2015年06月15日

言語の本質とは何か ― 9

   時枝誠記の言語過程説(7) ― 現象学の影響

 フッサールの現象学と言語過程説の関係については余り明らかにされていませんが、詞・辞の入れ子型構造で包む―包まれるという観念論的解釈他がその影響として指摘されています。この現象論に対する取り組みのエピソードが根来司『時枝誠記研究 言語過程説』に紹介されていますので記してみましょう。最初は講演での例です。

 まず昭和四十二年六月七日、これは時枝博士が亡くなられる年であるが、名古屋で鈴木朖の百三十年祭が催され、そこで博士は「『時枝文法』の成立とその源流―鈴木朖と伝統的言語観」と題して講演されている。それがさきの『(講座日本語の文法)第一巻』に収められているが、その中に自分が卒業論文を書く頃、鈴木朖が言語四種論で説いていることがよくわからなかった。というのが朖がことばを分類するのにどういう基準で分類したのか、その真意が的確につかめなかった。けれども、あとになって京都大学教授の山内という哲学者の『現象学叙説』(昭和四年)という書でもって、フッセルの現象学を勉強していたら、だいぶこうじゃないかということが納得がいくようになったといっておられるのである。続いてこの講演はこの朖の考え方を理解するべく手爾葉大概抄までさかのぼっていかれるのであるが、やはり山内博士が『現象学叙説』で説かれるいることがこれを読み解く鍵になるとして、次のように述べていられる。

 先ほど、フッサールのことを申しましたが、フッサールの現象学が、なぜ私がこれを解明する一つの助けになったかと申しますと、これは山内得立先生の説明によって、こういうことを学んだわけなんですが、フッサールは人間の意識を分析いたしまして、まず一つは、人間を取り巻くところの客観の世界、これをフッサールは、対象面、noemaというふうに言っております。ご存じですね。それからもう一つ、その対象面に働きかけるところの人間の働きですね。これを志向作用noesisというふうに言っております。つまり、noema と noesis、 対象面と、それに働きかける志向作用の合体によって、人間の意識というものは成立する。でありますから、たとえばうれしいという感情は、ただうれしいという感情だけじゃなくて、うれしいことの、なにか対象面がある。それは、はっきりしたものであろうとなかろうと、かまわないんですが、なにか対象面があって、それに対する働きかけによって、そこに人間の、うれしいということが出てくる。ですから、現象学の有名な言葉で、<うれしいというのは、うれしきことに対するうれしいことである>というふうな説明がありますが、そういうことなんですね。つまり、noema の表現が、さっき言いました「詞」の表現、noesis の表現が「手爾呼波」と、こういうふうに、一応の説明ができると思うんです。

 用語もまた現象学からのものであることが分かります。さらに根来氏は昭和十三年以降の論文では「現象学的なものの比重がだいぶ軽くなっていくのである」として、「それはなぜであろうか」と問い次のエピソ―ソドが紹介されている。

 
 私はいましがた時枝誠記博士がある時期から現象学にあまり興味を示されなくなったといったが、、そこで思い浮かぶのは時枝博士の京城大学での上司であった高木市之助博士がものされた「時枝さんの思い出」(国文学四十七年三月、臨時増刊)という追悼文である。これは活字になったのがすでに時枝博士が逝去されて何年もたっていたのと、これが臨時増刊敬語ハンドブックに載ったためにあまり他人に知られない文章のようである。これを読んでいくと、次に引用するような時枝博士と現象学に関して衝撃的なことがわかるのである。

 それについて思いだされるのは時枝さんが教授時代の或る日のこと、突如私の宅を訪れ、京城大学を辞して京都大学へ聴講に行きたいと言出されたことである。あっけにとられている私の前で時枝さんが語られた理由は、「自分の国語学は現象学を必要とする段階に差しかかったが、自分はこの方面の知識に比較的弱いので、今自分が信頼する××教授の許で勉強したい。」というにあった。これはつまり時枝さんにとって、自分の学問の操守の前には、大学教授やそれに付随する一切が魅力を喪失したことに他ならなかったのである。
 私が時枝さんのこの決意を翻えさせるためにどんな苦労をしたかについては、当時このことに協力して頂いた麻生さんが知っていて下さると思うが、常識的に言って、大学教授の職というものは自分の勉強のために犠牲しなければならないほど窮屈なものとはおもわれなかったので、私達は時枝さんの辞職が京城大学の講座をどんなに窮地に陥れるかについて百方口説いて結局時枝さんを思い止まらせることに成功はしたが、時枝さんにとってはこの断念がどんなに不本意なものであったか。時枝さんの常識外れの、国語学に対する操守の前に屈服しつつも、時枝さんにこの卑俗な常識を護って貰うためにのみ私達は働かなければならなかったのである。
 これは時枝博士の学問的生一本さを証する例として認められるのであるが、時枝博士自身、京城時代のある日高木博士邸を訪れて現象学を勉強するべく、京城大学教授を辞して京都大学に聴講に行きたいと申し出たなど、学問的自叙伝ともいえる『国語学への道』にもしるされていない。ここに時枝博士がつきたいという××教授が京都学派でも体系的理論家として知られていた山内得立博士であることはいうまでもない。山内博士は明治二十三年生まれで時枝博士より十歳年長であり、あのヨーロッパ哲学によって学んだ現象学の方法によって「いき」を分析した九鬼周造博士と共に、西洋哲学を講じられていた。ちなみに博士は昭和五十七年九月十九日に九十二歳で不帰の客となられたが、京都哲学の最長老であった。とにかく高木博士はさきの文章で京城大学にこのままいるよう口説いて時枝博士を思い止まらせることに成功したと書かれているのであるが、それが昭和何年頃のことか明らかでない。それで推測するよりほかないが、高木博士が九州大学に転じられたのが昭和十四年であり、時枝博士の学問の進度から推して、昭和十年過ぎの出来事であろうと思われる。

