2017年04月07日

「非文」について(2)


 次に紹介するのは、宮下眞二による「変形文法の展開とホーキンズの冠詞論」という1981年9月刊の三浦つとむ編『現代言語学批判  ■言語過程説の展開』の中の論考の一節です。宮下はすでに、1970年5月に雑誌『試行』に「構造言語学の変形としての変形文法―チョムスキー『言語と精神』の批判」(『英語はどう研究されてきたか―現代言語学の批判から英語学史の再検討へ』1980年2月刊に収録)を発表しており、この論文では変形文法が統語的解釈と意味的解釈との対立から折中ないしは総合へと展開してきた跡をたどり、変形文法の混迷が、その意味の把握が、日常的常識的な意味観を流用した安直かつ曖昧なものであることを指摘し、生成文法の意味素性の概念を、意味そのものではなくて、意味を媒介する語彙の対象の諸側面を分類したものに過ぎないと断じています。そして、非文という安直な発想による生成文法のデッチ上げを明かにしています。この「三 非文とは何か」を転載します。
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    三 非文とは何か (1/2)
 変形文法のもう一つの特色は、何らかの意味で「変」な文即ち変形文法で云う非文(ungrammatical sentence)を資料として、正常な文を「生み出す」規則を探り出そうと云う研究方法である。変形文法以前には、正常な文を資料としてその背後にある文法を明かにしようとしていたから、変形文法の研究方法は「画期的」とされ、変形文法の「一大特徴」とされている。しかし変形文法では、母国語話者が直観的に、常識的な意味で「変」だと感ずる文を、すべて「非文法的」と見做し、これを根拠として言語の研究を進めている。変形文法化に言わせれば、母国語話者の直感こそ経験科学の唯一の基盤という訳だろう。しかし科学は、言うまでもなくこの直観を反省するところから始まるのである。
 変形文法で云う非文とは、内容が非現実的又は超現実的なものや、表現がくど過ぎる物や、統語構造が複雑で一読したのでは語と語とのつながりが掴みにくいものなどである。これらは母国語話者には一見して「変」だと思われるために、変形文法家に依って非文法的文と見做された。一例を挙げれば、チョムスキーはAspects(1965年)に於いて、‘The harvest was clever to agree.’(収穫は懸命にも同意した)や、‘Harry drank his typewriter.’(ハリーはタイプライターを呑んだ)を非文と判定して、このような非文を生み出さないために語彙の選択を制限すべき「選択制限」と云う規則が必要であると主張している。しかし、常識ある者ならば、非現実的なものや超現実的なものを空想して言語に表現したら、内容が非現実的又は超現実的になるのは当たり前で、すこしも変ではないと思うだろう。又、人間は嘘をつくことも出来るが、変形文法化に依れば、超現実的な文は非文と云う事になるだろう。ホーキンズは‘The harvest was clever to agree.’は「お伽話」‘a fairy tale’では全く自然でありうると指摘している。彼はイギリス人だからさすがにアメリカの変形文法家ほど非常識ではない。常識ある者ならば、表現がくどくても、複雑で一読では意味が掴み切れなくても、それだけで非文法的とは云えないと思うだろう。そこで変形文法家の非文法性と云う考えそのものが間違っているのではないかと云う疑問が生じる。■

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