2015年10月11日

「天の原ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在 再考(2)

 万葉集の巻二・一四七番歌、

天の原 振り放け見れば 大君の 御壽は長く 天足らしたり

を阿倍仲麻呂は知っていた、という所まで論及しましたが、この後次のように論じられています。第五項全部を引用します。

 阿倍仲麻呂は、この歌を知っていた。わたしはそう思う。なぜなら、この先行歌を知らずに、偶然同じ場所(「天の原」)で、同じ上の句を使って、その歌を作った。そんな偶然など、あるものではない。だから、当然、知っていて作った。そう考えるほかはない。おそらく「本当の作歌者名(Y)」も、知っていたことであろう。
 このように考えてみると、仲麻呂の歌は、かつてとは、全く異なった「光」を帯びて輝くことに気づかざるをえないであろう。
 彼のおかれていた状況を摘記してみよう。
 第一、(従来の理解とは異なり)九州近辺の出身だった。宝満山(三笠山)の西麓、大宰府近傍の地に久しく住んでいたように見える。
 第二、彼の生きた八世紀前半、すでに「倭国」(九州王朝)は滅亡していた。代わって近畿天皇家による「日本国」の時代となっていた。
 第三、彼は若くして俊秀、ために霊亀二年(七一六)遣唐使の一員に加えられたという。もちろん、「日本国」の一人としてである。
 第四、彼は、故郷の九州の博多湾岸を出航し、壱岐の北端部「天の原」に至った。ここを過ぎれば、もはや九州を見ることはない。「日本を去る歌」を作ったのである。
 第五、彼は、この地で、かつて先人が作った歌を知っていた。その先人は、今は滅亡した「倭国」(九州王朝)の将兵として、白村江の戦へと出発していった。その時「倭国の永遠」のみを信じていたのである。
 しかし今(八世紀中葉)、その「倭国」は滅亡し、近畿中心の「日本国」にとって代わられた。
 人々は、昨日の「倭国への忠誠」を忘れたように、新しい「日本国」の近畿に向って「忠誠の心」を転じていた。
 その中における「日本国の遣唐使の一員」に、彼は加えられたのである。
 以上のような「状況」において、彼の歌を再読してみよう。そこには次のような含意が感ぜられないであろうか。
 <その一>かつて白村江の戦へと出で立っていた人々、その将兵の上にも、あの「三笠山に出でし月」はその光を照らしていた。
 <その二>はるか古え“天国より降臨した”として侵入し、支配した「倭国の始祖」ニニギノミコトがこの博多湾を“満面の勝利感”を以て闊歩していた時、あの「三笠の山に出でし月」はその姿を照らしていたことであろう。
 <その三>その後、「倭国」は白村江に敗れ、三〇年数年後、滅亡した。人々は筑紫への忠誠を止め、ひたすら心を大和へと向けはじめた。その人々の姿をもまた、「三笠の山に出でし月」は変わらず照らしていた。
 <その四>そして今、奇しき運命を以て、「日本国から大唐へ」の遣支団の一員となって、日本を去ろうとしている自分、その面前に月が照っている。これもあの「三笠の山に出でし月」の変らぬ光なのであろう。
 以上、仲麻呂は“変わりゆく世の相(すがた)”に対し、不変なるもののシンボルとして、「三笠の山に出でし月」を見つめていたのではあるまいか。

 通説の大和の三笠山では、とてもこのような深い、古田氏の敗戦体験にも支えられた、心の琴線に触れる理解は望むべくもありません。■  
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2015年10月09日

「天の原ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在  再考(1)

 先に、古今集の阿倍仲麻呂の歌、

  天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも

について、壱岐の天の原から博多湾岸の宝満山に昇る月を見ての歌との論証を記しました。この「天の原ふりさけみれば」の句には万葉集に先例があることを古田武彦氏が『古代史の十字路 万葉批判』で論じていますので、これを辿ってみましょう。万葉集の巻二・一四七番の、

  近江大津宮に天の下知らしめしし天皇の 天命開別天皇、謚して天智天皇という
    天皇聖躬不豫之時太后奉御歌一首
                        みいのち
  天の原 振り放け見れば 大君の 御壽は長く 天足らしたり
                 
です。通説では、「大空を振り仰いで見れば、大君の御命は長久に空に満ち足りるほどである」といったものですが、(天智)天皇が病に斃れ、床に伏しているのに作歌者(倭大后)が「天の原ふりさけみれば」というのは大仰な芝居がかった感じで歌と前書きとのアンマッチが見て取れるということです。

 やはり、「これは当然、博多湾沿岸から北上して朝鮮半島側へ向かう際、壱岐の北端部「天の原」近辺における作歌と見なす」しかありません。この歌は前書きの時代性から7世紀後半で、8世紀になって「大空を振り仰いで見れば」という句を仲麻呂が「天の原(地名)」の意味で再利用というのは考えられません。

