2015年12月31日

助動詞「だ」について(24)

〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(11)

 これまでの検討に基づき、論文「ヨウダとソウダの主観性」の論理性を見てみましょう。

 題名が示しているように「ヨウダ」と「ソウダ」を各1語とし、その主観性の相違を明らかにしようとしています。そして、註に記されている通り「ヨウダ」の推量判断の用法と「ソウダ」の「兆候や様相の現れ」の用法が比較されています。本来は両者の各々の意義と品詞について明かにすべきと考えますが、ここではモダリティ論により主観性の検討がされているためにこのような扱いとなっています。 そして<助動詞「だ」について(17>で見たように次のように結論されます。

 しかし、「ソウ」と「ベキ」は客観的な命題として機能していると考えたほうがよい。その証拠に「ニチガイナイ」と「ヨウ」が疑問の対象とならないのに対し、「ソウ」と「ベキ」は疑問の対象となる。疑問の対象となるということは、「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表していることを示している。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

   b.*[太郎が来るヨウ]かどうかを考える。

   c. [太郎が来ソウ]かどうかを考える。  

   d.  [太郎が来るベキ]かどうかを考える。

 こうした事実により、「ニチガイナイ」と「ヨウダ」がそれ全体でモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」と「ベキダ」は「ダ」の部分のみモダリティとして機能し、「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能することが明らかとなる。

ここでは、語の意義ではなく句の機能が論じられているため≪「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表している≫とされますが、その本質が明確ではありません。これまでの検討からすれば、「ダ」はいずれも肯定判断を表す<指定の助動詞>と捉えられねばなりません。「ヨウダ」の推量判断の用法と「ソウダ」の「兆候や様相の現れ」の用法に主観性の差異があること自体は確かですが、それは「ヨウ」「ソウ」という形式と意義の組み合わせの相違として、その言語規範としての内容が明らかにされねばなりません。上記例文でも「ヨウか」「ソウか」と活用ではなく、「ヨウ」「ソウ」に助詞が接続しており、2語となっています。日本語の膠着語としての本質が理解されていないと言えます。

 これは、依拠した主観的モダリティ論の欠陥と考えられます。言語道具説である記述文法では文の本質を明らかにすることなく、文を形式的に次の平面的な構造に単純化し、

    【〔〔命 題〕 命題態度のモダリティ〕 発話態度のモダリティ】

           図3 文の構造

一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる

とするしかなく、言語の実体論的捉え方の限界を示していると言えます。

 命題とは論理学の用語であり、「AはBである。」という真偽が対象となる特殊な文の形式を指しています。その論理学自体、現在まで文とは何か、意味とは何かが明かに出来ず問題となっています。この命題を文の定義に形式的に取り込むのは単に論理の混乱を招くしかありません。この論文では、最初に指摘した通り、≪[[[雨]だ]よ]。≫という文に対し、≪これらは「雨(である)コト」という事態に対して、話し手が確言(「だ」)の判断を下したもの≫で、≪発話態度のモダリティに相当するのは「よ」の部分≫とし、≪「雨だ」、という判断を、話し手から聞き手への情報提供(「よ」)として伝える機能がある≫としています。そして、≪これらの表現は、話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能するのである。≫と論じています。

 しかし、名詞「雨」は規範としての実体概念であるに過ぎず、これを文から分離して≪「雨(である)コト」という事態≫とすることはできません。こうなるのは、文を命題とモダリティに二分し、「雨」を命題とし、「だ」「よ」をモダリティとした論理的必然です。事実は、「雨」という客体的表現と「だ」という主体的表現が話者の認識に基づいて組み合わされ、表現されて初めて「雨だ。」という文、命題となります。「雨!」という一語文の場合もありますが、この場合は「雨■!」と判断辞が零記号となっています。言語道具説では話者の認識の言語規範を媒介とした表現という言語表現の立体的構造を捉えることが出来ずこのような矛盾をかかえこむこととなります。

