2015年03月29日

天の原……の歌:古田史学と松本深志高校

  話は逸れますが先日、古田史学の会より、『盗まれた「聖徳太子」伝承』(注)が届きました。興味深い記事ばかりなので早速読み耽りました。九州王朝説で知られる古田武彦氏の松本深志高校での講演「深志から始まった九州王朝―真実の誕生」(2014.10.4)が最初に掲載され、高校生からの質問で感動的な逸話が記されていました。

  古田氏は東北大学の日本思想史科を昭和23年に卒業し松本深志高校の教師として6年間を過ごします。88才の米寿を迎えての講演ですから66年程前の話ということになります。戦後の混乱期の一挿話です。
  高校性の質問は当時の生徒、つまり新米教師であった古田氏の教え子から依頼されたものでした。当時の生徒からの新米いじめとも言うべき質問が九州王朝探求の一契機となった経緯についてです。
社会科から国語を教えることとなり古今集の安倍仲麻呂の良く知られた次の歌を取上げた後に、生徒から新米教師が鋭い質問を浴びます。

   天の原 ふりさけ見れば 春日なる
        三笠の山に 出(い)でし月かも      安倍仲麿(7番) 『古今集』羇旅・406

 仲麿が明州(現在の寧波(ニンポー)市)で送別の宴が催された時に詠まれたとされるもので、NETでも次のように解説されています。
  天を見ると美しい月が昇っている。あの月は、遠い昔、遣唐使に出かける時に祈りを捧げた春日大社のある三笠山に昇っているのと同じ月なのだ。ようやく帰れるのだなあ。
 
  この説明に対し生徒から次のような質問が出されます。
 呉国から大和は見えるのか。ふりさけ見ればというのは、それまで宴会では皆西を向いていたのか。春日とは中国でそんなに有名なのか。なぜ、大和なる三笠の山と言わないで、春日なるなのか。
 現在でも似たような疑問がYahoo! 質問箱などで出るように、通説では割り切れないものが残ります。

 これに対し、新米教師は先輩教師の国文学専門家に助けを求めますが答があるわけもなく、「わからん」と言わざるをえません。この答えは質問を受けてから25年後に九州王朝探求の途次で得られることとなります。古田氏の説明を聞いてみましょう。

 これが解けたのは、質問を受けてから二十五年も経って、古代史の世界に入って対馬に船で行った時です。博多から壱岐を通って対馬へ船で向かった時、あるところで西に向きを変える。博多からずーと行きますと、対馬の西側浅茅湾へ入るには、大きい船は壱岐の北東側をまわって、そこの水道で、西に向きを変えるのがスムースなんです。船のデッキに出ていて、西向きの水道に入った時に博多方面を見ていた。たまたま目の前に壱岐の島があり船員さんに「ここはどこですか」と壱岐の地名を聞いたら、「天の原です」と言われてギョッとした。こんなところに「天の原」がある。確かに考古学的には壱岐に天の原遺跡があり、銅矛が三本出土したことぐらいは知らないではなかったが、その遺跡がどこにあるかは、確かめたことがなかった。ところが目の前というか目の下に、船の曲がり角のところに「天の原」があった。「天の原 ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に 出でし月かも」、この歌が作られたのは、通説とは違って、ここ「天の原」ではないか。ここを過ぎれば、春日なる三笠の山は、もう見えなくなる。なつかしいふるさと日本は見えなくなる。
 その時は、もう九州の「春日と三笠山」については、一応知っていた。旧制広島高校時代の無二の親友といってもよい友人が九州春日市にいた。そこの家に泊めてもらって、福岡・博多湾岸を歩き回った経験がある。だから一応地理は知っていた。春日市、須玖岡本遺跡があるところ。三笠山、現在名は宝満山。仏教的な命名で後で付けられた名前。本来は三笠山という山がある。ここの三笠山は、三笠川が博多湾に流れていて、三笠郡がある。ですから「天の原 春日 三笠山」三カ所ピッタと結びついた。
 ところが、「天の原」があり、船のデッキから見ると、ドンピシャリ見えるというわけではないが、大体あの辺りが三笠山となる。しかも後で知ったことですが、振り返って見ると、目の前に三笠の山が二つある。金印の出た志賀島。そこにもそんなに高くはないが三笠山があり、他方は宝満山と呼ばれる三笠山がある。「筑紫なる三笠の山」と言えば、どちらか分からない。ここでは宝満山を三笠山に特定するためには、「春日なる三笠の山」と呼ばなければならない。
 たしかに仲麻呂は呉の国明州で、別れの宴でこの歌を歌ったでもかまいません。
 しかし、その場で作って歌ったのではなくて、日本を別れる時に作った歌をそこで歌った。
 これはわたしにとって、一つのエポックとなった。
 これは古今集ですが、やはり万葉集というのは、歌そのものを正確に理解することが第一。まえがきという状況説明は併せて理解する。つまり歌は第一史料、まえがき・あとがきという状況説明は第2史料である。そういうテーマまでたどり着いた。これが深志高校での経験です。

