2015年09月30日

上野誠 著『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』に見る粗雑な鑑賞 (3)

 王維の本来の題が「送鼂監歸日本」であったものが「送祕書晁監還日本國」と「帰」が「還」に変えられています。

 これは、よく知られている通り別離の宴を催し「日本=ヒノモト」へ帰るべく出帆したのですが、途中台風に遭い船はヴェトナム方面に流され、結局唐へ戻る結果となってしまいます。そして、故国へ戻ることなく唐で没します。つまり、この事実を知った後で、往還の「還」の方がより適切との判断で直されたものといえます。これらの経緯を古田氏は次のように記しています。

  現在、この王維詩中の「九州」に対する“一般的理解”は、「九州=全世界(中国を含む全領域)」のようである。(中国を「赤県神州」と称し、その一とする。『史記』鄒衍伝)

 確かに、王維がこの「神仙的な超九州」概念を“意識”していたことは「万里空に乗ずるが若し」の表現からもうかがえよう。

 しかし原型たる極玄集のしめす「九州何処所」の表記は、やはり「具体的所在」としての「九州」であり、漠たる“不特定の拡がり全体”の称ではない。

 だからこそ後代(北宋・何宋代)の版家・校家はこの「所」の一字をきらい、「遠」や「去」へと“改ざん“すべき必要性があった。そのように率直に理解すべきではあるまいか。

 唐詩選のしめすところ、それは明らかに“改ざん”型であり、従来の注解・翻訳者のほとんどはこれに意を払わず、空しく「全世界」視してきたのである。

  この『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』の著者である上野誠氏も5年前の古田氏のこの指摘を無視し“改ざん“型を踏襲しているのです。その結果、仲麻呂を大和、奈良の出身とすることになり『古今和歌集』の、

  天の原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山に 出でし月かも

の歌の理解もまた誤る結果となってしまっています。

 著者は、「歌の聞き手と読み手には、今、作者がどこにいて、どこから、どこに出た月を見たかは、明示されていないのである。明示されているのは、昔、春日にある御蓋山の月を見たということだけである。」とし、これを推理するところにおもしろさがあるとします。さらに、左注にもとづき、

   仲麻呂が唐土の明州というところで、帰国送別宴の折に見た月。だから海辺の月ということになる。

  具体的に日時は確定できないが、留学の前に見た故郷の月、ということになる。

 と解釈します。しかし、この解釈では、「天の原」が単なる天の空となり、「ふりさけみれば」との繋がりも不明です。「かすが」「みかさ」との内的つながりも不明な散漫な歌となってしまいます。これでは、かつて古田氏が高校で教えた時、生徒から問い詰められた「春日っていうのは、中国でみんなが知っているそんなに有名な場所なんかい?」「なんでだ?」「なぜ、大和なる三笠の山と言わんのだい? 春日の方が有名なんかい?」という問いに答えることはできません。先にも記した通り、事実は古田氏が「『万葉集』は歴史をくつがえす」で述べた次の通りとなります。

  結論としてここ、奈良の歌ではない。だから阿倍仲麻呂が日本を離れて、壱岐の「天の原」で、月が上がるのを見て作ったとすると、よくわかる。ここで船は西むきに方向を変えるので、島影に入ると九州が見えなくなる。で、ふりかえって見ると、春日なる三笠の山がある。三笠の山は志賀島――金印で有名な――にもありますのでね、目の前に二つの三笠山がある。「筑紫なる」といったのではどちらの三笠山か分らぬ。宝満山なら「春日なる三笠の山」でよい。ですから全部の条件がピシャピシャと合ってきた。こうして解けてきた。そうすると、間違っていたのはまえがきの方だった。

 たしかに、仲麻呂は明州で、別れの宴で、この歌を歌ったと思いますよ。しかし、その場で作ったのか、前から作っておいたのを詠じたのかは別の問題。日本の使いが帰ってきて、この歌を伝えたのでしょう。しかし、そこ明州で作ったというのは編者の解釈、実は間違っていた。編者の頭には大和の三笠山しかなかった。のちの人は、まえがき、あとがきをもとにして解釈しようとしたから苦しんできた。歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認したのが、この歌だった。

  このように判明すれば、唐に向かう船が壱岐の「天の原」(遺跡の近く)に近づき、大宰府方面を振り返り故郷の「春日なる三笠の山」に出た月を詠んだのであり、各語が緊密に結びついた名歌であることが明らかになります。■

  
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2015年09月28日

上野誠 著『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』に見る粗雑な鑑賞 (2)