 これが明白に露呈しているのは、3.2の次の部分です。

 一方、(23b)に示されるように、推量判断の「ヨウダ」は一般に連体修飾成分とはならない。しかし、次のような場合には連体修飾成分となるので注意が必要である。

(24) 禎子は、本多良雄が夫について、もっと何か知っているような直感がした。(松本清張『ゼロの焦点』)

(25)「いや、つまらんところです。年じゅう、暗いような感じがして重苦しい所で」(松本清張『ゼロの焦点』)

(26) もっとも、その直後に数百年に一度の大震災が襲ってきたというのは、あまりにも偶然がすぎるような気もするが。(貴志祐介『十三番目の人格-ISOLA-』)

(27) 今年のクリスマスは雪が降るヨウナ予感がする。

これらに共通するのは、「ヨウダ」の後に「直感/感じ/気/予感」という話し手の直感的な感覚を表す表現が続く点である。この「ヨウダ」は、(24)のように第三者の心的態度を表したり、(25)のように連体修飾成分となる場合には、客観的表現であることが明確である。しかし、(26)の「気がする」や(27)の「予感がする」のように、「発話時における話し手の心的態度」を表す場合には、「~ヨウナ直感がする/感じがする/気がする/予感がする」全体がモダリティとして機能する。推量判断の「ヨウダ」は、こうした表現が短縮されて「ヨウダ」一語で表されるようになったものであると考えられる。(強調は引用者)

 連体修飾成分という捉え方自体が形式主義にすぎませんが、これまでみてきたように「ヨウダ」が一語で推量判断を表すのではなく、「ヨウ」が推量判断を表し、「だ」は「ヨウ」によって推量されるその内容を肯定判断しています。これらの例文では「だ」は「な」と連体形に活用し、続く「直感/感じ/気/予感」という名詞の内容を表しています。時枝のいう入れ子形の立体的表現であり、≪こうした表現が短縮されて「ヨウダ」一語で表されるようになったもの≫などというのは正しい文の構造の解明ではありません。また、「ヨウ思われる」、「ヨウよ。」などと助詞や終助詞に接続する場合もあり、推量を表しているのは「ヨウ」なのです。

 このように、主観的という感覚的な捉え方を屈折語言語論の発想による主観的モダリティ論によって論証しようとしても日本語の膠着語としての本質を論理的に解明することはできません。■

  
Posted by mc1521 at 14:19Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年12月24日

助動詞「だ」について(23)

   杉村泰「ヨウダとソウダの主観性
〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕

      <助動詞>「だ」の捉え方(10)

  時枝が「そこには明かに陳述性が認められる」とする<助動詞>「だ」の連用形「と」と「に」を検討しましょう。次の用例が掲げられています。

  月明か、風涼し。(中止の場合、文語だけに用ゐられる)

  元気、愉快、働いてゐる。(連用修飾的陳述を表す)

  隊伍整然行進する。(連用修飾的陳述を表す)

  花が雪散ってゐる。(右に同じ)

  「今日は行かない」云ってゐた。(右に同じ)

  野なく、山なくかけまはる。

 これについても、先の三浦つとむ『日本語の文法』の「第八章 <助動詞>の特徴をめぐる諸問題」の「二 時枝文法の<助動詞>論の特徴と問題点」で論じられています。時枝の活用に対する理解の誤りを指摘していますので以下に当該部分を引用します。