 こういう逸話が語り継がれる高校というのも素晴らしいものですね。そして、この「歌そのものを正確に理解することが第一」という古田史学の到達点は、時枝誠記の「学問研究の根本的態度は、方法論の穿鑿よりも、先ず対象に対する凝視と沈潜でなければならい」という発想そのものと言えます。■

 注:『盗まれた「聖徳太子」伝承―古代に真実を求めて・古田史学論集第18集』:古田史学の会編、明石書房刊、2015.3.25初版・第1刷。
  
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2015年03月20日

言語の本質とは何か ― 5

   時枝誠記の言語過程説(3)

 言語を「音声を仲介として思想の表わさるるprocessである」とする観点に至った時枝は、これを具体化するための細目を具体化し、助教授の橋本進吉の意見を聞き、問題を「日本における言語意識の発達及び言語研究の目的とその方法」に絞り研究に着手する。そして、橋本より次の助言を受ける。
日本の言語研究は今日から見て余りありがたいものではないから、多くを期待せず、捨て読みをする積りで取りかかることが肝腎である。
橋本自身、言語学科の出身であり国学等の成果をどのように見ていたかが伺われる。これに対し、時枝は、
 今の場合、それは問題ではなく、そのような幼稚な考え方がどうして出て来たか、また、それがどういう風に発展して行ったかを、ただありのままに追及してみたい。
と、応え計画えの賛意とそれとなく激励の言葉を与えられたことを記している。これは、対象を既成概念で解釈するのではなく、まず、あくまで対象そのものを反省的に捉えようとする時枝の発想を良く表わしている。

