2015年12月31日

助動詞「だ」について(24)

〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(11)

 これまでの検討に基づき、論文「ヨウダとソウダの主観性」の論理性を見てみましょう。

 題名が示しているように「ヨウダ」と「ソウダ」を各1語とし、その主観性の相違を明らかにしようとしています。そして、註に記されている通り「ヨウダ」の推量判断の用法と「ソウダ」の「兆候や様相の現れ」の用法が比較されています。本来は両者の各々の意義と品詞について明かにすべきと考えますが、ここではモダリティ論により主観性の検討がされているためにこのような扱いとなっています。 そして<助動詞「だ」について(17>で見たように次のように結論されます。

 しかし、「ソウ」と「ベキ」は客観的な命題として機能していると考えたほうがよい。その証拠に「ニチガイナイ」と「ヨウ」が疑問の対象とならないのに対し、「ソウ」と「ベキ」は疑問の対象となる。疑問の対象となるということは、「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表していることを示している。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

   b.*[太郎が来るヨウ]かどうかを考える。

   c. [太郎が来ソウ]かどうかを考える。  

   d.  [太郎が来るベキ]かどうかを考える。

 こうした事実により、「ニチガイナイ」と「ヨウダ」がそれ全体でモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」と「ベキダ」は「ダ」の部分のみモダリティとして機能し、「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能することが明らかとなる。

ここでは、語の意義ではなく句の機能が論じられているため≪「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表している≫とされますが、その本質が明確ではありません。これまでの検討からすれば、「ダ」はいずれも肯定判断を表す<指定の助動詞>と捉えられねばなりません。「ヨウダ」の推量判断の用法と「ソウダ」の「兆候や様相の現れ」の用法に主観性の差異があること自体は確かですが、それは「ヨウ」「ソウ」という形式と意義の組み合わせの相違として、その言語規範としての内容が明らかにされねばなりません。上記例文でも「ヨウか」「ソウか」と活用ではなく、「ヨウ」「ソウ」に助詞が接続しており、2語となっています。日本語の膠着語としての本質が理解されていないと言えます。

 これは、依拠した主観的モダリティ論の欠陥と考えられます。言語道具説である記述文法では文の本質を明らかにすることなく、文を形式的に次の平面的な構造に単純化し、

    【〔〔命 題〕 命題態度のモダリティ〕 発話態度のモダリティ】

           図3 文の構造

一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる

とするしかなく、言語の実体論的捉え方の限界を示していると言えます。

 命題とは論理学の用語であり、「AはBである。」という真偽が対象となる特殊な文の形式を指しています。その論理学自体、現在まで文とは何か、意味とは何かが明かに出来ず問題となっています。この命題を文の定義に形式的に取り込むのは単に論理の混乱を招くしかありません。この論文では、最初に指摘した通り、≪[[[雨]だ]よ]。≫という文に対し、≪これらは「雨(である)コト」という事態に対して、話し手が確言(「だ」)の判断を下したもの≫で、≪発話態度のモダリティに相当するのは「よ」の部分≫とし、≪「雨だ」、という判断を、話し手から聞き手への情報提供(「よ」)として伝える機能がある≫としています。そして、≪これらの表現は、話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能するのである。≫と論じています。

 しかし、名詞「雨」は規範としての実体概念であるに過ぎず、これを文から分離して≪「雨(である)コト」という事態≫とすることはできません。こうなるのは、文を命題とモダリティに二分し、「雨」を命題とし、「だ」「よ」をモダリティとした論理的必然です。事実は、「雨」という客体的表現と「だ」という主体的表現が話者の認識に基づいて組み合わされ、表現されて初めて「雨だ。」という文、命題となります。「雨!」という一語文の場合もありますが、この場合は「雨■!」と判断辞が零記号となっています。言語道具説では話者の認識の言語規範を媒介とした表現という言語表現の立体的構造を捉えることが出来ずこのような矛盾をかかえこむこととなります。

 これが明白に露呈しているのは、3.2の次の部分です。

 一方、(23b)に示されるように、推量判断の「ヨウダ」は一般に連体修飾成分とはならない。しかし、次のような場合には連体修飾成分となるので注意が必要である。

(24) 禎子は、本多良雄が夫について、もっと何か知っているような直感がした。(松本清張『ゼロの焦点』)

(25)「いや、つまらんところです。年じゅう、暗いような感じがして重苦しい所で」(松本清張『ゼロの焦点』)

(26) もっとも、その直後に数百年に一度の大震災が襲ってきたというのは、あまりにも偶然がすぎるような気もするが。(貴志祐介『十三番目の人格-ISOLA-』)

(27) 今年のクリスマスは雪が降るヨウナ予感がする。

これらに共通するのは、「ヨウダ」の後に「直感/感じ/気/予感」という話し手の直感的な感覚を表す表現が続く点である。この「ヨウダ」は、(24)のように第三者の心的態度を表したり、(25)のように連体修飾成分となる場合には、客観的表現であることが明確である。しかし、(26)の「気がする」や(27)の「予感がする」のように、「発話時における話し手の心的態度」を表す場合には、「~ヨウナ直感がする/感じがする/気がする/予感がする」全体がモダリティとして機能する。推量判断の「ヨウダ」は、こうした表現が短縮されて「ヨウダ」一語で表されるようになったものであると考えられる。(強調は引用者)

 連体修飾成分という捉え方自体が形式主義にすぎませんが、これまでみてきたように「ヨウダ」が一語で推量判断を表すのではなく、「ヨウ」が推量判断を表し、「だ」は「ヨウ」によって推量されるその内容を肯定判断しています。これらの例文では「だ」は「な」と連体形に活用し、続く「直感/感じ/気/予感」という名詞の内容を表しています。時枝のいう入れ子形の立体的表現であり、≪こうした表現が短縮されて「ヨウダ」一語で表されるようになったもの≫などというのは正しい文の構造の解明ではありません。また、「ヨウ思われる」、「ヨウよ。」などと助詞や終助詞に接続する場合もあり、推量を表しているのは「ヨウ」なのです。

 このように、主観的という感覚的な捉え方を屈折語言語論の発想による主観的モダリティ論によって論証しようとしても日本語の膠着語としての本質を論理的に解明することはできません。■

  
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2015年12月24日

助動詞「だ」について(23)

   杉村泰「ヨウダとソウダの主観性
〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕

      <助動詞>「だ」の捉え方(10)

  時枝が「そこには明かに陳述性が認められる」とする<助動詞>「だ」の連用形「と」と「に」を検討しましょう。次の用例が掲げられています。

  月明か、風涼し。(中止の場合、文語だけに用ゐられる)

  元気、愉快、働いてゐる。(連用修飾的陳述を表す)

  隊伍整然行進する。(連用修飾的陳述を表す)

  花が雪散ってゐる。(右に同じ)

  「今日は行かない」云ってゐた。(右に同じ)

  野なく、山なくかけまはる。

 これについても、先の三浦つとむ『日本語の文法』の「第八章 <助動詞>の特徴をめぐる諸問題」の「二 時枝文法の<助動詞>論の特徴と問題点」で論じられています。時枝の活用に対する理解の誤りを指摘していますので以下に当該部分を引用します。

 まず、「明か」「元気」「整然」などの語は属性表現ではあるが活用をもたないから、そのままでは文の終止に使えないわけであり、それゆえ<助詞>+<助動詞>と重ねた「に」「あり」→「なり」や「と」「あり」→「たり」を加え、「明かなり」「元気なり」「整然たり」と表現して来たことは周知のとおりである。この場合も、「に」「と」は依然<助動詞>であって、その下に重ねられる<助動詞>が零記号化しているもの、たとえば「月明か(して)、風涼し。」「元気て)、愉快て)、働いてゐる。」「隊伍整然て)行進する。」のような省略があって、<形式動詞>から転成した<助動詞>「し」が表現されずにあるもの、と受けとるのが妥当である。「に」「と」それ自体が判断を示すのではなくて、その下に零記号の判断辞が存在するのである。註の中では、「一つして上手に出来たものがない。」という例を上げているが、これこそ「と」ではなく下の「し」のほうが判断の表現である。つぎに「花が雪散ってゐる。」は、文字どおりに受けとってはならないところに注意しなければならない。「雪」は比喩であって、散りかたをそのまま<情態副詞>で表現するなら、「花がサラサラ散ってゐる。」のようになろう。属性の立体的な表現であって、「雪」の実体は直接の関係を持たず、雪の属性をダブルイメージにして花の散りかたを想像させているのである。それゆえ「雪」は「サラサラ」と同様に<格助詞>以外の何ものでもない。「雪」を<名詞>として文字どおりに受けとると、その下に判断が存在してそれが「と」であるかのような錯覚が生まれる。

  野なく、山なくかけまはる。

 ここでの「ない」は<打ち消しの助動詞>であるから、さきにも述べたように肯定判断の<助動詞>に伴って使われるべきものである。その肯定判断が「あらず」のように表現されないで、零記号になっているために、「と」それ自体が肯定判断であるかのように錯覚するのである。

 ここでの註に、谷崎潤一郎の『細雪』が、「……と思ってゐた。、ちょうどその時分、……」のかたちで「と」を使っているのを、やはり<助動詞>の例にあげているけれども、久保田万太郎の『春泥』や『市井人』が節の変わり目のところで、

  、立てるものは立て、押へるものは押へる由良の律儀さは以前とすこしもかはらなかった。
      ―――――――――――
  、その年もいよゝゝ終わろうといふ十二月の末になって、突然、萍人から、切手をペタゝゝ
貼った、厚い、カナ

  リの重みをもつた封書が速達でとゞきました。

のように表現していることも、考えてみる必要がある。これらは、すべて前の文ないし前の節の文と、後の文ないしこの節の文との思想と思想とを結合するために使われる語であって、<接続助詞>にほかならない。通常の表現では、「が」の場合には前の文の思想を判断辞の「だ」で受けとめて「が」のかたちで使うし、「と」の場合にも前の文の思想を<形式動詞>から転成した判断辞「する」で受けとめて「すると」の形で使っている。『細雪』の場合は、この判断辞が省略されているから、時枝は「と」それ自体が判断を表現したものと錯覚したのであろう。

  「今日は行かない」云ってゐた。

の場合には、表現それ自体を単に一つの対象として扱って、云ったことばを忠実に示すものである。別のいいかたをすれば、音声それ自体の複写としての括弧内のことばである。それゆえ本質的には「ブクブク沈んでいった。」のような、<擬声語>に加えられる「と」と同じであって、山田もいうように<格助詞>である。

 <助動詞>には語形変化すなわち活用が存在するが、これも<動詞>の活用と同様に、それに結びつく語のいかんによって決定されるもので、内容と関係のない形式だけの変化である。けれども時枝は<動詞>の活用を判断辞の機能に相当するものと解釈しているので<助動詞>の活用だけを異質なものとして扱うわけにはいかなかった。「助動詞は、話手の立場の中、何等かの陳述を表現するものであり、そのことのために、助動詞は、多くの場合に活用を持つことになるのである。」と、結びつく語との関係ではなく<助動詞>それ自体の判断表現の内容から生まれたものであるかのように、こじつけたのである。

