2015年08月31日

英文法に見るテンス解釈(4)

  『謎解きの英文法 ― 時の表現』久野すすむ・高見健一 (著)[くろしお出版 (2013/8/10)]

    ●動詞の現在形が現在時と未来時を表す(2 

 前回、著者らの日本語文法理解の誤りを指摘しましたが、まだ指摘すべきことがあります。もう一度前回の例文を再掲します。

   (7)  a私は花子が好きだ。      [現在時]

   b.太郎はフランス語が分かる  [現在時]

 (8)   a.彼は明日ロンドンへ出発する [未来時]

     b.太郎は来年大学を卒業する  [未来時] 

 この(7)の「好きだ」が動詞ではなく、形容詞「好き」+助動詞「だ」であることは前回とりあげましたが、(8)の「出発する」「卒業する」を動作動詞としている点にも問題があります。これらは、漢語の動作性名詞「出発」と「卒業」に抽象動詞「する」を連加したものです。漢語は活用をもたないため、そのまま動詞として使用したり、接尾語や助動詞を直接結びつけることができません。それで、抽象動詞「する」(活用:せ、し、す、する、すれ、せよ)を結びつけて抽象的に捉えなおして、この活用を利用したものです。従って、動作を表してはいますが、動詞は抽象動詞「する」です。過去形になれば、「し」+「た」で「した」となります。

なぜ、このような誤った理解に陥ったかは、前回の形容詞の場合と同じで、「出発する」を英語のdepartと、「卒業する」をgraduateと同一視してしまったからです。なお、「好き」を動的に捉えれば、 

  私はいずれ花子を好きになるだろう。 

と、抽象動詞「なる」を連加します。

このような粗雑な日本語理解は次に続いています。

 先の「状態動詞の現在形は未来時を表すことができません。」という誤断に続いて、次のように記しています。 

一方、動作動詞が現在時を指せるのは、次に示すように、習慣的動作を表す場合に限られます。(【付記2】参照) 

 私は毎朝ジョギングする。 [現在時]  

この文は、話し手が現在の習慣として定期的にジョギングを行うという、話し手の現在の状態を述べています。「ジョギングする」自体は動作動詞ですが、習慣的動作だと、その現在形がこのように、状態動詞の現在形と同じく、現在の状態を指し得るのは、習慣的動作が、1回から数回の動作とは異なり、定期的に繰り返し行われるため恒常性が強いからです。 

 この動作性動詞なるものも、外来語である名詞「ジョギング」は活用をもたないため、抽象動詞「する」を連加したものです。従って、日本語の動詞は抽象動詞「する」です。日本語の動詞では、「軽く走る」とでもいうところで、動詞「走る」を動作性動詞と呼ぶのは誤りではありませんが。

 さて、この動作動詞が現在時を指せるのは「習慣的動作を表す場合に限られます。」というこの説明の内容ですが、これは二重、三重に誤った説明です。「ジョギングする」でも「走る」でも良いのですが、2回目に歌舞伎の世話物狂言「弁天小僧」の台本の「ト書き」で示した通り、習慣的動作ではなく、その場の指示として現在形が用いられています。なにも、「習慣的動作」には限られていません。これは事実に相違した誤りです。さらに、

 習慣的動作だと、その現在形がこのように、状態動詞の現在形と同じく、現在の状態を指し得るのは、習慣的動作が、1回から数回の動作とは異なり、定期的に繰り返し行われるため恒常性が強いからです。

 と説明していますが、「恒常性が強い」動作でなくとも、

  晴れた、青空の日にはジョギングする。 

というような条件的な使い方は良くあります。動作動詞であろうとなかろうと、現在形が使用されるのは何ら習慣的動作に限定されるものではありません。そして、「定期的に繰り返し行われるため恒常性が強いからです。

」というのは、動作動詞が現在時を指せるのは「習慣的動作を表す場合に限られ」る理由の説明にはなっていません。単に著者の思い込みの事実を、現象として説明しているだけです。

 このような、現象的、機能的な粗雑な日本語文法理解からは日本語の時制の本質はもとより、英語の時制の理解も、さらにアスペクトの理解も望むべくもないものです。著者は、これまでの議論に基づき、 

