2015年05月27日

山田孝雄(やまだ よしお)の<助動詞>「複語尾」説 5

    <動詞>の陳述作用論による誤謬の展開と山田文法の意義

 「複語尾」なる誤りの根源は属性表現である<動詞>が陳述を担うという誤りから生まれたものですが、この<動詞>陳述説が生み出す誤りはそれだけにはとどまりません。先に挙げた一語文、体現止め、喚体の文等で陳述を担う語がなくなってしまうわけですが、感動詞の場合、

  そう■ね。

であり、客体的表現だけの、

  人がいる■。

も、「いる」が陳述の表現を表していることにせざるを得なくなります。つまり、内容と形式を無理やり一致させることになります。時枝の零記号は、内容と形式との間に矛盾が存在することを認め、乖離しうることを認めることに他なりません。形式論理という形而上学にしがみついていては言語の事実を解釈することは出来ないことを示しています。さらに、

  a. 本がある■。
  b. 本である■。

の場合、時枝はa.は存在を表す<動詞>ですがb.の「ある」は判断の<助動詞>で属性表現とは性格の異なる辞であることを指摘しています。つまり、詞から辞へ転成したものと見なければなりません。ところが、山田は「ある」を存在の属性と陳述の兼備だけではなく、判断単独で使う場合もあると解釈し、b.の「ある」を存在詞と名付けています。さらに、イ形容詞、ナ形容詞、形容動詞の問題へ発展していきますが、それでも山田文法から引き継ぐべき点は多く、現在再評価の動きがあります。が、残念ながら本来正すべき点を評価し、受け取るべき遺産を評価できないという逆立ちした状況にあります。釘貫亨著『「国語学」の形成と水脈』(ひつじ研究叢書<言語>編 第113巻 2013.12)や『山田文法の現代的意義』(斎藤倫明・大木一夫編:ひつじ書房 2010/12/24)等もそうした書です。

 参考までに、今から40年前の1975.2月刊の雑誌『試行』に発表された三浦つとむ稿「日本語のあいのこ的構造」から山田文法について記された一部を転載しておきます。


 山田孝雄の文法論には理論的な弱点がある。一語として扱うべき<助動詞>を語尾と解釈して<複語尾>とよんだり、<動詞>の「ある」と<助動詞>の「ある」を一括して<存在詞>とよんで<助動詞>の「だ」や「です」もここに入れたり、<形式名詞>の「の」を<格助詞>と解釈したり、訂正しなければならぬところが多い。それにも拘らず彼の問題意識は抜群であるし、それらは必ずしも後の学者に受けつがれていないのである。時枝誠記は山田の誤りを是正する仕事で大きな成果をあげたけれども、提出されている問題を受けとめることができずに山田から後退しているところもいろいろある。それゆえ、山田の文法論を理解できずに骨董扱いにすることには、私は反対である。
 欧米の言語学者あるいは左翼的哲学者の言語論は科学的・革新的で、国語学者の言語論は非科学的・保守的だという偏見も、まだ根強いようである。左翼的な学者や教科研文法を支持する教師にとって、皇国イデオロギーを鼓吹した国語学者の著書などは科学的精神とは無縁のものだと思えるかもしれない。山田が明治四十一年(一九〇八年)に公刊した大著『日本文法論』の序論をみよう。

 凡、学問の成るは一朝一夕の故にあらず。必、其の由って来る所あるべし。而して其の一学説起るや、此れが短所を見て、茲に反対説生じ、更に、二者の総合説生じ、又反対生じとようにかの「ヘーゲル」の説きけむ弁証法の如き順序を以て進歩するものならむ。さても人の心の構造は一なり。人の考へ出すこと、多少精粗の差こそあれ、大体に於いてはしかく背違すべきものにあらず。今若学説の沿革を究めずして、直に自家の説を述べむか、時に或いは自家の創見なりと負めるものは既に幾十年の昔に古人が道破せしものなるをき々て呆然たることなからむや。これを以て、吾人は主として主要なる学説を歴史的に略説し、其の取るべきは取り、誤れるものは其の過を復せざらむ注意として、しかも之を自家立脚地の予示とせり。諺にいはずや、羅馬は一日にてはならざりきと。吾人がこの論も又先哲諸氏の苦心経営の結果なり。苦心惨憺の経営になりし先哲諸氏の説を何の容赦もなく攻撃追求するは頗る礼を欠くに似たりといえども、学問は交際によりて左右せらるべきものにあらず。また学問のことは師にだに仮さず。況んや先哲の説を補い、その説を訂すは、これ即進歩の宿る所にして、しかも先哲の本願ならずや。吾人は先哲の人格に対して満腔の熱誠を以て尊敬の意を表す。然れども学説の非に至りては毫末も寛仮せざるべし。それ学問は天下の共に議すべき所、一人の私すべきものにあらず。
 