これで、<助動詞>「だ」の活用も明確になりましたので、この点も含め杉村論文の論理性を見直してみましょう。■

  
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2015年12月19日

助動詞「だ」について(22)

             杉村泰「ヨウダとソウダの主観性

〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
   <助動詞>「だ」の捉え方(9)

 前回は国語文法(学校文法)の<助動詞>「だ」の活用を見ましたが、言語過程説を唱えた時枝誠記の「だ」の活用を見てみましょう。『日本文法 口語篇』(岩波全書,初版1950,改版1978)の「四  辞」の助動詞に「(一)指定の助動詞 だ」として次の表が掲げられ説明されています。

   

 語\活用形 

  未然形

 連用形

終止形

 連體形

假定形

命令形

  だ

  で

 と  に  で

  だ

 の  

  なら

  ○


  
  
   
     
  指定の助動詞は、話手の單純な肯定判断を表す語である。この中に、「に」と「と」「の」は、従来助詞として取扱われてゐたものであるが、下に舉げる例によって知られるように、そこには明かに陳述性が認められるので、これを助動詞と認めるのが正しいであろう。また、右の表に掲げた各活用形は、その起源に於いては、それぞれ異なった體系に屬する語であったであろうが、今日に於いては一つの体系として用ゐられるやうになったものである。本書に於いては、形容動詞を立てないから、従来形容動詞の語尾と考えられてゐた「だら」「だつ」「で」「に」「だ」「な」「なら」は、そのまま、或いは分析されて、すべて右の活用形に所屬させることが出来る。

 形容動詞についての説明は、これまで説いてきたところですが他にも相違があります。この相違について検討しておきましょう。未然形の「で」については、「であろう」の結合した「だろう」を別に推量の助動詞として取扱っているため<動詞>未然形の「ない」に接続する「で」を挙げています。問題は連用形の「と、に」と連體形の「の」です。

まず連體形の「の」ですが、杉村論文では、「推量判断の「ヨウダ」は一般に連体修飾成分とはならない。しかし、次のような場合には連体修飾成分となるので注意が必要である。」として、「(24) 禎子は、本多良雄が夫について、もっと何か知っているような直感がした。(松本清張『ゼロの焦点』)」他の例文を挙げています。ここでは、「ヨウダ」の活用として扱われているわけですが、この「な」と「の」を同列に扱っていることになります。通説では「の」は<格助詞>です。時枝は例文、「僅か御禮しか出來ない。」を記し、次のように注しています。

「な」「の」は屢〃共通して用ゐられるが、語によって、「な」の附く場合と「の」の附く場合とがある。「駄目の」「僅かな」とも云うことが出来るが、「突然」「焦眉」「混濁」等には「の」がつき、「親切」「孤独」「あやふや」等には、大體に「な」がつくようである。

この「の」の扱いについて吉田金彦『現代語助動詞の史的研究』(19714月初版,『吉田金彦著作選7 現代語の助動詞』所収)は次のように指摘しています。

 「の」も時枝説によって最近助動詞に入れられたもので、『日本文法口語篇』ではその連体形の所に掲げられてある(一八五頁)。しかし、助動詞「の」は問題があって『日本文法文語篇』などに至って、主語格以外の「の」をすべて指定の助動詞と拡大したことには、これが行き過ぎだという大きな批判がある。(青木玲子「問題となる助詞」『講座日本語の文法』三巻一六〇頁)。筆者も単なる接続機能的観点からのみで、主格以外のすべての「の」を指定の助動詞とすることには問題があると思う。所有・所属の意味を表すものが助詞であり、属性・指定の意味を表すものは助動詞である(拙稿「現代文における『の』の意味・用法」『月刊文法』19709月)

 このように国文学者からは批判されています。ここで言われている、「属性・指定の意味を表すものは助動詞」というのも誤りなのですが。三浦つとむ『日本語の文法』は、「第四章 単語の活動状態としての<名詞>への転成―<転成体言>の問題」の「三 時枝文法の「の」<助動詞>説の吟味」で青木玲子の否定論を取り上げ、「私の結論もやはり否定論であるが、ここにはただ否定するだけではすまない問題がふくまれていて、時枝が<体言>や<用言>の内容の特殊性に立ち入ることをしないで形式的に扱っていることや、<転成体言>の問題を積極的にとりあげようとしないこととの結びつきを考えなければならない。」として検討しています。そして、上の時枝の注について次のように誤りを結論しています。

  いま引用した、「な」と「の」の使い方についての時枝の説明を、この観点(<用言>から<体言>への転成は、<用言>の活用の形式いかんと直接の関係をもっていない:引用者注)から説明してみると、同じ「親切」という語でも、「親切友人」という場合には属性表現の語であろうが、「親切押し売り」という場合には属性を実体的にとらえた表現ではなかろうか、と思われてくる。「僅か光がさした。」という場合には<副詞>で属性表現の語であろうが、「僅かお礼しか出来ない。」という場合には属性を実体的にとらえた<名詞>ではなかろうかと思われてくる。それならここでの「の」も<助動詞>ではなく、<格助詞>である

 このように話者の認識をもとに慎重に語性を検討しないと、特に助動詞では論理を踏み外し易いのです。連用形の「と、に」についても検討してみましょう。■

  
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2015年12月13日

助動詞「だ」について(21)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
  <助動詞>「だ」の捉え方(8

 これまで見てきたように、肯定判断の<助動詞>「だ」の本質を正しく理解することが重要なのですが、「だ」の活用が学校文法でどのように捉えられているのかを見ましょう。次のようになっています。

   未然形  連用形   終止形  連体形   仮定形

   だろ   だっ・で              (な)           なら

となっています。この「な」「なら」は前回指摘したように、「にあり」が「なり」となり、「なる」から「な」となったもので、「にてあり」→「であり」→「であ(じゃ)」→だ

                   → 「である」

の変化から「だ」となったのと転成の系列が異なりますが共に判断の<助動詞>となっています。活用をもたない「綺麗」「荘厳」等の詳細な属性を表す漢語を「綺麗な」「荘厳な」と日本語に形容詞として取り込むために「な」が使われたのです。これを助動詞の<活用>ではなく、属性表現の漢語自体の活用と見なすところに<形容動詞>という誤った品詞が生みだされました。このことは、膠着語である日本語が裸体的に単純な概念を表し、これらを粘着的に連結していくのだという本質の理解を誤っています。

「綺麗ならば」という連帯形「なら」が方言では「だば」と使用されるのも理にかなっていることが分かります。そして、「ような」「そうな」という使用法からも「よう」「そう」が一語であることを示しています。

この事実を、国語学者はどのように理解しているのでしょうか。一例として、『北原保雄の日本語セミナー』(大修館書店、2006810)を覗いてみます。

Q8「だろう」は連語か助動詞か?という次のような質問が掲げられています。

  明日は晴れるだろう

の「だろう」は一語の助動詞と見るべきものでしょうか。それとも「だろ」に「う」がついたものとみるべきでしょうか。ご教示ください。

 これに対し著者は次のように答えています。

 A:お尋ねのように、「だろう」については、これを一語の助動詞と見る考えと、断定の助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」の下接した連語とみる考えとがあります。「だろう」には例にあげられた、

 (1)明日は晴れるだろう

のように動詞に下接するもののほか、

 (2)北国の冬は寒いだろう

のように、形容詞に下接するもの、

 (3)彼はまだ学生だろう

 (4)それはまたどうしてだろう

などのように、名詞や副詞に下接するものもあります。また、

 (5)海は静かだろう

のように、形容動詞の未然形に推量の助動詞「う」の下接した「だろう」も同じ意味を表します。

 断定の助動詞「だ」は、

 (6)彼はまだ学生

 (7)それはまたどうして

などのように、名詞や副詞などに下接します。ですから、(3)や(4)の「だろう」は、断定の助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」が下接したものと見ることができます。

 しかし、一方、断定の助動詞「だ」は、動詞や形容詞には下接することができません。

 (8)明日は晴れる

 (9)北国の冬は寒い

などとは、少なくとも共通語では言えません。つまり、動詞や形容詞には、「だ」は下接することはできませんが、「だろう」は下接することができるのです。ですから、(1)や(2)の「だろう」は、断定の助動詞「だ」の未然形とは簡単に言えません。接続の仕方という点を重視すれば、動詞や形容詞に下接する「だろう」は、(もともとは「だろ」+「う」ではありますが)、「だ」とは違った接続の仕方をするのですから、一語の助動詞だとする見方にも十分理があります。

 「ヨウダとソウダの主観性」の論者はこの国文法の誤りを無批判に受け継ぎ、さらに生成文法の非文という主観的、プラグマテイックな判定法を取り入れ論を展開しているのが明らかです。

 ここでは、

明日は晴れます。  北国の冬は寒いです

と敬辞化すれば、断定の助動詞の丁寧形が現れ、推量の場合も

  明日は晴れるしょう。  北国の春は寒いしょう。

と 明日は晴れる■。   北国の冬は寒い■。

と肯定判断が零記号となることが規範化している、つまり文法化していることが理解されていません。このような論理性を無視し、「やはり文法では形式を重視すべきではないかと考えます。」と話者の認識と語の本質ではなく、形式主義的な見方で判断しています。また、形容動詞を例に挙げている誤りも先に指摘した通りです。■

  
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2015年12月12日

助動詞「だ」について(20)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:01.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(7)

 「3.比況のヨウダと推量判断のヨウダ」の「3.1 ヨウダの用法」は次のように記しています。

    「ヨウダ」には比況、推量判断、例示、婉曲などの用法がある。

12)a.顔の色艶を見ると、この人はまるで生きているヨウダ。(比況)

    b.顔の色艶を見ると、この人はどうやら生きているヨウダ。(推量判断)

    c.たとえばピーマンのヨウナ緑黄色野菜は健康にいい。(例示)

    d.(車が来たのを見て)社長、どうやらお車が来たヨウデス。(婉曲)

ここでは「ヨウダ」が一語として扱われています。語と句、連語の区分も明らかでないままに論じられているため、本論文が混迷し、誤った主観性の差異を論ずることになっています。

これまで明らかにしてきた通り、「ヨウダ」は、「ヨウ」+<指定・断定の助動詞>「ダ」です。従って、「ヨウ」がいかなる品詞で、どのような意義を持ち、文でどのような意味を表しているのかを明らかにしなければなりません。このことは、c.が「ヨウナ」となっていることからも、論者自信が無意識のうちに「ヨウ」を一語と認識して、これに「ナ」を累加している事実からも明らかです。また、「明日は雨のよう!」や「(精巧な彫刻を見て)まるで生き物のようね!」といった使い方をします。「ヨウダ」を一語で<助動詞>としているため、学校文法(橋本文法)では形容動詞型の活用としていますが、劉論文でも指摘した通りこの形容動詞という品詞がそもそも誤りで混乱をまねく元凶となっています。また、敬辞の場合は、「ヨウデス」と、「よう」+<丁寧な断定の助動詞>「です」となり、「ヨウダ」は一語でないことが明らかです。