極玄』の古田氏による読み下しを記します。

  積水不可極  積水きわむべからず。

  安知滄海東  いずくんぞ滄海の東を知らん

九州何處所  九州いずれの所ぞ

萬里若乘空  万里、空に乗ずるがごとし

向國唯看日  国に向かいて、ただ日を看

歸帆但信風  帰帆ただ風にまかす

鼇身映天黑  鰲身(ごうしん)、天に映じて黒く

魚眼射波紅  魚眼、波を射て紅なり

樹扶桑外  郷樹は扶桑の外

主人孤島中  主人は孤島の中

離方異域  別離、まさに異域

音信若為通  音信、いかんか通ぜん 

撰者は姚合(779855)で、古田氏が『極玄集』について、「一番古い詩集である。これは9世紀、阿倍仲麻呂や王維がなくなってから百年も経っていない時期に、姚合(ようごう)によって編集された詩集である。彼自身は詩人でもあり、『唐詩選』の中に、彼の詩も二・三詩はある。その詩人の姚合が、八世紀以前の、七世紀ぐらいからの唐の初期の詩人の詩を編集したのが『極玄集』である。非常に古い。」と言われている通りです。先の趙殿成版では、「九州何處所」が「九州何處遠」と「所」→「遠」と直されています。身近にある『唐詩選()』(前野直彬注解:岩波文庫 229P)でも「遠」とし、「九州」を「ここでは中国の外にあると考えられた九つの世界をさす。」と注がついています。

このような改変がいつ頃なされたかを古田氏は調査し、南宋末(十三世紀後半)の『須渓先生校本・唐王右丞集』まで遡りうることが分かっています。これは、南宋という朱子学の時代に中華原理主義の立場から判断し校本を定めたものと見られます。つまり、本来「所」であったものをイデオロギーの立場から「遠」に直されたもので、王維が詠んだ詩の原型は『極玄集』であり、これにより解釈しなければならないということになります。先にみたように、趙殿成の『王右丞集箋注』にも注として、『全唐詩』によれば<九州何處遠……「遠」一作「所」>と記されていますが、上野氏はこれを無視していることになります。

 では、「所」→「遠」で何が異なるのでしょうか。読み下しのように、「所」の場合は、「仲麻呂が帰る九州とは何処にあるのか」という意味になります。「遠」と直された、先の『唐詩選()』では、「中国の外にあるという九つの世界の中で、どこが一番遠いのか(きっと君の故国、日本にちがいない)。」と解釈しています。中華原理主義の立場からは九州というのは「中国全土」、「全世界」という意味にとるしかなく、夷国に九州などあってはならぬという発想で書き変えたものということです。「中国全土」というのは、聖天子禹の治めた九州という意味合いになります。しかし、本来形は、九州=九州島こそが阿倍仲麻呂の帰り行くべき所であったことを示しています。これは、その後に「主人は孤島の中」と詠われていることからも明らかです。この「主人」とは宴を主催した仲麻呂です。唐の時代には倭国の九州がそのまま認められていたということです。

 さらに、古田氏は詩に付された長大な「序」の中に、

   卑彌遣使報以蛟龍之錦(卑彌、使を遣はす、報ゆるに蛟龍の錦を以てし)

とあるように、「『三国志』の魏志倭人伝からの引用と見られる章句が特筆大書されて」いることからも、「邪馬壹国に至る、女王の都する」の「所」との呼応を考慮すべきことを指摘し、次のように記しています。

  この両者を無関係とし、「偶然の一致」と見なすならば、それこそ粗雑の鑑賞、後世の武断と評せざるをえないのではあるまいか。

  さらに、「郷樹は扶桑の外」の理解が問題となります。『唐詩選()』では、「君の故郷の木々は扶桑よりもさらに向こう生え、その故郷の家のあるじ、君は孤島の中に住む身となる。」と、「故郷の木々」は「扶桑よりもさらに向こう」とされていますが、「扶桑の樹の生える遠地の君の故郷」とするのが自然な理解と言えます。このように見てくれば、仲麻呂の帰らんとした所は「九州」島であり、王維は「君の帰らんとする九州とはどこにあるのか。」と聞いていることになります。

  そして、題が「送鼂監歸日本」から「送祕書晁監還日本國」と「國」の字が加えられていますが、本来の「日本」は、博多湾沿岸にある字「日本=ヒノモト」ということになります。宋代には、これが分らなくなり、日本国としたものと考えられます。「帰」が「還」に変えられた理由を次に見てみましょう。  
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2015年09月27日

上野誠 著『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』に見る粗雑な鑑賞 (1)

  先に、「天の原 ふりさけ見れば…」の解釈について上野誠氏の従来説に疑問を呈しましたが、題記の著作については未読でした。この書の内容を検討してみましょう。本書は、十七歳で養老元年(七一七)に遣唐使に同行し、唐朝の高官となり帰国を果たせずに唐で客死した中国名は仲満のち晁衡(ちょうこう)の足取りを追ったものです。本書は安倍仲麻呂を大和、奈良の出身として描いていますが、王維が阿倍仲麻呂を送る時に作った有名な詩「送鼂監歸日本」によれば、九州大宰府の地となります。この詩の解がポイントですが、著者は大和、奈良の出身を前提に注解しているため、その真実に届くことが出来ていません。実際問題、仲麻呂の出身地を記録した文書は存在しません。そして、「天の原 ふりさけ見れば…」の解釈もこの延長上で、先に論じたように従来説のままとなってしまいます。というより、この歌の解釈に基づき大和、奈良の出身とされているのが実体といえます。

  このキーポイントである王維の「送鼂監歸日本」の注解から見てみましょう。この詩の理解については、既に『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』(古田武彦/古賀 達也/福永 晋三/著:20005月 明石書店刊)で従来説の誤りが正されていますので、これによって見ていくこととします。