 これが学者の態度であって、言語を解釈するだけのホコトン哲学者たちは学者の名に値しない。さらに山田のこの著書の巻頭には、本居宣長の『玉かつま』のことばが掲げてある。

 吾にしたがいて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむがへのいできたらむにはかならずわが説にななづみそ。わがあしきゆゑをいひてよき考えをひろめよ。すべておのが人ををしふるは道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも道をあきらかにせむぞ吾を用ふるには有ける。道を思はでいたづらにわれをたふとまんはわが心にあらざるぞかし。

 『毛沢東選集』にはこのようなことばがない。毛沢東主義を批判すると「階級敵」「反革命分子」として粛清される。日本の国学者の学問する態度は、中国の自称マルクス主義者よりも科学的であり、マルクス主義の精神に近かった。


  尾上圭介の誤りについては、「語列の意味と文の意味」という昭和五十二年発表の論文で詳細に検討することにし、複語尾説はここまでにして、時枝の『国語学原論』へ至る道に戻ることにしましょう。■  
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2015年05月19日

山田孝雄(やまだ よしお)の<助動詞>「複語尾」説 4

  「陳述の力」はどこにあるのか?

  山田の言わんとするのは「花が咲く。」という文で、<動詞>の「咲く」が花の属性である「咲く」という運動概念と同時に、この文としての陳述、文に示された認識としての統一の作用も又、というより主に統一の作用こそを<動詞>「咲く」が担っているということです。従って「花が咲こう。」と推量の助動詞が累加された場合は、「咲く」の「く」→「こ(う)」という活用が陳述を担い、さらに複語尾の「う」が推量の陳述を担うといっているわけです。

 そうすると、一語文「火事!」や「花が綺麗。」「彼真っ青!」などでも陳述は存在すると見なすしかなく、一体どの語が陳述をになっているのかという事になります。また芭蕉の句か否かが疑われている、「奈良七重七堂伽藍八重ざくら」のように体言(名詞)だけを繋げた句が感動を齎すのは当然「陳述の力」に因る訳ですが、この場合「陳述の力」はどの語が担っているのかということになります。
  尾上圭介が山田の喚体の議論を、名詞一語文成立の議論として引き受けた『文法と意味〈1〉』では体言、即ち名詞が受け持つという議論にならざるをえません。

 この誤りを明らかにしたのが先の三浦の論で、「陳述の力」と称するものを認識構造として検討すれば、

  「陳述の力」なるものは概念の発展であるが概念とは区別されるところの認識のありかた、すなわち判断にほかならない、

ということです。「花が咲か―なく―あっ―た―らしい―です。」というのは、山田流に言えば「複語尾」が「その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。」ということになります。「文が用言で終わるときには形式と内容との間に矛盾が存在している」のですが、矛盾を認められない形而上学的発想ではこれを容認できないことになります。文が用言で終わる時だけでなく、上に見たように体言止め、<形容詞>終止形(<形容動詞の語幹(正しくは静詞)>)での文終止も同様です。この矛盾を正しく認め時枝は「陳述の本質を考へて見れば、それは客体的なものではなく、全く主体的な肯定判断そのものの表現であるから、明かにそれは辞と共通したものをもつてゐる」として零記号(■)を導入したわけです。従って、先の文は「花が咲く■。」と見なければなりません。