 この研究を関東大震災のため学生に使用が許されない帝国大学の図書館で行うことができず、東京の南葵文庫と京都帝国大学の蔵書と、その図書館で進めることになる。この過程で、イエスペルセンの『言語』(Language.1992刊)で始めてヨーロッパの言語学史を学び、言語学史を言語に関する問題史として取扱った態度に感銘を受けている。ここでも、次のように記している。
 学問研究が、方法論的に一の技術に固定しようとするとき、我々は再び立ち返って、対象に対する素朴な心の燃焼から出発することは大切なことである。私はイエスペルセン氏と共に「言語の本質とは何か」の問いを発するところから始めようとしやのである。そして、その回答を各時代の先覚に求めようとしたのである。国語学を国語に対する自覚的反省の体系と見るならば、私が今求めようとするところのものは、そのような自覚反省の展開史であり、即ちそれは国語学の歴史であり、いわゆる国語学史である。私は現代国語学の体系を、国語学史の展開の最先端に求めようとしたのである。ここに、私の国語学の方法論が存在するのである。
このような自覚のもとに、従来世に行われている国語学史に厳正な批判の眼を向け、「①現代の言語理論を以って、過去の研究に筆誅を加えることではなく、②国語研究の国学への依存の関係を無視して、国語研究を、一個独立の科学として批判を加えようとすることによって、国学史は第二の過誤を犯し、国語学史の如実の姿を見失うと同時に、そこに取上げられた重要な問題の幾つかを、看過することになった」と指摘し次のように続ける。
 私の国語学史は、敢えて新奇をてらうものではない、その根本思想は極めて平凡なものであった。これを譬えていぬならば、赤子がようやく独り歩きをするようになった時、成人の歩き振りと比較して、そのよちよち歩きを笑うようなことを止めよというのに他ならない。寧ろ昨日よりも今日の上達を認め、更に明日の進歩を助長させることを願おうとするのである。
 この平凡極まる歴史叙述の原理に立って、私は、我がてにをは研究の源流の中に、幼稚な品詞分類法の萌芽よりも、係り結びの法則即ち文における首尾呼応の現象の発見を、真淵の五十音連続図に、活用図を認めるよりも、音義学的研究の萌芽を、用言の活用研究の真意が、語と語との断続の研究にあることなどを認め得て、我が国語研究史をヨーロッパ言語学の理論或は問題を以って批判することは、あたかも葡萄酒を以って日本酒を批判するにひとしいものであることを知るに至った。そして、これら国語学史上の問題は、いはば日本語の特質の投影として、国語認識の重要な足場であることを次第に自覚するに至った。
 日本人が、日本語をどのように見たか。また、日本語を通して、言語をどのように思索したかということが、明治の時代の到来と共に一切忘れ去られ、捨て去られたということは、国語学にとって惜しいことでならない。日本語を通して言語学に寄与すべかりし可能性が、一切断ち切られて、逆に西洋人が西洋語を見た理論を以って、国語を律しようとすることが新しい国語学の方法論となったのである。国語学史と国語学、そして西洋言語学と国語学、これらの関係について慎重な考慮を回らすということが、国語学にとって極めて大切なことと考えられて来たのである。 古い国語研究の跡を顧みるということは、古きを尋ねて新しきを知るとか、短を捨てて長を取るとか、国粋主義か国際主義課というような、単なる人生観の問題ではなく、学問の方法論として極めて大切なこととなって来たのである。
 このような問題意識を抱いて卒業後、略歴にある通りまず第二東京市立中学校教諭となり、昭和2年に京城大学助教授に転ずる。そして語学研究法研究の為、英・独・仏・米の各国留学の命を受け出発し、ここでまた更に認識を深めることになる。
 それを見た後に、この「あたかも葡萄酒を以って日本酒を批判するにひとしいもの」である対象の本質を軽視した学問が国語学だけの問題ではなく、近代日本の根深い問題であることを明らかにしたい。■  
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2015年03月20日

言語の本質とは何か ― 4

   時枝誠記の言語過程説(2)

 三浦つとむとの出会いを見る前に、もう少し『国語学原論』に至る展開の跡を追ってみましょう。
 略歴に見るように、大正11年4月に東京帝国大学文学部国文学科に入学します。12年9月には関東大震災が発生し、14年4月に卒業します。その頃の情況を卒業論文のタイトルである「日本における言語意識の発達及び言語研究の目的とその方法」という論稿で後年次のように回顧しています。これを読むと、彼が何を問題と捉え、どのような思索の末に三浦の言う”言語学のコペルニクス的転換”に辿りついたかが良く理解できます。(以下、引用は旧仮名使いを新仮名使いに改める。)