 上野著では、第七章「阿倍仲麻呂と王維」で「本章は、本書の天王山である。」と記し注解を試みています。ここでは清代、乾隆帝時代の磧学・趙殿成の注他によっていますが、問題はその本文をどの版本によるかです。著者は中唐の詩集『極玄集』の冒頭が王維の「秘書晁監の日本国に環らむとするを送る」からはじまるとし、「『極玄集』は、唐の姚合の編」としながら、『極玄集』の版本ではなく、趙殿成『王右丞集箋注』版をそのまま引用、注解するという史料批判の基本が疎かにされているのがわかります。

  『極玄集』の冒頭の王維の詩は次のようになっています。

 (唐)姚合   ○王維【字摩詰河東人開元九年進士歴拾遺御史天寳末給事中肅宗時尚書右丞】

  送鼂監歸日本

  積水不可極 安知滄海東 九州何處所 萬里若乘空 向國唯看日 歸帆但信風 鼇身映天黑 魚眼射波紅樹扶桑外 主人孤島中 離方異域 音信若為通

 これに対し、趙殿成の『王右丞集箋注』は、

 送祕書晁監還日本國  幷序     王 維

で始まり、序を記した後、

  積水不可極 安知滄海東 九州何處遠 萬里若乘空 向國惟看日 歸帆但信風 鰲身映天黑 魚眼射波紅 郷樹扶桑外 主人孤島中 別離方異域 音信若爲通

 となり、次の注がついています。

  ※『全唐詩』によれば、

  九州何處遠……「遠」一作「所」。

  歸帆但信風……「帆」一作「途」。

  魚眼射波紅……「魚」一作「蜃」。

  これで判る通り、『極玄集』の題は「送鼂監歸日本」となっており、『王右丞集箋注』では「送秘書晁監還日本国竝序」となって、「秘書」が付加され、「帰」が「環」とされ、「日本」も「日本国」と「国」が加えられています。さらに、詩の中の「九州何処所」が「九州何処遠」に改竄されているのが分かります。この、「国」の付加と「処」→「遠」、「帰」→「環」の改竄の意味を著者は問うことなく、宋代以後の解釈に従い注解を試みていることになります。それが、王維の詩の理解を根本的に誤らせ、仲麻呂の歌の理解の誤りに結び付いていることが分かります。■

  
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2015年09月25日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (3)

  「まえがき」から

『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 (岩波文庫:2014.1.16

 前回、形式主義言語観とプラグマティックな方法論との組み合わせによる定式化を見ましたが、生成文法に引導を渡すためには、その発想の根源を抑えなければならないでしょう。そのため、「まえがき」に戻り何を目指しているのかを明確にしておきましょう。 

 の研究では、広い意味の(即ち、意味論に対置されるものとしての)統辞構造と狭い意味の(即ち、音素論と形態論に対置されるものとしての)統辞構造の両方を取り扱う。

 最初に、意味と語に対置されるものとしての文が構成される仕組み、つまり文法の研究であることが宣言されています。ここに明らかなのは、言語、意味、音素、形態とは何であるか、その本質を明らかにすることは最初から放棄されているということです。というか、すでに既知のこととして扱われています。続いて次のよう述べています。

  本研究は、言語構造の形式化された一般理論を構築し、またそうした理論の基礎を探求しようとする試みの一部を成すものである。

  ここでは、「言語構造の形式化された一般理論を構築」すること、つまり形式的な扱いに何の疑問も抱かれていません。対極的な発想として、十六年前の1941年に公刊された、時枝誠記の『国語学言論』の「序」を見てみましょう。

  私は本書に於いて、私の国語研究の基礎をなす処の言語の本質観と、それに基づく国語学の体系的組織について述べようと思う。ここに言語過程説というのは、言語の本質を心的過程と見る言語本質観の理論的構成であって、それは構成主義的言語本質観或いは言語実体観に対立するものであり、言語を専ら言語主体がその心的内容を外部に表現する過程と、その形式において把握しようとするものである。…… さて、以上述べた様に、言語の本質の問題を国語学の出発点とすることには、方法論的に見て恐らく異論があり得ると思うのである。言語の研究を行う前に、言語の本質を問うことは、本末の転倒であって、本質は研究の結果明らかにされるべきものである。従って言語研究者は、言語に於いて先ず手懸りとされる処の音声、意味、語法等の言語の構成要素についての知識を得ることが肝要であるとするのである。しかしながら、部分的な知識が綜合されて、やがて全体の統一した観念に到達するとしても、既に全体をかかる構成要素に分析して考える処に、暗々裏に言語に対する一の本質観即ち構成主義的言語観が予定されて居りはしないか。私の懼れる処の危険は、言語の研究に当って、一の本質観が予定されていることにあるのではなくして、寧ろ白紙の態度として臨んでいる右の如き分析の態度の中に、実は無意識に一の言語本質観が潜在しているという処にあるのである。そして、かくして分析せられ、綜合せられた事実が、客観的にして、絶対的な真理を示しているかの如く誤認される処にあるのである。この危険を取り除く処の方法は、言語研究に先だって、まず言語の本質が何であるかを予見し、絶えずこの本質観が妥当であるか否かを反省しつつ、これに検討を加えて行くことである。言語研究の過程は、いわば仮定せられた言語本質観を、真の本質観に磨上げて行く処にあると思うのである。換言すれば、言語研究の指名は、個々の言語的事実を法則的に整理し、組織することにあるというよりも、先ず対象としての言語の輪郭を明らかにする処になければならないといい得るのである。言語本質観の完成こそは、言語研究の究極目的であり、そしてそれは言語の具体的事実の省察を通してのみ可能とされることである。(時枝誠記『国語学言論 ()』岩波文庫)