  アプリオリな言語の実在を主張する言語実体観では零記号を認めることができず、名詞やら活用形やら感動詞やら間投詞に「陳述の力」をもっていくしかなくなります。金田一や尾上圭介や渡辺實らすべてが論理的必然としてそのようになってしまいます。生成文法もまた、その矛盾に行きあたり方針転換を繰り返すことになります。

  金田一の「不変化助動詞の本質―主観的表現と客観的表現の別について―」では「ぼくは日本人だ。」の「だ」を「客観的な表現を表すものと思う。…ちっとも判断の気持ちは働いていない。」と記しています。この「だ」は、「ぼくは日本人■。」という文の判断の■(零記号)が「だ」と表現されたたものに他なりませんが、主体的表現を主観的表現としか理解できない金田一としては零記号を認めず、判断の存在しない客観的に述べている文ということになります。

 ここまでくれば、最初に問題にしたブログ「killhiguchiのお友達を作ろう」の「現代日本語において、複語尾の終止法独自の用法を、喚体メカニズムで説明する可能性について」なる論がどのようなものかは説明するまでもないかと思います。
 
  このような山田の「複語尾」なる名称は受け入れられませんでしたが、西欧屈折語文法に頼る現在の日本語文法は三上章から教科研文法、寺村文法、記述文法、渡辺文法、尾上文法と陰に陽に<助動詞>語尾説を採り入れざるをえなくなる論理的必然をもっています。■
  
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2015年05月16日

山田孝雄(やまだ よしお)の<助動詞>「複語尾」説 3

  「陳述の力」と活用と複語尾

  三浦の論を見る前に、これまで説いてきたところをもう少し詳しく検討してみましょう。
 まず、山田の言う「陳述の力」について考えてみましょう。これを正しく理解出来るか否かが、言語本質論の分かれ目となります。
 山田は「用言の用言たる特徴は実にその陳述の作用をあらはす点にあり。」としているように、<用言>という語(言葉)が「陳述の作用をあらはす」つまり、「表わして」いるのであり、「陳述の作用」を語(言葉)が生み出すとは言っていません。「この作用は人間の思想の統一作用」というのですから、人間の生み出すものと、この点は正しくとらえています。この点こそ、国学という和歌の解釈および創作という実践に裏打ちされた学問の伝統を引く山田の文法論の強み、健全性があるのですが、言語実体論をとる現在の記述文法では語自体が表すかの山田説との相性がよく引っ張りだされることとなります。これまで見て来たように、「言語を表現の一種」と看破した時枝の立場からは当然、人間の生み出したものとなり<助動詞>一品詞説となります。

 次に「凡そ人の思想を発表する機関として個々の概念の必要なることはいふを俟たざるところ」というのは、<体言>が概念であり、<用言>もまた概念であるということになります。この概念とは実体の概念<名詞>であり、その作用を表す属性の概念<動詞><形容詞>です。

 しかし「個々の概念のみ存してもこれらを統一判定する作用なくば、思想の完全なる結成となることなし。」と言う通り「個々の概念」とは認識の対象の概念ですが、「陳述の力」とは人間の認識のあり方であり、「かく統一判定する作用を言語にあらはしたるもの即ち用言なり。」と言うように、これを表したものが<用言>であると主張しているわけです。

 つまり、<用言>の本質は「陳述の力」を表現したものというわけですが、概念も又表しているわけで、「人間の対象の概念」と「人間自身の、かく統一判定する作用」という二つの全く異質なものの表現を<用言>が担うことになります。このため、「国語の動詞はその活用形にて種々の陳述をなすものなるが」と「活用形」が「種々の陳述をなす」ことにならざるを得なくなります。

 そして「それらのみにては、その属性の表現の状態、又は陳述の委曲なる点等をあらはし得ざることあるが故にさる時に、その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。」というように、「活用」だけでは表し切れない「その属性の表現の状態、又は陳述の委曲なる点等」を表すのが「複語尾」であり、「その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。」ということになります。しかし「その活用形より更に複語尾を分出せしめ」る主体は何かが問題です。これは「人間の思想の統一作用」と解するしかないでしょうね。なぜ「分出」なのかの論理性はありません。しいて言えば、語尾に独立性がなく、かつ接尾語のように何にでも付くというよな恣意性ではなく動詞の活用との必然的密着性に着目したということになります。