このように、「ヨウダ」を一語の<助動詞>とするため、比況、推量判断、例示、婉曲の用法とせざるを得なくなり、さらに「ソウダ」と比較するという混乱に陥っています。

「ヨウ」には、まず<名詞>、<抽象(形式)名詞><接尾語>があり大辞林 第三版『大辞林第三版』では<名詞>「よう」が次のように記されています。

よう【様】

①ありさま。様子。すがた。 「書きたる真名(まんな)の-,文字の,世に知らずあやしきを/枕草子 103

②決まったかたち。様式。 「人の調度のかざりとする,定まれる-あるものを/源氏 帚木」

③やり方。方法。 「ふないくさは-ある物ぞとて,鎧直垂は着給はず/平家 11

④事情。理由。わけ。 「かせぎ(=鹿)恐るる事なくして来れり。定めて-あるらん/宇治拾遺 7

⑤同様。同類。 「必ずさしも-の物と争ひ給はむもうたてあるべし/源氏 夕霧」

⑥(形式名詞的に用いて)

 ㋐発言や思考の内容。こと。「ただ押鮎の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を押鮎もし思ふ-あらむや/土左」

 ㋑発言や思考の引用を導く言葉。…こと(には)。「かぢとりの言ふ-,黒鳥のもとに白き波を寄す,とぞいふ/土左」

⑦動詞の連用形の下に付いて,複合語をつくる。

 ㋐ありさま,様子などの意を表す。 「喜び-」 「あわて-」

 ㋑しかた,方法などの意を表す。 「言い-」 「やり-」

⑧名詞の下に付いて,複合語をつくる。

 ㋐様式,型などの意を表す。 「天平-」 「唐(から)-」

 ㋑そういう形をしている,それに似ているなどの意を表す。「寒天-の物体」 「カーテン-のもの」 → ようだ ・ ようです

このように、〔よう【様】〕は本来<名詞>であり、そこから」<抽象(形式)名詞>の用法が生じています。さらに⑦⑧の用法から<動詞>に連加する接尾語となり、現在はこの用法が主要になっています。この接尾語から、さらに推量の助動詞の用法に移行したものが生まれ、多義となって使用されています。これは、「らしい」が、

「学生らしい勤勉さ。」 (属性)

「彼は学生らしい。」  (推量)

と使用されるように抽象的な内容の客体的表現である接尾語から、主体的表現である助動詞への転成が起っているのと同様な現象といえます。

この品詞区分に従い、(12)の例を見ると、a.の「まるで生きているよう」は「様子」の<名詞>から<抽象(形式)名詞>を経て<接尾語>となっているのが判ります。c.の「ピーマンのヨウナ緑黄色野菜」は属性を表す<接尾語>になっているのが判ります。そして「ピーマンのよう」に、「にあり」が「なり」→「なる」から「な」となった主体的表現の判断辞である「な」が累加されて「ピーマンのような(る)緑黄色野菜」と表現されています。ここでは比況の接尾語が表現としては例示の意味となっています。e.では全く<接尾語>になってしまっており、<用言>「来た」に接尾語として付加されています。これは、比況という接尾語の不確実性から婉曲の意味となっています。

そして、b.は推量判断の「ヨウ」で助動詞となっています。このように見てくれば、各々が品詞「ヨウ」に<助動詞>「だ」、「です」や<判断辞>「な」、<感嘆詞>「ね」他が累加されたり、終止形として使用されているのが判ります。■

  
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2015年12月09日

助動詞「だ」について(19)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕

   <助動詞>「だ」の捉え方(6)

  「2.主観性 2.1 命題とモダリティ」の最後に次のように記されています。
 ここで注意しておきたいのは、(3)で空から落ちてくる水滴を「みぞれ」や「雪」ではなく「雨」と捉えたり、(4)で雨の激しさを「相当」や「ずいぶん」ではなく「かなり」と捉えたりするのも、話し手の主観によると言えなくもないということである。しかし、これらの表現は話し手が客体世界の事態として切り取ったものであるため、本研究では客観的な成分であると考える

 ここでは「雨」や「かなり」が「話し手が客体世界の事態として切り取ったもの」で「客観的な成分」とされていますが、これは言語規範としての語の辞書的な意味、つまり語彙と話者の認識の表現としての文の中での語の意味の関連と相違が正しく理解されていないことを明かしています。

 前回も指摘した通り、「雨だよ。」の「雨」と「だ」を切り離し、「雨」を命題としてしまうのも同様の誤りです。そもそも文の本質が解明できないために、文を「命題とモダリティ」の煉瓦的な積み重ね、つまり機械的な集まりと見なすことになってしまっています。命題とは論理学での用語であり、大辞林第三版では、「〘論〙 判断を言語的に表現したもの。論理学では真偽を問いうる有意味な文をさす。また,その文が表現する意味内容をさす場合もある。」となっています。つまり、命題は文の一形態であり、特殊な文を指しています。従って、判断が表現されていなければ文でも、命題でもないことになります。

「雨!」が一語文であるのは、「雨■!」と、表現されていない肯定判断との組み合わせにより一語文となるのであり、「客観的な成分」である「雨」は言語規範としての辞書的な意味の語でしかありません。この表現されていない肯定判断が表現されたのが、「雨だよ。」の<助動詞>「だ」であり、これを「雨」と「だ」に各々分離して命題とすることはできません。ここでは、辞書的な語の語彙と文に表現された語の意味が理解できずに同一平面上に並べられています。

 このように、文の本質が理解できずに語、文と、語の意義と文の意味の関連と相違が理解されていないため、文を「命題とモダリティ」に分解するしかなくなります。これまで見てきたように、語とは何か、品詞分類の基準と定義も解明できないため、「モダリティ」自体が、語の意義であるのか、句、文での意味なのかが曖昧なまま論じられています。それ故、「22 命題とモダリティの分類基準」でも、機能的な基準が示されます。

  モダリティは発話時点における話し手の心的態度を表すため、それ自体は真偽の対象とならず、連体修飾成分にもならず、過去文の対象にもならないという性質をもつ。一方、命題にはこうした制限が加わらない。

 そして、これが「主観性判定テスト」なる正に主観的な非文か否かという基準で判断されることになります。この「主観性判定テスト」の結果、 
「雨だよ」という表現のうち「雨」の部分は命題に属し、「だ」と「よ」の部分はモダリティに属すことが確認された。

と、「雨」の部分が「命題に属し」ているとして「雨」と「だ」が機械的に分離されることになります。先にも見たように、「雨だ。」は客体的表現である「雨」と主体的表現である「だ」が話者の認識により累加されて表現されたところに成立するのであり、命題とモダリティとは次元を異にしています。

これまで、論じてきたように「だ」は、主体的表現の肯定判断を表す単語であり、語のもっとも基本的な区分はこの主体的表現と客体的表現にあるのですから、モダリティ(法性)は主体的表現の語について論じられなければならないことになります。というより、語の本質的な区分が出来ないために「主観表現論的モダリティ論」と呼ばれる中途半端な概念が提起されることになったと言えます。そして、「(9) 雨だろうか。」についても次のような解釈が示されます。

 しかし、この表現で疑問の対象となっているのは、「~だろう」の部分ではなく「雨」の部分である。その証拠に「雨」と「雪」を対比した文は成り立つが、「~だろう」と「~φ(無形の確言形)」を対比した文は非文となる。

10) 雨だろうか、雪だろうか。

11)*雨だろうか、雨か。

「~だろう」はこれまで何度も指摘してきたように<助動詞>「だ」の未然形「だろ」+<推量の助動詞>「う」で、肯定と推量という各々まったく異なった認識を表しています。これを一緒くたにして、「~だろう」と「~φ(無形の確言形)」を対比するという誤りを犯しています。「~φ(無形の確言形)」とは零記号の判断辞でなければならず、比較するのであれば、「雨だか、雨■か。」でなければなりませんが、そもそもこのような「主観性判定テスト」自体に意味があるとは思えません。■

  
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2015年11月25日

助動詞「だ」について(18)

 
〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(5)

 標記論考の「2.主観性 21 命題とモダリティ」を見てみましょう。

 主観性ということばは多義に使われるが、本研究では、モダリティ論における話し手の心的態度の現れについて用いることにする。モダリティ論によると、一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる。「モダリティ」はさらに、話し手による客体世界の把握の仕方と関わる「命題態度のモダリティ」と、話し手の発話態度と関わる「発話態度のモダリティ」とに分けられる。図3は発話態度のモダリティの中に命題態度のモダリティが埋め込まれ、さらにその中に命題が埋め込まれる様子を示している。

    【〔〔命 題〕 命題態度のモダリティ〕 発話態度のモダリティ】

           図3 文の構造

 文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つとされます。しかし、文とは時枝が明らかにしたように、客体的表現と主体的表現の組み合わせが入れ子型になり、一纏まりの思想を表現したものです。「起立。」「暖かい。」などは一語文と呼ばれています。この入れ子型構造は主体的表現による話者の観念的移行を伴った複雑な一体としての立体的構造をなしています。ここで言われる命題自体が、話者の心的態度である主体的表現なしには成立しませんし、客体的世界の認識を客体的表現と主体的表現の個々の語に分解し、再度組み立てる心的態度なしには表現はありえません。ここに定義された文の構造は、立体的な構造をもった構築物である文を線状に単純化し、命題、命題態度のモダリティ、発話態度のモダリティに形式化したものといわなければなりません。ここから、展開される具体例をみましょう。

 このことを具体的な表現で説明する。

(3)[[[雨]だ]よ]。

(4)[[[かなり雨が降る]だろう]ね]。

例文(3)(4)で命題に相当するのは「雨(である)コト」と「激しい雨が降るコト」の部分である。これらは話し手の存在とは独立に客体世界に存在するものであるため、客観的な命題として機能する。これに対し、モダリティに相当するのは「だ」、「よ」、「だろう」、「ね」の部分である。このうち命題態度のモダリティに相当するのは「だ」と「だろう」の部分である。これらは「雨(である)コト」、「かなり雨が降るコト」という事態に対して、話し手が確言(「だ」)や概言(「だろう」)の判断を下したものである。一方、発話態度のモダリティに相当するのは「よ」と「ね」の部分である。これらは「雨だ」、「かなり雨が降るだろう」という判断を、話し手から聞き手への情報提供(「よ」)として伝えたり、話し手と聞き手の情報の共有(「ね」)として伝えたりする機能がある。
これらの表現は、話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能するのである。

 ここでもまた、機能が並べたてられていますが、命題に相当するのは「雨(である)コト」というのは、「である」つまり判断時、<助動詞>「だ」の連用形「で」+<助動詞>「ある」を補って解釈しています。これを補っておいて、命題態度のモダリティに相当するのは「だ」というのは、本来、<名詞>「雨」+<助動詞>「だ」であった句を無理やり分離し解釈したものでしかありません。これは、「命題+モダリティ」という解釈のために立体的な句を平面化した形式的な解釈の誤りを示しています。そして、(4)では、「だろう」を「命題態度のモダリティ」としていますが、これは、<助動詞>「だ」の連用形「だろ」+<助動詞>「う」の二語からなる異なった意義をもつ二語で、主体的表現の累加であり、肯定判断+推量という想像の世界から現実世界への話者の観念的移行が表現されています。

 さらに、発話態度のモダリティが「話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能する」などと機能的な解釈を述べていますが、これは言語規範としての主体的表現の語の本質によるものです。■