  チョムスキーの形式主義的、プラグマティックな発想とは根本的に異なることが明瞭です。これこそが、対象の本質をとらえようとする唯物弁証法的な発想であり、時代の相違とは言え隔絶したものがあります。ここには、科学とは対象の普遍性、法則性の認識であるという科学の本質が正しく捉えられています。時枝が懼れているように、無意識に構成主義的言語本質観を前提とし、「かくして分析せられ、綜合せられた事実が、客観的にして、絶対的な真理を示しているかの如く誤認され」ているのが生成文法の本質といえます。

  
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2015年09月22日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (2)

非文という主観的判定法  

『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 (岩波文庫:2014.1.16 

 前回は、「言語Lの文法とは、Lの全ての文法的列を生成し、非文法的列を1つも生成することがない装置ということになる。」という形式主義的文法の定義を見ましたが、では具体的にどのように進めるのかを見てみましょう。次のように述べています。

  言語に対して提案された文法の妥当性をテストする一つの方法は、その文法が生成する列が実際に文法的かどうか、即ち、母語話者にとって容認可能かどうか等を確認することである。

何と、文法装置の論理的本質、構造を解明するのではなく、文法の妥当性をテストする一つの方法が母語話者にとって容認可能かどうか等を確認すること」なのである。つまり、「各々が有限の長さを持ち、また、要素の有限の集まりから構成される文の(有限あるいは無限の)集合として言語Language)を考えて」、この中で「文法的列」であるか否かは「母語話者にとって容認可能かどうか等を確認すること」だというのです。しかしここでは、母語話者」とされていますが、実際の運用としてはどうなるのでしょうか。何の事はない、それを論ずる論者自身でしかありえないということです。つまり、言語、文法を論ずる論者の主観に依拠して判断されるという、実にプラグマティックな発想そのものなのです。「テストする一つの方法」と記していますが、このような論理展開では実際問題この方法しかなく、以後、現在までこの方法に依拠し論理が展開されているのです。これでは、とても客観的、本質的な言語の解明に至らないことは方法論的にも、論理的にも明らかです。

 そして、次のような良く知られた文例が登場します。当該節を全部引用します。

2.3 第2に、「文法的」という概念は、意味論における「有意味な」(meaningful)や「有意義な」(significant)といった概念を同一視することは出来ない。例文(1)(2)は共に意味を成さないことに変わりはないが、英語の話者なら誰でも前者のみが文法的であることが判るだろう。

  (1) Colorless green ideas sleep furiously

   (色のない緑の観念が猛然と眠る)

(2) Furiously sleep ideas green colorless

 同様に、(5)よりも(3)を、(6)よりも(4)を選ぶ意味的理由はないが、(3)(4)のみが英語の文法的な文である。

  (3) have you a book on modern music?

       (あなたは近代音楽についての本をもっていますか)

 (4) the book seems interesting

 (その本は面白そうだ)

 (5) read you a book on modern music?

  (6) the child seems sleeping

 こうした例が示しているのは、意味に基づく「文法性」の定義を求めることは全て無駄だということである。実のところ、(5)と(6)から(3)(4)を区別する深い構造的根拠が存在するということを第7章で見ることになる。しかし、こうした事実に対する説明を得るためには、統辞構造の理論をそのよく知られた限界を相当超えるところまで推し進める必要があるだろう。

 ここでは、論者たるチョムスキーが読者に(1)が意味をなさないこと、(5)よりも(3)を、(6)よりも(4)を選ぶ意味的理由はないとする主観的判断に同意するよう強要しています。常識的に考えれば、意味と文法性を截然と区別しているわけではなく、(1)はある文脈では意味を持ちます。それは、その文の作者が描く想像の対象に対応した表現の場合でです。「吾輩は猫である」と漱石が表現しても意味を成すのと同じです。「(5)よりも(3)を、(6)よりも(4)を選ぶ」のは「意味的理由はない」のではなく、文法的に正しくないため意味を取るのが困難であるにすぎません。

 「意味に基づく「文法性」の定義を求めることは全て無駄だ」などというのは、意味と文法の本質がわからないままに、その関連と媒介性を理解できずに無造作に切り離しているに過ぎません。言語規範である文法に従った文でないと意味の理解が困難であることを理解、解析できないことを露呈しています。このように見てくれば、生成文法なるものが、

