「直感/感じ/気/予感」という名詞の内容を表しています。時枝のいう入れ子形の立体的表現であり、≪こうした表現が短縮されて「ヨウダ」一語で表されるようになったもの≫などというのは正しい文の構造の解明ではありません。また、「ヨウ思われる」、「ヨウよ。」などと助詞や終助詞に接続する場合もあり、推量を表しているのは「ヨウ」なのです。

 このように、主観的という感覚的な捉え方を屈折語言語論の発想による主観的モダリティ論によって論証しようとしても日本語の膠着語としての本質を論理的に解明することはできません。■

  
Posted by mc1521 at 14:19Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年12月24日

助動詞「だ」について(23)

   杉村泰「ヨウダとソウダの主観性
〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕

      <助動詞>「だ」の捉え方(10)

  時枝が「そこには明かに陳述性が認められる」とする<助動詞>「だ」の連用形「と」と「に」を検討しましょう。次の用例が掲げられています。

  月明か、風涼し。(中止の場合、文語だけに用ゐられる)

  元気、愉快、働いてゐる。(連用修飾的陳述を表す)

  隊伍整然行進する。(連用修飾的陳述を表す)

  花が雪散ってゐる。(右に同じ)

  「今日は行かない」云ってゐた。(右に同じ)

  野なく、山なくかけまはる。

 これについても、先の三浦つとむ『日本語の文法』の「第八章 <助動詞>の特徴をめぐる諸問題」の「二 時枝文法の<助動詞>論の特徴と問題点」で論じられています。時枝の活用に対する理解の誤りを指摘していますので以下に当該部分を引用します。

 まず、「明か」「元気」「整然」などの語は属性表現ではあるが活用をもたないから、そのままでは文の終止に使えないわけであり、それゆえ<助詞>+<助動詞>と重ねた「に」「あり」→「なり」や「と」「あり」→「たり」を加え、「明かなり」「元気なり」「整然たり」と表現して来たことは周知のとおりである。この場合も、「に」「と」は依然<助動詞>であって、その下に重ねられる<助動詞>が零記号化しているもの、たとえば「月明か(して)、風涼し。」「元気て)、愉快て)、働いてゐる。」「隊伍整然て)行進する。」のような省略があって、<形式動詞>から転成した<助動詞>「し」が表現されずにあるもの、と受けとるのが妥当である。「に」「と」それ自体が判断を示すのではなくて、その下に零記号の判断辞が存在するのである。註の中では、「一つして上手に出来たものがない。」という例を上げているが、これこそ「と」ではなく下の「し」のほうが判断の表現である。つぎに「花が雪散ってゐる。」は、文字どおりに受けとってはならないところに注意しなければならない。「雪」は比喩であって、散りかたをそのまま<情態副詞>で表現するなら、「花がサラサラ散ってゐる。」のようになろう。属性の立体的な表現であって、「雪」の実体は直接の関係を持たず、雪の属性をダブルイメージにして花の散りかたを想像させているのである。それゆえ「雪」は「サラサラ」と同様に<格助詞>以外の何ものでもない。「雪」を<名詞>として文字どおりに受けとると、その下に判断が存在してそれが「と」であるかのような錯覚が生まれる。

  野なく、山なくかけまはる。

 ここでの「ない」は<打ち消しの助動詞>であるから、さきにも述べたように肯定判断の<助動詞>に伴って使われるべきものである。その肯定判断が「あらず」のように表現されないで、零記号になっているために、「と」それ自体が肯定判断であるかのように錯覚するのである。

 ここでの註に、谷崎潤一郎の『細雪』が、「……と思ってゐた。、ちょうどその時分、……」のかたちで「と」を使っているのを、やはり<助動詞>の例にあげているけれども、久保田万太郎の『春泥』や『市井人』が節の変わり目のところで、

  、立てるものは立て、押へるものは押へる由良の律儀さは以前とすこしもかはらなかった。
      ―――――――――――
  、その年もいよゝゝ終わろうといふ十二月の末になって、突然、萍人から、切手をペタゝゝ
貼った、厚い、カナ

  リの重みをもつた封書が速達でとゞきました。

のように表現していることも、考えてみる必要がある。これらは、すべて前の文ないし前の節の文と、後の文ないしこの節の文との思想と思想とを結合するために使われる語であって、<接続助詞>にほかならない。通常の表現では、「が」の場合には前の文の思想を判断辞の「だ」で受けとめて「が」のかたちで使うし、「と」の場合にも前の文の思想を<形式動詞>から転成した判断辞「する」で受けとめて「すると」の形で使っている。『細雪』の場合は、この判断辞が省略されているから、時枝は「と」それ自体が判断を表現したものと錯覚したのであろう。

  「今日は行かない」云ってゐた。

の場合には、表現それ自体を単に一つの対象として扱って、云ったことばを忠実に示すものである。別のいいかたをすれば、音声それ自体の複写としての括弧内のことばである。それゆえ本質的には「ブクブク沈んでいった。」のような、<擬声語>に加えられる「と」と同じであって、山田もいうように<格助詞>である。