 国語学の周辺をさまよいつつあった私にとって、突如として起こった関東大震災は、私の方向を、更に決定的にしてしまったやうである。私は自著「国語学史」(昭和十五年十二月岩波文庫刊)の「はしがき」に当時のことを次のように書いている。
 わけても帝都を中心にした大正十二年九月の大震火災は、幾多の学問的宝庫を烏有に帰したのであるが、復興の声に立ち上がったものは、たゞに都市改正の計画や、高層建築の設計のみではなかった。校本万葉集が焼残りの校正刷から刊行されるという話、古典保存会が貴重古典籍の影印に、更に全力を尽くすであろうという話、「国語と国 文学」が最初の斯学の専門雑誌として生まれるという話は、当時学生であった我々に、大きな刺激を与えずにはおかなかった。荒涼たる都市、物情騒然たる空気の中で、明日の学問の復興の為に、静かに書物と対峙したことは悲壮でもあり、また感激でもあった。物皆蘇るという空気の中で、私も亦一切の末梢的な研究を捨てて、学問上の根本問題を思索する様に駆立てられた。それは国語研究の根本に横たはる「言語の本質は何か」の問題であった。
  国語学の周辺をさ迷いつつあった私にとって「言語の本質は何か」の問題は当然帰着すべき到達点であったに違いない。心理学に助けを求め、論理学によって解決しようとし、自然 科学対文化科学の問題から、国語学の帰属すべき科学の分野を求めて、遂に解決し得られぬ疑問を、私は卒業論文の中に次のように述べている。私にとって接実な当時の問題を、当時の言葉のままに帰すことにしよう。
  国語学上の種々な分野、例えば文典上の問題、音韻、文字、仮名遣の問題、或は思想と言語の関係、或は方言及び言語の歴史の歴史的変遷の問題に対して穿鑿しようとする時、私に対して、先ず解決を迫る処の問題が現れて来る。それは「言語とは何ぞや?」の問いである。この問題を解決せずしては、私は今や一歩も末節の探求に進み入ることを許されない。例えば、音韻を論ずる場合においては、音韻は言語の音韻を意味するので物理学上の音響を取扱うのではな い。この両者は明らかに相違しているという。しかし経験の対象として取扱う時、何処にその根本の区別を認むべきであるか、私はその判断に苦しむ。(中略)また或る学者はいう。言語の内容即ち思想の方面は心理学によってこれを研究し、言語の外形即ち音韻は音韻学によって研究すべきものであると。(中略)私には猶疑問が残される。かくして出<来上がった言語学は、要するに心理学と物理学との寄せ集めに過ぎないのではなかろうか。言語の本質は果たして説明出来るであろうか。(中略)或るものは云うであろう。「言語の本質は言語を研究して後始めて明かになることであって、初めより『言語とは何ぞや』の問いを発することは、順序を誤ったものではないか。」と。しかし問者は「研究して始めて明かになるべき」その研究の対象は、、何ものを捉えてこれを観察せんとするのであろうか。(中略)問者は言語を研究しようとして、言語以外のものを、知らずして研究して居ったという惧れはなかろうか。(中略)考えて見るならば、我々の用いている「言語」そのものの概念が、極めて朦朧としていることに気が附く。
 言語学の周辺を探索しつつ、遂に私は「言語」なるものが極めて朦朧として、不明瞭な対象であるという自覚にまで到達したのである。ここにおいて、私は明らかに国語学の学問としての性格を問題としつつ、翻って、国語学の対象そのものに眼を転ずるに至ったことを知るのである。そこで私は、次に、言語の本質について、大胆な仮説的断案を下したのである。 
 この問題を考えて、私は言語は絵画、音楽、舞踏と等しく、人間の表現活動の一つであるとした。然らば言語と云は れるものは、表現活動として如何なる性質を持つものであるかを考えて、始めて、言語の本質が、何であるかを明らかにすることが出来るであろうという予想を立てたのである。
  田辺元博士は、自然科学の対象の性質について、その著「科学概論」(二一六頁)の中で、対象の統一が空間的に分界せられ、多少の時間的同一の属性を保持するものとして、それは、夫々個物として認識せられ、観察を容易ならしめていることを述べて居られるのを見た。これに対して、言語はどうであろうか。私はこれを次のように考えたのである。
  然るに精神科学或は文化科学の名によって包括される一群の対象は、明かなる如くであって実は漠然として把促し 難いものであることを感ずる。今、言語の場合を考えて見るのに、言語と称せられる経験は何であるか。観察の対象は何で あるか。紙の上に書かれた文字であるか。耳に入り来る音声であるか。脳裏にある思想であるか。我々は観察;の焦点を向けるべき方向に迷わざるを得ない。かくの如き対象の認識の困難なことは、言語研究史の上に明かに現れている。ある者は文字を以って言語と心得、ある者は音声を以って言語とし、ある者は言語をもって一つの独立した実在の如く考えて居った。しかも猶これらの研究は、我々の常識に有する「言語」という言葉すら、完全に説明して居らぬように思われる。思うに言語の本質は、音でもない、、文字でもない、思想でもない、思想を音に表わし、文字に表わす、その手段こそ言語の本質というべきではなかろうか。 ここにおいて、言語学の対象は、音響学の対象とはあきらかに区別せられるであろう。言語学者が音声を取扱うのは、音声そのものが対象の如く見えて実は然らず。音声を仲介として思想の表さるるprocessである。(『国語学への道―時枝博士著作選Ⅱ』昭和51年6月 明治書院刊 25p~)