言語本質を捉える媒介の論理をもたない、形式主義的な定義と、形式論理に過ぎない数理論理的な表現をプラグマティックな方法と組み合わせた誤謬の論理でしかない

ことが明らかになります。生成文法の信奉者とは、この形式的扱いに眩惑されてあたかも科学的理論であるかのごとく思い込んでいる人々に過ぎません。

このように出発点から根本的に誤った論理的判断に基づいているのですが、生成文法に引導を渡すためにもこのような発想が生まれた背景と、これがもてはやされた時代背景を考察するため、一度「はじめに」に戻り思想的背景も踏まえ検討してみましょう。■

  
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2015年09月21日

「天の原 ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在  補遺

 昨日、奈良大学教授 上野誠氏の「(匠の美)御蓋山 平城びとの月」の記事を取り上げましたが、その後で「阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が仰ぎ見た月は、何処の月?」―「『古今和歌集』に載った仲麻呂の歌に関わる疑問」というHPの記事を見つけました。

 ここで、上野氏の著書『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』(角川選書:20139)に、「「天の原ふりさけ見れば」と題する一章があり、この和歌に関するさまざまな疑問を解説してある。」ことが記されていました。

 この本は未見のため、とりあえずHPの内容の前回指摘に関連する部分を転載、紹介させていただき、追って著書を読んだ感想を記させていただきます。

  ■ 「天の原」歌は、阿倍仲麻呂が天空に上った満月を見上げて詠んだとされている。しかし、上野氏は、この歌には次の2つの疑問があるという。即ち

(A)この歌を詠んだ時、作者が何処にいて、どこから見ている月か明示されていない

(B)作者がかって三笠の山に上る月を見たと云っているが、それが何時のことだったか明示されていない

つまり、この歌にはWhenWhereを示す要素が欠けていて、読者はこの歌に示された情景を思い描くことができない、と指摘されている。

 ■ しかし、上野氏はこの歌の詞書きや左注に疑問を挟まれる。先ず、『古今和歌集』は、平安中期に醍醐天皇の勅命で、紀貫之(きのつらゆき)らが中心になって延喜5(905年)ころ編纂された歌集だが、その時点で参考にした元資料には、詞書きなどついていなかったのでは・・・と推測される。なにしろ、仲麻呂が玄宗皇帝の許しを得て、藤原清河を大使とする第10次遣唐使の帰国船に便乗して帰国の途についたのは、唐の天宝12載(753年)11月で、およそ150年も前のことである。しかも仲麻呂が乗船した船は途中で難破して帰国できず、再び長安に戻り最後は唐土で客死している。そのため、当時流布されていた仲麻呂伝承に基づいて、紀貫之はこの詞書きを記したのであろう、と云われる。

  ■ さらに、左注についても、専門家の間では後人のものとされているそうだ。時代が降って、10世紀の末以降に藤原公任(ふじわらのきんとう、966 - 1041)あたりが、語りの際に挿入した註釈を付け加えたと考えられている。その結果、仲麻呂が仰ぎ見た月は、唐土の明州というところで、帰国送別宴の折に見た月、つまり海辺の月と理解されるようになった。

  ■ 『古今和歌集』に「この歌は、中国の明州で詠まれた」との左注があることから、阿倍仲麻呂が帰国の途についたのは明州、すなわち現在の浙江省の寧波市と信じられてきた。しかし、上野氏も指摘されている通り、藤原公任の理解には大きな間違いがあった。4隻からなる第10次遣唐使船が帰国のために待機していた港は、明州ではなく、蘇州の黄泗浦(こうしほ)だった。1,000年以上の歳月を経て明州とする説の誤りに気付き、現在は長江下流の黄泗浦に特定されている。

  ■ この和歌の左注では、遣唐使船が出港する前に明州で帰国送別宴が催されたと想定している。しかし、明州は誤りで、送別宴が催されたとすれば、出発を一日延期した1115日の夜で、場所は黄泗浦の楼閣だったであろう。その席上で、仲麻呂が振り返って見上げた月は、海上ではなく長江に浮かぶ満月だったはずだ。

  著書を読んでいないため、どこまでが上野氏の見解か判然としない点はありますが、前回指摘した事項に関する疑問は抱かれており、専門家の間でも諸説あるのが分かります。

 にも関わらず、今回通説に従って解説を書かれたということは単に疑問に終わり、解を得られていないことが理解されます。そして、この疑問に正しく答えるものこそ古田説であることが分かります。上野氏が満に一つも古田説をご存じないという可能性は考えられません。氏がこのような疑問を持たれたのであれば、古田説の正否を学会に問い、万葉学の正否についても問題とすることこそが、学者としての責務ではないでしょうか。

 それなしに、疑問の多い旧説を墨守し、公表、生徒を指導することは文科系学部不要が叫ばれてもやむを得ないことになるのでは。■

  
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2015年09月20日

「天の原 ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在

  「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(ヘーゲル『法の哲学』・序説)

  3月の記事で、「天の原」の古田武彦氏による解釈を取り上げましたが、9月19日(土)の朝日新聞「be」に(匠の美)御蓋山 平城びとの月という、奈良大学教授 上野誠氏の記事が掲載されましので、先の解釈と比較してみましょう。まず、冒頭に記された歌です。

  天の原ふりさけ見れば春日なる御蓋の山にいでし月かも  (『古今和歌集』巻九の四〇六)