 いかにも時枝らしいエピソ―ソドであるが、現象学に助けを求めるのはその後も続いていると思える。■  
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2015年06月14日

言語の本質とは何か ― 8

   時枝誠記の言語過程説(6) ― 留学戻りから源氏物語読解へ

 言語は表現の一種であるという時枝の卒業論文での論究から、その後京城帝大に赴任し一年半のヨーロッパ留学による言語学の実情の見聞により、

 国語学の問題や方法は、何にも、西洋言語学のそれのみを、追う必要はないのではなかろうか。それよりも国語の事実に直面して、その中に問題を求め、方法を考えるべきではなかろうか。西洋言語学の問題や方法を移して、以て国語学の規範とした啓蒙時代は既に過ぎ去ったのではなかろうか。

との自覚に達するところまでを見てきました。留学より戻ったのが昭和4年(1929)で、先の自覚について次のような理論的根拠を見出している。


 (一)国語学の方法及び問題点を、西洋言語学のそれを離れて、国語自体の現象の中に求めることは、先進科学の方法問題を無視して、唯我独尊を主張することではなくして、言語学の立脚する真の科学的精神に忠実であることであり、この精神を生かすことである。言語学の皮相な結論にのみ追随することが言語学に忠実である所以ではない。こ々に国語学と言語学との関係を明らかにすることができると同時に、科学的というには未完成な明治以前の国語研究を、今日以後の国語学の出発点とすると根拠をも理論づけることが出来る。それは単なる日本的言語学の樹立というような偏狭な態度を意味するのではなく、寧ろそこにこそ、国語学が言語学の一翼を負担する真の意義が生ずる。

 (二)学問研究の根本的態度は、方法論の穿鑿よりも、先ず対象に対する凝視と沈潜でなければならないということ。言語学の方法を法に忠実であろうとするならば、それが教える理論や方法を一先ず措いて、対象を凝視し沈潜することでなければならない。この信念に基づき、これを実行に移すため昭和五年四月の新学年の講義として「漢字漢語の輸入に基づく国語学上の諸問題」という題目を掲げること々した。

 この講義案は省略しますが、「究極の目的は、これによって国語史の特質を明らかにすることにあったのである。」と記しています。昭和十九年には文部省の助成金の申請までして研究を進めますが時局の影響もありわずかに十九年六月に総論的な発表で打ち切ります。ここには自然科学的という見せかけではなく、「真の科学的精神に忠実」であり、「この精神を生かす」という弁証法的思考に基づき「対象を凝視し沈潜する」姿勢が宣言されています。現在の外国の言語学に依拠することこそ学問的という非自立的な発想とは根本的に異なっています。

 他方で、「言語意識の発達、或いは言語に対する自覚ということは、少なくとも我が国に於いては、主として古典講読や解釈の結論であり、その副産物であって、国語学と古典解釈の密接不離な関係を思えば、明治以前に於ける国語研究の実際は、これら古典についての購読や解釈と、それの結論である国語理論とを相関的に観察してこそ、始めて国語研究の真相に触れることが出来るのである。そういう意味に於いて私の国語学研究史は甚だしく片手落ちであった。もっと私は国語そのものを凝視しなければならない。」との反省の基に、「昭和五年の春」を迎えたならば、我が古典の随一であり、難解の評のある源氏物語を読み始めようと決意した。」のです。そして、三年余りの日時を費やし、昭和八年の三月に読了しています。さらに、次のような地点に達します。

 この読解の仕事を通して、私は再度転じて私の国語学史研究に新しい立場を加えることの必要性を感ずるに至った(このことは更に別項に述べること々した)。同時に国語学史の研究は、単に過去への懐古的興味を以てなされるものでなく、将来の国語学建設への重要な足場となるべきものであることをはっきりと意識するようになった。古人の国語に対する自覚の最終点が、実に我我の国語意識の出発転であるべきこと。現在及将来の国語学の建設は、古人の国語研究を乗り越える処に始められるべきことが痛感せられるに至った。そしてその間他方に於いて、私は絶えず、私の国語研究の最初に予想せられた、言語は心的内容の表現過程そのものであるという、言語に対する一つの本質観を実証することを忘れなかった。源氏物語の読解は、私の今までの国語学史研究に活を入れるものであると同時に、国語学史より国語の特質の闡明への一大通路を開拓すべきものであることを信ずるに至って、私は此の二年間従事してきた「漢字漢語の輸入に基づく国語学上の諸問題」の講義をいったん打切り、源氏物語の演習を大学の教壇で開始することの計画を立てた。爾来私は東京帝大へ転任するに至るまで約十幾年間、殆ど毎年「中古語」研究の題下に専ら源氏物語の読解を継続することとしたのである。後に述べる国語学言論の理論の内容をなすものは、専らこの京城帝大に於ける中古語研究に於ける源氏物語読解の産物であったと云ってよい。

 この京城帝大に於ける研究過程で、フッサールの精神現象学を必要とする段階に差しかかったという時期があり、そのことを証する記事がありますが、次回はそれを紹介します。
 今回の引用は時枝誠記『国語研究法』(昭和二十二年九月三十日初版、三省堂)によりました。引用に当たっては旧漢字、仮名遣いを改めています。■  
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