 <助動詞>には語形変化すなわち活用が存在するが、これも<動詞>の活用と同様に、それに結びつく語のいかんによって決定されるもので、内容と関係のない形式だけの変化である。けれども時枝は<動詞>の活用を判断辞の機能に相当するものと解釈しているので<助動詞>の活用だけを異質なものとして扱うわけにはいかなかった。「助動詞は、話手の立場の中、何等かの陳述を表現するものであり、そのことのために、助動詞は、多くの場合に活用を持つことになるのである。」と、結びつく語との関係ではなく<助動詞>それ自体の判断表現の内容から生まれたものであるかのように、こじつけたのである。

これで、<助動詞>「だ」の活用も明確になりましたので、この点も含め杉村論文の論理性を見直してみましょう。■

  
Posted by mc1521 at 11:33Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年12月19日

助動詞「だ」について(22)

             杉村泰「ヨウダとソウダの主観性

〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
   <助動詞>「だ」の捉え方(9)

 前回は国語文法(学校文法)の<助動詞>「だ」の活用を見ましたが、言語過程説を唱えた時枝誠記の「だ」の活用を見てみましょう。『日本文法 口語篇』(岩波全書,初版1950,改版1978)の「四  辞」の助動詞に「(一)指定の助動詞 だ」として次の表が掲げられ説明されています。

   

 語\活用形 

  未然形

 連用形

終止形

 連體形

假定形

命令形

  だ

  で

 と  に  で

  だ

 の  

  なら

  ○


  
  
   
     
  指定の助動詞は、話手の單純な肯定判断を表す語である。この中に、「に」と「と」「の」は、従来助詞として取扱われてゐたものであるが、下に舉げる例によって知られるように、そこには明かに陳述性が認められるので、これを助動詞と認めるのが正しいであろう。また、右の表に掲げた各活用形は、その起源に於いては、それぞれ異なった體系に屬する語であったであろうが、今日に於いては一つの体系として用ゐられるやうになったものである。本書に於いては、形容動詞を立てないから、従来形容動詞の語尾と考えられてゐた「だら」「だつ」「で」「に」「だ」「な」「なら」は、そのまま、或いは分析されて、すべて右の活用形に所屬させることが出来る。

 形容動詞についての説明は、これまで説いてきたところですが他にも相違があります。この相違について検討しておきましょう。未然形の「で」については、「であろう」の結合した「だろう」を別に推量の助動詞として取扱っているため<動詞>未然形の「ない」に接続する「で」を挙げています。問題は連用形の「と、に」と連體形の「の」です。

まず連體形の「の」ですが、杉村論文では、「推量判断の「ヨウダ」は一般に連体修飾成分とはならない。しかし、次のような場合には連体修飾成分となるので注意が必要である。」として、「(24) 禎子は、本多良雄が夫について、もっと何か知っているような直感がした。(松本清張『ゼロの焦点』)」他の例文を挙げています。ここでは、「ヨウダ」の活用として扱われているわけですが、この「な」と「の」を同列に扱っていることになります。通説では「の」は<格助詞>です。時枝は例文、「僅か御禮しか出來ない。」を記し、次のように注しています。

「な」「の」は屢〃共通して用ゐられるが、語によって、「な」の附く場合と「の」の附く場合とがある。「駄目の」「僅かな」とも云うことが出来るが、「突然」「焦眉」「混濁」等には「の」がつき、「親切」「孤独」「あやふや」等には、大體に「な」がつくようである。

この「の」の扱いについて吉田金彦『現代語助動詞の史的研究』(19714月初版,『吉田金彦著作選7 現代語の助動詞』所収)は次のように指摘しています。

 「の」も時枝説によって最近助動詞に入れられたもので、『日本文法口語篇』ではその連体形の所に掲げられてある(一八五頁)。しかし、助動詞「の」は問題があって『日本文法文語篇』などに至って、主語格以外の「の」をすべて指定の助動詞と拡大したことには、これが行き過ぎだという大きな批判がある。(青木玲子「問題となる助詞」『講座日本語の文法』三巻一六〇頁)。筆者も単なる接続機能的観点からのみで、主格以外のすべての「の」を指定の助動詞とすることには問題があると思う。所有・所属の意味を表すものが助詞であり、属性・指定の意味を表すものは助動詞である(拙稿「現代文における『の』の意味・用法」『月刊文法』19709月)

 このように国文学者からは批判されています。ここで言われている、「属性・指定の意味を表すものは助動詞」というのも誤りなのですが。三浦つとむ『日本語の文法』は、「第四章 単語の活動状態としての<名詞>への転成―<転成体言>の問題」の「三 時枝文法の「の」<助動詞>説の吟味」で青木玲子の否定論を取り上げ、「私の結論もやはり否定論であるが、ここにはただ否定するだけではすまない問題がふくまれていて、時枝が<体言>や<用言>の内容の特殊性に立ち入ることをしないで形式的に扱っていることや、<転成体言>の問題を積極的にとりあげようとしないこととの結びつきを考えなければならない。」として検討しています。そして、上の時枝の注について次のように誤りを結論しています。