  
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2015年11月24日

助動詞「だ」について(17)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(4)

 今回は、杉村 泰 稿「ヨウダとソウダの主観性」について検討してみましょう。金田一が提起した主観性が謳われています。「1.はじめに」を見てみましょう。

 一般に日本語の文末表現「ニチガイナイ」、「ヨウダ」、「ソウダ」、「ベキダ」などは、話し手の主観的な態度を表すモダリティ表現であるとされている。

  (1)a.太郎が来るニチガイナイ

   b.太郎が来るヨウダ

   c.太郎が来ソウダ

    d.太郎がくるベキダ

この考えに従うと、(1)の各表現は「太郎が来るコト」という客観的な命題について、話し手が「ニチガイナイ」、「ヨウダ」、「ソウダ」、「ベキダ」という主観的な判断を下したものであるということになる。これを図1に示す。

    【〔太郎が来る〕 ニチガイナイ、ヨウダ、ソウダ、ベキダ】  

           図1 従来考えられてきた文の構造

 しかし、「ソウ」と「ベキ」は客観的な命題として機能していると考えたほうがよい。その証拠に「ニチガイナイ」と「ヨウ」が疑問の対象とならないのに対し、「ソウ」と「ベキ」は疑問の対象となる。疑問の対象となるということは、「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表していることを示している。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

   b.*[太郎が来るヨウ]かどうかを考える。

   c. [太郎が来ソウ]かどうかを考える。   

  d.  [太郎が来るベキ]かどうかを考える。

こうした事実により、「ニチガイナイ」と「ヨウダ」がそれ全体でモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」と「ベキダ」は「ダ」の部分のみモダリティとして機能し、「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能することが明らかとなる。したがって、(1a)と(1b)は「太郎が来るコト」という事態について「ニチガイナイ/ヨウダ」という概言的な判断をした表現であり、(1c)と(1d)は「太郎が来ソウナコト」、「太郎が来るベキコト」について「ダ」という確言的な判断をした表現であるということになる。このことを図2に示す。

      【〔太郎が来る〕 ニチガイナイ、ヨウダ】

      【〔太郎が来ソウ、来ルベキ〕ダ】

         図2 本研究で考える文の構造

 以上の表現のうち、本稿では「ヨウダ」と「ソウダ」の主観性の違いについて考察する。なお、「ニチガイナイ」と「ベキダ」については稿を改めて論じることにする。

 これもまた、機能的な発想の塊で、さらに命題が文の内部構造として提示されモダリティ機能が論じられます。<「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能する>とされますが、これも言語実体観の発想で、本質が無視されています。認識を扱えないとこのようになるしかないのが分かります。<「ダ」という確言的な判断>がどのように位置づけられるかに興味があります。

まず気づくのは、いつもの生成文法のプラグマティクな発想である非文「*」の扱いです。何ら論理的な根拠もなく主観的判断で非文として論拠にする誤りです。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

これは、別に非文ではありません。「太郎が来るに違いないかどうかを考える。」とすれば、さらに明確です。また、「太郎が来るようなのかどうかを考える。」も問題ありません。

そして、主観性の相違により「ヨウダ」はモダリティとして機能し、「ソウダ」は「ソウ」+「ダ」と分離されて、「ソウ」は命題として機能し、「ダ」がモダリティとして機能すると結論づけられます。もっとも、「ヨウダ」が一語なのか、「ソウダ」が二語なのかは触れられていません。

なぜ、このような奇妙な論理が展開され、結論されるのかを辿ってみましょう。■

  
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2015年11月23日

助動詞「だ」について(16)

   <助動詞>「だ」の捉え方(3)

 金田一春彦は昭和305月に研究社から刊行された市河三喜・服部四郎編の『世界言語概説 <下巻>』の日本語の条に「文法」を書いています。この中の、「十一 助動詞」の項を引用します。

 助動詞は、付属語のうちで語形変化をするものの称で、学校文典で助動詞と呼ばれるものは、二十語内外ある。が、服部四郎博士の創唱の基準(1)によれば、その中には、語の一部とは認められぬものが多く入っており、真に、単語と認められるもの、すなわち、助動詞と呼ぶのにふさわしいものは、ダ・ラシイの二語にすぎない。もし、これ以外に加えるとすれば、ダロウを加え得る。また、有坂秀世博士(2)に随って、勉強スル・運動スルなどのスルを加えることも許されよう。また、連語で、一箇の助動詞と同様に用いられるものには、ノダ・ソウダ・ヨウダなどがある。これら助動詞は、それが自立語についた場合、全体が一種の動詞・形容詞のような機能を帯びるもので、橋本博士(3)は、その点から、これらと、助詞のうちの準体詞その他を加えて、準用辞という品詞を立てられた。

 (1)「附属語と附属形式」(前出)に見える。()昭和十四年ごろ筆者に直接もらされたお考え。(3)『国語法研究』七九ページ

 ここでは、橋本文法をベースにアメリカ構造主義言語学の影響を受けた服部説や先に触れた<抽象動詞>である「スル」を加えるなど全く機能的、形式的な見方であることが示されています。一語とは何かについても確たる根拠を有していないことが見て取れます。「ダ」を<助動詞>としながら「ダロ‐ウ」を加えたり、連語としながら「ノ‐ダ」「ソウ‐ダ」「ヨウ‐ダ」に何ら注意を払っていないのにも明らかです。続けて、次のように「ダ」について記しています。

 は名詞につけば、そのものに一致すること、そのものに属することを表し、~ナ型の形容詞の語幹につけば、そういう属性を有すること、そういう状態にあることを表す。ダの用法中、注意すべきものは、長い句を、「意味の上で根幹をなす名詞+ダ」で表現する手法で、「雨ガ降ッテイル!」という文は「雨ダ!」と言い換えることができ、「君ハ何ヲ食ベル?」に対して、「ボクハウナギヲ食ウ」と答える代りに、「ボクハウナギダ」と短く言えるがごときである。(『金田一春彦著作集 第三巻』193195p)

 ここには、金田一の語義解釈の特徴である、「そのものに一致すること、そのものに属することを表し」たり、「そういう属性を有すること、そういう状態にあることを表す」とする理解が明示されています。時枝は先の論文で、この解釈の誤りを次のように指摘しています。

  金田一氏は、私の詞辞の別を、表現される内容に結びつけて考えたがために、辞の表現性を問題とせず、辞が付くところの詞の表現内容を以て、直に辞の性質を考えてしまったのである。……確かに、すべての助詞助動詞は、それが付く詞によって表現される客体的(金田一氏の云ふ客観的)な事実や状態に対応している。それ故に、助動詞は客観的表現であるとするならば、辞はおそらく、すべて客体的な表現である詞に繰り入れられるべきで、特に主体的な辞を区別する根拠を失うに違いないのである。

このように、詞辞という日本語の基本的区分を捉え、助動詞の本質を捉えることなしに機能的、形式主義的な見方をしていては、<助動詞>「だ」が主体的表現で、話者の肯定判断を表す語であるという本質をとらえることなど出来ずに混迷を深めるしかなくなります。「不変化助動詞の本質 ―主観的表現と客観的表現の別について―」という論稿がどの程度のレベルかは、これで明らかかと思います。

また、語の文中での意味と規範としての意義の区分が問題となりますが、時枝は意味論を正しく展開することは出来なかったため、十分な理解を得られなかった面もあります。

この金田一の誤りが渡辺実の構文論や寺村秀夫のシンタクス論に引き継がれ、教科研文法などとも結びついて仁田義雄らのモダリティ論へと混迷を深めて行きます。この誤りは先に挙げた、尾上圭介の「不変化助動詞とは何か―叙法論と主観表現要素論の分岐点」(『国語と国文学』平成二十四年三月号 八十九巻第三号)他の一連の論考にも明確に見られます。さらに、生成文法のHalle and Marantzの「分散形態論」と結びつけて論じられて、もっともらしい論文が展開されています。最近の「ダ」の論文を覗いて見ましょう。■

  
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2015年11月22日

助動詞「だ」について(15)

     <助動詞>「だ」の捉え方(2)

 金田一春彦の「不変化助動詞の本質 ―主観的表現と客観的表現の別について―」は、昭和281953)年2月刊『国語国文』第二二巻の二‐三号に発表されたもので、現在は『金田一春彦著作集 第三巻』に「同 再論」とともに集録されています。論旨は次の通りです。

1)意志・推量を表す「う」「よう」「まい」は助動詞と言われながら形が変わらない。(2)この意志・推量と言われる用法は終止形についてで、連体形では用法も意義も異なる。(3)終止形しかない助動詞は感動詞・感動助詞のように主観的表現をなし、他の活用形を具えた助動詞は客観的表現をなすのではなかろうか。(4)時枝の言語過程説では、主観的表現の語句を「辞」呼び、客観的表現の語句を「詞」と分類しているが、今回提唱する分類には適合しないので、主観的表現の語句を「主観表現」の語、あるいはmodusと呼び、客観的表現の語句を「客観的表現」の語、あるいはdictumの語と呼んでいただきたいと思う。

これは、表題からも判る通り、言語過程説で言う主体的表現と客体的表現を主観的表現と客観的表現にすり替えて、一部の形の変わらない助動詞の終止形だけが主観的表現の語とするものです。これまで、<助動詞>とは何か、<指定の助動詞>「だ」の本質とは何かを辿って来た視点から見れば、主観的・客観的の語義を理解できず、言語の表現とは何かも理解出来ていない形式主義的、機能主義的言語観の誤謬の論であることは明らかかと思います。当然、時枝は同巻の五号に【金田一春彦氏の「不変化助動詞の本質」を読んで】を寄せ、その誤りを指摘しています。同誌には水谷静夫の【金田一春彦氏「不変化助動詞の本質」に質す】も掲載されています。時枝は、その稿の結びで次のように記しています。

……氏の論旨をつきつめていけば、氏の立場において、主観的表現など云ふものは、当然考へ得られない筈なのである。

以上のような不合理は、どこから来るかと云えば、詞と辞の表現性、即ち、ある内容を客体化して表現するか否かといふことを全然不問に付して、ただその語が客観的事実を表現しているか否かの点だけから語性を決定しようとされたことから来たことである。しかしながら、これも、氏独自の文法体系の原理としてならば、自由であるが、言語過程説における詞辞論に対する批判といふことになれば、それは全く的を外れた所論であると云わなければならないのである。言語過程説における詞辞論の批判は、何よりも、主体的客体的といふ表現過程の別を考へることが、はたして正しいか否かの点に向けられなければならなかったのであるが、氏の論文は、それらの点には全く触れられるところが無かったのである。

以上、私は、金田一氏の所説の中、ただ私の学説に向けられた批判の点についてのみ釈明を試みて、他の点については、今回は保留しておきたいと思うのである。

 これに対し、金田一は同巻九号に「不変化助動詞の本質、再論―時枝博士・水谷氏・両家に答えて―」で返答していますが、全く時枝の主旨は理解されず平行線を辿って終わっています。そして、この金田一の誤りが渡辺実の『国語構文論』や尾上圭介の『文法と意味<1>』他の論に引き継がれ現在も大きな影響を与えています。ちなみに、尾上の先の著書には「不変化助動詞とは何か―叙法論と主観表現要素論の分岐点」(『国語と国文学』平成二十四年三月号 八十九巻第三号)他が集録されています。