  ここに、若干22才の時枝が言語過程説の基本構想に到達したことが示されています。これがソシュールはもちろんのこと、それ以後の現在の言語学、チョムスキーの生成文法、ジョージ・レイコフ、ロナルド・ラネカーの認知言語学、マイケル・トマセロの認知心理学がいまだ至り得ない言語本質に対する考察であることは明らかでしょう。■  
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2015年03月17日

言語の本質とは何か ― 4

   時枝誠記という人―1

  ここで、時枝誠記の略歴を『国語学への道―時枝誠記博士著作選 Ⅱ』と、『国語学(時枝誠記博士追悼特輯) 72号 第七十二集)』(1968年:昭和四十三年三月三十日)の鈴木一彦稿「時枝誠記博士年譜」から纏めてみます。

明治33・12・6  横浜正金銀行サンフランシスコ支店長を務めた時枝誠之(もとゆき)の長男として東京神田に生まれる。読書家の父の影
          響や上田万年の国語愛護の大文章に感激し中学生の時に国語の研究に一身を捧げる思いを抱き、父親の反対にも引き
          下がることなく、岡山の第六高等学校に学び、頼山陽や吉田松陰の伝記を愛読して国語に殉ずる一個の国士を以って自
          らを任ずるまで になる。
大正 11・4   東京帝国大学文学部国文学科に入学。上田万年、橋本進吉の下で学ぶ。
    12・9   関東大震災。
    14・4   東京帝国大学卒業、卒業論文「日本における言語意識の発達及び言語研究の目的とその方法」
    14・6    第二東京市立中学校教諭
昭和 2・1・20  第二東京市立中学校依願退職
    2・4・5   京城帝国大学助教授
     2・5     叙従七位
       2・12・21 語学研究法研究の為、英・独・仏・米の各国留学の命を受け出発。
     4・9     叙正七位
     4・10    留学より帰任。高藤太一郎次女桂子と結婚。
      7・9        叙従六位
      8・4    京城帝国大学教授
    10・4    叙正六位
   13・11   叙従五位
     16・12   『国語学原論』(岩波書店)
    17・7    叙正五位
     18・5   東京帝国大学教授
    18・6   文学博士
    19・1   長女京子誕生
   23・2    次女牧子誕生
   24・8   国語審議会委員
   33・4    早稲田大学講師
    36・3    東京大学定年退官
    36・4    早稲田大学教授
    36・4    日本大学講師(昭39まで)
            叙従四位
           叙正四位
    41・11  紫綬褒章受賞
    42・10  叙従三位・勲二等瑞宝章
    42・10・27 死去 享年六六
 
 このように中学生で国語の研究に一身を捧げる思いを抱き、それに殉ずる一生でした。高校では剣道に励み、酒に強く、豪放であるとともに繊細なところをもたれていたようである。■
  
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2015年03月15日

言語の本質とは何か ― 3

   時枝誠記の言語過程説(1)