  いま引用した、「な」と「の」の使い方についての時枝の説明を、この観点(<用言>から<体言>への転成は、<用言>の活用の形式いかんと直接の関係をもっていない:引用者注)から説明してみると、同じ「親切」という語でも、「親切友人」という場合には属性表現の語であろうが、「親切押し売り」という場合には属性を実体的にとらえた表現ではなかろうか、と思われてくる。「僅か光がさした。」という場合には<副詞>で属性表現の語であろうが、「僅かお礼しか出来ない。」という場合には属性を実体的にとらえた<名詞>ではなかろうかと思われてくる。それならここでの「の」も<助動詞>ではなく、<格助詞>である

 このように話者の認識をもとに慎重に語性を検討しないと、特に助動詞では論理を踏み外し易いのです。連用形の「と、に」についても検討してみましょう。■

  
Posted by mc1521 at 23:51Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年12月13日

助動詞「だ」について(21)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
  <助動詞>「だ」の捉え方(8

 これまで見てきたように、肯定判断の<助動詞>「だ」の本質を正しく理解することが重要なのですが、「だ」の活用が学校文法でどのように捉えられているのかを見ましょう。次のようになっています。

   未然形  連用形   終止形  連体形   仮定形

   だろ   だっ・で              (な)           なら

となっています。この「な」「なら」は前回指摘したように、「にあり」が「なり」となり、「なる」から「な」となったもので、「にてあり」→「であり」→「であ(じゃ)」→だ

                   → 「である」

の変化から「だ」となったのと転成の系列が異なりますが共に判断の<助動詞>となっています。活用をもたない「綺麗」「荘厳」等の詳細な属性を表す漢語を「綺麗な」「荘厳な」と日本語に形容詞として取り込むために「な」が使われたのです。これを助動詞の<活用>ではなく、属性表現の漢語自体の活用と見なすところに<形容動詞>という誤った品詞が生みだされました。このことは、膠着語である日本語が裸体的に単純な概念を表し、これらを粘着的に連結していくのだという本質の理解を誤っています。

「綺麗ならば」という連帯形「なら」が方言では「だば」と使用されるのも理にかなっていることが分かります。そして、「ような」「そうな」という使用法からも「よう」「そう」が一語であることを示しています。

この事実を、国語学者はどのように理解しているのでしょうか。一例として、『北原保雄の日本語セミナー』(大修館書店、2006810)を覗いてみます。

Q8「だろう」は連語か助動詞か?という次のような質問が掲げられています。

  明日は晴れるだろう

の「だろう」は一語の助動詞と見るべきものでしょうか。それとも「だろ」に「う」がついたものとみるべきでしょうか。ご教示ください。

 これに対し著者は次のように答えています。

 A:お尋ねのように、「だろう」については、これを一語の助動詞と見る考えと、断定の助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」の下接した連語とみる考えとがあります。「だろう」には例にあげられた、

 (1)明日は晴れるだろう

のように動詞に下接するもののほか、

 (2)北国の冬は寒いだろう

のように、形容詞に下接するもの、

 (3)彼はまだ学生だろう

 (4)それはまたどうしてだろう

などのように、名詞や副詞に下接するものもあります。また、

 (5)海は静かだろう

のように、形容動詞の未然形に推量の助動詞「う」の下接した「だろう」も同じ意味を表します。

 断定の助動詞「だ」は、

 (6)彼はまだ学生

 (7)それはまたどうして

などのように、名詞や副詞などに下接します。ですから、(3)や(4)の「だろう」は、断定の助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」が下接したものと見ることができます。

 しかし、一方、断定の助動詞「だ」は、動詞や形容詞には下接することができません。

 (8)明日は晴れる

 (9)北国の冬は寒い

などとは、少なくとも共通語では言えません。つまり、動詞や形容詞には、「だ」は下接することはできませんが、「だろう」は下接することができるのです。ですから、(1)や(2)の「だろう」は、断定の助動詞「だ」の未然形とは簡単に言えません。接続の仕方という点を重視すれば、動詞や形容詞に下接する「だろう」は、(もともとは「だろ」+「う」ではありますが)、「だ」とは違った接続の仕方をするのですから、一語の助動詞だとする見方にも十分理があります。

 「ヨウダとソウダの主観性」の論者はこの国文法の誤りを無批判に受け継ぎ、さらに生成文法の非文という主観的、プラグマテイックな判定法を取り入れ論を展開しているのが明らかです。

 ここでは、

明日は晴れます。  北国の冬は寒いです

と敬辞化すれば、断定の助動詞の丁寧形が現れ、推量の場合も

  明日は晴れるしょう。  北国の春は寒いしょう。

と 明日は晴れる■。   北国の冬は寒い■。

と肯定判断が零記号となることが規範化している、つまり文法化していることが理解されていません。このような論理性を無視し、「やはり文法では形式を重視すべきではないかと考えます。」と話者の認識と語の本質ではなく、形式主義的な見方で判断しています。また、形容動詞を例に挙げている誤りも先に指摘した通りです。■

  
Posted by mc1521 at 22:55Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年12月12日

助動詞「だ」について(20)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:01.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(7)