 この要約だけでは、金田一の主張は良く理解いただけないと思いますが、そもそも言語表現そのものが主観的であるのは言うまでもないことであり、その内容が客観的であるか否かは別の問題です。対象―認識―表現の過程的構造、表現を支える認識とその相対的独立が理解されていません。先に紹介した野村剛史「助動詞とは何か―その批判的再検討―」でも主観―客観の関係が正しく理解されていません。これらの具体的な紹介と批判は別途とし、まず金田一の論で<助動詞>と<指定の助動詞>「だ」がどのように扱われているかを確認してみます。■

  
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2015年11月20日

助動詞「だ」について(14)

    <助動詞>「だ」の捉え方(1)

 <助動詞>「だ」が主体的表現で、話者の肯定判断を表す語であり、客体的表現の<動詞>は実体の属性を時間的な変化、運動し、発展するものとして捉え表現するもので全く異なる語であることを見て来ました。

 これは、時枝誠記による言語とは表現の一種であり、表現過程の一形式であるとする言語過程説の提起を唯物弁証法により基礎づけた三浦つとむが助動詞の本質を明らかにすることにより到達した地点です。しかし、時枝の主体的表現と客体的表現という区分は発表当時より種々の疑問や、反対意見が表明され現在も受け入れられてはいません。ソシュールの言語実体観に対する批判自体をソシュール言語学の誤読とする批判が現在も主流を成し、主体的表現と客体的表現という区分も受け入れられてはいません。その現状はたとえば、釘貫亨『「国語学」の形成と水脈 (ひつじ研究叢書(言語編)113)』(2013刊)が、服部四郎によるソシュール批判の『一般言語学講義』に対する看過できない誤解の存在の指摘により「今日その学理性が論議されることがなくなった」と評する情況です。また、フランス文学者の松澤和宏「ソシュールの翻訳と解釈―時枝誠記による『一般言語学講義』批判をめぐる予備的考察―」(名古屋大学大学院文学研究科,2010)が、

 時枝が批判したラングとは『講義』の編著者によってこの根源的二重性が解体され、二項対立に還元された末の一辞項に過ぎず、したがってソシュール的ラングの残骸であったと言ってもけっして過言ではないのである。時枝のソシュール批判を文献学の観点から検討することを通して、言語過程説において概念と聴覚映像を結びつける箇所に本来働いている筈のラングの不在が浮き彫りになると同時に『講義』が遮蔽した言語の二重性が、まさに否定的に浮かびあがってくるのである。

 と記すように、言語規範としてのラングの本質を指摘するところまでには時枝は進めませんでした。しかし、川島正平『言語過程説の研究』が次のように述べている事実は、正しく受け継ぎ発展させられなければなりません。

 ソシュールの犯した最大の過ちは、言語を表現として、物質としてとらえなかったこと、そして言語の過程的構造において、表現主体の認識する独自の概念の存在を無視してしまったことにあります。つまり、彼は言語をただ精神的なものとしてきわめて平面的に扱うと同時に、そこに人間の意志、人間の能動的な精神作用の介入してくる道を塞いでしまっているのです。時枝のソシュール批判の本質はここに起因するものと思われますが、この意味で、彼がソシュールを頂点とする近代言語学の理論を「人間喪失の言語理論」(『国語問題のために』)皮肉ったことも、まんざら的をはずした戯れ言とはいえないのです。ソシュールにとって、言語とは「音の心的な刻印」でありその本質は「関係」である、ということになるでしょう。けれども今日の言語過程説の立場からするならば、言語とは表現すなわち物質であり、かつその本質は「関係」である、ということになります。このように実体と属性を統一してとらえ、その背後に存在する矛盾の構造を、すなわちその過程的構造を論理的にたぐっていかなければ、言語の本質は解明できないのです。

 時枝のソシュールに対する構成主義的言語観、言語実体観批判を理解できなかった国語学者は時枝の詞・辞論に種々の批判を投げかけていますが、その中で今日の国語学に大きな影響を与えているのが金田一春彦の「不変化助動詞の本質」や「国語動詞の一分類」「日本語動詞のテンスとアスぺクト」等の論考です。工藤浩の「三鷹日本語研究所」―文法研究ノート抄 その2―「■不変化助動詞」でも、

  「不変化助動詞」という現代日本文法学の基本的な みかた(paradigm)も、人間でいえば、もう来年で還暦を むかえようとしている。半世紀以上にわたって現代日本文法学を支配しつづけてきた、ねづよい迷信ともいっていい。「20世紀後半の基本思潮」とでもいうべき過去の思想にはやくなってほしいのだが。迷信にも一理あり、よってきたかんがえのみちすじを たどってみよう。

 と考察を重ねていますが、教科研文法のparadigmで解明できるとは思われません。これは、現在のモダリティー論に繋がる問題でもあり別途根本的な批判を展開したいと思いますが、まずはテーマである<助動詞>「だ」がどのように扱われているのかを見ましょう。それにしても、「不変化助動詞の本質」というタイトル自体が正に形式主義的な見方であることに限界を感じてしまいますが、その当否はおのずと明らかになるのではと思われます。

  
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2015年11月18日

助動詞「だ」について(13)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
    <助動詞>「だ」の自立した使い方について(5)

  <助動詞>「だ」が主体的表現で、話者の肯定判断を表す語であり、客体的表現の<動詞>は実体の属性を時間的な変化、運動し、発展するものとして捉え表現するもので、全く異なる語であることを見て来ました。さらに、「だということです」、「ですが面会は致しかねます」等と日常会話で上の語なしに自立して使われる事実は、「だ」が一語であることを示し、内容的には話者の相手の言葉に対する追体験媒介として、相手の判断に結びついている場合や、追体験を媒介として聞き手の思想を形成し、聞き手独自の判断を示すという媒介関係にある判断辞であることを確認してきました。

 劉論文では、<形式動詞>説に対する反論として、<「だ」は助動詞であり、その前に復元可能な要素が省略されているという見方>を想定し、反論していますが、単に形式的な復元可能な要素ではなく、相手の判断とその追判断を捉えられないと正しい反論とはなりません。この追体験の問題は、「だ」「です」という接続助詞の問題に繋がっていきます。しかし、現在の言語学では追体験の問題を取り上げていません。この原因を三浦つとむは、次のように明らかにしています。

 西欧の言語学は、追体験をとりあげていない。なぜか?それは、追体験がソシュールのいうところの「言語活動(ランガージュ)」に属するものであって、「言語(ラング)」に属するものではないからである。具体的な言語表現と理解の過程的構造を言語学からタナあげして、言語規範のありかただけをとりあげているからである。言語学が「言(パロール)の運用によって、同一社会に属する話手たちの頭の中に貯蔵された財宝」だけを問題にしている限り、聞き手は話し手と同様にその「財宝」すなわち言語規範の持ち主であるというだけのことで、追体験問題は理論的にネグられてしまっている。現在支配的な地位を占めている構造言語学にしてもこのことに変わりはない。しかしながら、さきに見たように、話し手にしても文と文との接続においては、先行文における自分の判断を再判断して、「だが」とか「だから」とか表現しているのであって、「言語活動」における具体的な認識のありかたを問題にしないかぎり、聞き手の追体験はもちろんのこと話し手の<接続詞>の文法的な説明すら不可能なのである。

 (『認識と言語の理論 第三部』(1972)―追体験による表現の展開 五 <接続助詞>と<接続詞>との連関―)

 ソシュール言語学の亜流でしかない現在の言語学、文法論では本質的に扱いえない論理的構造になっていることが判ります。談話レベルの<助動詞>の在り方に疑問をだいたのは鋭い着眼ではありますが、それを解明する論理的支えが無いため、形式論、機能論の混迷に迷い込む他ないことを本論文は明らかにしています。

これで本論文の批判は終わりましたが、<助動詞>「だ」や<助動詞>そのものが他にどのように論じられているかを次に見てみましょう。■

  
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2015年11月16日

助動詞「だ」について(12)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
  <助動詞>「だ」の自立した使い方について(4)

  <助動詞>「だ」が客体的表現である、<動詞>の中の<形式動詞>とされたのですが<動詞>はどのように定義されているのでしょうか。リンク先では、次の通りです。

 動詞…自立語で活用があり、動作・作用・存在を表す単語で、述語になる単語。

     言い切りの形が「ウ」段で終わる。[笑う(u) 書く(ku) 寝る(ru)]

 これも形式と共に意味、機能が挙げられ述語になる単語とされています。客体的表現である<動詞>の本質はどのように捉えられるのでしょうか。

 日本語は、言語形態として膠着語あるいは粘着語と呼ばれています。プロイセンの外交官、言語学者でフンボルト大学の創設者でもあった、カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt1767622日~183548日)が1836年に提唱した形態論上の分類で、西欧の屈折語と対比されます。日本語は「彼 本 持つ」と客体的表現の語を並べただけでは不完全な表現であり、「彼は本を持っています。」と<助詞>、<助動詞>を使って語を粘着的に連結して初めて文として完全な表現となるところに大きな特徴があります。屈折語である英語の場合は「He has a book.」と語を区切って表現し、「彼 持つ  本」で表現として完全なのです。そして、「彼は本を持っていた。」と過去形になれば、「He had a book.」となります。この場合、<動詞>「has」は「have」の三人称現在形で、主語が三人称であり、現在であるという時制認識を表し、過去形の場合の助動詞「た」は動詞の屈折が担っています。<助詞>「は」「を」の表現は省略されていますが、SVOという文型規範により主格、目的格という格を名詞が担っています。このように屈折語にも日本語の<助詞>、<助動詞>に相当する内容は存在していますが、その表現を省略したり、あるいは一語の形式をとらずに単語の語形変化で表現したりする場合が多いのです。そのため、形式上は自立した一語でも、内容は多面的・立体的なものになります。しかも<動詞>に見られるように、単なる多面性ではなく動作、人称、時制という客体的表現と主体的表現という対立した性格の認識を表現した部分が癒着し結合しています。しかし、膠着語である日本語の単語は名詞でも動詞でも単独の概念を裸体的に表現するだけです。これこそが、膠着語と言われる日本語全体の特徴で、内容における「裸体的」性格と形式における「粘着的」連結とを相伴うところの言語形態なのです。

 このような、日本語の裸体的性格を踏まえれば、<動詞>は対象の属性を運動し発展する時間的に変化するものとして認識し表現するもので、この認識だけを表現しています。時間的に変化しない静的な属性は形容詞として表現されます。そしてこれら客体的表現の語に、話者の判断、感情、意志等を客体化することなく表現した主体的表現を組み合わせることにより一纏まりの思想を文として表現します。このように本質的に異なる表現である、客体的表現の<詞>と主体的表現である<辞>を混同してしまうのは、本質ではなく形式と機能を基に語を分類した論理的強制ということになります。

 この論文では助動詞「だ」が<形式動詞>とされますが、この内容も定義されていません。対象となっている属性について具体的に知らなかったり、知っていても簡単にしか表現できなかったり、簡単な表現で足りる場合は抽象的な内容の語で表現します。動的な表現では、

