2017年03月27日

助動詞「だ」について(27)

                                        杉村泰「ヨウダとソウダの主観性」
                     〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
  「そう」の捉え方[2]
 「ヨウダ」と「ソウダ」の主観性の違いについて、次に「が/の」交替テストが論じられています。「が/の」交替というのは、機能主義者である三上章が『現代語法序説』で<形式名詞>「の」と<格助詞>「の」の相違を認識論的に明かにすることができず、「の」を「が」に変えられるか否かで、その名詞の度合いを判定し、「名詞くずれ」という誤った概念を提起した特有な機能条件です。
 ここでは、その「名詞くずれ」により「そうだ」の主観性を判定しようという三上の機能主義を引き継いだ機能判定がなされます。もともと、「ヨウダ」と「ソウダ」の違いを論理的に説明、解明できないためにモダリティ―論を持ち出し主観性の差異に帰着させようとすること自体が形式主義、機能主義的言語論の限界なのですが、さらに屋上屋を重ねる結果にしかならないのは致し方ないところです。
 この交替テストのため、「の」の後ろに名詞性成分「予感(がする)」を補った次の文が提示されます。

   (48)a. 今年のクリスマスは雪が降りソウナ予感がする。
      b. 今年のクリスマスは雪の降りソウナ予感がする。
   (49)a. 今年のクリスマスは雪が降るヨウナ予感がする。
      b.?今年のクリスマスは雪の降るヨウナ予感がする。
そして、
 ここで注目したいのは、(49b)は依然(49a)に比べて許容度が落ちるということである。この文法性の差は「ソウダ」と「ヨウダ」の主観性の違いに基づくと考えられる。すなわち、「ソウダ」は命題表現であるため容易に従属節の中に入るのに対し、「ヨウダ」はモダリティ成分であるためそれが困難なのである。一方、(49a)が適格となるのは、「今年のクリスマスは雪が降る」が主節として機能し、「ヨウナ予感がする」はそれ全体でモダリティ表現となっているためであると考えられる。
としています。ここでは、<格助詞>「が」と「の」の相違を論理的に解明することができず、許容度や主観性の相違などという曖昧な概念をもて遊ぶしかなくなっています。「雪が降る」は<格助詞>「が」が対象の個別性の認識を表現し「雪」が<動詞>「降る」の動作主体として表現されているので、「雪が降る」という具体的な事態が認識され、「ヨウ」が推量を表し、判断辞「ナ」でその事態を肯定し、それを「予感」の内容として理解されます。
 しかし「雪の降るヨウナ」とした場合には二つの解釈ができ、どちらもあまり適切な表現ではなくなるため、「許容度が落ちる」ことになります。<格助詞>「の」は名詞と名詞の関連を表現する語です。ここでは、《「雪」の降る「様(ヨウ)」》か《「雪」の「降るヨウナ予感」》となります。《「雪」の降るヨウ(様)》の場合これが「予感」の内容となりますが、「雪の降るヨウ(様)」≠「予感」であり、この場合は「雪の降る日のヨウナ予感」としないと文法的、論理的に繋がりません。他方、《「雪」の「降るような予感」》と解釈すれば、文法的、論理的には正しい表現となりますが、不自然な区切りとなります。
 つまり、《この文法性の差は「ソウダ」と「ヨウダ」の主観性の違いに基づく》わけでも何でもないということです。単に、機械的に「が」と「の」を入れ替える《「が/の」交替テスト》という形式主義的な発想そのもが誤りであり、それに依拠してモダリティ―論を持ち出し主観性の差異を判定しようとすること自体が誤りということになります。次に、時制との関わりが論じられます。
 次に時制との関わりの違いについて論じる。(50)(51)において時の副詞の係り先を比較すると、「ヨウダ」と「ソウダ」では違いが見られる。
  (50) a.昨日は雨が降ったヨウダ。
        b.現在雨が降っているヨウダ。
           c.明日は雨が降るヨウダ。
  (51) a.昨日は雨が降りソウダッタ。
        b.現在雨が降っていソウダ。
       c.明日は雨が降りソウダ。
(50)の場合、時の副詞は「雨が降る」の部分と関わっており、「ヨウダ」とは関わっていない。そのため「*昨日は雨が降るヨウダッタ」は非文となる。一方、(51)の場合、時の副詞は「雨が降りソウダ」全体と関わっており、「ソウダ」の時制に影響を与えている。こうした事実からも、「ヨウダ」が命題の時制とは独立に機能するモダリティ表現であるのに対し、「ソウダ」は命題の時制の中に含み込まれた命題表現であることが証明される。
 ここで時の<副詞>といわれているのは「昨日」ですが、<副詞>とは「花がハラハラと散る。」や「とても美味しいお菓子だった。」のように、<動詞>「散る」や<形容詞>「美味しい」に添えて属性の立体的な内容を表現する語であり、「昨日」は<副詞>ではありません。用言と関係があるから<副詞>だという形式主義的な分類の誤りです。さらに、「時の副詞の係り先」などというのは語が「係る」機能を持つという機能的な見方でしかありません。語の意義という本質をとらえられない、形式的、機能的な言語観の欠陥がここにも露呈しています。
 「昨日」は話者の居る「今日」との関係を表す<関係詞>いわゆる<代名詞>か、この関係を実体的にとらえた<名詞>です。≪「*昨日は雨が降るヨウダッタ」は非文≫と感じるのは、《時の副詞は「雨が降る」の部分と関わっており、「ヨウダ」とは関わっていない。》からではありません。「非文」などという曖昧な概念で感覚的な正非を唱えてもなんら説明にはなりません。
 「昨日は雨が降るヨウナ気配だった。」と比況の意味で使用すれば正しい文です。ここでは、「雨が降る」は<動詞>の連用形です。しかし、「昨日は雨が降るヨウだった。」は推量の意味にとるしかありません。この場合、最初の「昨日」という関係表現により、話者は昨日という過去に観念的に移動し、現在として対峙し「雨が降る」と断定した後に更に「ヨウ」と推量するため論理的な不整合を感じことになります。「c」の「明日は雨が降るヨウダ。」は、話者は観念的に明日という未来に観念的に移動し「雨が降る」と判断し、その後現在に戻り、「ヨウダ」と推定しています。これは、ごく普通の未来形でしかありません。
 「(50) a.昨日は雨が降ったヨウダ。」の場合は話者が現在の立場から何らかの徴候により、昨日の「雨が降る」という事態を追想している文で、これも通常の表現です。この場合、話者は「昨日」で過去に対峙し、「雨が降る」と判断した後に、現在に戻り「た」と追想しています。形式主義では、このような話者の観念的な自己分裂という認識の運動を理解できず、時制の本質を解明できません。
 「非文」という曖昧なプラグマティックな用語で機能的な解釈をするしかなくなります。結局、ソシュール的な言語実体観、煉瓦的構成観が根底にある誤りで、そこから生まれた、命題やモダリティーという屈折語文法の用語を借り、膠着語である日本語を解釈しようとする誤りでしかないことが判ります。■

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