一般にいわれる<助動詞>を<用言>の語尾の複雑に発達した「複語尾」とする山田の説を確認するために、先ずその用言説からみなければなりません。
少し横道に逸れますが、文法を習い始めた最初にこの<体言><用言>という区分が出てきて悩んでしまいました。
<名詞><動詞><形容詞><助詞>と言う品詞分類と、<体言><用言>という区分が出てきてのこの対応関係が良く理解できませんでした。この区分も学者の間で見解が分かれています。学校文法では、自立語で主語となるものが<体言>で<名詞>と同じ。<用言>は自立語で活用のあるもの―述語となるものが用言で、<動詞><形容詞><形容動詞>の三種類に分かれます。この分類では、<副詞>、<連体詞>や<助詞>はこれらの分類に入らず中に浮いてしまいます。
これは自立、付属、活用という、形式と機能による品詞分類と本来は語の内容上の分類であった<体言><用言>という分類が対応せず、有効性をもたないためなのです。この品詞分類の非科学性に疑問を持ち、国語文法の誤りに気付いたことこそが、拙ブロガーを言語過程説に向かわしめたもので、ようやくその内容の理解に見通しが建ち本ブログを始めたものです。
国語文法を学んだ多くの人が疑問を持ち、国学の伝統を引く国語文法は非科学的で英語文法や欧米言語学の方法論を取り入れれば良いのではないか、自然科学の方法論こそが適用されるべきという発想にたち、構造主義言語学やチョムスキー言語論、認知言語学に飛び付いているのが現在の言語学や国語学の現状であるといえます。
それは明治の東京帝国大学の初代国語学教授であった上田万年や、その後を継いだ橋本進吉が言語学の出身であることにも現れており歴史は繰り返すということを物語っています。
この欧米崇拝ではもはや立ち行かない事に気付いたのが時枝誠記であり、あくまで言語という対象の本質を求めて「言語は表現の一種である」というところに達したのが、これまで辿って来たところです。
ぼやきが長くなりましたが「複語尾」に戻り、山田孝雄はあくまで形式ではなく内容による分類を主張し、それは正統なのですが、如何せん対応性がないので、それを貫き通すことはできません。その話は又別途にし、ここでは動詞と形容詞となります。<形容動詞>と言う品詞もまた問題の品詞で、これもまた別途論じなければならない大きな問題ですが<形容動詞>と言う品詞は誤りです。
さて三浦つとむは、『言語過程説の展開』(①)の「第四章 言語表現の過程的構造(その二)」の【二 「てにをは」研究の問題】や、『日本語の文法』(②)の「第八章 <助動詞>の問題をめぐる諸問題」で論じていますので、ここから必要な部分を引用し私なりに説明してみたいと思います。
まずはじめに山田から、用言についての説明を聞くことにしよう。彼は用言が「陳述の力」と「属性」とその両者を表現しているものと解釈するのである。
「用言の用言たる特徴は実にその陳述の作用をあらはす点にあり。この作用は人間の思想の統一作用にして、論理学の語をかりていへばその主位にたつ概念と賓位に立つ概念との異同を明らかにしてこれを適当に結合する作用なり。凡そ人の思想を発表する機関として個々の概念の必要なることはいふを俟たざるところなれど、個々の概念のみ存してもこれらを統一判定する作用なくば、思想の完全なる結成となることなし。かく統一判定する作用を言語にあらはしたるもの即ち用言なり。この点より見れば、用言はすべての品詞中最も重要なるものにして談話文章の組み立てもこれが存在によりはじめてその目的を達するを得べきものたり。而してその用言はその陳述の力と共に種々の属性をあらわせるもの大多数を占むれども、もとその属性の存在は用言の特徴と目するべきものにあらざることは既に上に述べたる所なり。この故に用言特有の現象は実にこの陳述の力に存するを知るべし。されば、その属性甚だ汎く、漠然として属性の捉ふべきものなく、又は殆ど全く属性の認むべからざる場合にても陳述の力という用言特有の現象を有するものは用言たる資格十分なりといわざるべからず。」
山田の考え方は、たとえば「甘み」は名詞で「甘そう」は副詞で「甘い」は用言であるから、「甘」という対象のの属性の表現はどれにも共通していてこれが用言には特有ではないと見、この属性を除いたところに用言の本質があるとするのである。これでは、用言の本質は対象の属性をとらえた客体的表現ではなくなってしまう。そして、「甘」の部分を除いた残り、すなわち活用の部分が「陳述の作用をあらはす」ことにならないわけにはいかない。
「国語の動詞はその活用形にて種々の陳述をなすものなるが、それらのみにては、その属性の表現の状態、又は陳述の委曲なる点等をあらはし得ざることあるが故にさる時に、その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。か々る場合の複語尾に該当するものは西洋文典にいふ所の時、態、法等の助動詞と称せらる々ものなり。西洋の動詞にはそれら時、態、法等の区別を助動詞にて示す外になほ不定形 infinitive 分詞 Paticiple 名動詞 gerund などと称する区別あり。かれらの動詞は此の如く複雑なるものなり。」
すなわち一般に日本語の<助動詞>とよばれているのは、山田によると用言の語尾の複雑に発達した「複語尾」であり、用言の「内部の形態上の変化」にすぎないのである。
「これ用言の語尾のみにあらわる々ものにして、その用言の作用又は陳述の委曲を尽さしむる用をなすに止まれるを以て用言の内部の形態状の変化と見るを穏当なりとすべき性質を有せり、されば、吾人はこれを語尾の複雑に発達せるものにして語尾の再び分出せるものなりといふ意を以て仮りにかく名づけたるなり。」
今回は、ここまでにし次に少し説明を加えましょう。■
注:①『言語過程説の展開 ― 三浦つとむ選集3』〔勁草書房/1983.8.10〕
『認識と言語の理論〈第2部〉』〔勁草書房; 新装版 (2002/06))
②『日本語の文法』〔勁草書房; 新装版 (1998/5/25)〕