   どこにあるのか。        (ある)

   どうするつもりか。       (する)

   誰かいるのか。         (いる)

   どうなるだろうか。       (なる)

   こうやるのだ。         (やる)

   そうしてもらうか。       (もらう)

   そうなさい。          (なす)

   よろしくお願いいたします。   (いたす)

等があります。これらの<動詞>が<形式動詞>と呼ばれています。これらは、具体的な内容を持つ<動詞>と組み合わせて、「空を飛んでいる。」「川が流れている。」「捜査を依頼してある。」「窓が開いている。」等と使用され、対象の属性を具体的と抽象的にとらえ立体的に表現しています。そして、「誰か居るだろう!」「誰が居るの!」のように<指定の助動詞>「だ」と組み合わせ使われます。

主語、述語というのは屈折語の文がSVO、SVOC等の文型を言語規範として持ち、主語と述語の間に人称等の結び付きが対応している所から生まれた、スーツケース型の定形表現に見られる、文中の語・句の持つ機能の名称であり、この機能をもとに品詞を分類することはできません。

<助動詞>の表現としての本質を捉えることが出来ずに「実質的な概念内容を持たず」とするしかなく、記述文法、教科研文法のように「文法的機能」や、本論文の生成文法のように「述語を代用する働き」を本質とすり替えている現状では科学的な言語論、文法論を築くことはできません。■

  
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2015年11月14日

助動詞「だ」について(11)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
      <助動詞>「だ」の自立した使い方について(3)

 これまで、<「だ」はいわゆる助動詞ではなく、特殊な用言であることを物語っている>と言う解釈が誤りであり、「特殊な用言」ではなく正に助動詞であることを見てきました。この誤った、結論に基づき、

  「だ」自体は実質的な意味を持たないにもかかわらず、談話の中で文脈や発話状況を受けて、自立語などを代用して実質的な意味を指し示すことが可能である。(10)

と、「だ」が意味をもたないことにされ、代用などという機能を「だ」に押しつけます。この誤りは、「だ」が肯定判断の表現であることが理解できないための論理的必然といえます。この注(10)では、<渡辺実 (1978) [1953]「叙述と陳述—述語文節の構造—」『日本の言語学』第3巻文法Ⅰ: 261-283,大修館書店.>を引用し、次のように記しています。

「だ」は体言を述語化するもので、述語の一部として扱うべきだと指摘している。また、「だ」が用言に接し得ない理由として、「だ」のもつ力は用言にはすでに備わっているからだと述べている。

これもまた、「だ」に「述語化する」機能を押し付けたり、「だ」のもつ力を用言に押し付けたりする謬見でしかありませんが、機能的発想ではそうならざるを得ないことになります。本論文もこうした機能的発想と、同類の生成文法の誤りが結びついた現在の言語学、国語学の誤りを反映した論文であることが判ります。

 そして、次の結論に至ります。

 本稿は「用言」説を支持し、「だ」は体言に接してそれを述語化することによって、「体言+だ」で述語をなすと主張する従来の論考 (渡辺19531971、寺村1982、北原1981、小泉2007) に基本的に賛同する。「雨が降る」「山が高い」といった発話における「降る」や「高い」が実質的な意味を持つ用言として単独で述語をなすのに対して、「彼は学生だ」「だといいけど」といった発話における「だ」は実質的な意味を持たずに、「体言+だ」で述語をなしたり、あるいは単独の「だ」で述語を代用したりする11。本稿では、それ自体が実質的な概念内容を持たずに、本来述語でない語句を述語化するあるいは述語を代用する働きを持つ「だ」の機能を形式動詞である「だ」の機能として捉えたい。

  ここで言われている、<「雨が降る」「山が高い」といった発話における「降る」や「高い」が実質的な意味を持つ用言として単独で述語をなす>というのは、先に指摘した「雨が降る■」「山が高い■」と判断辞が零記号になっていることが理解出来ない形式論理の産物であり、<動詞>「降る」や<形容詞>「高い」に判断辞の機能を押し付けたものです。山田孝雄の「用言の用言たる特徴は実にその陳述の作用を表す点にあり。」という主張と同じ誤りです。そして、その淵源は西欧文法の<動詞>解釈にあります。

 この機能的発想から、<辞>である<助動詞>「だ」を客体的表現である<詞>の<形式動詞>と見なす誤りに辿りつきます。次は、<動詞>とは何か、<形式動詞>とは何であるのかを検討しておきましょう。■  
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2015年11月13日

助動詞「だ」について(10)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   <助動詞>「だ」の自立した使い方について(2)

 <(b) 形式上、「だ」は多くの助動詞に見られない単独用法を持つ。>とされる、「多くの助動詞」との差異について検討してみます。まず、次の指摘です。

 次の例(8)が非文であるように、同じく助動詞とされる「た」や「ない」「たい」「れる (られる) 」「せる (させる) (用言にしか接し得ない類のもの) は、自立語に付属しないと単独では使えない。

(8) A:昨日行ったよね。

B* たよ。

これは、<過去・完了の助動詞>「た」ですが、生成文法のプラグマティックな発想で「非文」と指摘するのみで、何故なのかを明らかにしていません。これまで、何度も指摘してきた通り過去の事態は話者の眼前にはなく直接対峙はできません。これに対峙するためには話者の観念的な自己分裂により過去に移行して過去の対象と対峙し認識、表現した後、現在に戻ってからそれが過去であることを示すために「た」と表現します。つまり、「た」と表現しているのは現在です。従って、過去と指摘すべき対象の認識、表現なしに「た」と言う事はありえないのです。一旦、過去への観念的な自己分裂による移行、認識があって後に「た」が表現されるのであり、そのような観念の運動なしに「た」だけが表現されることはありえないということです。否定の「ない」も同様で否定すべき対象の想像、認識なしに否定はできません。希望も同様です。そこに肯定判断との本質的な差異がありますが、主体的表現としての助動詞であることには変わりありません。受身謙譲可能使役が接尾語であることは既に指摘した通りです。

 次は、以下の通りです。

 一方、「らしい」や「だろう/でしょう」(体言と用言の両方に接し得る類のもの) といった助動詞には「だ」と似たような単独用法を持っていることが観察される。……一見「だ」の単独用法に似ているように見えるが、実際に幾つかの相違点が見られる。第一に、「らしい」「だろう/でしょう」はその前後に何も接せずに裸の形で用いられるのに対して、「だ」は裸の形では用いられない。

 第二に、次の例 (12) が示すように、単独の「だ」は補文内に現れるが、「らしい」「だろう/でしょう」

は単独では補文内に出現できない。第三に、各形式の単独用法以外の特徴であるが、「らしい」「だろ

う/でしょう」は直接動詞に接続できるが、日本語の標準語では「だ」は直接動詞に接続できない。

  第一の、「らしい」「だろう/でしょう」はその前後に何も接せずに裸の形で用いられる、というのは、「だろう」が<指定の助動詞>「だ」の「未然形」「だろ」+<推量の助動詞>「う」であり、「でしょう」が「です」の未然形「でしょ」に<推量の助動詞>「う」の付いたもので「だろう」の丁寧語であり、単独の「だ」の使用法に他なりません。また、「だ」が裸の形では用いられないのは次のような事情です。

通常、判断辞は零記号として表現ないことになっていますが、敬語化すれば表面に現れます。

  本がある■。→ 本があります。    本である■。 → 本であります

また、方言では「本があるだ。」という使い方をします。このため、方言では「んだ!」という「裸の形」で使用されますが、普通は、「そう■!」→「そうだ。」「そうです。」となり、「裸の形では用いられない」のです。このように、肯定判断は省略されやすいので「だが、それは……」のような会話でも「■が、それは……」と追体験の追判断が零記号となる時があります。

 また、「と思うんだけどね。」を例に上げて、「らしい」「だろう/でしょう」は単独では補文内に出現できないとしています。これは、「らしい」「だろう」+「と思うんだけどね。」とは繋がるが、丁寧形の「でしょう」とは、「でしょうと思うんですけどね。」と使用できなくはありませんが、「らしい」「だろう」「でしょう」が推量を表すため、「思う」と意味的に重なるところがあり、やや不自然さを感じます。

 第三は、<各形式の単独用法以外の特徴であるが、「らしい」「だろう/でしょう」は直接動詞に接続できるが、日本語の標準語では「だ」は直接動詞に接続できない>です。これは、「彼は家を買うらしい。」「彼は家を買うだろう。」「彼は家を買うでしょう。」とは言えるが、「彼は家を買うだ。」とは言えないと言っているようですが、全くの誤りであるのはこれまでの説明で明らかと思います、

 「彼は家を買うだろう。」は、「だ」の「未然形」「だろ」+「う」で「だ」が直接動詞に接続しています。「彼は家を買うでしょう。」は、この丁寧形です。そして、「彼は家を買う■。」の場合は零記号となっており、丁寧形になれば、「彼は家を買います。」と<敬辞>「ます」が表現されます。

 このように、すべて形式的、機能的な誤った解釈によるもので、何ら肯定判断を表す<指定の助動詞>「だ」の品詞の性質が「らしい」「だろう/でしょう」のそれと異ってはいません。語の認定、品詞分類自体が誤っていることが理解されていません。■

  
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2015年11月12日

助動詞「だ」について(9)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 (通巻 29 2010) 
   <助動詞>「だ」の自立した使い方について(1)

 劉 雅静論文で問題とされているのは、

   (2) 「桂太君かっこよくない!?」

       ね、一際目立ってるかも…」『虹色の約束』

に見られるような単独の<指定の助動詞>「だ」の使用法です。橋本文法や教科研文法では、付属語とか付属辞とよばれて、かならず上の語に付属することになっているため、<助動詞>とすることに疑問を呈されています。たしかに、「付属語で活用があり、体言・用言に意味を添える単語」とすると、「意味を添える」べき「体言・用言」が存在せずおかしなことになってしまいます。しかし、これまで見てきた通り形式や機能は語の本質ではなく、表現としての語の本質により品詞を決めねばなりません。従って、話者の主体的表現で、肯定判断を表す語として「だ」の使用法を検討しなければなりません。

 この論文では、最初に先行説の検討を行っています。それらは、すべて形式的、機能的な観点からの解釈でしかないのですが、その誤りを明らかに出来ずに同じ枠内でしか思考していません。時枝誠記の詞・辞の説もこれらと一括りにされています。言語とは、対象→認識→表現の過程的構造をもった表現であり、<指定の助動詞>「だ」もまたこの本質に基づく表現であることを基に論文を見直してみましょう。三項目の問題点が挙げられます。順次、検討しましょう。

 (a) 伝統文法で規定されている文法単位が話し言葉の分析において必ずしも有効ではない。

  この点は、これまで見てきた通り、伝統文法自体が形式や機能に頼った誤った分析ですので当然のことです。

 (b) 形式上、「だ」は多くの助動詞に見られない単独用法を持つ。

 例文に挙げられている通り、会話の場合には「だね」「だよね」「ですね」と使用され、これがいかなる使用法であるかを明らかにしなければなりません。これについては、三浦つとむの「<助動詞>と<助詞>の自立した使い方について」(『言語学と記号学』1977.7.10 勁草書房刊)という論文がありますので、これに依拠して例文(5)を検討してみましょう。