 まず、「明か」「元気」「整然」などの語は属性表現ではあるが活用をもたないから、そのままでは文の終止に使えないわけであり、それゆえ<助詞>+<助動詞>と重ねた「に」「あり」→「なり」や「と」「あり」→「たり」を加え、「明かなり」「元気なり」「整然たり」と表現して来たことは周知のとおりである。この場合も、「に」「と」は依然<助動詞>であって、その下に重ねられる<助動詞>が零記号化しているもの、たとえば「月明か(して)、風涼し。」「元気て)、愉快て)、働いてゐる。」「隊伍整然て)行進する。」のような省略があって、<形式動詞>から転成した<助動詞>「し」が表現されずにあるもの、と受けとるのが妥当である。「に」「と」それ自体が判断を示すのではなくて、その下に零記号の判断辞が存在するのである。註の中では、「一つして上手に出来たものがない。」という例を上げているが、これこそ「と」ではなく下の「し」のほうが判断の表現である。つぎに「花が雪散ってゐる。」は、文字どおりに受けとってはならないところに注意しなければならない。「雪」は比喩であって、散りかたをそのまま<情態副詞>で表現するなら、「花がサラサラ散ってゐる。」のようになろう。属性の立体的な表現であって、「雪」の実体は直接の関係を持たず、雪の属性をダブルイメージにして花の散りかたを想像させているのである。それゆえ「雪」は「サラサラ」と同様に<格助詞>以外の何ものでもない。「雪」を<名詞>として文字どおりに受けとると、その下に判断が存在してそれが「と」であるかのような錯覚が生まれる。

  野なく、山なくかけまはる。

 ここでの「ない」は<打ち消しの助動詞>であるから、さきにも述べたように肯定判断の<助動詞>に伴って使われるべきものである。その肯定判断が「あらず」のように表現されないで、零記号になっているために、「と」それ自体が肯定判断であるかのように錯覚するのである。

 ここでの註に、谷崎潤一郎の『細雪』が、「……と思ってゐた。、ちょうどその時分、……」のかたちで「と」を使っているのを、やはり<助動詞>の例にあげているけれども、久保田万太郎の『春泥』や『市井人』が節の変わり目のところで、

  、立てるものは立て、押へるものは押へる由良の律儀さは以前とすこしもかはらなかった。
      ―――――――――――
  、その年もいよゝゝ終わろうといふ十二月の末になって、突然、萍人から、切手をペタゝゝ
貼った、厚い、カナ

  リの重みをもつた封書が速達でとゞきました。

のように表現していることも、考えてみる必要がある。これらは、すべて前の文ないし前の節の文と、後の文ないしこの節の文との思想と思想とを結合するために使われる語であって、<接続助詞>にほかならない。通常の表現では、「が」の場合には前の文の思想を判断辞の「だ」で受けとめて「が」のかたちで使うし、「と」の場合にも前の文の思想を<形式動詞>から転成した判断辞「する」で受けとめて「すると」の形で使っている。『細雪』の場合は、この判断辞が省略されているから、時枝は「と」それ自体が判断を表現したものと錯覚したのであろう。

  「今日は行かない」云ってゐた。

の場合には、表現それ自体を単に一つの対象として扱って、云ったことばを忠実に示すものである。別のいいかたをすれば、音声それ自体の複写としての括弧内のことばである。それゆえ本質的には「ブクブク沈んでいった。」のような、<擬声語>に加えられる「と」と同じであって、山田もいうように<格助詞>である。

 <助動詞>には語形変化すなわち活用が存在するが、これも<動詞>の活用と同様に、それに結びつく語のいかんによって決定されるもので、内容と関係のない形式だけの変化である。けれども時枝は<動詞>の活用を判断辞の機能に相当するものと解釈しているので<助動詞>の活用だけを異質なものとして扱うわけにはいかなかった。「助動詞は、話手の立場の中、何等かの陳述を表現するものであり、そのことのために、助動詞は、多くの場合に活用を持つことになるのである。」と、結びつく語との関係ではなく<助動詞>それ自体の判断表現の内容から生まれたものであるかのように、こじつけたのである。

これで、<助動詞>「だ」の活用も明確になりましたので、この点も含め杉村論文の論理性を見直してみましょう。■

  
Posted by mc1521 at 11:33Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年12月19日

助動詞「だ」について(22)