 「3.比況のヨウダと推量判断のヨウダ」の「3.1 ヨウダの用法」は次のように記しています。

    「ヨウダ」には比況、推量判断、例示、婉曲などの用法がある。

12)a.顔の色艶を見ると、この人はまるで生きているヨウダ。(比況)

    b.顔の色艶を見ると、この人はどうやら生きているヨウダ。(推量判断)

    c.たとえばピーマンのヨウナ緑黄色野菜は健康にいい。(例示)

    d.(車が来たのを見て)社長、どうやらお車が来たヨウデス。(婉曲)

ここでは「ヨウダ」が一語として扱われています。語と句、連語の区分も明らかでないままに論じられているため、本論文が混迷し、誤った主観性の差異を論ずることになっています。

これまで明らかにしてきた通り、「ヨウダ」は、「ヨウ」+<指定・断定の助動詞>「ダ」です。従って、「ヨウ」がいかなる品詞で、どのような意義を持ち、文でどのような意味を表しているのかを明らかにしなければなりません。このことは、c.が「ヨウナ」となっていることからも、論者自信が無意識のうちに「ヨウ」を一語と認識して、これに「ナ」を累加している事実からも明らかです。また、「明日は雨のよう!」や「(精巧な彫刻を見て)まるで生き物のようね!」といった使い方をします。「ヨウダ」を一語で<助動詞>としているため、学校文法(橋本文法)では形容動詞型の活用としていますが、劉論文でも指摘した通りこの形容動詞という品詞がそもそも誤りで混乱をまねく元凶となっています。また、敬辞の場合は、「ヨウデス」と、「よう」+<丁寧な断定の助動詞>「です」となり、「ヨウダ」は一語でないことが明らかです。

このように、「ヨウダ」を一語の<助動詞>とするため、比況、推量判断、例示、婉曲の用法とせざるを得なくなり、さらに「ソウダ」と比較するという混乱に陥っています。

「ヨウ」には、まず<名詞>、<抽象(形式)名詞><接尾語>があり大辞林 第三版『大辞林第三版』では<名詞>「よう」が次のように記されています。

よう【様】

①ありさま。様子。すがた。 「書きたる真名(まんな)の-,文字の,世に知らずあやしきを/枕草子 103

②決まったかたち。様式。 「人の調度のかざりとする,定まれる-あるものを/源氏 帚木」

③やり方。方法。 「ふないくさは-ある物ぞとて,鎧直垂は着給はず/平家 11

④事情。理由。わけ。 「かせぎ(=鹿)恐るる事なくして来れり。定めて-あるらん/宇治拾遺 7

⑤同様。同類。 「必ずさしも-の物と争ひ給はむもうたてあるべし/源氏 夕霧」

⑥(形式名詞的に用いて)

 ㋐発言や思考の内容。こと。「ただ押鮎の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を押鮎もし思ふ-あらむや/土左」

 ㋑発言や思考の引用を導く言葉。…こと(には)。「かぢとりの言ふ-,黒鳥のもとに白き波を寄す,とぞいふ/土左」

⑦動詞の連用形の下に付いて,複合語をつくる。

 ㋐ありさま,様子などの意を表す。 「喜び-」 「あわて-」

 ㋑しかた,方法などの意を表す。 「言い-」 「やり-」

⑧名詞の下に付いて,複合語をつくる。

 ㋐様式,型などの意を表す。 「天平-」 「唐(から)-」

 ㋑そういう形をしている,それに似ているなどの意を表す。「寒天-の物体」 「カーテン-のもの」 → ようだ ・ ようです

このように、〔よう【様】〕は本来<名詞>であり、そこから」<抽象(形式)名詞>の用法が生じています。さらに⑦⑧の用法から<動詞>に連加する接尾語となり、現在はこの用法が主要になっています。この接尾語から、さらに推量の助動詞の用法に移行したものが生まれ、多義となって使用されています。これは、「らしい」が、

「学生らしい勤勉さ。」 (属性)

「彼は学生らしい。」  (推量)

と使用されるように抽象的な内容の客体的表現である接尾語から、主体的表現である助動詞への転成が起っているのと同様な現象といえます。

この品詞区分に従い、(12)の例を見ると、a.の「まるで生きているよう」は「様子」の<名詞>から<抽象(形式)名詞>を経て<接尾語>となっているのが判ります。c.の「ピーマンのヨウナ緑黄色野菜」は属性を表す<接尾語>になっているのが判ります。そして「ピーマンのよう」に、「にあり」が「なり」→「なる」から「な」となった主体的表現の判断辞である「な」が累加されて「ピーマンのような(る)緑黄色野菜」と表現されています。ここでは比況の接尾語が表現としては例示の意味となっています。e.では全く<接尾語>になってしまっており、<用言>「来た」に接尾語として付加されています。これは、比況という接尾語の不確実性から婉曲の意味となっています。

そして、b.は推量判断の「ヨウ」で助動詞となっています。このように見てくれば、各々が品詞「ヨウ」に<助動詞>「だ」、「です」や<判断辞>「な」、<感嘆詞>「ね」他が累加されたり、終止形として使用されているのが判ります。■

  
Posted by mc1521 at 22:30Comments(0)TrackBack(0)