 (5) (いつも朝早くから出勤する田中さんの姿がいないことに気づいた社員たちのもとに課長がやってきた。

そして、課長が社員A に向かって)

「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということ

課長が座席に戻って行く。社員A が自分の後に座る社員B に、

そうです」/「ってさ」 (作例)

 この場合、課長の言った「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということで」という言葉を社員ABも同時に聞き、課長の立場にたって内容を追体験することにより内容を理解します。この理解のためには、聞き手は観念的な自己分裂によって観念的な自分が相手の立場に立ち、追体験をすすめていきます。課長の「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということ」という表現を理解しようとするなら、追体験によって社長の体験を繰り返すことにより「だ」の連用形「で」をも追体験します。つまり、追判断が行われます。社員ABに、この体験を念押しのため表現する場合、この追体験をいま一度表現し、課長の言葉を「そう」と指定することにより、「そうです」となり、「だいうことさ」の「と」が「って」となり「いうこと」が省略されて「ってさ」となることにより、助動詞「だ」が文の先頭に現れます。これは、形式的には「だ」が自立していると同時に、内容的には追体験を媒介にして相手の判断に結びついているわけです

 さらに、三浦の論を筆者の責任で読みやすくアレンジし引用します。

判断辞が文の先頭に使われるのは、多くはこのような相手の追判断の表現ですが、相手の判断に直接結びついていない場合もあります。たとえば、面会時間におくれてやって来た相手が、「何とかとりついでくれませんか。事故で遅れたものですから。」と訴えた場合、聞き手はこれを追体験して、もっともと一応肯定しはしますが、とはいえ規則だからどうにもならないと考えた場合は、忠実に表現するならば、「それはそうです」とか「ごもっともです」とか、まず事情を肯定する形となりますが、「それはそう」「ごもっとも」を略して、肯定判断辞の「です」から表現するなら、ごもっともですが面会はいたしかねます。」が「ですが面会は致しかねます。」になり「です」が先頭にあらわれます。「です」に続く「が」は<接続助詞>で、逆説とよばれる使用法です。何に対して逆かといえば、表現されていない肯定した思想です。この「です」は相手の判断に直接むすびついているのではなく、追体験を媒介として聞き手の思想を形成し、聞き手独自の判断を示すという、媒介関係にある判断辞なのです。

 会話だけでなく、別れの挨拶をしたり、仲間に声をかけたりする場合にも、自分の思想を形成しいその判断を文の先頭に示しています。いろいろ考え合わせてみて、訪問の目的はこれで達したなとか、これではいくら話かけても拒否されるだけ無駄だとか、別の訪問客が来たので話さないのが賢明だとか、それなりに独自の判断を行って、「はこのへんで。」と表現します。あるいは、このくらい休憩すればみんなの疲れもいくらかとれたろう、出発する時が来たと判断して、「では行こうか」と表現してよびかけます。(引用終わり)

  このように見てくれば、肯定判断を表す<指定の助動詞>「だ」として論理的、合理的な使用法であり、談話という場面、前提を共有した直接的な文のやり取りという場で話者の追体験に対する判断辞が先頭に現れる文であることが判ります。

 この、言語表現の本質である過程的構造を理解出来ずに、言語実体観によりすべてを文・語の機能として理解するしかないところにこの論文の本質的な欠陥があります。それは、現在の言語学、国語学、日本語学の本質的な欠陥であり、時枝誠記が言語を表現と看破したコペルニクス的転回以前の学でしかないということです。

 次に、ここに言われている「多くの助動詞に見られない単独用法」とは何なのかを検討しましょう。■

  
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2015年11月11日

助動詞「だ」について(8)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
  <助動詞>とは何か

  現在の学校文法では助動詞>は、「付属語で活用があり、体言・用言に意味を添える単語」と形式的な規定を、「体言・用言に意味を添える」という機能主義で補強しています。このためリンク先の表にもある通り、<比況・例示・推定の助動詞>として「ようだ」、さらに、<伝聞の助動詞>「そうだ」と<様態の助動詞><そうだ>などが入っています。

しかし、これまで見てきたように語とは<表現主体が無意識的に運用しているところの規範において決定される>ものであり、語の分類にとってもっとも根本的なものは、<客体的表現と主体的表現のいずれに属するかという分類>からは、まず<助詞><助動詞><感動詞>等は<主体的表現>の語である<辞>として捉えられねばなりません。そして<助動詞>は話者の肯定判断、否定(打消し)判断、推量、その他を表現しています。これこそが、<助動詞>の本質的と言えます。<助動詞>という名称は英文法のAuxiliary verbを翻訳したものですが、日本語の<助動詞>は英語とは異質な、肯定判断、否定(打消し)判断、推量、その他を表現する主体的表現の語です。

このため、三浦つとむは、昔学者が使った<動辞>という名称を復活するのが妥当と提起しています。さらに、時枝はこの辞としての助動詞の定義から、『国語学原論』で新たに辞と認むべき「あり」及び「なし」の一用法辞より除外すべき受身可能使役謙譲の助動詞>を論じています。まず「あり」についてです。

 a. ここに梅の木がある。   b. これは梅の木である。

 aの「が」に続く「ある」は存在を表す<動詞>ですが、bの「で」に続く「ある」は判断的陳述を表しています。この「ある」は<動詞>から<助動詞>へ転成したものです。橋本文法では、補助動詞とされ、山田文法では「ある」を<存在詞>として別扱いしてこの違いを認識していません。bの「で」は肯定判断(断定)を表す<指定の助動詞>「だ」の連用形であり、判断辞の重加により肯定判断が強調されています。さらに強調を重ね「あるあります。」と、間に形式名詞の「の」を挟んで使用されます。橋本文法では、<補助動詞>とされ、山田文法では、「ある」は<存在詞>として一括特別扱いされています。

 また、動詞「ある」に対し「なし」は本来「お金がない」のように形容詞ですが、これが、「花が咲かない。」のように否定の判断辞となり<助動詞>に転成しています。橋本文法では<助動詞>に入れられていますが、山田文法では<動詞><存在詞>の複語尾とされています。これについては、以前〔山田孝雄(やまだよしお)の<助動詞>「複語尾」説 15〕で取り上げました。

 受身可能使役謙譲の<助動詞>、「れる られる」「す せる させる」は客体的表現であり<助動詞>から除いて<接尾語>に入れるべきと正当な主張をしています。

 さらに最初に記したように、<比況・例示・推定の助動詞>として「ようだ」、さらに、<伝聞の助動詞>「そうだ」と<様態の助動詞><そうだ>などが入っていますが、これらも助動詞ではないことを論じています。「ようだ」は<助動詞>「よう」+「だ」、「そうだ」は接尾語「そう」+<助動詞>「だ」と二語よりなっています。

 また、過去・完了の「た」が客体的表現ではなく、主体的表現である<辞>であることは、以前新聞記事に見る時制表現について〕で、

  過去現在未来は、属性ではなく、時間的な存在である二者の間あるいは二つのありかたの間の相対的な関係をさす言葉にほかなりません。……過去から現在への対象の変化は、現実そのものの持つ動きです。これを、言語は、話し手自身の観念的な動きによって表現します

と記した通りです。このような、助動詞、時制が現在も形式主義、機能主義的な国語学で正しく理解されていないのは、野村剛史稿「助動詞とは何か―その批判的再検討―」や、北原保雄著『日本語助動詞の研究』で「いわゆる助動詞」と記して明確な助動詞の定義が出来ないことからも明らかです。

 もっとも多く使われる<助動詞>が肯定判断を表す「ある」「だ」の系列で、これを<指定の助動詞>とよび、<敬辞>化したものが「です」「ます」の<敬意の助動詞>です。この<指定の助動詞>「だ」の本質である肯定判断に基づき、劉 雅静氏の論考を検討してみましょう。

  
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2015年11月09日

助動詞「だ」について(7)

   
談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   語とは何か (6)

  三浦つとむ「語の分類について― 二 時枝誠記は客観主義に反対する」の引用を続けます。(注は省略)
 そこで時枝は、「言語の客体的存在としての把握を脱却して、言語をあるがま々の存在として、即ち主体的経験として、これを把握する」という、過程的言語観の立場から、「単位としての単語の本質を主体的な言語経験に於いて規定しようとする」のである。つまり言語の思想的単位を、表現主体から切りはなして客体的存在として扱うのではなく、表現主体自身の認識に求め主体的存在として扱い単語の本質をこのような一概念の音声に表現せられる一回的過程」に求めるのであって、それとともにつぎのような事実に注意を求めている。

 極単にいえば、甲によって単語として経験されたものが、乙には単語の結合即ち複合語として経験されることがありえるということである。しかしながさ、このことは当然認めなければならないことであって、時代を経、土地を隔てるならば右の様なことは当然起こり得ることであって、過去に二単語であったものが現今一単語として経験されることのあるのは寧ろ自然の事実であって、客観的に或語が過去の現在を通じて一単位であると断定されることが寧ろ事実に反すると考えなければならない。……

……「白墨」は現今の主体的意識に於いては「白い」「墨」といふ二個の概念単位に還元されるのではなくして、「チョーク」という一概念単位を表すに過ぎない。従って「赤い白墨」「青い白墨」といふことが可能なのであつて、若し主体的意識に於いて「白墨」が二の概念に分析されるとしたら、「赤い白墨」といふが如きは全く非論理的表現といはなければならない。

 日常生活でも同様の例が少なくない。「茶碗」ははじめ「茶」を注ぐ「碗」として二個の概念から成っていたのであろうが、現在では「茶」という意識は消滅して陶器の一種をさすこととなり、飯を盛る器でも、「茶碗」とよぶ。「薬罐」も同じように「薬」という意識は消滅して金属製の湯わかしをさすこととなり、落語のように「矢」が当ってカーンと音がしたから「ヤカン」なのだとこじつけることさえ行われている。しかしながら、「鉄瓶」はいまもって二個の概念から成っており、鉄製のものにしか用いられてない。「とうなす」「とうがらし」における「唐」すなわち中国産の意識も消滅しているし、「とうもろこし」に至っては「もろこし」がそもそも「唐」の意味でありながら植物の名となり、さらに「唐」を意識して加えたところそれすらも意識から消滅して、現在では「とうもろこし」全体が植物についての一概念である。「さつまいも」の「薩摩」という国の意識も消滅して、芋の一種を指す名となった。語の内容についても、辞書の説明どおりに解釈すれば正しいとはいえないのであって、流行語の「ハレンチ」は内容的に「破廉恥」とまったく異なっているから、これも表現主体の意識いかんから説明しなければならぬことは明白である。時枝の言語観は言語規範をネグっているから、正しくいいなおすと、一の語であるか否かは客観主義的に辞書的に規定された規範においてではなく、表現主体が無意識的に運用しているところの規範において決定されるのである。これが本質的な分類の基準である。すなわち、圧倒的多数の表現主体によって現に運用されている規範が、一般的な分類の基準となるわけであるから、時と場所から規定された相対的な分類となるので、絶対化してはならない。