             杉村泰「ヨウダとソウダの主観性

〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
   <助動詞>「だ」の捉え方(9)

 前回は国語文法(学校文法)の<助動詞>「だ」の活用を見ましたが、言語過程説を唱えた時枝誠記の「だ」の活用を見てみましょう。『日本文法 口語篇』(岩波全書,初版1950,改版1978)の「四  辞」の助動詞に「(一)指定の助動詞 だ」として次の表が掲げられ説明されています。

   

 語\活用形 

  未然形

 連用形

終止形

 連體形

假定形

命令形

  だ

  で

 と  に  で

  だ

 の  

  なら

  ○


  
  
   
     
  指定の助動詞は、話手の單純な肯定判断を表す語である。この中に、「に」と「と」「の」は、従来助詞として取扱われてゐたものであるが、下に舉げる例によって知られるように、そこには明かに陳述性が認められるので、これを助動詞と認めるのが正しいであろう。また、右の表に掲げた各活用形は、その起源に於いては、それぞれ異なった體系に屬する語であったであろうが、今日に於いては一つの体系として用ゐられるやうになったものである。本書に於いては、形容動詞を立てないから、従来形容動詞の語尾と考えられてゐた「だら」「だつ」「で」「に」「だ」「な」「なら」は、そのまま、或いは分析されて、すべて右の活用形に所屬させることが出来る。

 形容動詞についての説明は、これまで説いてきたところですが他にも相違があります。この相違について検討しておきましょう。未然形の「で」については、「であろう」の結合した「だろう」を別に推量の助動詞として取扱っているため<動詞>未然形の「ない」に接続する「で」を挙げています。問題は連用形の「と、に」と連體形の「の」です。

まず連體形の「の」ですが、杉村論文では、「推量判断の「ヨウダ」は一般に連体修飾成分とはならない。しかし、次のような場合には連体修飾成分となるので注意が必要である。」として、「(24) 禎子は、本多良雄が夫について、もっと何か知っているような直感がした。(松本清張『ゼロの焦点』)」他の例文を挙げています。ここでは、「ヨウダ」の活用として扱われているわけですが、この「な」と「の」を同列に扱っていることになります。通説では「の」は<格助詞>です。時枝は例文、「僅か御禮しか出來ない。」を記し、次のように注しています。

「な」「の」は屢〃共通して用ゐられるが、語によって、「な」の附く場合と「の」の附く場合とがある。「駄目の」「僅かな」とも云うことが出来るが、「突然」「焦眉」「混濁」等には「の」がつき、「親切」「孤独」「あやふや」等には、大體に「な」がつくようである。

この「の」の扱いについて吉田金彦『現代語助動詞の史的研究』(19714月初版,『吉田金彦著作選7 現代語の助動詞』所収)は次のように指摘しています。

 「の」も時枝説によって最近助動詞に入れられたもので、『日本文法口語篇』ではその連体形の所に掲げられてある(一八五頁)。しかし、助動詞「の」は問題があって『日本文法文語篇』などに至って、主語格以外の「の」をすべて指定の助動詞と拡大したことには、これが行き過ぎだという大きな批判がある。(青木玲子「問題となる助詞」『講座日本語の文法』三巻一六〇頁)。筆者も単なる接続機能的観点からのみで、主格以外のすべての「の」を指定の助動詞とすることには問題があると思う。所有・所属の意味を表すものが助詞であり、属性・指定の意味を表すものは助動詞である(拙稿「現代文における『の』の意味・用法」『月刊文法』19709月)