 この歌の真の作歌者は、なぜこのルートを北上しているのか。この時代を画す出来事とは、「白村江の戦」です。その戦のために北上する、その途次の歌となります。ここを過ぎれば、ふたたび祖国を見ることはないであろうとの思いが詠われています。その博多湾沿岸には内湾である今津湾に「長垂(ながたれ)山」があるのです。室見川の左岸(今宿の東)に当ります。ここはペグマタイトという雲母を含む鉱石の産地で現在天然記念物に指定されています。その室見川上流には、最古の「三種の神器」をもつ弥生王墓、吉武高木があります。九州王朝の「神聖なる原点」たる陵墓です。彼は、その方向を望み見ています。
 つまり、この歌の下句、「御壽は長く天足らしたり」には、この「長垂山」という地名が詠み込まれていたのです。通説の解釈では、この緊密な内的意味の繋がりを捉えられない散漫な解釈となってしまいます。古田氏は次のように記します。

 彼が博多湾岸を出発して“死を覚悟した”戦に出でゆくとき、この「吉武高木」の陵墓へ参拝し、そのあと、博多湾沿岸の「長垂山」近傍(室見川河口)から「船出」してここ「天の原」に至ったのではあるまいか。
 「天足らしたり」
の「天」が、九州王朝の天子の「自称」であったこと、言うまでもない。隋書俀国伝において
「姓は阿海(あま)、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号す。」
とあったこと著名である。
 ここで彼(Y)が歌っているのは、
「倭国(九州王朝)の歴代の王者(ニニギノミコト以降)は、死して今も、永遠のいのちを保っておられる。」
という内容なのである。……
 すでに「己がいのち」に先はない。そう思いかためていたことであろう。わたしの青年時代の友たちと同じだ。
 そのような中での「作歌」だったのである。
 「天の原で、はるばるとふり仰いでみると、長垂山の向うに鎮まります、死せる王者たちの御いのちは永遠である。」
 自分はやがて死ぬことであろう。しかし、倭国(九州王朝)の歴史は永遠である。そのように信じようとしているのだ。その気持ちは、あのような時代(戦前)の一刻をもったわたしには痛いように判るのである。(『古代史の十字路 万葉批判』第十章 《特論三》「倭国別離」の歌)

と痛切な氏の共感が述べられています。阿倍仲麻呂は、この歌を当然知っていたことになります。そこからは、仲麻呂の歌がこれまでとは全く異なった「光」を放つことになります。古田氏の解読を次に記します。■
  
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2015年10月01日

上野誠 著『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』に見る粗雑な鑑賞 (4)

 これまで、主に王維の詩「送鼂監歸日本」の九州の理解に関する粗雑を取り上げてきましたが、この本ではその根源にある日本国の理解にこそもっとも粗雑な解釈が見られます。もっとも、これは著者である上野氏個人の問題というより、戦後古代史学、国語学そのものの体質、戦後レジュームと呼ぶべきものですが、この点に触れてみましょう。

 「第二章 日本から唐へ」で「日本の遣唐使は大言壮語して真実を語らない」という節で『旧唐書』『新唐書』の疑惑について論じています。『旧唐書』の東夷伝は高麗・百済国・新羅国・倭国・日本の5国で構成されています。つまり、倭国と日本国は別国となっています。本書では、<「日本」という国号が、法の中に位置づけられたのは、大宝律令が最初であることはすでに述べた。>として、倭国から日本国への変更を単なる律令制定による国号の変更と見做しています。しかし、唐はそれに疑問を持ち、遣唐使に問い質しているのですが著者はこれを「日本側の虚勢」の問題に矮小化し、「自負と虚勢は、コインの表裏の関係にあると思う」と片づけています。『旧唐書』「日本伝」の記述を見てみましょう。

  日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名

 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本

 或云 日本舊小國 併倭國之地

 其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉

 又云 其國界東西南北各數千里 西界南界咸至大海 東界北界有大山爲限 山外即毛人之國

   日本國は倭國の別種なり。其の國、以って日に在り。故に日本を以って名と爲す。

 或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲すと。

 或は云う。日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。

 其の人、入朝する者は多く自ら矜大(きょうだい)にして實を以って對(こた)えず。故に中國、焉れを疑う。

  このように、唐の史書に「多く自ら矜大(きょうだい)にして實を以って對(こた)えず」と記されているのですから、これを単なる「日本側の虚勢」で済ますのは粗雑な理解と言うしかありません。『新唐書』「日本伝」にも同様な記載があります。倭国は建武中元二(57)年に光武帝から金印をもらい、俾弥呼もまた金印をもらったように、中国とは古くから交流があり、7世紀には唐と白村江で戦い、敗れているのですから、互いの状況は良く分かっているはずです。そこへ、新興の日本国の遣使が訪い「實を以って對(こた)えず」というのですから、単に「日本側の虚勢」とするのは粗雑な理解というしかありません。「日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと」というのですから、ここに王朝の交替があったと見ねばなりません。古田氏は『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973/角川文庫、1979/朝日文庫、1993/ミネルヴァ書房、2010)の「序章 連鎖の論理」で次のように記しています。