 言語の本質を問うため、少し飛ばし過ぎの感があるのでもう少し時枝の言語過程説を見てみましょう。
 ソシュールのラングを私は安易に単語と呼んでしまったが、単語は文との関係で定められる文法上の用語であり、言語本質観なしに単語とは何かを定義することはできない。時枝は『国語学原論』の「第三章 文法論―言語に於ける単位的なるもの―単語と文―」で単語を論じているが、「第一篇 総論 2 言語研究の対象」では、辞書と語彙について次のように説明しています。
  辞書は語彙の登録であって、ここに我々は主体的活動を離れた言語の記載を認め得るようである。しかしながら詳に考えて見るのに、辞書に登録された語彙は、具体的な語の抽象によって成立したものであって、宛も博物学の書に載せられた桜の花の挿画のようなものであって、具体的個物の見本にすぎないのである。辞書は具体的言語にたいする科学的操作の結果出来上ったものであつて、それ自身具体的な言語ではないのである。辞書の言語の如きものが主体の外に実在し、我々はこれらの語を運用するに過ぎないと考えるならば、具体的な経験を無視して、科学的に抽象された結論をその学の対象と考えることとなって、既に述べた言語研究の根本的な態度に反するのである。我々は何処までも具体的な経験に即してこれを対象とし、そこに理論と法則を求めなければならないのである。辞書の言語について猶一言加えるならば、先に私が辞書を語の登録であるといったのは、厳密にいえば正しい云いかたではない。辞書は語を登録したものではなくして、言語的表現行為、或は言語的理解行為を成立せしめる媒介となるものに過ぎない。例えば、辞書に「あなづらはし」と標出されていても、それ自身は、語とはいひ得ないのであって、単なる文字であり、厳密にいえば線の集合に過ぎないのである。しかしながら、この標識とそれに加えられている説明、釈義等によって、辞書の検索者は一の言語的体験を獲得することが出来るのである。この様に見て来るならば、辞書に言語が存在するということは、尚更いい得ないこととなるのである。① 
 と、あくまで「具体的な経験に即してこれを対象とし、そこに理論と法則を求め」る唯物論的な科学観を主張している。そして主体的活動の中にこそ言語の本質を求めねばならないことを説いている。先に単語と呼んだのは語彙と言うべきで、これは言語ではなく語を運用するに過ぎないとする考えを批判しています。この辞書の検索者の「一の言語的体験」についてはもう少し具体的な説明をしないと理解し辛いところがありますが、それは後で三浦つとむの説明を聞くこととします。
 さらに、主体的活動ということで言わんとしていることを理解するために、この「2 言語研究の対象」の次の説明を見ます。
  最も具体的な言語経験は、「語ること」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」に於いて経験せられる事実であって、この様な主体的活動を考えずして、我々は言語を経験することは出来ないのである。或はいうかもしれない、我々が「聞いたり」「読んだり」することに関せず、我々は言語の存在を考えることが出来るではないかと。勿論我々が耳を閉じ、目を閉ずることによって、日本語の存在が無くなるとは考えられない。しかしながら、その時考えられている日本語は、やはり我々以外の第三者甲乙丙丁によって語られたり、読まれたりすることによって存在しているのである。如何なる人によっても語られもせず、読まれもせずして言語が存在していると考えることは単に抽象的にしか言うことが出来ない。即ち「我」の主体的活動をよそにして、言語の存在を考えることは出来ないのである。自然はこれを創造する主体を離れてもその存在を考えることが可能であるが、言語は何時如何なる場合に於いても、これを産出する主体を考えずしては、これを考えることが出来ない。更に厳密にいえば、言語は「語ったり」「読んだり」する活動それ自体である。② 
 と、ここでも言語は「語ったり」「読んだり」する活動それ自体であると強調されている。たしかに話者、書き手、小説等では作者なしに言語は存在せず、極めて真っ当な説であり、後に詳しく究明するが現在の国文法や日本語文法なるものは辞書に言語が存在する言語実体観を背景に単語の集まりが文となる法則を求める結果となっており、時枝の言う「宛も博物学の書に載せられた桜の花の挿画」のように扱っているのです。そこからは単語の定義一つ出来ず、品詞の定義もないままに文を論ずるというアクロバットを演ずる他なくなります。しかし、音楽活動が音楽そのものではなく、絵画活動や写真活動が絵画や写真そのもでないこともまた明かであり、言語を「活動それ自体」とするところに時枝の言語過程説の論理的躓きがあるのも明らかです。 この点を正すのは三浦つとむによる唯物弁証法に基づく展開を待たなければなりません。■

  注:①『国語学原論 (上)』岩波文庫 29P
    ② 同上 28P  
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2015年03月14日

言語の本質とは何か ― 2

  時枝誠記の『国語学原論』とソシュール批判 (2)

 先のソシュール批判でまず気付くのは、
概念と聴覚映像との聯合を以って精神的実体であるとし、これを、それ自身一体なる言語単位と考えて、「言語(ラング)」と命名した。

と指摘しているように、「聴覚映像との連合」とするところに音声第一主義のソシュールの言語観を見ることができます。これは表音文字の世界での発想であり、文字は音声に従属する表音記号レベルと見なすことになります。解説の前田氏が記す「音素、記号素、形態素、意義素、意味素と言った用語の増殖」を生む大きな要因となるものと考えられます。それは表意文字の世界である我々日本語の世界からみると奇異な観がします。