 先の、山田の論述の過程に一箇所おかしな点がありますが、気付かれたでしょうか。
 <用言>を<動詞><形容詞>として論じて来たのですが、最初に見て来た通りどちらも活用をもっています。第1回の引用で複語尾について述べるところで「「国語の動詞はその活用形にて種々の陳述をなすものなるが、それらのみにては」と「国語の動詞は」と<形容詞>は理由もなく除外され、「複語尾」を持たないことにされてしまいます。ここにも山田の論の恣意的な論理の非一貫性がみられます。これらの理由で「複語尾説」そのものは他の<助動詞>一品詞説をとる人々には受け入れられませんでした。
 
 ざっと見ても、こんな問題がありますが三浦の言語過程説の立場からの批判を聞いてみましょう。言語過程説の論理的展開はこれからですが、必要な点は説明しながら論をみてみましょう。「言語は表現の一種」であることを念頭におく必要があります。

 
 用言はそのつぎに助動詞が加えられると語形が変化するけれども、これは形式上の変化で何ら内容の変化を伴う物ではない。いわゆる活用の部分は何ら陳述の表現を意味するものではない。これは山田が「陳述の力」と称するものを、認識構造として理解すれば明かになる。彼は、概念を統一する作用そのものを陳述の作用と解釈した。しかし、ヘーゲルもいうように、概念以外に概念を統一する作用があるのではなく概念そのものの発展によって統一が行われるのであり、「概念の自己自身による規定作用」を「判断作用」とよぶ(ヘーゲル『大論理学』)のであるから、山田の、「陳述の力」なるものは概念の発展であるが概念とは区別されるところの認識のありかた、すなわち判断にほかならないのである。それゆえ複語尾の問題は、用言のあとに接尾語とか判断辞とか思われるものが多数加えられているときに、それらはすべて用言の内部の問題であり属性の表現といっしょに一語として扱うべきか否かの問題でもあることになる。
 時枝は複語尾説をとらず、判断辞を一語と認めている。そしてそれの欠けているものに「零(ゼロ)記号」を設定する。「陳述の存在といふこと自体は疑ふことの出来ない事実であって、若し陳述が表現されてゐないとしたならば、『水流る』は、『水』『流る』の単なる単語の羅列に過ぎないこととなる。そして陳述の本質を考へて見れば、それは客体的なものではなく、全く主体的な肯定判断そのものの表現であるから、明かにそれは辞と共通したものをもつてゐるのである。」
 「敬辞の加わつたものから逆推して行くならば、『咲くか』(―ね、よ、さ、わ)、『高いか』(―同上)『犬か』(―同上)等は皆零記号の判断辞のあるものであると考えることに合理性を認めることが出来るのである。」(時枝誠記『国語学原論』)
 判断は対象の属性認識とは区別しなければならないが、用言は対象の属性の認識を表現するにとどまっている。それゆえ、文が用言で終わるときには形式と内容との間に矛盾が存在しているのであって、内容としては判断が存在していながら形式には示されていないものと見なければならない。「水流る」にあっては、肯定判断そのものの表現は省略されているのであって、用言が文としての完結を示す形態をとっているために、この形態から判断の存在を推定することはできるが、この形態に肯定判断そのものが表現されていると見ることはできない。しかし山田は形式と内容を強引に一致させようとする。形而上学的に、内容として存在しているからには表現されていなければならないはずだときめてかかっている。それゆえ用言は属性と陳述とを「共に」あらわすものと解釈し、たとえ客体的表現としての性格をもたずに主体的表現としての性格を持つものに転化しても、これを転化とは認めずに、単に属性の表現を失ったものでむしろ用言の特徴を発揮したものと解釈する。