  以上によってみると、中国史書に一貫した中国側の視点からは「漢より唐のはじめまで」は一貫した王朝としての「倭国」だ。それ以後、新興の別王朝としての「日本国」となった、といっているのである。そして、中国側は、この新興「日本国」の使節と接触した最初の経験をつぎのように記している(先の「日本国」の項につづく)。「其の人、入朝する者、多く自ら衿大きょうだい、実を以て対こたえず。故に中国焉これを疑う」。ここで「実」といっているのは、古くから累積し、正史に記録されてきた中国側の認識のことである。しかるに新興の「日本」の使節の主張がそれとくいちがっている。そこで、中国側はこれに疑惑をいだいた、というのである。

   これこそが、真の日本の歴史と見ねばなりません。この日本国(近畿大和朝廷)以前の倭国を古田氏は「九州王朝」と名付けたわけです。そして、その九州王朝の天子の直轄領を中国の伝統に倣い九州と名付けたということになります。

上野氏の粗雑の論理の根源は、実にこの九州王朝という日本の真実の歴史の無視にあると言わねばなりません。■

  
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2015年09月30日

上野誠 著『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』に見る粗雑な鑑賞 (3)

 王維の本来の題が「送鼂監歸日本」であったものが「送祕書晁監還日本國」と「帰」が「還」に変えられています。

 これは、よく知られている通り別離の宴を催し「日本=ヒノモト」へ帰るべく出帆したのですが、途中台風に遭い船はヴェトナム方面に流され、結局唐へ戻る結果となってしまいます。そして、故国へ戻ることなく唐で没します。つまり、この事実を知った後で、往還の「還」の方がより適切との判断で直されたものといえます。これらの経緯を古田氏は次のように記しています。

  現在、この王維詩中の「九州」に対する“一般的理解”は、「九州=全世界(中国を含む全領域)」のようである。(中国を「赤県神州」と称し、その一とする。『史記』鄒衍伝)

 確かに、王維がこの「神仙的な超九州」概念を“意識”していたことは「万里空に乗ずるが若し」の表現からもうかがえよう。

 しかし原型たる極玄集のしめす「九州何処所」の表記は、やはり「具体的所在」としての「九州」であり、漠たる“不特定の拡がり全体”の称ではない。

 だからこそ後代(北宋・何宋代)の版家・校家はこの「所」の一字をきらい、「遠」や「去」へと“改ざん“すべき必要性があった。そのように率直に理解すべきではあるまいか。

 唐詩選のしめすところ、それは明らかに“改ざん”型であり、従来の注解・翻訳者のほとんどはこれに意を払わず、空しく「全世界」視してきたのである。

  この『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』の著者である上野誠氏も5年前の古田氏のこの指摘を無視し“改ざん“型を踏襲しているのです。その結果、仲麻呂を大和、奈良の出身とすることになり『古今和歌集』の、

  天の原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山に 出でし月かも

の歌の理解もまた誤る結果となってしまっています。

 著者は、「歌の聞き手と読み手には、今、作者がどこにいて、どこから、どこに出た月を見たかは、明示されていないのである。明示されているのは、昔、春日にある御蓋山の月を見たということだけである。」とし、これを推理するところにおもしろさがあるとします。さらに、左注にもとづき、

   仲麻呂が唐土の明州というところで、帰国送別宴の折に見た月。だから海辺の月ということになる。

  具体的に日時は確定できないが、留学の前に見た故郷の月、ということになる。

 と解釈します。しかし、この解釈では、「天の原」が単なる天の空となり、「ふりさけみれば」との繋がりも不明です。「かすが」「みかさ」との内的つながりも不明な散漫な歌となってしまいます。これでは、かつて古田氏が高校で教えた時、生徒から問い詰められた「春日っていうのは、中国でみんなが知っているそんなに有名な場所なんかい?」「なんでだ?」「なぜ、大和なる三笠の山と言わんのだい? 春日の方が有名なんかい?」という問いに答えることはできません。先にも記した通り、事実は古田氏が「『万葉集』は歴史をくつがえす」で述べた次の通りとなります。

  結論としてここ、奈良の歌ではない。だから阿倍仲麻呂が日本を離れて、壱岐の「天の原」で、月が上がるのを見て作ったとすると、よくわかる。ここで船は西むきに方向を変えるので、島影に入ると九州が見えなくなる。で、ふりかえって見ると、春日なる三笠の山がある。三笠の山は志賀島――金印で有名な――にもありますのでね、目の前に二つの三笠山がある。「筑紫なる」といったのではどちらの三笠山か分らぬ。宝満山なら「春日なる三笠の山」でよい。ですから全部の条件がピシャピシャと合ってきた。こうして解けてきた。そうすると、間違っていたのはまえがきの方だった。