 時間は、過去、現在、未来の3つがありますが、それらを表す時制は2つだけで、「未来時制」というものはないことになります。また、動詞の現在形が現在時と未来時を表すわけですから、動詞の現在形を「現在時制」と呼ぶのは、厳密には妥当ではなく、過去を表す「過去時制」に対して、「非過去時制」とでも呼ぶのが正確と言えるでしょう(ただ、本章では分かりやすさのため、「現在時制」という言い方を用います)。従って、時制は、中学生の頃おもっていたような1対1の対応はしていないことが以上から明らかです。 

と断定していますが、これが現在の生成文法の理解の現状です。ここでは、時制が対象の属性として固定的に捉えられているため、多くの事実誤認と論理の踏み外しを抱え込んでいます。この本では、次に英語の場合を考察し、さらに「現在形は何を表すか?(1) 第2章」と進みますので、さらに検討してみましょう。■

  
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2015年08月21日

英文法に見るテンス解釈(3)

  『謎解きの英文法時の表現』久野すすむ・高見健一 ()[くろしお出版 (2013/8/10)

   ●動詞の現在形が現在時と未来時を表す  (1)

 この節では、「動詞の現在形で、現在形は次に示すように、現在時と未来時の両方を指すことができます。」と、次の例文を挙げています。 

  (7)  a私は花子が好きだ。      [現在時]

   b.太郎はフランス語が分かる  [現在時]

(8)  a.彼は明日ロンドンへ出発する [未来時]

    b太郎は来年大学を卒業する  [未来時] 

 したがって、現在形は、現在時と未来時の両方を表すことが出来る、と結論しているわけですが、ここで、(7)(8)の決定的な違いは前者が「状態動詞」、後者が「動作動詞」であると奇妙なことを記しています。さらに、状態動詞の現在形は、次に示すように、未来時をあらわすことができません(【付記1】参照)、として次の文を挙げています。 

  a*この車は来年古い。 

    b*太郎は来年フランス語が分かる。 

 ここで、まず誤っているのは、(7a)の「好き」は動詞ではなく形容詞です。「好きだ」の「だ」は断定の助動詞です。a.の「古い」も形容詞です。なぜ、こんな初歩的な誤りが記されたのかは容易に推測できます。英語はSVO構文で、必ず主語と述語よりなり、述語は動詞Vなので、機械的にそれを日本語に適用してしまったためです。「*」は生成文法で使用する「非文」の表示です。これは主観的な判断であるだけでなく、そのために文字通り、文ならざるものを機械的・形式的に作成し文のごとく提示するという悪弊を生みだしていることに気づいていません。a.の文は、「古い」を「状態動詞」と思い込み、機械的・形式的に「この車は」という句に続けて並べただけの語の羅列で、対象を認識し表現した文ではないのです。b.も同様です。このような、機械的・形式的なプラグマティックな発想が生成文法の本質です。文として、これらを記せば、 

  aこの車は来年には古くなる。 

    b.太郎は来年にはフランス語が分かる。 

で、何ら問題のない文となります。「なる」は抽象動詞と呼ぶべきですが、現状は形式動詞と呼ばれています。「状態動詞の現在形は、次に示すように、未来時をあらわすことができません」などというのが誤りなのは明確で、生成文法なる発想の本質が明らかとなります。先の、【付記1】は次のように記されています。 

 ただ、状態動詞の現在形は未来時を表すことができないという制約は、次のような文が適格であることから、コピュラ(連結詞)で終わる形式には適用しないように思われます。

 (ia母は来年米寿です

b.私は来年の夏、ひとりぼっちです 

「コピュラ」とは繋辞で英語の場合「be」動詞で、判断辞ですbe」動詞はThere is a pen.の存在詞でもあるのですが、この点が著者に理解されているのかは後で分かります。この、(i)の2文の「です」は「状態動詞」ではなく、断定の助動詞「だ」の丁寧形です。「適格」などという判断も「非文」と対をなす主観的判断で、何ら論理的ではありません。この【付記】も、「状態動詞の現在形は、次に示すように、未来時をあらわすことができません」という誤りの根源が論理的に理解出来ずに、例外的な扱いでエクスキューズを記したものに他なりません。