2015年12月09日

助動詞「だ」について(19)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕

   <助動詞>「だ」の捉え方(6)

  「2.主観性 2.1 命題とモダリティ」の最後に次のように記されています。
 ここで注意しておきたいのは、(3)で空から落ちてくる水滴を「みぞれ」や「雪」ではなく「雨」と捉えたり、(4)で雨の激しさを「相当」や「ずいぶん」ではなく「かなり」と捉えたりするのも、話し手の主観によると言えなくもないということである。しかし、これらの表現は話し手が客体世界の事態として切り取ったものであるため、本研究では客観的な成分であると考える

 ここでは「雨」や「かなり」が「話し手が客体世界の事態として切り取ったもの」で「客観的な成分」とされていますが、これは言語規範としての語の辞書的な意味、つまり語彙と話者の認識の表現としての文の中での語の意味の関連と相違が正しく理解されていないことを明かしています。

 前回も指摘した通り、「雨だよ。」の「雨」と「だ」を切り離し、「雨」を命題としてしまうのも同様の誤りです。そもそも文の本質が解明できないために、文を「命題とモダリティ」の煉瓦的な積み重ね、つまり機械的な集まりと見なすことになってしまっています。命題とは論理学での用語であり、大辞林第三版では、「〘論〙 判断を言語的に表現したもの。論理学では真偽を問いうる有意味な文をさす。また,その文が表現する意味内容をさす場合もある。」となっています。つまり、命題は文の一形態であり、特殊な文を指しています。従って、判断が表現されていなければ文でも、命題でもないことになります。

「雨!」が一語文であるのは、「雨■!」と、表現されていない肯定判断との組み合わせにより一語文となるのであり、「客観的な成分」である「雨」は言語規範としての辞書的な意味の語でしかありません。この表現されていない肯定判断が表現されたのが、「雨だよ。」の<助動詞>「だ」であり、これを「雨」と「だ」に各々分離して命題とすることはできません。ここでは、辞書的な語の語彙と文に表現された語の意味が理解できずに同一平面上に並べられています。

 このように、文の本質が理解できずに語、文と、語の意義と文の意味の関連と相違が理解されていないため、文を「命題とモダリティ」に分解するしかなくなります。これまで見てきたように、語とは何か、品詞分類の基準と定義も解明できないため、「モダリティ」自体が、語の意義であるのか、句、文での意味なのかが曖昧なまま論じられています。それ故、「22 命題とモダリティの分類基準」でも、機能的な基準が示されます。

  モダリティは発話時点における話し手の心的態度を表すため、それ自体は真偽の対象とならず、連体修飾成分にもならず、過去文の対象にもならないという性質をもつ。一方、命題にはこうした制限が加わらない。

 そして、これが「主観性判定テスト」なる正に主観的な非文か否かという基準で判断されることになります。この「主観性判定テスト」の結果、 
「雨だよ」という表現のうち「雨」の部分は命題に属し、「だ」と「よ」の部分はモダリティに属すことが確認された。

と、「雨」の部分が「命題に属し」ているとして「雨」と「だ」が機械的に分離されることになります。先にも見たように、「雨だ。」は客体的表現である「雨」と主体的表現である「だ」が話者の認識により累加されて表現されたところに成立するのであり、命題とモダリティとは次元を異にしています。

これまで、論じてきたように「だ」は、主体的表現の肯定判断を表す単語であり、語のもっとも基本的な区分はこの主体的表現と客体的表現にあるのですから、モダリティ(法性)は主体的表現の語について論じられなければならないことになります。というより、語の本質的な区分が出来ないために「主観表現論的モダリティ論」と呼ばれる中途半端な概念が提起されることになったと言えます。そして、「(9) 雨だろうか。」についても次のような解釈が示されます。

 しかし、この表現で疑問の対象となっているのは、「~だろう」の部分ではなく「雨」の部分である。その証拠に「雨」と「雪」を対比した文は成り立つが、「~だろう」と「~φ(無形の確言形)」を対比した文は非文となる。

10) 雨だろうか、雪だろうか。

11)*雨だろうか、雨か。

「~だろう」はこれまで何度も指摘してきたように<助動詞>「だ」の未然形「だろ」+<推量の助動詞>「う」で、肯定と推量という各々まったく異なった認識を表しています。これを一緒くたにして、「~だろう」と「~φ(無形の確言形)」を対比するという誤りを犯しています。「~φ(無形の確言形)」とは零記号の判断辞でなければならず、比較するのであれば、「雨だか、雨■か。」でなければなりませんが、そもそもこのような「主観性判定テスト」自体に意味があるとは思えません。■

  
Posted by mc1521 at 16:06Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年11月25日

助動詞「だ」について(18)

 
〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(5)

 標記論考の「2.主観性 21 命題とモダリティ」を見てみましょう。

 主観性ということばは多義に使われるが、本研究では、モダリティ論における話し手の心的態度の現れについて用いることにする。モダリティ論によると、一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる。「モダリティ」はさらに、話し手による客体世界の把握の仕方と関わる「命題態度のモダリティ」と、話し手の発話態度と関わる「発話態度のモダリティ」とに分けられる。図3は発話態度のモダリティの中に命題態度のモダリティが埋め込まれ、さらにその中に命題が埋め込まれる様子を示している。