 たしかに、仲麻呂は明州で、別れの宴で、この歌を歌ったと思いますよ。しかし、その場で作ったのか、前から作っておいたのを詠じたのかは別の問題。日本の使いが帰ってきて、この歌を伝えたのでしょう。しかし、そこ明州で作ったというのは編者の解釈、実は間違っていた。編者の頭には大和の三笠山しかなかった。のちの人は、まえがき、あとがきをもとにして解釈しようとしたから苦しんできた。歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認したのが、この歌だった。

  このように判明すれば、唐に向かう船が壱岐の「天の原」(遺跡の近く)に近づき、大宰府方面を振り返り故郷の「春日なる三笠の山」に出た月を詠んだのであり、各語が緊密に結びついた名歌であることが明らかになります。■

  
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2015年09月28日

上野誠 著『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』に見る粗雑な鑑賞 (2)

極玄』の古田氏による読み下しを記します。

  積水不可極  積水きわむべからず。

  安知滄海東  いずくんぞ滄海の東を知らん

九州何處所  九州いずれの所ぞ

萬里若乘空  万里、空に乗ずるがごとし

向國唯看日  国に向かいて、ただ日を看

歸帆但信風  帰帆ただ風にまかす

鼇身映天黑  鰲身(ごうしん)、天に映じて黒く

魚眼射波紅  魚眼、波を射て紅なり

樹扶桑外  郷樹は扶桑の外

主人孤島中  主人は孤島の中

離方異域  別離、まさに異域

音信若為通  音信、いかんか通ぜん 

撰者は姚合(779855)で、古田氏が『極玄集』について、「一番古い詩集である。これは9世紀、阿倍仲麻呂や王維がなくなってから百年も経っていない時期に、姚合(ようごう)によって編集された詩集である。彼自身は詩人でもあり、『唐詩選』の中に、彼の詩も二・三詩はある。その詩人の姚合が、八世紀以前の、七世紀ぐらいからの唐の初期の詩人の詩を編集したのが『極玄集』である。非常に古い。」と言われている通りです。先の趙殿成版では、「九州何處所」が「九州何處遠」と「所」→「遠」と直されています。身近にある『唐詩選()』(前野直彬注解:岩波文庫 229P)でも「遠」とし、「九州」を「ここでは中国の外にあると考えられた九つの世界をさす。」と注がついています。

このような改変がいつ頃なされたかを古田氏は調査し、南宋末(十三世紀後半)の『須渓先生校本・唐王右丞集』まで遡りうることが分かっています。これは、南宋という朱子学の時代に中華原理主義の立場から判断し校本を定めたものと見られます。つまり、本来「所」であったものをイデオロギーの立場から「遠」に直されたもので、王維が詠んだ詩の原型は『極玄集』であり、これにより解釈しなければならないということになります。先にみたように、趙殿成の『王右丞集箋注』にも注として、『全唐詩』によれば<九州何處遠……「遠」一作「所」>と記されていますが、上野氏はこれを無視していることになります。

 では、「所」→「遠」で何が異なるのでしょうか。読み下しのように、「所」の場合は、「仲麻呂が帰る九州とは何処にあるのか」という意味になります。「遠」と直された、先の『唐詩選()』では、「中国の外にあるという九つの世界の中で、どこが一番遠いのか(きっと君の故国、日本にちがいない)。」と解釈しています。中華原理主義の立場からは九州というのは「中国全土」、「全世界」という意味にとるしかなく、夷国に九州などあってはならぬという発想で書き変えたものということです。「中国全土」というのは、聖天子禹の治めた九州という意味合いになります。しかし、本来形は、九州=九州島こそが阿倍仲麻呂の帰り行くべき所であったことを示しています。これは、その後に「主人は孤島の中」と詠われていることからも明らかです。この「主人」とは宴を主催した仲麻呂です。唐の時代には倭国の九州がそのまま認められていたということです。

 さらに、古田氏は詩に付された長大な「序」の中に、

   卑彌遣使報以蛟龍之錦(卑彌、使を遣はす、報ゆるに蛟龍の錦を以てし)

とあるように、「『三国志』の魏志倭人伝からの引用と見られる章句が特筆大書されて」いることからも、「邪馬壹国に至る、女王の都する」の「所」との呼応を考慮すべきことを指摘し、次のように記しています。

  この両者を無関係とし、「偶然の一致」と見なすならば、それこそ粗雑の鑑賞、後世の武断と評せざるをえないのではあるまいか。

  さらに、「郷樹は扶桑の外」の理解が問題となります。『唐詩選()』では、「君の故郷の木々は扶桑よりもさらに向こう生え、その故郷の家のあるじ、君は孤島の中に住む身となる。」と、「故郷の木々」は「扶桑よりもさらに向こう」とされていますが、「扶桑の樹の生える遠地の君の故郷」とするのが自然な理解と言えます。このように見てくれば、仲麻呂の帰らんとした所は「九州」島であり、王維は「君の帰らんとする九州とはどこにあるのか。」と聞いていることになります。