 最後の文は次に例がしめされますが、まずここまでを考えてみましょう。この内容が素直に理解出来ればほぼ言語過程説を理解できたことになりますが、残念ながら「零(ゼロ)記号」を認められない橋本進吉から、橋本文法を信頼し服部四郎に教えを受けた金田一春彦や、その流れを汲む南富士男や國廣哲彌、渡辺實、尾上圭介や近藤泰弘といった人々にはこれが全く理解できません。
 その元となっているのが金田一春彦の「不変化助動詞の本質―主観的表現と客観的表現の別について―」(『国語国文』第22巻2-3号/1953年)および「同、再論―時枝博士・水谷氏・に両家答えて―」という論文です。
 1953年(昭和28年)に発表されたこの論文は未だに多くの、語や文の機能を説く論文の拠り所とされています。
 その内容を検討するのは、ずっと後になりますが次は上の内容をかみ砕きながら金田一の論文の一旦にも触れてみましょう。■
  
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2015年05月12日

山田孝雄(やまだ よしお)の<助動詞>「複語尾」説 2

  <体言>の「陳述の力」と「属性」

 先に<用言>を<動詞><形容詞>としましたが、山田が「陳述の力」と「属性」について論じていますので、これらの概念について説明するためにもまず、<体言><用言>の区分について述べましょう。山田は次のように主張しています。

 「元来体といふ語は用に対する語にして用は作用現象などの義、体はそれに基づく実体をさすものにして、支那の儒学特に宋学の盛に用ゐたる述語にして、それの基づく所は仏教にて体相用の三を相待的に用ゐしにあるが如し。これらの体は英語にていふ Substance の義なり。語の分類上にては哲学にていふが如き厳密の実体といふ程の意義にはあらざれども、かの形のみを見て、語尾変化なき語の一名なりとする如きは当らざること勿論なり。」

 つまり実体を表わす語を<体言>とし、その実体が及ぼす作用そのものや、作用の現象を表わす語を<用言>と名付けたわけで、実体を表わす語はすなわち<名詞>であり、その作用を表わすのが<動詞><形容詞>ということになります。そして、<名詞>には活用がなく、<動詞><形容詞>には活用があります。そのため、今度は体・用の区分の基準として内容だけではなく活用があるか、ないかという語形変化も基準に採り入れることになり混乱が始まります。先の学校文法の定義でも活用の有無が品詞分類の基準になっていますから、これを無視することができません。さらに実体を把握し表現する<名詞>には活用はありませんが、実体以外を表わす語にも形容動詞の語幹といわれる「きれい」「おだやか」「静か」「親切」には語形変化がなく体用の区分が当て嵌まりません。こうした問題がありに二文法も一筋縄ではいきません。

 しかし、ここでは<体言>を<名詞>、<用言>を<動詞><形容詞>と考えて先に進めましょう。そうすると<体言>である<名詞>が実体を表わし、<用言>である<動詞><形容詞>はその実体の属性を表わしていることが判ります。つまり、砂糖は甘く、川は流れ、人が走り、子供は学校へ行くというような関係になります。つまり、「川」「人」「子供」「学校」は実体としての<名詞>であり、「甘い」「流れる」「走る」「行く」が動詞として属性を表わしていることになります。

ところが、「個々の概念の必要なることはいふを俟たざるところなれど、個々の概念のみ存してもこれらを統一判定する作用なくば、思想の完全なる結成となることなし。かく統一判定する作用を言語にあらはしたるもの即ち用言なり」と「統一判定する作用」である「陳述の力」を<用言>である<形容詞>「甘い」や<動詞>「流れる」「走る」「行く」が「属性」と共に表わしていると主張するわけです。

 そのことは、三浦が説明しているように、
 
 「甘い」についていえば、「甘」という対象のの属性の表現はどれにも共通していてこれが用言には特有ではないと見、この属性を除いたところに用言の本質がある

 とし、<「甘」の部分を除いた残り、すなわち活用の部分が「陳述の作用をあらはす」ことにならないわけにはいかない。>ことになります。さらに、用言の本質は対象の属性をとらえた客体的表現ではないことになります。この「客体的表現」というのは時枝が「概念過程を含む形式で表現の素材を、一旦客体化し、概念化」した単語として「概念語」又は「詞」と名付け、三浦が「話し手が対象を概念として捉えて表現した語」と定義し、「客体的表現」と名付けたものです。