 このように国文学者からは批判されています。ここで言われている、「属性・指定の意味を表すものは助動詞」というのも誤りなのですが。三浦つとむ『日本語の文法』は、「第四章 単語の活動状態としての<名詞>への転成―<転成体言>の問題」の「三 時枝文法の「の」<助動詞>説の吟味」で青木玲子の否定論を取り上げ、「私の結論もやはり否定論であるが、ここにはただ否定するだけではすまない問題がふくまれていて、時枝が<体言>や<用言>の内容の特殊性に立ち入ることをしないで形式的に扱っていることや、<転成体言>の問題を積極的にとりあげようとしないこととの結びつきを考えなければならない。」として検討しています。そして、上の時枝の注について次のように誤りを結論しています。

  いま引用した、「な」と「の」の使い方についての時枝の説明を、この観点(<用言>から<体言>への転成は、<用言>の活用の形式いかんと直接の関係をもっていない:引用者注)から説明してみると、同じ「親切」という語でも、「親切友人」という場合には属性表現の語であろうが、「親切押し売り」という場合には属性を実体的にとらえた表現ではなかろうか、と思われてくる。「僅か光がさした。」という場合には<副詞>で属性表現の語であろうが、「僅かお礼しか出来ない。」という場合には属性を実体的にとらえた<名詞>ではなかろうかと思われてくる。それならここでの「の」も<助動詞>ではなく、<格助詞>である

 このように話者の認識をもとに慎重に語性を検討しないと、特に助動詞では論理を踏み外し易いのです。連用形の「と、に」についても検討してみましょう。■

  
Posted by mc1521 at 23:51Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年12月13日

助動詞「だ」について(21)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
  <助動詞>「だ」の捉え方(8

 これまで見てきたように、肯定判断の<助動詞>「だ」の本質を正しく理解することが重要なのですが、「だ」の活用が学校文法でどのように捉えられているのかを見ましょう。次のようになっています。

   未然形  連用形   終止形  連体形   仮定形

   だろ   だっ・で              (な)           なら

となっています。この「な」「なら」は前回指摘したように、「にあり」が「なり」となり、「なる」から「な」となったもので、「にてあり」→「であり」→「であ(じゃ)」→だ

                   → 「である」

の変化から「だ」となったのと転成の系列が異なりますが共に判断の<助動詞>となっています。活用をもたない「綺麗」「荘厳」等の詳細な属性を表す漢語を「綺麗な」「荘厳な」と日本語に形容詞として取り込むために「な」が使われたのです。これを助動詞の<活用>ではなく、属性表現の漢語自体の活用と見なすところに<形容動詞>という誤った品詞が生みだされました。このことは、膠着語である日本語が裸体的に単純な概念を表し、これらを粘着的に連結していくのだという本質の理解を誤っています。

「綺麗ならば」という連帯形「なら」が方言では「だば」と使用されるのも理にかなっていることが分かります。そして、「ような」「そうな」という使用法からも「よう」「そう」が一語であることを示しています。

この事実を、国語学者はどのように理解しているのでしょうか。一例として、『北原保雄の日本語セミナー』(大修館書店、2006810)を覗いてみます。

Q8「だろう」は連語か助動詞か?という次のような質問が掲げられています。

  明日は晴れるだろう

の「だろう」は一語の助動詞と見るべきものでしょうか。それとも「だろ」に「う」がついたものとみるべきでしょうか。ご教示ください。

 これに対し著者は次のように答えています。

 A:お尋ねのように、「だろう」については、これを一語の助動詞と見る考えと、断定の助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」の下接した連語とみる考えとがあります。「だろう」には例にあげられた、

 (1)明日は晴れるだろう

のように動詞に下接するもののほか、

 (2)北国の冬は寒いだろう

のように、形容詞に下接するもの、

 (3)彼はまだ学生だろう

 (4)それはまたどうしてだろう

などのように、名詞や副詞に下接するものもあります。また、

 (5)海は静かだろう

のように、形容動詞の未然形に推量の助動詞「う」の下接した「だろう」も同じ意味を表します。

 断定の助動詞「だ」は、

 (6)彼はまだ学生

 (7)それはまたどうして

などのように、名詞や副詞などに下接します。ですから、(3)や(4)の「だろう」は、断定の助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」が下接したものと見ることができます。