  そして、題が「送鼂監歸日本」から「送祕書晁監還日本國」と「國」の字が加えられていますが、本来の「日本」は、博多湾沿岸にある字「日本=ヒノモト」ということになります。宋代には、これが分らなくなり、日本国としたものと考えられます。「帰」が「還」に変えられた理由を次に見てみましょう。  
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2015年09月27日

上野誠 著『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』に見る粗雑な鑑賞 (1)

  先に、「天の原 ふりさけ見れば…」の解釈について上野誠氏の従来説に疑問を呈しましたが、題記の著作については未読でした。この書の内容を検討してみましょう。本書は、十七歳で養老元年(七一七)に遣唐使に同行し、唐朝の高官となり帰国を果たせずに唐で客死した中国名は仲満のち晁衡(ちょうこう)の足取りを追ったものです。本書は安倍仲麻呂を大和、奈良の出身として描いていますが、王維が阿倍仲麻呂を送る時に作った有名な詩「送鼂監歸日本」によれば、九州大宰府の地となります。この詩の解がポイントですが、著者は大和、奈良の出身を前提に注解しているため、その真実に届くことが出来ていません。実際問題、仲麻呂の出身地を記録した文書は存在しません。そして、「天の原 ふりさけ見れば…」の解釈もこの延長上で、先に論じたように従来説のままとなってしまいます。というより、この歌の解釈に基づき大和、奈良の出身とされているのが実体といえます。

  このキーポイントである王維の「送鼂監歸日本」の注解から見てみましょう。この詩の理解については、既に『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』(古田武彦/古賀 達也/福永 晋三/著:20005月 明石書店刊)で従来説の誤りが正されていますので、これによって見ていくこととします。

 上野著では、第七章「阿倍仲麻呂と王維」で「本章は、本書の天王山である。」と記し注解を試みています。ここでは清代、乾隆帝時代の磧学・趙殿成の注他によっていますが、問題はその本文をどの版本によるかです。著者は中唐の詩集『極玄集』の冒頭が王維の「秘書晁監の日本国に環らむとするを送る」からはじまるとし、「『極玄集』は、唐の姚合の編」としながら、『極玄集』の版本ではなく、趙殿成『王右丞集箋注』版をそのまま引用、注解するという史料批判の基本が疎かにされているのがわかります。

  『極玄集』の冒頭の王維の詩は次のようになっています。

 (唐)姚合   ○王維【字摩詰河東人開元九年進士歴拾遺御史天寳末給事中肅宗時尚書右丞】

  送鼂監歸日本

  積水不可極 安知滄海東 九州何處所 萬里若乘空 向國唯看日 歸帆但信風 鼇身映天黑 魚眼射波紅樹扶桑外 主人孤島中 離方異域 音信若為通

 これに対し、趙殿成の『王右丞集箋注』は、

 送祕書晁監還日本國  幷序     王 維

で始まり、序を記した後、

  積水不可極 安知滄海東 九州何處遠 萬里若乘空 向國惟看日 歸帆但信風 鰲身映天黑 魚眼射波紅 郷樹扶桑外 主人孤島中 別離方異域 音信若爲通

 となり、次の注がついています。

  ※『全唐詩』によれば、

  九州何處遠……「遠」一作「所」。

  歸帆但信風……「帆」一作「途」。

  魚眼射波紅……「魚」一作「蜃」。

  これで判る通り、『極玄集』の題は「送鼂監歸日本」となっており、『王右丞集箋注』では「送秘書晁監還日本国竝序」となって、「秘書」が付加され、「帰」が「環」とされ、「日本」も「日本国」と「国」が加えられています。さらに、詩の中の「九州何処所」が「九州何処遠」に改竄されているのが分かります。この、「国」の付加と「処」→「遠」、「帰」→「環」の改竄の意味を著者は問うことなく、宋代以後の解釈に従い注解を試みていることになります。それが、王維の詩の理解を根本的に誤らせ、仲麻呂の歌の理解の誤りに結び付いていることが分かります。■

  
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2015年09月21日

「天の原 ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在  補遺

 昨日、奈良大学教授 上野誠氏の「(匠の美)御蓋山 平城びとの月」の記事を取り上げましたが、その後で「阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が仰ぎ見た月は、何処の月?」―「『古今和歌集』に載った仲麻呂の歌に関わる疑問」というHPの記事を見つけました。

 ここで、上野氏の著書『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』(角川選書:20139)に、「「天の原ふりさけ見れば」と題する一章があり、この和歌に関するさまざまな疑問を解説してある。」ことが記されていました。