ここでは、著者らの生成文法による日本語理解がいかに言語事実に相違した非論理的、非科学的な内容であるかが露呈しています。これらは、屈折語である英語の文法の誤りを機械的に日本語に適用した誤りであることもまた明らかにしています。これでは、日本語はもとより、英文法の謎ときなど不可能というしかありません。どのような謎ときになるのか、さらに追及していきましょう。■

  
Posted by mc1521 at 12:17Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年08月20日

英文法に見るテンス解釈(2)

 『謎解きの英文法時の表現』久野すすむ・高見健一 ()[くろしお出版 (2013/8/10)

   ●「だろう/でしょう」は「推量」の助動詞 

 この節は、「だろう/でしょう」は、未来時を表す要素ではなく、話し手の推量を表す助動詞です、と始まります。そして、

 つまり、話し手がある事柄を真実であると考えつつも断定せず、言い切らないで保留する表現です。国語辞典などでは、推量を表す助動詞として、「う/よう」(明日は雨が降ろう/午後は晴れよう)が上がっていますが、現代語では「だろう」の方が自然で、その丁寧な形が「でしょう」です。したがって、この助動詞は次に示すように、過去、現在、未来のいずれの事柄についても用いられます。

 として次の例文を挙げています。 

  a.君は昨日事故にあって、さぞ怖かっただろうでしょう  [過去時]

   b.京都は今頃、紅葉がきれいだろうでしょう。       [現在時]

  c洋子は明日、パーティーにきっと来るだろうでしょう  [未来時] 

 以上から、「だろう/でしょう」は話し手の推量を表す助動詞で、未来を表すわけではなく、したがって未来時制要素でもないことが明らかです、と結論しています。そして、「●動詞の現在形が現在時と未来時を表す」と論じています。しかし、新聞記事で見た通り過去の事柄も現在形で表されます。いわゆる歴史的現在や、「ト書」等は現在形です。黙阿弥作の「弁天小僧」四幕目の稻瀬川勢揃の場の最後は次のようです。

 ト波の音、佃になり、南郷、辧天は花道へ、十三、忠信は東の假花道(あゆみ)へ、駄衛門は捕手の一人を踏まえ、一人を捻ぢ上げ後を見送る。四人は花道をはひる。これをいつぱいにきざみ、よろし                                      ひようし  幕

 つまり、現在形という表現と対象の事象そのものの時間的性質とが直接対応しているわけではないのです。先の例文で著者が時制を判断しているのは、昨日、今頃、明日等によるもので、時制表現による判断ではないのです。

 まず最初の文では、「君は昨日」で話者は観念的に過去に移動し、「事故にあって」と現在形で語られ、次に「さぞ怖かっ」と、現在に戻りそれまでの内容が過去であったことを表現しています。「た」と言っているのは現在なのです。そして、c.では、「洋子は明日」で話者は未来の明日に移動し、「きっと来るだ」と観念的に明日に対峙して現在形で「だ」と「来る」のを断定し、ここから現在に戻り「う」とそれまでの内容が未来の推量であったことを表現しているのです。「だろう」というのは、断定の助動詞「だ」+未来推量の助動詞「う」であり、「でしょう」というのは断定の助動詞「だ」の連用形「で」+未来推量の助動詞「う」なのです。「だろう/でしょう」が助動詞なのではなく、未来、推量を表しているのは助動詞「う」で多義なのです。未来の事は当然未確定であり推量するしかないためこのような表現を取ることになり、英語もまた同様で、この点は後で詳しく見てみましょう。

 新聞記事の所で述べたように、 

  過去現在未来は、属性ではなく、時間的な存在である二者の間あるいは二つのありかたの間の相対的な関係をさす言葉にほかなりません。……過去から現在への対象の変化は、現実そのものの持つ動きです。これを、言語は、話し手自身の観念的な動きによって表現します。ここに、言語における「時」の表現の特徴があるのです。(三浦は『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫 1976.6.30/初出1956.9)) 

 ということです。しかし、この話者の認識を扱えない生成文法や日本語文法では、対象の時間的属性と表現された文の内容を直結し、そこに示された時を表す語である、昨日、今頃、明日等を頼りに文の時制として丸ごと判断するしかないことになります。