 従って、「国語の動詞はその活用形にて種々の陳述をなすもの」となるしかありません。つまり、先に記した文で「甘く」が「甘い」になると「く」「い」が「陳述の力」を表わすことになるしかありません。<動詞>では、「流れ」が「「流れる」になるように「れ」「れる」又は、「る」が「陳述の作用をあらはす」という奇妙なことになります。もっとも、言語実体論にたつ現代の言語学者や国語学者、先の記述文法を奉ずる人たちにとっては奇妙ではないかもしれません。

 さらに<動詞>+<助動詞>である「走ろう」「走るだろう」「行こう」「食べよう」の<助動詞>「」「だろう」「よう」が「その属性の表現の状態、又は陳述の委曲なる点等をあらはし得ざることあるが故にさる時に、その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。」と「複語尾」とされます。このようにして、

 「複語尾は用言の語尾の複雑に発達せるものにして、形体上用言の一部とみるべきものにして、いつも用言の或る活用形に密着して離れず、中間に他の語を容るることを許さず常に連続せる一体をなすものなり。」

 ということになります。これに対する、三浦の指摘を次に見ましょう。■  
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2015年05月12日

山田孝雄(やまだ よしお)の<助動詞>「複語尾」説 1

 一般にいわれる<助動詞>を<用言>の語尾の複雑に発達した「複語尾」とする山田の説を確認するために、先ずその用言説からみなければなりません。

 少し横道に逸れますが、文法を習い始めた最初にこの<体言><用言>という区分が出てきて悩んでしまいました。
 <名詞><動詞><形容詞><助詞>と言う品詞分類と、<体言><用言>という区分が出てきてのこの対応関係が良く理解できませんでした。この区分も学者の間で見解が分かれています。学校文法では、自立語で主語となるものが<体言>で<名詞>と同じ。<用言>は自立語で活用のあるもの―述語となるものが用言で、<動詞><形容詞><形容動詞>の三種類に分かれます。この分類では、<副詞>、<連体詞>や<助詞>はこれらの分類に入らず中に浮いてしまいます。
 これは自立、付属、活用という、形式と機能による品詞分類と本来は語の内容上の分類であった<体言><用言>という分類が対応せず、有効性をもたないためなのです。この品詞分類の非科学性に疑問を持ち、国語文法の誤りに気付いたことこそが、拙ブロガーを言語過程説に向かわしめたもので、ようやくその内容の理解に見通しが建ち本ブログを始めたものです。

 国語文法を学んだ多くの人が疑問を持ち、国学の伝統を引く国語文法は非科学的で英語文法や欧米言語学の方法論を取り入れれば良いのではないか、自然科学の方法論こそが適用されるべきという発想にたち、構造主義言語学やチョムスキー言語論、認知言語学に飛び付いているのが現在の言語学や国語学の現状であるといえます。

 それは明治の東京帝国大学の初代国語学教授であった上田万年や、その後を継いだ橋本進吉が言語学の出身であることにも現れており歴史は繰り返すということを物語っています。
 この欧米崇拝ではもはや立ち行かない事に気付いたのが時枝誠記であり、あくまで言語という対象の本質を求めて「言語は表現の一種である」というところに達したのが、これまで辿って来たところです。

 ぼやきが長くなりましたが「複語尾」に戻り、山田孝雄はあくまで形式ではなく内容による分類を主張し、それは正統なのですが、如何せん対応性がないので、それを貫き通すことはできません。その話は又別途にし、ここでは動詞と形容詞となります。<形容動詞>と言う品詞もまた問題の品詞で、これもまた別途論じなければならない大きな問題ですが<形容動詞>と言う品詞は誤りです。

 さて三浦つとむは、『言語過程説の展開』(①)の「第四章 言語表現の過程的構造(その二)」の【二 「てにをは」研究の問題】や、『日本語の文法』(②)の「第八章 <助動詞>の問題をめぐる諸問題」で論じていますので、ここから必要な部分を引用し私なりに説明してみたいと思います。