    【〔〔命 題〕 命題態度のモダリティ〕 発話態度のモダリティ】

           図3 文の構造

 文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つとされます。しかし、文とは時枝が明らかにしたように、客体的表現と主体的表現の組み合わせが入れ子型になり、一纏まりの思想を表現したものです。「起立。」「暖かい。」などは一語文と呼ばれています。この入れ子型構造は主体的表現による話者の観念的移行を伴った複雑な一体としての立体的構造をなしています。ここで言われる命題自体が、話者の心的態度である主体的表現なしには成立しませんし、客体的世界の認識を客体的表現と主体的表現の個々の語に分解し、再度組み立てる心的態度なしには表現はありえません。ここに定義された文の構造は、立体的な構造をもった構築物である文を線状に単純化し、命題、命題態度のモダリティ、発話態度のモダリティに形式化したものといわなければなりません。ここから、展開される具体例をみましょう。

 このことを具体的な表現で説明する。

(3)[[[雨]だ]よ]。

(4)[[[かなり雨が降る]だろう]ね]。

例文(3)(4)で命題に相当するのは「雨(である)コト」と「激しい雨が降るコト」の部分である。これらは話し手の存在とは独立に客体世界に存在するものであるため、客観的な命題として機能する。これに対し、モダリティに相当するのは「だ」、「よ」、「だろう」、「ね」の部分である。このうち命題態度のモダリティに相当するのは「だ」と「だろう」の部分である。これらは「雨(である)コト」、「かなり雨が降るコト」という事態に対して、話し手が確言(「だ」)や概言(「だろう」)の判断を下したものである。一方、発話態度のモダリティに相当するのは「よ」と「ね」の部分である。これらは「雨だ」、「かなり雨が降るだろう」という判断を、話し手から聞き手への情報提供(「よ」)として伝えたり、話し手と聞き手の情報の共有(「ね」)として伝えたりする機能がある。
これらの表現は、話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能するのである。

 ここでもまた、機能が並べたてられていますが、命題に相当するのは「雨(である)コト」というのは、「である」つまり判断時、<助動詞>「だ」の連用形「で」+<助動詞>「ある」を補って解釈しています。これを補っておいて、命題態度のモダリティに相当するのは「だ」というのは、本来、<名詞>「雨」+<助動詞>「だ」であった句を無理やり分離し解釈したものでしかありません。これは、「命題+モダリティ」という解釈のために立体的な句を平面化した形式的な解釈の誤りを示しています。そして、(4)では、「だろう」を「命題態度のモダリティ」としていますが、これは、<助動詞>「だ」の連用形「だろ」+<助動詞>「う」の二語からなる異なった意義をもつ二語で、主体的表現の累加であり、肯定判断+推量という想像の世界から現実世界への話者の観念的移行が表現されています。

 さらに、発話態度のモダリティが「話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能する」などと機能的な解釈を述べていますが、これは言語規範としての主体的表現の語の本質によるものです。■

  
Posted by mc1521 at 21:36Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年11月24日

助動詞「だ」について(17)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(4)

 今回は、杉村 泰 稿「ヨウダとソウダの主観性」について検討してみましょう。金田一が提起した主観性が謳われています。「1.はじめに」を見てみましょう。

 一般に日本語の文末表現「ニチガイナイ」、「ヨウダ」、「ソウダ」、「ベキダ」などは、話し手の主観的な態度を表すモダリティ表現であるとされている。

  (1)a.太郎が来るニチガイナイ

   b.太郎が来るヨウダ

   c.太郎が来ソウダ

    d.太郎がくるベキダ

この考えに従うと、(1)の各表現は「太郎が来るコト」という客観的な命題について、話し手が「ニチガイナイ」、「ヨウダ」、「ソウダ」、「ベキダ」という主観的な判断を下したものであるということになる。これを図1に示す。

    【〔太郎が来る〕 ニチガイナイ、ヨウダ、ソウダ、ベキダ】  

           図1 従来考えられてきた文の構造

 しかし、「ソウ」と「ベキ」は客観的な命題として機能していると考えたほうがよい。その証拠に「ニチガイナイ」と「ヨウ」が疑問の対象とならないのに対し、「ソウ」と「ベキ」は疑問の対象となる。疑問の対象となるということは、「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表していることを示している。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

   b.*[太郎が来るヨウ]かどうかを考える。

   c. [太郎が来ソウ]かどうかを考える。   

  d.  [太郎が来るベキ]かどうかを考える。

こうした事実により、「ニチガイナイ」と「ヨウダ」がそれ全体でモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」と「ベキダ」は「ダ」の部分のみモダリティとして機能し、「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能することが明らかとなる。したがって、(1a)と(1b)は「太郎が来るコト」という事態について「ニチガイナイ/ヨウダ」という概言的な判断をした表現であり、(1c)と(1d)は「太郎が来ソウナコト」、「太郎が来るベキコト」について「ダ」という確言的な判断をした表現であるということになる。このことを図2に示す。