 この本は未見のため、とりあえずHPの内容の前回指摘に関連する部分を転載、紹介させていただき、追って著書を読んだ感想を記させていただきます。

  ■ 「天の原」歌は、阿倍仲麻呂が天空に上った満月を見上げて詠んだとされている。しかし、上野氏は、この歌には次の2つの疑問があるという。即ち

(A)この歌を詠んだ時、作者が何処にいて、どこから見ている月か明示されていない

(B)作者がかって三笠の山に上る月を見たと云っているが、それが何時のことだったか明示されていない

つまり、この歌にはWhenWhereを示す要素が欠けていて、読者はこの歌に示された情景を思い描くことができない、と指摘されている。

 ■ しかし、上野氏はこの歌の詞書きや左注に疑問を挟まれる。先ず、『古今和歌集』は、平安中期に醍醐天皇の勅命で、紀貫之(きのつらゆき)らが中心になって延喜5(905年)ころ編纂された歌集だが、その時点で参考にした元資料には、詞書きなどついていなかったのでは・・・と推測される。なにしろ、仲麻呂が玄宗皇帝の許しを得て、藤原清河を大使とする第10次遣唐使の帰国船に便乗して帰国の途についたのは、唐の天宝12載(753年)11月で、およそ150年も前のことである。しかも仲麻呂が乗船した船は途中で難破して帰国できず、再び長安に戻り最後は唐土で客死している。そのため、当時流布されていた仲麻呂伝承に基づいて、紀貫之はこの詞書きを記したのであろう、と云われる。

  ■ さらに、左注についても、専門家の間では後人のものとされているそうだ。時代が降って、10世紀の末以降に藤原公任(ふじわらのきんとう、966 - 1041)あたりが、語りの際に挿入した註釈を付け加えたと考えられている。その結果、仲麻呂が仰ぎ見た月は、唐土の明州というところで、帰国送別宴の折に見た月、つまり海辺の月と理解されるようになった。

  ■ 『古今和歌集』に「この歌は、中国の明州で詠まれた」との左注があることから、阿倍仲麻呂が帰国の途についたのは明州、すなわち現在の浙江省の寧波市と信じられてきた。しかし、上野氏も指摘されている通り、藤原公任の理解には大きな間違いがあった。4隻からなる第10次遣唐使船が帰国のために待機していた港は、明州ではなく、蘇州の黄泗浦(こうしほ)だった。1,000年以上の歳月を経て明州とする説の誤りに気付き、現在は長江下流の黄泗浦に特定されている。

  ■ この和歌の左注では、遣唐使船が出港する前に明州で帰国送別宴が催されたと想定している。しかし、明州は誤りで、送別宴が催されたとすれば、出発を一日延期した1115日の夜で、場所は黄泗浦の楼閣だったであろう。その席上で、仲麻呂が振り返って見上げた月は、海上ではなく長江に浮かぶ満月だったはずだ。

  著書を読んでいないため、どこまでが上野氏の見解か判然としない点はありますが、前回指摘した事項に関する疑問は抱かれており、専門家の間でも諸説あるのが分かります。

 にも関わらず、今回通説に従って解説を書かれたということは単に疑問に終わり、解を得られていないことが理解されます。そして、この疑問に正しく答えるものこそ古田説であることが分かります。上野氏が満に一つも古田説をご存じないという可能性は考えられません。氏がこのような疑問を持たれたのであれば、古田説の正否を学会に問い、万葉学の正否についても問題とすることこそが、学者としての責務ではないでしょうか。

 それなしに、疑問の多い旧説を墨守し、公表、生徒を指導することは文科系学部不要が叫ばれてもやむを得ないことになるのでは。■

  
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2015年09月20日

「天の原 ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在

  「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(ヘーゲル『法の哲学』・序説)

  3月の記事で、「天の原」の古田武彦氏による解釈を取り上げましたが、9月19日(土)の朝日新聞「be」に(匠の美)御蓋山 平城びとの月という、奈良大学教授 上野誠氏の記事が掲載されましので、先の解釈と比較してみましょう。まず、冒頭に記された歌です。

  天の原ふりさけ見れば春日なる御蓋の山にいでし月かも  (『古今和歌集』巻九の四〇六)

 日本古典文学大系8『古今和歌集』(佐伯梅友校注、岩波書店・昭和33年3月5日第1刷発行、昭和38年10月15日第5刷発行)は次のようになっています。(ブログ「小さな資料室」より)

    もろこしにて月を見てよみける         安      麿

   あまの原ふりさけみれば かすがなるみかさの山にいでし月かも

 上野氏の解釈は、伝統的な解釈で次のようなものです。

 天空を振り仰いでみると、春日にある御蓋の山に出ていた月が思い起こされる、と訳すことができようか。春日野からおにぎり形に見えるのが御蓋山だ。その後にあるのが、春日山。だから、春日にある御蓋山と歌うのだ。

  この記事には飛火野で撮影された写真が掲載されており、標高294.mの御蓋山が中央に小さく写っており、周囲には草をはむ鹿の姿が小さく写っています。月が今にも昇る所が写されていますが、それは、古田氏が講演<『万葉集』は歴史をくつがえす>で次のように述べている事実をありありと示しているのです。