 まずはじめに山田から、用言についての説明を聞くことにしよう。彼は用言が「陳述の力」と「属性」とその両者を表現しているものと解釈するのである。
 「用言の用言たる特徴は実にその陳述の作用をあらはす点にあり。この作用は人間の思想の統一作用にして、論理学の語をかりていへばその主位にたつ概念と賓位に立つ概念との異同を明らかにしてこれを適当に結合する作用なり。凡そ人の思想を発表する機関として個々の概念の必要なることはいふを俟たざるところなれど、個々の概念のみ存してもこれらを統一判定する作用なくば、思想の完全なる結成となることなし。かく統一判定する作用を言語にあらはしたるもの即ち用言なり。この点より見れば、用言はすべての品詞中最も重要なるものにして談話文章の組み立てもこれが存在によりはじめてその目的を達するを得べきものたり。而してその用言はその陳述の力と共に種々の属性をあらわせるもの大多数を占むれども、もとその属性の存在は用言の特徴と目するべきものにあらざることは既に上に述べたる所なり。この故に用言特有の現象は実にこの陳述の力に存するを知るべし。されば、その属性甚だ汎く、漠然として属性の捉ふべきものなく、又は殆ど全く属性の認むべからざる場合にても陳述の力という用言特有の現象を有するものは用言たる資格十分なりといわざるべからず。」

 山田の考え方は、たとえば「甘み」は名詞で「甘そう」は副詞で「甘い」は用言であるから、「甘」という対象のの属性の表現はどれにも共通していてこれが用言には特有ではないと見、この属性を除いたところに用言の本質があるとするのである。これでは、用言の本質は対象の属性をとらえた客体的表現ではなくなってしまう。そして、「甘」の部分を除いた残り、すなわち活用の部分が「陳述の作用をあらはす」ことにならないわけにはいかない。
 「国語の動詞はその活用形にて種々の陳述をなすものなるが、それらのみにては、その属性の表現の状態、又は陳述の委曲なる点等をあらはし得ざることあるが故にさる時に、その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。か々る場合の複語尾に該当するものは西洋文典にいふ所の時、態、法等の助動詞と称せらる々ものなり。西洋の動詞にはそれら時、態、法等の区別を助動詞にて示す外になほ不定形 infinitive 分詞 Paticiple 名動詞 gerund などと称する区別あり。かれらの動詞は此の如く複雑なるものなり。」

 すなわち一般に日本語の<助動詞>とよばれているのは、山田によると用言の語尾の複雑に発達した「複語尾」であり、用言の「内部の形態上の変化」にすぎないのである。

 「これ用言の語尾のみにあらわる々ものにして、その用言の作用又は陳述の委曲を尽さしむる用をなすに止まれるを以て用言の内部の形態状の変化と見るを穏当なりとすべき性質を有せり、されば、吾人はこれを語尾の複雑に発達せるものにして語尾の再び分出せるものなりといふ意を以て仮りにかく名づけたるなり。」


 今回は、ここまでにし次に少し説明を加えましょう。■

 注:①『言語過程説の展開 ― 三浦つとむ選集3』〔勁草書房/1983.8.10〕
      『認識と言語の理論〈第2部〉』〔勁草書房; 新装版 (2002/06))
     ②『日本語の文法』〔勁草書房; 新装版 (1998/5/25)〕
  
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2015年05月09日

現代言語学批判 1-2

  『シリーズ 日本語史』(金水敏 他編:岩波書店刊)の言語観 2

 この巻頭言では、まず「日本語史」への問いを「日本語(国語)とは何か」に、次いで「言語とは何か」と問い、答えは総て「多様・多岐」と答えるのみで何ら回答がなされていません。時枝は国語学を論ずるに当たってまず、「言語の本質とは何か」について「この問題を解決せずしては、私は今や一歩も末節の探求に進み入ることを許されない。」と考えたのは見て来た通りです。
 
  これに比し著者らは「この問題を解決せず」に種々の現象や、機能を列記することで満足しています。取上げたのはシリーズ全体の巻頭言ですが、本論で論じられているのではと読み進んでも全く問題にされていません。