 日本古典文学大系8『古今和歌集』(佐伯梅友校注、岩波書店・昭和33年3月5日第1刷発行、昭和38年10月15日第5刷発行)は次のようになっています。(ブログ「小さな資料室」より)

    もろこしにて月を見てよみける         安      麿

   あまの原ふりさけみれば かすがなるみかさの山にいでし月かも

 上野氏の解釈は、伝統的な解釈で次のようなものです。

 天空を振り仰いでみると、春日にある御蓋の山に出ていた月が思い起こされる、と訳すことができようか。春日野からおにぎり形に見えるのが御蓋山だ。その後にあるのが、春日山。だから、春日にある御蓋山と歌うのだ。

  この記事には飛火野で撮影された写真が掲載されており、標高294.mの御蓋山が中央に小さく写っており、周囲には草をはむ鹿の姿が小さく写っています。月が今にも昇る所が写されていますが、それは、古田氏が講演<『万葉集』は歴史をくつがえす>で次のように述べている事実をありありと示しているのです。

  オンフタヤマ(御蓋山)と書いてミカサヤマと読むんです。これが現地の地名としてのミカサヤマなんです。春日大社の裏山に当っていて、高さ二百九十四・一メートル、これは教育委員会で教えて貰った数値で、地図には普通ここまでの数値は出ていませんが。ふもと近くにあるのが三笠中学。この山はあまりに低すぎるのですね。大和盆地そのものの標高が百メートルほどあるので、みかけの山の高さは二百メートル弱。ここから月が出るのはむずかしいですね、なぜなら、そのすぐ東側に、春日山とか高円(たかまど)山とかの高い山がある。そうすると月は春日山とか高円山から出るじゃないですか、まさか春日山から出て、また入って御蓋山から出るわけじゃない(笑)―― そこから出るのならわかる。だから月が出るのは、春日の山にとか、高円山にとか言ってほしい。 

写真では、正に「春日山とか高円山から出」ている所なのです。古田氏が明らかにした「みかさの山」とは次のWikiの記事にある御笠山、宝満山です。

  宝満山(ほうまんざん)(標高829.6m)は福岡県筑紫野市と太宰府市にまたがる山であり、別名を御笠山(みかさやま)、竈門山(かまどやま)とも言う。

 そして、次のように述べています。

  結論としてここ、奈良の歌ではない。だから阿倍仲麻呂が日本を離れて、壱岐の「天の原」で、月が上がるのを見て作ったとすると、よくわかる。ここで船は西むきに方向を変えるので、島影に入ると九州が見えなくなる。で、ふりかえって見ると、春日なる三笠の山がある。三笠の山は志賀島――金印で有名な――にもありますのでね、目の前に二つの三笠山がある。「筑紫なる」といったのではどちらの三笠山か分らぬ。宝満山なら「春日なる三笠の山」でよい。ですから全部の条件がピシャピシャと合ってきた。こうして解けてきた。そうすると、間違っていたのはまえがきの方だった。

 たしかに、仲麻呂は明州で、別れの宴で、この歌を歌ったと思いますよ。しかし、その場で作ったのか、前から作っておいたのを詠じたのかは別の問題。日本の使いが帰ってきて、この歌を伝えたのでしょう。しかし、そこ明州で作ったというのは編者の解釈、実は間違っていた。編者の頭には大和の三笠山しかなかった。のちの人は、まえがき、あとがきをもとにして解釈しようとしたから苦しんできた。歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認したのが、この歌だった。

  それは上野氏の解釈で、「天の原ふりさけ見れば」を「天空を振り仰いでみると」と解釈する他ない空虚さにも明らかです。

  古田氏は、「歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認した」のち、これを万葉集に適用し『古代史の十字路 万葉批判』を20014月に公刊しました。この書の第一章が<疑いの扉「天の原」の歌」>です。氏は、講演「君が代前ぜん」で次のように述べています。

 この『古代史の十字路』(東洋書林)という本は万葉集を研究されている学者の皆さんに送りました。有名な人の中では中西進さん。近くに住んでいますから本をお送りしたことをお電話しました。また大野晋さん。かって対談したこともありますので、よくご承知です。同じくお電話しました。ですがどの人からも、まったく返事はない。答えはない。答えれば古田は、雷丘を九州だと言っているが、近畿大和のあの丘でよいのだ。このように説明すれば、十分理解できるのだ。そのように言えばよい。あるいは九州雷山であるという説では、このような理由でダメだよ。おかしい。そう言えばよい。何回も同じことを言いますが、わたしは、別に九州雷山をひいきにしているわけでは、まったくない。事実を事実として捕らえる、わたしが納得できれば別に大和飛鳥でもかまわない。しかし大和飛鳥ではまったく合わない。その立場です。

それに、この本は幸いにも版を重ねていますが、新聞の書評が一回も出ない。大体書評は、新聞社から依頼された専門家が書くものです。今言った論理が一杯詰まっているので、書けばどこかに差し障りが起こるから誰もいやがって書かない。ノーコメントであるとかってに想像して思っている。あれだけ書評が新聞に出ていて、今述べた問題がつまらないことには思えない。後生の人から見れば、なぜ書評が出なかったのか研究の対象になるのでは。