      【〔太郎が来る〕 ニチガイナイ、ヨウダ】

      【〔太郎が来ソウ、来ルベキ〕ダ】

         図2 本研究で考える文の構造

 以上の表現のうち、本稿では「ヨウダ」と「ソウダ」の主観性の違いについて考察する。なお、「ニチガイナイ」と「ベキダ」については稿を改めて論じることにする。

 これもまた、機能的な発想の塊で、さらに命題が文の内部構造として提示されモダリティ機能が論じられます。<「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能する>とされますが、これも言語実体観の発想で、本質が無視されています。認識を扱えないとこのようになるしかないのが分かります。<「ダ」という確言的な判断>がどのように位置づけられるかに興味があります。

まず気づくのは、いつもの生成文法のプラグマティクな発想である非文「*」の扱いです。何ら論理的な根拠もなく主観的判断で非文として論拠にする誤りです。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

これは、別に非文ではありません。「太郎が来るに違いないかどうかを考える。」とすれば、さらに明確です。また、「太郎が来るようなのかどうかを考える。」も問題ありません。

そして、主観性の相違により「ヨウダ」はモダリティとして機能し、「ソウダ」は「ソウ」+「ダ」と分離されて、「ソウ」は命題として機能し、「ダ」がモダリティとして機能すると結論づけられます。もっとも、「ヨウダ」が一語なのか、「ソウダ」が二語なのかは触れられていません。

なぜ、このような奇妙な論理が展開され、結論されるのかを辿ってみましょう。■

  
Posted by mc1521 at 15:47Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年11月23日

助動詞「だ」について(16)

   <助動詞>「だ」の捉え方(3)

 金田一春彦は昭和305月に研究社から刊行された市河三喜・服部四郎編の『世界言語概説 <下巻>』の日本語の条に「文法」を書いています。この中の、「十一 助動詞」の項を引用します。

 助動詞は、付属語のうちで語形変化をするものの称で、学校文典で助動詞と呼ばれるものは、二十語内外ある。が、服部四郎博士の創唱の基準(1)によれば、その中には、語の一部とは認められぬものが多く入っており、真に、単語と認められるもの、すなわち、助動詞と呼ぶのにふさわしいものは、ダ・ラシイの二語にすぎない。もし、これ以外に加えるとすれば、ダロウを加え得る。また、有坂秀世博士(2)に随って、勉強スル・運動スルなどのスルを加えることも許されよう。また、連語で、一箇の助動詞と同様に用いられるものには、ノダ・ソウダ・ヨウダなどがある。これら助動詞は、それが自立語についた場合、全体が一種の動詞・形容詞のような機能を帯びるもので、橋本博士(3)は、その点から、これらと、助詞のうちの準体詞その他を加えて、準用辞という品詞を立てられた。

 (1)「附属語と附属形式」(前出)に見える。()昭和十四年ごろ筆者に直接もらされたお考え。(3)『国語法研究』七九ページ

 ここでは、橋本文法をベースにアメリカ構造主義言語学の影響を受けた服部説や先に触れた<抽象動詞>である「スル」を加えるなど全く機能的、形式的な見方であることが示されています。一語とは何かについても確たる根拠を有していないことが見て取れます。「ダ」を<助動詞>としながら「ダロ‐ウ」を加えたり、連語としながら「ノ‐ダ」「ソウ‐ダ」「ヨウ‐ダ」に何ら注意を払っていないのにも明らかです。続けて、次のように「ダ」について記しています。

 は名詞につけば、そのものに一致すること、そのものに属することを表し、~ナ型の形容詞の語幹につけば、そういう属性を有すること、そういう状態にあることを表す。ダの用法中、注意すべきものは、長い句を、「意味の上で根幹をなす名詞+ダ」で表現する手法で、「雨ガ降ッテイル!」という文は「雨ダ!」と言い換えることができ、「君ハ何ヲ食ベル?」に対して、「ボクハウナギヲ食ウ」と答える代りに、「ボクハウナギダ」と短く言えるがごときである。(『金田一春彦著作集 第三巻』193195p)

 ここには、金田一の語義解釈の特徴である、「そのものに一致すること、そのものに属することを表し」たり、「そういう属性を有すること、そういう状態にあることを表す」とする理解が明示されています。時枝は先の論文で、この解釈の誤りを次のように指摘しています。

  金田一氏は、私の詞辞の別を、表現される内容に結びつけて考えたがために、辞の表現性を問題とせず、辞が付くところの詞の表現内容を以て、直に辞の性質を考えてしまったのである。……確かに、すべての助詞助動詞は、それが付く詞によって表現される客体的(金田一氏の云ふ客観的)な事実や状態に対応している。それ故に、助動詞は客観的表現であるとするならば、辞はおそらく、すべて客体的な表現である詞に繰り入れられるべきで、特に主体的な辞を区別する根拠を失うに違いないのである。

このように、詞辞という日本語の基本的区分を捉え、助動詞の本質を捉えることなしに機能的、形式主義的な見方をしていては、<助動詞>「だ」が主体的表現で、話者の肯定判断を表す語であるという本質をとらえることなど出来ずに混迷を深めるしかなくなります。「不変化助動詞の本質 ―主観的表現と客観的表現の別について―」という論稿がどの程度のレベルかは、これで明らかかと思います。

