『極玄集』の古田氏による読み下しを記します。
積水不可極 積水きわむべからず。
安知滄海東 いずくんぞ滄海の東を知らん
九州何處所 九州いずれの所ぞ
萬里若乘空 万里、空に乗ずるがごとし
向國唯看日 国に向かいて、ただ日を看
歸帆但信風 帰帆ただ風にまかす
鼇身映天黑 鰲身(ごうしん)、天に映じて黒く
魚眼射波紅 魚眼、波を射て紅なり
鄉樹扶桑外 郷樹は扶桑の外
主人孤島中 主人は孤島の中
别離方異域 別離、まさに異域
音信若為通 音信、いかんか通ぜん
撰者は姚合(约779~约855)で、古田氏が『極玄集』について、「一番古い詩集である。これは9世紀、阿倍仲麻呂や王維がなくなってから百年も経っていない時期に、姚合(ようごう)によって編集された詩集である。彼自身は詩人でもあり、『唐詩選』の中に、彼の詩も二・三詩はある。その詩人の姚合が、八世紀以前の、七世紀ぐらいからの唐の初期の詩人の詩を編集したのが『極玄集』である。非常に古い。」と言われている通りです。先の趙殿成版では、「九州何處所」が「九州何處遠」と「所」→「遠」と直されています。身近にある『唐詩選(中)』(前野直彬注解:岩波文庫 229P)でも「遠」とし、「九州」を「ここでは中国の外にあると考えられた九つの世界をさす。」と注がついています。
このような改変がいつ頃なされたかを古田氏は調査し、南宋末(十三世紀後半)の『須渓先生校本・唐王右丞集』まで遡りうることが分かっています。これは、南宋という朱子学の時代に中華原理主義の立場から判断し校本を定めたものと見られます。つまり、本来「所」であったものをイデオロギーの立場から「遠」に直されたもので、王維が詠んだ詩の原型は『極玄集』であり、これにより解釈しなければならないということになります。先にみたように、趙殿成の『王右丞集箋注』にも注として、『全唐詩』によれば<九州何處遠……「遠」一作「所」>と記されていますが、上野氏はこれを無視していることになります。
では、「所」→「遠」で何が異なるのでしょうか。読み下しのように、「所」の場合は、「仲麻呂が帰る九州とは何処にあるのか」という意味になります。「遠」と直された、先の『唐詩選(中)』では、「中国の外にあるという九つの世界の中で、どこが一番遠いのか(きっと君の故国、日本にちがいない)。」と解釈しています。中華原理主義の立場からは九州というのは「中国全土」、「全世界」という意味にとるしかなく、夷国に九州などあってはならぬという発想で書き変えたものということです。「中国全土」というのは、聖天子禹の治めた九州という意味合いになります。しかし、本来形は、九州=九州島こそが阿倍仲麻呂の帰り行くべき所であったことを示しています。これは、その後に「主人は孤島の中」と詠われていることからも明らかです。この「主人」とは宴を主催した仲麻呂です。唐の時代には倭国の九州がそのまま認められていたということです。
さらに、古田氏は詩に付された長大な「序」の中に、
卑彌遣使報以蛟龍之錦(卑彌、使を遣はす、報ゆるに蛟龍の錦を以てし)
とあるように、「『三国志』の魏志倭人伝からの引用と見られる章句が特筆大書されて」いることからも、「邪馬壹国に至る、女王の都する所」の「所」との呼応を考慮すべきことを指摘し、次のように記しています。
この両者を無関係とし、「偶然の一致」と見なすならば、それこそ粗雑の鑑賞、後世の武断と評せざるをえないのではあるまいか。
さらに、「郷樹は扶桑の外」の理解が問題となります。『唐詩選(中)』では、「君の故郷の木々は扶桑よりもさらに向こう生え、その故郷の家のあるじ、君は孤島の中に住む身となる。」と、「故郷の木々」は「扶桑よりもさらに向こう」とされていますが、「扶桑の樹の生える遠地の君の故郷」とするのが自然な理解と言えます。このように見てくれば、仲麻呂の帰らんとした所は「九州」島であり、王維は「君の帰らんとする九州とはどこにあるのか。」と聞いていることになります。
そして、題が「送鼂監歸日本」から「送祕書晁監還日本國」と「國」の字が加えられていますが、本来の「日本」は、博多湾沿岸にある字「日本=ヒノモト」ということになります。宋代には、これが分らなくなり、日本国としたものと考えられます。「帰」が「還」に変えられた理由を次に見てみましょう。■