 また、「それ自身一体なる言語単位と考えて」、「言語(ラング)」と命名されたものは単純に考えれば単語ということになります。個別の実際に話される文となると「多様であり、混質である」というしかなく、これもまた我々の言語実感からすれば言語の一部分を絶対化し部分を全体とするものとしか思えません。そして、実際にはこのラングを運用し言語活動を行うことになりますから、いわゆる言語道具説となるしかなくラングは意志疎通の道具という位置付けとならざるを得ない論理的宿命を負うこととなります。ここからは「多様であり、混質である」言(パロール)やその意味を導きだすことは論理的に不可能であり、最初から断念していることになります。この点をソシュールの「言語(ラング)」を支持する人々は解明、提示する必要がありますが、それは不可能としか考えられません。

 このように見てくると素人目にも時枝の批判は極めて真っ当であると言えます。やはり、ソシュールのラングは現実に我々が言語と呼んでいる対象を正しく本質的に抽象したものとは考えられません。そして時枝は『国語学原論』の序で、
 言語の本質を、主体的な表現過程の一の形式であるとする言語本質観の理論を、ここに言語過程説と名付けるならば、言語過程説は、言語を以って音声と意味との結合であるとする構成主義的言語観或は言語を主体を離れた客体的存在とする言語実体観に対立するものであって、言語は、思想内容を音声或は文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体であるとするのである。①

 と、「言語過程説」を提起し言語を「思想内容を音声或は文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体である」とします。ここには確かに「多様であり、混質である」ところの「「思想内容」が含まれており言語の実体に迫る観がありますが、「活動それ自体」を言語としたり「過程」そのものを言語とするところには我々の実感にそぐわない点があり、これが言語過程説に不審を抱かせる点といえます。しかし、「言語(ラング)」という部分にしか過ぎないものを全体にすり替える誤りからは大きな一歩を踏み出していると言えます。しかし時枝はこの「言語(ラング)」が何であるかを明らかにすることはできませんでした。

 この言語過程説の意義を認め、「言語学のコペルニクス的転換」と評価したのが時枝の「最良の弟子の一人だと自負している」三浦つとむです。彼は「時枝誠記の言語過程説」で次のように記しています。
 時枝の言語過程説は、まだ充分理論的に仕上げられていなかった。彼の認識論と論理学の弱さにわざわいされて、機能主義的なふみはずしを克服できず、言語規範の把握や認識構造の説明にも混乱が存在していた。『国語学原論』のソシュール理論批判が、その重要な欠陥をつきながらも不徹底なものに終わったのも、その能力の限界を示すものである。けれどもこれらの弱点は、時枝理論が革命的な業績だということを否定するものではない。これまでも言語過程説にはいろいろな疑問や批判が投げかけられているし、的はずれのものも的に当たっているものもある。部分的な弱点を指摘するのはけっこうであるが、そこから時枝理論を軽視したり抹殺したりするのは行きすぎである。弱点を訂正し前向きに発展させる方向へすすむのが、われわれのとるべき道である。②

 この三浦つとむによる展開をたどり言語本質に迫ることとしましょう。その前に、三浦と時枝の出会いと批判勢力との戦いをみることから始めましょう。■

  注:①『国語学原論 (上)』岩波文庫 13P
    ②『言語学と記号学』三浦つとむ著 勁草書房 184P  
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2015年03月12日

言語の本質とは何か ― 1

   時枝誠記の『国語学原論』とソシュール批判 (1)

 三浦つとむの言語論との出会いは、もう44年も前の1971.7月刊の吉本隆明主宰の雑誌『試行』第三三号の記事、「北川敏男の<営存>論」の頃からです。この号には、宮下眞二の「能動態が先か受動態が先か ―変形妄想の一つ―」、滝村隆一の「国家社会主義者・北一輝(中)」も掲載されており、サイバネティクス、生成文法批判、政治学批判と当時の雰囲気が浮かび上がります。この’71年には古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』も刊行されています。