 最初に、<「言語」を「言語の知識」という側面から見ることができる>などと心理学的接近法が取上げられていますが、これは現在のロナルド・W・ラネカーやジョージ レイコフらが唱える第2世代の認知言語学の発想でしかありません。ラネカーは『認知文法論序説』(山梨正明 監訳 研究社 2011年5月23日初版発行)の「第2章 概念意味論」の「2.1.1 意味は頭の中に存在するか」で「意味は、言語表現を産出し理解する話者の心の中に存在している。このほかに意味のありかを見つけるのは難しいだろう。」と意味が、産出する話者から理解する話者へ実体として飛んでいくかのごとき言語言霊論を述べています。そう考えれば、この頭の中に存在する意味を知識とでも考える他なくなるのは論理的必然です。

  この馬鹿げた発想を、訳者の山梨正明氏や、ここで取上げた著者の一人である金水敏氏ら記述文法を論じる人々も無批判に受け入れて言語を論じているのが現状です。そして、私が手にしているシリーズ3の『文法史』では<文法>とは何かの定義もなしに生成文法に依拠し源氏物語あたりの古代語からの文法を論ずるという体たらくです。「第2章 述部の構造 2.1 活用」では中世期の歌学に活用研究の萌芽が見られると始まっていますが、結局最後は「活用現象の実態について述べた、今後は、各時代、各資料ごとの記述の積み重ねと同時に、「活用とは何か」という本質論を深めていく必要がある。」と述べることしか出来ないのです。

 時枝であれば、これまで見て来たように、「日本語(国語)とは何か」、次いで「言語とは何か」と問い、さらに「文法とは何か」、「活用とは何か」とその本質を問い論を進めることになるしかありません。

 「日本語(国語)とは何か」の問いを放棄し、西欧屈折語言語の文法論に全面的に依拠して本質を問うことなく現象論に終始する現在の日本の言語学者の実態、レベルを見たら、時枝は呆れかえり、馬鹿にするしかないと思われます。

  ここで、時枝の言語過程説の確立に至る道の追求を一休みし、少し先回りすることにはなりますが、言語学批判を始めたついでに言語過程説の立場からNETの上で展開されている、上で述べた現代言語学者に教育を受け無批判にそれを受け入れている人たちのブログを覗いて見ることにしましょう。

  最初は、たまたま連休中に見つけた「killhiguchiのお友達を作ろう」というブログに、「現代日本語において、複語尾の終止法独自の用法を、喚体メカニズムで説明する可能性につ いて」という論が説明されており異を唱えるコメントをさせてもらいました。

 言語過程説はご存じないようで、どう説明して良いかまよったのですが。当方がまずひっかかたのが複語尾という用語です。
 これは、山田孝雄(やまだ よしお、1873年(明治6年)5月10日(実際には1875年(明治8年)8月20日) - 1958年(昭和33年)11月20日))という国学者が助動詞という品詞を認めずに、用言の語尾の複雑に発達した「複語尾」だと主張したものです。
 この用語を引き継いでいるということは、山田の誤った発想を引き継いでいるのではと感じたのです。そして、内容を見て見ると正にこの発想を引き継いでいるのです。助動詞という品詞を認めないわけではないのですが、結局この用語と発想を受け入れているわけです。それは現在の上記の記述文法という言語実体観では認識を認めることができずに山田と同じ発想になるしかないという論理的必然によるものです。

 時枝は複語尾説をとらず、判断辞を一語と認め、そしてそれの欠けているものに「零記号」を設定するのですが、この「零記号」が時枝を認めない国語学会の人々には受け入れられていません。時枝の師である橋本進吉が『国語学原論』を東京帝国大学の博士論文として推薦し、学位を得るよう奔走するのですが、この「零記号」については認めることができず、「そんなバカなことがあるものか!」と他の弟子にも語っており、最後まで認めませんでした。形式主義文法学者の橋本としては論理的に受け入れられないこととなります。この辺の複語尾説について次に考えてみましょう。■  
Posted by mc1521 at 18:00Comments(0)TrackBack(0)言語