 しかし、一方、断定の助動詞「だ」は、動詞や形容詞には下接することができません。

 (8)明日は晴れる

 (9)北国の冬は寒い

などとは、少なくとも共通語では言えません。つまり、動詞や形容詞には、「だ」は下接することはできませんが、「だろう」は下接することができるのです。ですから、(1)や(2)の「だろう」は、断定の助動詞「だ」の未然形とは簡単に言えません。接続の仕方という点を重視すれば、動詞や形容詞に下接する「だろう」は、(もともとは「だろ」+「う」ではありますが)、「だ」とは違った接続の仕方をするのですから、一語の助動詞だとする見方にも十分理があります。

 「ヨウダとソウダの主観性」の論者はこの国文法の誤りを無批判に受け継ぎ、さらに生成文法の非文という主観的、プラグマテイックな判定法を取り入れ論を展開しているのが明らかです。

 ここでは、

明日は晴れます。  北国の冬は寒いです

と敬辞化すれば、断定の助動詞の丁寧形が現れ、推量の場合も

  明日は晴れるしょう。  北国の春は寒いしょう。

と 明日は晴れる■。   北国の冬は寒い■。

と肯定判断が零記号となることが規範化している、つまり文法化していることが理解されていません。このような論理性を無視し、「やはり文法では形式を重視すべきではないかと考えます。」と話者の認識と語の本質ではなく、形式主義的な見方で判断しています。また、形容動詞を例に挙げている誤りも先に指摘した通りです。■

  
Posted by mc1521 at 22:55Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年12月12日

助動詞「だ」について(20)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:01.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(7)

 「3.比況のヨウダと推量判断のヨウダ」の「3.1 ヨウダの用法」は次のように記しています。

    「ヨウダ」には比況、推量判断、例示、婉曲などの用法がある。

12)a.顔の色艶を見ると、この人はまるで生きているヨウダ。(比況)

    b.顔の色艶を見ると、この人はどうやら生きているヨウダ。(推量判断)

    c.たとえばピーマンのヨウナ緑黄色野菜は健康にいい。(例示)

    d.(車が来たのを見て)社長、どうやらお車が来たヨウデス。(婉曲)

ここでは「ヨウダ」が一語として扱われています。語と句、連語の区分も明らかでないままに論じられているため、本論文が混迷し、誤った主観性の差異を論ずることになっています。

これまで明らかにしてきた通り、「ヨウダ」は、「ヨウ」+<指定・断定の助動詞>「ダ」です。従って、「ヨウ」がいかなる品詞で、どのような意義を持ち、文でどのような意味を表しているのかを明らかにしなければなりません。このことは、c.が「ヨウナ」となっていることからも、論者自信が無意識のうちに「ヨウ」を一語と認識して、これに「ナ」を累加している事実からも明らかです。また、「明日は雨のよう!」や「(精巧な彫刻を見て)まるで生き物のようね!」といった使い方をします。「ヨウダ」を一語で<助動詞>としているため、学校文法(橋本文法)では形容動詞型の活用としていますが、劉論文でも指摘した通りこの形容動詞という品詞がそもそも誤りで混乱をまねく元凶となっています。また、敬辞の場合は、「ヨウデス」と、「よう」+<丁寧な断定の助動詞>「です」となり、「ヨウダ」は一語でないことが明らかです。