それでは言語にとってもっとも根本的な語の分類は、どんな内容をもつものであろうか?それを把握するには、これまでの言語学がとらえることのできなかった言語の表現としての本質的な特徴を見なければならない。絵画や写真が客体的表現と主体的表現との直接的な統一であるのに対して、言語ではこの二種の表現が分離して別個の語によって行われることを、私は『日本語はどういう言語か』以後指摘してきた。語の分類にとってもっとも根本的なものは、この客体的表現と主体的表現のいづれに属するかという分類であって、これは日本語のみならずあらゆる言語に妥当する。松下大三郎があらゆる言語に普遍的な一般文法を論じて、<文節>的なものを<単性詞>と<複性詞>に先ず分類したのは、言語表現の本質を把握することなく与えられた言語表現の論理構造で区別するという、構造論的発想に自分をおしこめていた結果であった。

時枝が鈴木朖の言語観における<詞>と<辞>の区別に注目し、これを客体的表現と主体的表現との区別と受けとって西欧の言語学を超えたものと評価し、「この事実は、文法における品詞分類の第一基準として、文法学に重大な変革をもたらすものでなければならない」と主張したことは正当である。現在行われている<詞>と<辞>の区別は、橋本や空西に見るように内容における本質的な差異を意味するものではなく、形式における独立非独立に修正されているのであるから、朖の真意を読みとってここに分類の根本的な基準を置いた時枝の功績は高く評価されなければならない。けれども先の分類の一般論に照らして考えるなら、朖の言語観の再発見によってまず内容についての大きな分類を行うという仕事がようやく達成されたにすぎないのである。一般論として正しくとらえたということは、さらに具体化していく場合にすべて正しということを意味しない。蝙蝠を鳥ととらえ鯨を魚ととらえるような誤りは訂正しても、鳥と獣の中間に位置するような動物や生物と無生物の中間に位置するような存在にぶつかって、あれかこれかと機械的に区別することの限界を思い知らされる事実は、言語学にとっても教訓的である。すべての語が<詞>と<辞>に機械的に分類できるわけではなく、中間に位置するような存在にもぶつかるのだが、このときにこんどはそれまでの発想の裏返しに転落して、<詞>と<辞>を区別してきたことまで疑い、この区別をなげすててしまう学者が出てくるであろうと予想することもできる。》

 このような、語とは何かの本質的な定義もなく、語の分類にとってもっとも根本的なものが何かを捉えることもできずに、語の機能と形式にたよって分類を繰り返している現在の言語学では、助動詞とは何かを明らかにすることさえ出来ません。「語の分類について」は、さらに山田の分類と「<体言><用言>とは何をさすか」が論じられますが、これは後日、必要に応じて参照することとします。この、語の本質的な分類に基づき、次に助動詞とは何かを明らかにしましょう。■

  
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2015年11月08日

助動詞「だ」について(6)

言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   語とは何か。(5)

 三浦つとむ「語の分類について ― 二 時枝誠記は客観主義に反対する」の引用を続けます。(注は省略)

 英語学者の空西哲郎はつぎのような分類表を提出した。

 

 

体 言

名 詞

代 名 詞

形式名詞

 

用言

動   詞

形 容 詞

付 属 動 詞

付属形容詞

付属用言

 

副  詞

 

助  

接 続 詞

 

  体言は「もの」「こと」を表す語であるが、名詞の「机、人間、花」は総称的、共時的、一般的な語であって、それだけで独立した意味を有している。ところが代名詞の「それ、かれ、君」は文脈(context)や環境(situation)を抜きにしては意味がはっきりつかめないものである。言い換えると、代名詞は名詞と違って、独立性の乏しい語である。つまり辞である。……代名詞が辞であるのは、たとえば「それ」「かれ」がそれだけで独立して使えないからというのではなく、「それ」「かれ」がそれ自体では、名詞のような総称的、共時的、一般的な意味を伝えることができないからなのである。ところが、形式名詞が辞であるのは、たとえば「こと」「もの」が「……ということ」「……するもの」というふうに、他の語句につづかなければ使われない語、という意味で言うのである。辞といわれるものは、この後の意味で用いられるのが普通であろうが、代名詞を辞とみることも、独立性の乏しい点では、不当ではあるまいと思う。

 空西が<付属動詞>と<付属形容詞>、またはひっくるめて<付属用言>とよんでいるのは、いわゆる<助動詞>である。英語学者が日本語を論じるときには、英語の文法がプロクルステスの寝台になって、膠着語の表現構造が屈折語的に切断されることが多いが、空西の扱いかたもそうである。日本語における<活用>は英語の「屈折」に近いものと解釈され、<接尾語>の「れる」もこれまた<動詞>の<活用>の形態にぶちこまれる。明治二十二年に大槻文彦が批判した「洋文法ノ忠臣」と同じことを主張しているわけである。

  「子供たち」の「たち」は接尾語としてcodeから切り離し、「お手紙」の「お」は接頭辞としてcodeから切り離す。このような接辞は語としては取り扱わないから、品詞を決める必要もないのである。

 これでは日本語の膠着語としての特徴に規定された語彙である、敬語についての体系的な理論は出てこない。「おみ足」という場合には、「足」に古い敬語の「み」だけでなく、さらに口語の敬語「お」を加えて強めた、敬語の重加である。「お」「み」がそれぞれ一定の意味を持つからこそこのような表現がなされたのである。「で」「ある」と判断の<助辞>を重加するのと似ている。これに対して「おみくじ」は、はじめわれわれのこしらえる「くじ」に対して神社仏閣のそれを敬語化し、「み社」「み仏」というのと同様に「みくじ」と言ったのであろうが、口語で「お」を加えることによって「み」は敬語の意識を失い、いわば「籤」から「籤」に、特殊なくじの意味に変わったものと考えられる。「おみき」「おみこし」も同じであろう。

 山田ないし橋本流の発想は、独立非独立を基準とする点で形式主義ということができるが、形式主義としては中途半端であり、さらに極端におしすすめたところに位置づけられるのが、かつての松下大三郎と現在の教科研の文法論である。橋本は、山田文法と松下文法とを部分的にとりいれたのであって、松下のように極端なところへまでは行かなかった。橋本は、音声で表現するときに実際に区切って発音される部分を一つの単位としてとりあげて、これを<文節>とよんだ。右の時枝の説明にもあるようにこの文節を構成する語をさらに独立非独立で区別して、詞と辞と名づけた。松下は橋本のいう<文節>それ自体を一品詞と見て、これを詞とよび、<助詞><助動詞>のようなものはこの詞をつくる材料(原辞と呼ぶ)でしかないから、一品詞とは認めなかったが、橋本はそこまで伝統的な文法論から逸脱しなかったわけである。ところが教科研文法は、橋本文法の批判者として登場し、これを事実上松下文法的に改作して、われこそ科学的文法なりと主張しているのである。教科研文法では、橋本のいう<文節>それ自体を一語と解釈し、橋本文法の<付属辞>や<補助用言>はすべて一語とは認めない。「学生ではなかったでしょう。」も<名詞>の<用言なみの語形>で一語であると規定する。

 時枝は山田ないし橋本流の発想と対立して、その形式主義を拒否しながら同様に一つの語とは何かを検討した。彼は『国語学言論』において、言語を表現主体の活動から切りはなして「専ら客体的表現として考えようとする処の主知的立場」、正しくいえば客観主義が言語学において伝統的なものであることを指摘し、つぎのようにその弱点をついて客観主義からの脱却を主張する。

  か々る見地に立つ処の単位としての単語の本質は、一方には概念単位によって決定せられ、他方音声群によって分割せられるとする。概念および音声は、相互に相手方としての役割を持ってゐる。こ々に一方には思想的単位を以て単語認定の基準とする内容主義が成立し、他方には音声群の終止や音調を以て基準とする形式主義が対立する。音声・概念の結合を以てする構成的言語観に立つ限り、右の二の対立は避けることが出来ない。》

  劉 雅静氏の論文では時枝のこの主張は無視され、<表1「だ」を「助動詞」と見なす先行研究>のなかに、<「だ」は独立して一文の文頭に用いられないことや独立せず、常に他の語に伴って現れるといったことが主張されている>、松下・橋本他と纏めてひと括りにされています。■

  
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2015年11月07日

助動詞「だ」について(5)

言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
  語とは何か。(4)

 続けて、三浦つとむ「語の分類について ― 二 時枝誠記は客観主義に反対する」を見て行きます。

 時枝は山田の述べた分類の基準を、『国語学言論』でつぎのように批判した。

 ……山田博士は、これを具象的な独立観念の有無といふことで説明されようとするのであるが、てにをは或は詞といはれるものが、他の語に比較して具象的な独立観念を持たないかといふのに、必ずしもさうとは云えないのである。博士が、観念語と云われるものの中にも、極めて抽象的な概念しかあらわさない「こと」「もの」のやうな語もあり、関係語の中にも、「か」「も」の如く疑問、強意の如き具象的な思想をあらはし得るものもあって、独立観念といふ点で、この両者を截然と分つことは困難である。山田博士は、更に独立的に思想をあらはし得るものと、さうでないものとの別を以て説明されようとする。この分類基準は、橋本進吉博士もとられたところのものであって、博士は語が文節を構成する手続きの上から、一はそれ自からで独立して文節を構成し得るもの、二は常に第一の語に伴って文節を構成し得るものに二大別され、前者を詞、後者を辞と命名された。しかしながら、語が独立して用いられるか否かといふことは、必ずしも絶対的なものでなく、語を分類する絶対的な条件とはすることが出来ないものである。例へば、用言の活用形、「行けば」の「行け」は、「ば」と結合してのみ用ゐられるものであって、「行け」はそれだけで文節を構成するものとは考へられない。また、「八百屋」「肉屋」の「屋」も、決してそれ自身独立して文節を構成するものとは考えられないにも拘はらず、「屋」を助詞の中に入れることはない。

<助詞><助動詞>はふつう独立して用いられないが、会話の場合にはしばしば独立することがある。「彼は私に気があるのよ。」「かもね。」とか、「この仕事をやってのけたらおやじも驚くぞ。」「だろうな。」とか、客体的表現の存在しないことが決して稀ではない。文法学者が会話における表現のありかたを正面からとりあげようとしない現状は、いろいろな意味で問題にする必要があろう。
 山田ないし橋本流の発想は、内容においてこれこそ基本的なものだという基準をとらえることができないために、その弱点を形式的な独立か非独立かでカヴァーするものである。それで内容で基準をとらえられない学者は、みな同じような発想になるけれども、内容をまったく無視するわけではないから、内容をどう考慮するかによっていろいろちがった分類が生まれてくる。》
 問題としている論稿は、正に<会話における表現のありかたを正面からとりあげようとしない現状>が、談話を取り上げるようになった現在での問題提起で、鋭い着眼です。しかし、何ゆえに<「だ」を「用言」と見なす先行研究>が4種類も存在するのか、<形式名詞>とは何であるかに疑問を抱くことなく、機能主義的な言語観の中で、新たな見解を加畳するだけという点に本質的な問題があります。
 さらに、この先でも明らかになるように先行研究の内容の検討が不十分であることが判ります。
 続けて、三浦の論の展開を見て行きましょう。■
  
Posted by mc1521 at 21:25Comments(0)TrackBack(0)文法