  オンフタヤマ(御蓋山)と書いてミカサヤマと読むんです。これが現地の地名としてのミカサヤマなんです。春日大社の裏山に当っていて、高さ二百九十四・一メートル、これは教育委員会で教えて貰った数値で、地図には普通ここまでの数値は出ていませんが。ふもと近くにあるのが三笠中学。この山はあまりに低すぎるのですね。大和盆地そのものの標高が百メートルほどあるので、みかけの山の高さは二百メートル弱。ここから月が出るのはむずかしいですね、なぜなら、そのすぐ東側に、春日山とか高円(たかまど)山とかの高い山がある。そうすると月は春日山とか高円山から出るじゃないですか、まさか春日山から出て、また入って御蓋山から出るわけじゃない(笑)―― そこから出るのならわかる。だから月が出るのは、春日の山にとか、高円山にとか言ってほしい。 

写真では、正に「春日山とか高円山から出」ている所なのです。古田氏が明らかにした「みかさの山」とは次のWikiの記事にある御笠山、宝満山です。

  宝満山(ほうまんざん)(標高829.6m)は福岡県筑紫野市と太宰府市にまたがる山であり、別名を御笠山(みかさやま)、竈門山(かまどやま)とも言う。

 そして、次のように述べています。

  結論としてここ、奈良の歌ではない。だから阿倍仲麻呂が日本を離れて、壱岐の「天の原」で、月が上がるのを見て作ったとすると、よくわかる。ここで船は西むきに方向を変えるので、島影に入ると九州が見えなくなる。で、ふりかえって見ると、春日なる三笠の山がある。三笠の山は志賀島――金印で有名な――にもありますのでね、目の前に二つの三笠山がある。「筑紫なる」といったのではどちらの三笠山か分らぬ。宝満山なら「春日なる三笠の山」でよい。ですから全部の条件がピシャピシャと合ってきた。こうして解けてきた。そうすると、間違っていたのはまえがきの方だった。

 たしかに、仲麻呂は明州で、別れの宴で、この歌を歌ったと思いますよ。しかし、その場で作ったのか、前から作っておいたのを詠じたのかは別の問題。日本の使いが帰ってきて、この歌を伝えたのでしょう。しかし、そこ明州で作ったというのは編者の解釈、実は間違っていた。編者の頭には大和の三笠山しかなかった。のちの人は、まえがき、あとがきをもとにして解釈しようとしたから苦しんできた。歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認したのが、この歌だった。

  それは上野氏の解釈で、「天の原ふりさけ見れば」を「天空を振り仰いでみると」と解釈する他ない空虚さにも明らかです。

  古田氏は、「歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認した」のち、これを万葉集に適用し『古代史の十字路 万葉批判』を20014月に公刊しました。この書の第一章が<疑いの扉「天の原」の歌」>です。氏は、講演「君が代前ぜん」で次のように述べています。

 この『古代史の十字路』(東洋書林)という本は万葉集を研究されている学者の皆さんに送りました。有名な人の中では中西進さん。近くに住んでいますから本をお送りしたことをお電話しました。また大野晋さん。かって対談したこともありますので、よくご承知です。同じくお電話しました。ですがどの人からも、まったく返事はない。答えはない。答えれば古田は、雷丘を九州だと言っているが、近畿大和のあの丘でよいのだ。このように説明すれば、十分理解できるのだ。そのように言えばよい。あるいは九州雷山であるという説では、このような理由でダメだよ。おかしい。そう言えばよい。何回も同じことを言いますが、わたしは、別に九州雷山をひいきにしているわけでは、まったくない。事実を事実として捕らえる、わたしが納得できれば別に大和飛鳥でもかまわない。しかし大和飛鳥ではまったく合わない。その立場です。

それに、この本は幸いにも版を重ねていますが、新聞の書評が一回も出ない。大体書評は、新聞社から依頼された専門家が書くものです。今言った論理が一杯詰まっているので、書けばどこかに差し障りが起こるから誰もいやがって書かない。ノーコメントであるとかってに想像して思っている。あれだけ書評が新聞に出ていて、今述べた問題がつまらないことには思えない。後生の人から見れば、なぜ書評が出なかったのか研究の対象になるのでは。

  中西進氏に長年にわたり畏敬の念を抱く上野氏としては、師の説になずむしかなく「已んぬる哉」である。宣長の『玉勝間』の一節を引用したくなるところですが。「なぜ書評が出なかったのか研究の対象になる」のは未だ機が熟していないようです。

しかし、これこそ安倍晋三の唱える「戦後レジューム」の実態ではないのか。その超克の先にしか未来は考えられません。■

  
Posted by mc1521 at 14:59Comments(0)TrackBack(0)歴史

2015年03月29日

天の原……の歌:古田史学と松本深志高校

  話は逸れますが先日、古田史学の会より、『盗まれた「聖徳太子」伝承』(注)が届きました。興味深い記事ばかりなので早速読み耽りました。九州王朝説で知られる古田武彦氏の松本深志高校での講演「深志から始まった九州王朝―真実の誕生」(2014.10.4)が最初に掲載され、高校生からの質問で感動的な逸話が記されていました。