このように、「ヨウダ」を一語の<助動詞>とするため、比況、推量判断、例示、婉曲の用法とせざるを得なくなり、さらに「ソウダ」と比較するという混乱に陥っています。

「ヨウ」には、まず<名詞>、<抽象(形式)名詞><接尾語>があり大辞林 第三版『大辞林第三版』では<名詞>「よう」が次のように記されています。

よう【様】

①ありさま。様子。すがた。 「書きたる真名(まんな)の-,文字の,世に知らずあやしきを/枕草子 103

②決まったかたち。様式。 「人の調度のかざりとする,定まれる-あるものを/源氏 帚木」

③やり方。方法。 「ふないくさは-ある物ぞとて,鎧直垂は着給はず/平家 11

④事情。理由。わけ。 「かせぎ(=鹿)恐るる事なくして来れり。定めて-あるらん/宇治拾遺 7

⑤同様。同類。 「必ずさしも-の物と争ひ給はむもうたてあるべし/源氏 夕霧」

⑥(形式名詞的に用いて)

 ㋐発言や思考の内容。こと。「ただ押鮎の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を押鮎もし思ふ-あらむや/土左」

 ㋑発言や思考の引用を導く言葉。…こと(には)。「かぢとりの言ふ-,黒鳥のもとに白き波を寄す,とぞいふ/土左」

⑦動詞の連用形の下に付いて,複合語をつくる。

 ㋐ありさま,様子などの意を表す。 「喜び-」 「あわて-」

 ㋑しかた,方法などの意を表す。 「言い-」 「やり-」

⑧名詞の下に付いて,複合語をつくる。

 ㋐様式,型などの意を表す。 「天平-」 「唐(から)-」

 ㋑そういう形をしている,それに似ているなどの意を表す。「寒天-の物体」 「カーテン-のもの」 → ようだ ・ ようです

このように、〔よう【様】〕は本来<名詞>であり、そこから」<抽象(形式)名詞>の用法が生じています。さらに⑦⑧の用法から<動詞>に連加する接尾語となり、現在はこの用法が主要になっています。この接尾語から、さらに推量の助動詞の用法に移行したものが生まれ、多義となって使用されています。これは、「らしい」が、

「学生らしい勤勉さ。」 (属性)

「彼は学生らしい。」  (推量)

と使用されるように抽象的な内容の客体的表現である接尾語から、主体的表現である助動詞への転成が起っているのと同様な現象といえます。

この品詞区分に従い、(12)の例を見ると、a.の「まるで生きているよう」は「様子」の<名詞>から<抽象(形式)名詞>を経て<接尾語>となっているのが判ります。c.の「ピーマンのヨウナ緑黄色野菜」は属性を表す<接尾語>になっているのが判ります。そして「ピーマンのよう」に、「にあり」が「なり」→「なる」から「な」となった主体的表現の判断辞である「な」が累加されて「ピーマンのような(る)緑黄色野菜」と表現されています。ここでは比況の接尾語が表現としては例示の意味となっています。e.では全く<接尾語>になってしまっており、<用言>「来た」に接尾語として付加されています。これは、比況という接尾語の不確実性から婉曲の意味となっています。

そして、b.は推量判断の「ヨウ」で助動詞となっています。このように見てくれば、各々が品詞「ヨウ」に<助動詞>「だ」、「です」や<判断辞>「な」、<感嘆詞>「ね」他が累加されたり、終止形として使用されているのが判ります。■

  
Posted by mc1521 at 22:30Comments(0)TrackBack(0)

2015年12月09日

助動詞「だ」について(19)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕

   <助動詞>「だ」の捉え方(6)

  「2.主観性 2.1 命題とモダリティ」の最後に次のように記されています。
 ここで注意しておきたいのは、(3)で空から落ちてくる水滴を「みぞれ」や「雪」ではなく「雨」と捉えたり、(4)で雨の激しさを「相当」や「ずいぶん」ではなく「かなり」と捉えたりするのも、話し手の主観によると言えなくもないということである。しかし、これらの表現は話し手が客体世界の事態として切り取ったものであるため、本研究では客観的な成分であると考える

 ここでは「雨」や「かなり」が「話し手が客体世界の事態として切り取ったもの」で「客観的な成分」とされていますが、これは言語規範としての語の辞書的な意味、つまり語彙と話者の認識の表現としての文の中での語の意味の関連と相違が正しく理解されていないことを明かしています。