 そして、結局今も情況は全く変わっていないのではないかとの思いがよぎります。むしろ、後退した側面も見られる状況です。そこに戦後レジュームの本質を見ることが出来るのではないかというのが本ブログのメインテーマです。
 「能動態が先か受動態が先か ―変形妄想の一つ―」は次のように結ばれています。
  変形文法を含め構造言語学は、言語(表現)の内容と形式とを切離して形式のみを取上げるから、言語の背後にある対象→認識→表現という過程的構造をたぐることができない。変形文法は認識を取上げようとはしたが、デカルト的二元論に足をすくわれて、認識を対象から切離してしまい、認識を過程的に捉えることができずにいる。

 この批判は言語学アカデミズムには届かず、現在も無視されているのは情況の示す通りです。言語の本質とは何かを時枝の言語過程説の提起に遡ってたどり現状の本質的な批判をする意義があるでしょう。

 時枝誠記は『国語学原論』の「第1篇 総論」「7 言語構成観より言語過程観へ」で次のように記しています。
 ソシュールは、言語対象の分析に当たって、先ずこれを構成的のものと考え、言語より其の構成単位を抽出することを試みた。然るに言語は、その如何なる部分をとって見ても、多様であり、混質であることを発見し、ここに対象を規定し、概念と聴覚映像との聯合を以って精神的実体であるとし、これを、それ自身一体なる言語単位と考えて、「言語(ラング)」と命名した。……
 かく見て来るならば、ソシュールが摘出した「言語(ラング)」は決してそれ自身一体なるべき単位ではなく、又純心理的実体でもなく、やはり精神生理的継起的過程現象であるといわなければならない。言語表現に於いては、最も実体的に考えられる文字について見ても、それが言語と考えられる限り、それは単なる線の集合ではなく、音を喚起し、概念を喚起する継起的過程の一断面としてかんがえられなければならない。若しこれを前後の過程より切り離して考えるとき、それは既に言語的性質を失うことになる。かくの如く、言語に於いては、その如何なる部分をとってみても、継起的過程でないものはない。継起的過程現象が即ち言語である。かかる対象の性質を無視した自然科学的構造分析は、従って対象の本質とは距ったものを造り上げることになる。ソシュールの「言語(ラング)」の概念は、かくの如き方法上の誤りの上に立てられたものであった。注①
 これは、
 凡そ真の学問的方法の確立或は理論の帰納ということは、対象に対する考察から生まれて来るべきものであって、対象以前に方法や理論が定立されて居るべき筈のものではない。それが学問にとって幸福な行き方であろうと思う。たとえ対象の考察以前に方法や理論があったとしても、それはやがて対象の考察に従って、或は変更せらるべき暫定的な仮説として、或は予想としてのみ意義を有するのである。注②

 とする時枝の「学問的方法の確立」という真の科学的方法論からの帰結であると共に、彼の依拠した現象学という立場の限界を示すものでもあります。
  『国語学原論』は岩波文庫版の解説である前田英樹の「時枝誠記の言語学」で触れられているように、日米開戦の昭和十二年、真珠湾攻撃が行われた十二月に刊行されるという歴史的な母斑を負って生まれました。前田は次のように続けています。

 戦局の混乱が極まるなかで、このような志(注:死出の装束を纏った獅子奮迅の姿)に正当な注意を払った者など、ほとんどだれもいなかった。またその扱いは、戦後の混乱期も変わりない。『国語学原論』が少しずつ思想的検討の対象となり始めたのは、昭和三十年代に入ってからのことだろう。時枝誠記の言語学が、戦後日本の左右のイデオローグから、敵にも味方にも見えたということは面白い。近代唯物論へのこの鋭利な敵対者は、安直なナショナリストの厄介な敵ともなりえた。注③

 革命的なパラダイム転換が「敵にも味方にも見えた」というのは古今の歴史が明らかにしてきたところで、近代科学革命と呼ばれるコペルニクスの地道説にしろニュートンの万有引力発見もまた同様です。これこそ、チョムスキーの生成文法などというまやかしの理論とは次元の異なることを示す徴証というべきでしょう。■

  注:①『国語学原論 (上)』岩波文庫 104p
    ②同 20p
    ③『国語学原論 (下)』岩波文庫 308p/  
Posted by mc1521 at 11:44TrackBack(0)言語