また、語の文中での意味と規範としての意義の区分が問題となりますが、時枝は意味論を正しく展開することは出来なかったため、十分な理解を得られなかった面もあります。

この金田一の誤りが渡辺実の構文論や寺村秀夫のシンタクス論に引き継がれ、教科研文法などとも結びついて仁田義雄らのモダリティ論へと混迷を深めて行きます。この誤りは先に挙げた、尾上圭介の「不変化助動詞とは何か―叙法論と主観表現要素論の分岐点」(『国語と国文学』平成二十四年三月号 八十九巻第三号)他の一連の論考にも明確に見られます。さらに、生成文法のHalle and Marantzの「分散形態論」と結びつけて論じられて、もっともらしい論文が展開されています。最近の「ダ」の論文を覗いて見ましょう。■

  
Posted by mc1521 at 14:45Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年11月22日

助動詞「だ」について(15)

     <助動詞>「だ」の捉え方(2)

 金田一春彦の「不変化助動詞の本質 ―主観的表現と客観的表現の別について―」は、昭和281953)年2月刊『国語国文』第二二巻の二‐三号に発表されたもので、現在は『金田一春彦著作集 第三巻』に「同 再論」とともに集録されています。論旨は次の通りです。

1)意志・推量を表す「う」「よう」「まい」は助動詞と言われながら形が変わらない。(2)この意志・推量と言われる用法は終止形についてで、連体形では用法も意義も異なる。(3)終止形しかない助動詞は感動詞・感動助詞のように主観的表現をなし、他の活用形を具えた助動詞は客観的表現をなすのではなかろうか。(4)時枝の言語過程説では、主観的表現の語句を「辞」呼び、客観的表現の語句を「詞」と分類しているが、今回提唱する分類には適合しないので、主観的表現の語句を「主観表現」の語、あるいはmodusと呼び、客観的表現の語句を「客観的表現」の語、あるいはdictumの語と呼んでいただきたいと思う。

これは、表題からも判る通り、言語過程説で言う主体的表現と客体的表現を主観的表現と客観的表現にすり替えて、一部の形の変わらない助動詞の終止形だけが主観的表現の語とするものです。これまで、<助動詞>とは何か、<指定の助動詞>「だ」の本質とは何かを辿って来た視点から見れば、主観的・客観的の語義を理解できず、言語の表現とは何かも理解出来ていない形式主義的、機能主義的言語観の誤謬の論であることは明らかかと思います。当然、時枝は同巻の五号に【金田一春彦氏の「不変化助動詞の本質」を読んで】を寄せ、その誤りを指摘しています。同誌には水谷静夫の【金田一春彦氏「不変化助動詞の本質」に質す】も掲載されています。時枝は、その稿の結びで次のように記しています。

……氏の論旨をつきつめていけば、氏の立場において、主観的表現など云ふものは、当然考へ得られない筈なのである。

以上のような不合理は、どこから来るかと云えば、詞と辞の表現性、即ち、ある内容を客体化して表現するか否かといふことを全然不問に付して、ただその語が客観的事実を表現しているか否かの点だけから語性を決定しようとされたことから来たことである。しかしながら、これも、氏独自の文法体系の原理としてならば、自由であるが、言語過程説における詞辞論に対する批判といふことになれば、それは全く的を外れた所論であると云わなければならないのである。言語過程説における詞辞論の批判は、何よりも、主体的客体的といふ表現過程の別を考へることが、はたして正しいか否かの点に向けられなければならなかったのであるが、氏の論文は、それらの点には全く触れられるところが無かったのである。

以上、私は、金田一氏の所説の中、ただ私の学説に向けられた批判の点についてのみ釈明を試みて、他の点については、今回は保留しておきたいと思うのである。

 これに対し、金田一は同巻九号に「不変化助動詞の本質、再論―時枝博士・水谷氏・両家に答えて―」で返答していますが、全く時枝の主旨は理解されず平行線を辿って終わっています。そして、この金田一の誤りが渡辺実の『国語構文論』や尾上圭介の『文法と意味<1>』他の論に引き継がれ現在も大きな影響を与えています。ちなみに、尾上の先の著書には「不変化助動詞とは何か―叙法論と主観表現要素論の分岐点」(『国語と国文学』平成二十四年三月号 八十九巻第三号)他が集録されています。

 この要約だけでは、金田一の主張は良く理解いただけないと思いますが、そもそも言語表現そのものが主観的であるのは言うまでもないことであり、その内容が客観的であるか否かは別の問題です。対象―認識―表現の過程的構造、表現を支える認識とその相対的独立が理解されていません。先に紹介した野村剛史「助動詞とは何か―その批判的再検討―」でも主観―客観の関係が正しく理解されていません。これらの具体的な紹介と批判は別途とし、まず金田一の論で<助動詞>と<指定の助動詞>「だ」がどのように扱われているかを確認してみます。■

  
Posted by mc1521 at 23:22Comments(0)TrackBack(0)