 前回も指摘した通り、「雨だよ。」の「雨」と「だ」を切り離し、「雨」を命題としてしまうのも同様の誤りです。そもそも文の本質が解明できないために、文を「命題とモダリティ」の煉瓦的な積み重ね、つまり機械的な集まりと見なすことになってしまっています。命題とは論理学での用語であり、大辞林第三版では、「〘論〙 判断を言語的に表現したもの。論理学では真偽を問いうる有意味な文をさす。また,その文が表現する意味内容をさす場合もある。」となっています。つまり、命題は文の一形態であり、特殊な文を指しています。従って、判断が表現されていなければ文でも、命題でもないことになります。

「雨!」が一語文であるのは、「雨■!」と、表現されていない肯定判断との組み合わせにより一語文となるのであり、「客観的な成分」である「雨」は言語規範としての辞書的な意味の語でしかありません。この表現されていない肯定判断が表現されたのが、「雨だよ。」の<助動詞>「だ」であり、これを「雨」と「だ」に各々分離して命題とすることはできません。ここでは、辞書的な語の語彙と文に表現された語の意味が理解できずに同一平面上に並べられています。

 このように、文の本質が理解できずに語、文と、語の意義と文の意味の関連と相違が理解されていないため、文を「命題とモダリティ」に分解するしかなくなります。これまで見てきたように、語とは何か、品詞分類の基準と定義も解明できないため、「モダリティ」自体が、語の意義であるのか、句、文での意味なのかが曖昧なまま論じられています。それ故、「22 命題とモダリティの分類基準」でも、機能的な基準が示されます。

  モダリティは発話時点における話し手の心的態度を表すため、それ自体は真偽の対象とならず、連体修飾成分にもならず、過去文の対象にもならないという性質をもつ。一方、命題にはこうした制限が加わらない。

 そして、これが「主観性判定テスト」なる正に主観的な非文か否かという基準で判断されることになります。この「主観性判定テスト」の結果、 
「雨だよ」という表現のうち「雨」の部分は命題に属し、「だ」と「よ」の部分はモダリティに属すことが確認された。

と、「雨」の部分が「命題に属し」ているとして「雨」と「だ」が機械的に分離されることになります。先にも見たように、「雨だ。」は客体的表現である「雨」と主体的表現である「だ」が話者の認識により累加されて表現されたところに成立するのであり、命題とモダリティとは次元を異にしています。

これまで、論じてきたように「だ」は、主体的表現の肯定判断を表す単語であり、語のもっとも基本的な区分はこの主体的表現と客体的表現にあるのですから、モダリティ(法性)は主体的表現の語について論じられなければならないことになります。というより、語の本質的な区分が出来ないために「主観表現論的モダリティ論」と呼ばれる中途半端な概念が提起されることになったと言えます。そして、「(9) 雨だろうか。」についても次のような解釈が示されます。

 しかし、この表現で疑問の対象となっているのは、「~だろう」の部分ではなく「雨」の部分である。その証拠に「雨」と「雪」を対比した文は成り立つが、「~だろう」と「~φ(無形の確言形)」を対比した文は非文となる。

10) 雨だろうか、雪だろうか。

11)*雨だろうか、雨か。

「~だろう」はこれまで何度も指摘してきたように<助動詞>「だ」の未然形「だろ」+<推量の助動詞>「う」で、肯定と推量という各々まったく異なった認識を表しています。これを一緒くたにして、「~だろう」と「~φ(無形の確言形)」を対比するという誤りを犯しています。「~φ(無形の確言形)」とは零記号の判断辞でなければならず、比較するのであれば、「雨だか、雨■か。」でなければなりませんが、そもそもこのような「主観性判定テスト」自体に意味があるとは思えません。■

  
Posted by mc1521 at 16:06Comments(0)TrackBack(0)文法