  中西進氏に長年にわたり畏敬の念を抱く上野氏としては、師の説になずむしかなく「已んぬる哉」である。宣長の『玉勝間』の一節を引用したくなるところですが。「なぜ書評が出なかったのか研究の対象になる」のは未だ機が熟していないようです。

しかし、これこそ安倍晋三の唱える「戦後レジューム」の実態ではないのか。その超克の先にしか未来は考えられません。■

  
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2015年09月19日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (1)

                     『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 福井直樹/辻子美保子 訳
                 (岩波文庫:2014.1.16 

 前回の「英文法に見るテンス解釈(6)」には若干勇み足があり訂正いたしますが、基本的には、これまで述べた所に尽き、先も見えているので、今回は著者らが依拠する生成文法の根本的誤りを初期の著作『統辞構造論』により指摘しておきましょう。

 題記新訳が出ていますので、これによります。「第2章 文法の独立性」から引用します。(句読点は和文のままとします。) 

2.1 以下では、各々が有限の長さを持ち、また、要素の有限の集まりから構成される文の(有限あるいは無限の)集合として言語Language)を考えていく。全ての自然言語は、書かれたものであろうが話されたものであろうが、この意味における言語である。なぜなら、個々の自然言語には、有限の数の音素(あるいは、アルファベットの文字)があり、文の数は無限ではあるが、各々の文はこれらの音素(あるいは、文字)の有限列として表示されるからである。 

 ここには屈折語としての英語を、アプリオリに実体視した形式主義言語観が宣言されています。屈折語としての英語文は文頭を大文字で始め、個々の単語は分かち書きされるので、語の区分も明確であり、文末はピリオドがおかれるので形式的な文の形が明確です。しかし、音素の有限列として表示される形が文なのではありません。アルファベットの形をしたクッキーを、子供が楽しそうに無造作に並べた列を文と呼ぶことになってしまうしかありません。

膠着語である日本語の場合には、文の先頭も明確でなく、単語の切れ目も明確でないため、仮名文字が並んだ場合には読み誤りや、読めなかったりするのは日常茶飯事です。そもそも、文がアプリオリに無限に存在するわけがありません。文は話者が対象を認識し、文法を媒介として表現することにより生まれるので、個々の話者の認識の表現としてしか存在しない一回限りの表現でしかないのは自明です。 

 生成文法とは、このような誤った形式主義言語観に依拠しているため、本書のマルコフ連鎖、句構造文法から変形生成文法と当然の失敗の連続で、その都度この根底の誤謬に戻って顧みる事なく、毎回条件の抽象化によって問題を極限化しXバー理論、極小モデルへと暴走しているに過ぎません。当然、意味を扱うのは不可能なため、認識を認知に矮小化した認知言語学が生まれることとなったのです。先の文に続き次のように記しています。 

 同様に、数学の形式化されたシステムがもつ「文」の集合もまた言語と見なすことができる。言語の言語分析の根本的な目標は、言語の文である文法的(grammatical)列を、の文でない非文法的(ungrammatical)列から区別し、文法的列の構造を研究することである。従って、言語の文法とは、の全ての文法的列を生成し、非文法的列を1つも生成することがない装置ということになる。

  ここでは、形式化された文字列から文法的(grammatical)列を区別し、これを生成する装置が文法とされます。これが、普遍文法なるものの正体です。これでは、文法の本質はまったく明らかにならず、非文法的(ungrammatical)列を判定すべき論理的根拠も導きようがありません。この困難をどのように乗り越えるのかを次に見てみましょう。■

  
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2015年09月06日

英文法に見るテンス解釈(6)

  『謎解きの英文法時の表現』久野すすむ・高見健一 ()[くろしお出版 (2013/8/10)

  He leaves for London tomorrow.と He will leave for London tomorrow 1

  これまで、日本語の時制の解釈の結果、「時間は、過去、現在、未来の3つがありますが、それらを表す時制は2つだけで、「未来時制」というものはないことになります。また、動詞の現在形が現在時と未来時を表すわけです」という結論を導く過程の誤りを見て来ましたが、ここでは「英語の場合も、動詞の現在形は、現在時と未来時の両方を指すことができます。次の例を見て下さい。」と文例が挙げられます。

  (12alike Hanako  [現在時]

            bTaro understands French.  [現在時]

     13aHe leaves  for London tomorrow [未来時]

           bTaro graduates from college next year[未来時] 

これらは、先に見た日本語の文に対応しており、(12a,b)は話し手や太郎の現在の状態を、(13a,b)は彼や太郎の未来の動作を表しており、動詞の現在形が、現在時と未来の両方を表わすことが分かります(【付記4】参照)。と、記し、「そうすると、英語も日本語と同じように、未来時を表す要素はなく、時制は2つで、現在時制が現在時と未来を表すと考えてよいのでしょうか。」と疑問を呈し、次のように論を進めます。まず、(13a)を再掲し、willを用いた文でも表現されることを示します。 

   aHe leaves for London tomorrow [未来時](=13a

     bHe will leave  for London tomorrow [未来時]