  古田氏は東北大学の日本思想史科を昭和23年に卒業し松本深志高校の教師として6年間を過ごします。88才の米寿を迎えての講演ですから66年程前の話ということになります。戦後の混乱期の一挿話です。
  高校性の質問は当時の生徒、つまり新米教師であった古田氏の教え子から依頼されたものでした。当時の生徒からの新米いじめとも言うべき質問が九州王朝探求の一契機となった経緯についてです。
社会科から国語を教えることとなり古今集の安倍仲麻呂の良く知られた次の歌を取上げた後に、生徒から新米教師が鋭い質問を浴びます。

   天の原 ふりさけ見れば 春日なる
        三笠の山に 出(い)でし月かも      安倍仲麿(7番) 『古今集』羇旅・406

 仲麿が明州(現在の寧波(ニンポー)市)で送別の宴が催された時に詠まれたとされるもので、NETでも次のように解説されています。
  天を見ると美しい月が昇っている。あの月は、遠い昔、遣唐使に出かける時に祈りを捧げた春日大社のある三笠山に昇っているのと同じ月なのだ。ようやく帰れるのだなあ。
 
  この説明に対し生徒から次のような質問が出されます。
 呉国から大和は見えるのか。ふりさけ見ればというのは、それまで宴会では皆西を向いていたのか。春日とは中国でそんなに有名なのか。なぜ、大和なる三笠の山と言わないで、春日なるなのか。
 現在でも似たような疑問がYahoo! 質問箱などで出るように、通説では割り切れないものが残ります。

 これに対し、新米教師は先輩教師の国文学専門家に助けを求めますが答があるわけもなく、「わからん」と言わざるをえません。この答えは質問を受けてから25年後に九州王朝探求の途次で得られることとなります。古田氏の説明を聞いてみましょう。

 これが解けたのは、質問を受けてから二十五年も経って、古代史の世界に入って対馬に船で行った時です。博多から壱岐を通って対馬へ船で向かった時、あるところで西に向きを変える。博多からずーと行きますと、対馬の西側浅茅湾へ入るには、大きい船は壱岐の北東側をまわって、そこの水道で、西に向きを変えるのがスムースなんです。船のデッキに出ていて、西向きの水道に入った時に博多方面を見ていた。たまたま目の前に壱岐の島があり船員さんに「ここはどこですか」と壱岐の地名を聞いたら、「天の原です」と言われてギョッとした。こんなところに「天の原」がある。確かに考古学的には壱岐に天の原遺跡があり、銅矛が三本出土したことぐらいは知らないではなかったが、その遺跡がどこにあるかは、確かめたことがなかった。ところが目の前というか目の下に、船の曲がり角のところに「天の原」があった。「天の原 ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に 出でし月かも」、この歌が作られたのは、通説とは違って、ここ「天の原」ではないか。ここを過ぎれば、春日なる三笠の山は、もう見えなくなる。なつかしいふるさと日本は見えなくなる。
 その時は、もう九州の「春日と三笠山」については、一応知っていた。旧制広島高校時代の無二の親友といってもよい友人が九州春日市にいた。そこの家に泊めてもらって、福岡・博多湾岸を歩き回った経験がある。だから一応地理は知っていた。春日市、須玖岡本遺跡があるところ。三笠山、現在名は宝満山。仏教的な命名で後で付けられた名前。本来は三笠山という山がある。ここの三笠山は、三笠川が博多湾に流れていて、三笠郡がある。ですから「天の原 春日 三笠山」三カ所ピッタと結びついた。
 ところが、「天の原」があり、船のデッキから見ると、ドンピシャリ見えるというわけではないが、大体あの辺りが三笠山となる。しかも後で知ったことですが、振り返って見ると、目の前に三笠の山が二つある。金印の出た志賀島。そこにもそんなに高くはないが三笠山があり、他方は宝満山と呼ばれる三笠山がある。「筑紫なる三笠の山」と言えば、どちらか分からない。ここでは宝満山を三笠山に特定するためには、「春日なる三笠の山」と呼ばなければならない。
 たしかに仲麻呂は呉の国明州で、別れの宴でこの歌を歌ったでもかまいません。
 しかし、その場で作って歌ったのではなくて、日本を別れる時に作った歌をそこで歌った。
 これはわたしにとって、一つのエポックとなった。
 これは古今集ですが、やはり万葉集というのは、歌そのものを正確に理解することが第一。まえがきという状況説明は併せて理解する。つまり歌は第一史料、まえがき・あとがきという状況説明は第2史料である。そういうテーマまでたどり着いた。これが深志高校での経験です。

 こういう逸話が語り継がれる高校というのも素晴らしいものですね。そして、この「歌そのものを正確に理解することが第一」という古田史学の到達点は、時枝誠記の「学問研究の根本的態度は、方法論の穿鑿よりも、先ず対象に対する凝視と沈潜でなければならい」という発想そのものと言えます。■

 注:『盗まれた「聖徳太子」伝承―古代に真実を求めて・古田史学論集第18集』:古田史学の会編、明石書房刊、2015.3.25初版・第1刷。
  
Posted by mc1521 at 12:39Comments(0)TrackBack(0)歴史