 そして、この両者の違いが次のように説明されます。

 それは、a.が、彼の明日のロンドン出発がすでに確定しており、話し手がそれをもはや変更の余地のない確実なことだと見なしているのに対し、b.は、彼の明日のロンドンへの出発が、a.ほどには確定したものではなく、「明日はロンドンへ出発するだろう」という、話し手の推量、予測を表わしています。そして、重要なことは、彼がロンドンへ出発するのは未来時(明日)に起こることですが、話し手がそう述べているのは、発話時の、つまり現在の予測だという点です。

この、b.に対する説明は正にその通りの正しい説明ですが、a.の場合leavesと3人称単数現在になっており、話者は明らかに「Heロンドン出発」という事態に現在として対峙していると見なければなりません。従って、「話し手がそれをもはや変更の余地のない確実なことだと見なしているの」は発話時の、つまり現在ではなく、未来のHeロンドン出発」という事態に現在として対峙している観念的に自己分裂した話者であると見なす他ありません。そして、そこから現在に戻りHeロンドン出発」が明日のことであるのを確認し、tomorrowと言っていることになります。「話し手がそれをもはや変更の余地のない確実なことだと見なしている」のであれば、tomorrowと言う必要もないのですが、そのばあいは正に、He leaves  for Londonとなります。そうでないと、著者がb.の説明で現在の予測を強調している事実と整合しません。話し手の観念的自己分裂と移動なしに単に確信の相違だけではa.はあくまで現在の表現にとどまるしかありません。つまり、著者がはしなくも説明している通り、b.は「彼がロンドンへ出発するのは未来時(明日)に起こること」(強調はブロガー)を表現しているということです。

 このような時制表現の本質を捉えられない説明の誤りが、本書の「第3章 現在形は何を表すのか?(2)」で露呈し、次のように記しています。 

動作・出来事動詞の現在形の実況的報道機能は、特殊なコンテキスト(たとえばスポーツの実況放送)にしか用いられない機能で、文法学者たちによってあまり観察されてこなかった機能ですが、私たちは、この機能が、歴史的現在形の基盤になっているものと考えます。

 このように、「歴史的現在形」の本質を明らかにすることができずに、単に文の機能とするしかないことになります。そして、同じ章の「●未来の事柄が現在起こっているかのように確実」の節では、 

それは、現在形が,(11a-c),(12a,b)[現在形で未来の事柄を表している文例:ブロガー注]で述べる未来の動作や状態を、あたかもタイムスリップをして、現在起こっている動作や状態であるかのように描写しているためです。歴史的現在が、過去の事柄を現在形で表現し、それがあたかも現在起こっているかのように描写するものであることを先に述べましたが、(11a-c),(12a,b)は、このちょうど逆で、未来の事柄を現在形で表現し、それがあたかも現在起こっているかのように描写しています。

 と「あたかもタイムスリップをして」と、何が「タイムスリップ」をしているのかを捉えることが出来ずに比喩的に述べるしかない結果となります。今回はここまでにしておきましょう。■

  
Posted by mc1521 at 22:47Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年09月02日

英文法に見るテンス解釈(5)

  『謎解きの英文法 ― 時の表現』久野すすむ・高見健一 (著)[くろしお出版 (2013/8/10)]

   ●動詞の現在形が現在時と未来時を表す(3)

 前回の、

 一方、動作動詞が現在時を指せるのは、次に示すように、習慣的動作を表す場合に限られます。(【付記2】参照) 

  私は毎朝ジョギングする。 [現在時]

 の【付記2】を見てみましょう。次の通りです。 

 「私は来年から毎朝ジョギングする。」は、未来時を指しますから、(10)の「私は毎朝ジョギングする」には、実は、現在時と未来時の両方の解釈があります。ただ、(10)がこのような文脈がなければ、現在時の解釈が圧倒的に強くなります。                                                   

  ここでも、話者の認識を無視し、文に示された「する」の解釈の問題にしてしまい、「圧倒的に強くなります」というのでは文脈とは何かが理解されていません。文を支えるのは話者の認識であり、これが文脈に示されているのですから、「圧倒的に強く」なるか否かの解釈の問題ではなく、話者がどのような認識を表現しているのかを追体験するのが読解です。 

 私は来年から毎朝ジョギングする。 

では、話者は「来年から」で観念的に来年に移動し、これに対峙することにより現在として、「毎朝ジョギングする」 と表現し、これが固い決意で確実な事実であるため、現在には戻らずに文を終えています。さらに、強調する場合は、 

 私は来年から毎朝ジョギングするつもりだ。

  私は来年から毎朝ジョギングするのだ。 

となります。ここから現在に戻り、未来の表現であることを確認した場合には。

  私は来年から毎朝ジョギングするだろう。 

 私は来年から毎朝ジョギングしよ 

と断定の助動詞「だ」の未然形+未来推量の助動詞「う」や未来推量に意志の加わった「う」が連加されます。

 このように、話者の認識と観念的な動きの表現としての時制を捉えることができずに、単に語の形と対象を直結する言語実体観では時制の本質を正しく理解できないことになります。■

  
Posted by mc1521 at 13:08Comments(0)TrackBack(0)文法