 人間のダイナミックな対象―認識―表現の過程的構造を捉えられない言語本質観では、当然ながら日本語も、英語も、その表現を理解することができません。著者の解説を、さらに見てみましょう。■

  
Posted by mc1521 at 23:02Comments(0)TrackBack(0)文法

2015年08月17日

英文法に見るテンス解釈 (1)

   『謎解きの英文法時の表現』久野すすむ・高見健一 ()[くろしお出版(2013/8/10)  

  前回、機能的言語論の時制論について新聞記事を題材に欠陥を明らかにしましたが、当然ながら英文法の時制アスペクトの解明も同様なレベルでしかありません。先に紹介したバーナード コムリー  (), Bernard Comrie (原著), 久保 修三 (翻訳)『テンス』(開拓社 2014/9/19)の通り、典型的には<発話時>を基準として過去・現在・未来を定義しています。これでは、新聞記事一つ解明できないことを前回示しました。今回は首記の著書が「謎解き」を出来ているか否か見てみましょう。本書の著者の一人である久野暲(すすむ)氏は60年代より生成文法により日本語を研究しハーバード大学に渡り『The Structure of the Japanese Language』他、自動翻訳や文法論等多数のを著書を出され、名誉教授でもある88歳の大家として知られています。

 「はしがき」では、「The bus is stopping.」という文は「バスが止まっている」という意味なのでしょうか、と問題提起し次のように記しています。 

 本書は、このような英語の疑問に答え、「時制」と「相」(アスペクト)(動作や状態の完了や継続を表す文法事項)に焦点を当て、「時」の表現に関わる多くの謎を解こうとしたものです。 

 と記されていますが、残念ながら現在の定義も、過去とは何かも、そして「相」(アスペクト)とは何かも解明出来ずに、単に現象や機能の説明に終始しています。機能とは「ある物事に備わっている作用、働き」でしかなく、それは本質の作用、機能であり、明らかにされるべきは本質でなくてはなりません。第2章では「現在形は何を表わすか(1)」と現象を問います。ここでは現在形が現在だけではなく、次のように過去も未来も表すのは、表現としてどのように異なっているのか、どのように説明されるかが問題とされます。言語表現における現在とは何か、何ゆえに過去や未来が表せるのかという本質を問うことは最初から放棄されています。それは、彼らの言語本質観がアプリオリに文として実在するとみなすところから出発する言語実体観でしかないからです。そこからは、言語、表現の本質を問う発想は生まれず、現象や機能を説明するしかありません。文を直接に支えているのは話者の認識ですが、これを扱えない言語論では文と対象を直結するしかなく、表現の過程的構造を取り上げられない論理的必然です。参考までに、「本質」について辞書を見てみましょう。

  大辞林第三版の解説   ほんしつ【本質】

①物事の本来の性質や姿。それなしにはその物が存在し得ない性質・要素。 「問題の-を見誤る」

  ②〘哲〙〔ラテン essentia;ドイツ Wesen

   ㋐伝統的には,存在者の何であるかを規定するもの。事物にたまたま付帯する性格に対して,事物の存在にかかわるもの。また,事物が現に実在するということに対して,事物の何であるかということ。

   ㋑ヘーゲルでは,存在から概念に至る弁証法的発展の中間段階。

   ㋒現象学では,本質直観によってとらえられる事象の形相。 


 第1章は<willは「未来時制」か?>と題し、最初に●willと「~だろう/でしょう」が論じられています。

ここでの問題は、次の文の助動詞willや日本語の「~だろう/でしょう」は、未来時を表す未来時制と言えるのかどうかです。 

  aHe will be in New York next year.  [現在時]

    b 彼は来年ニュ-ヨークにいるだろうでしょう [現在時] 

これらの表現が、現在時を表す要素と一緒に次のように用いられるのが指摘されます。 

  aShe will be out now.  [現在時]

    b.彼女は、外出中だろうでしょう [現在時] 

さらに次のように、未来時は動詞の現在形で表すこともできます。 

 a.He leaves for London tomorrow[未来時]

b.彼は明日ロンドンへ出発する。  [未来時] 

<「過去、現在、未来」という3つの時(time)と、それらを表す形、時制(tense)は、どのように対応しているのでしょうか。特に、学校文法(伝統文法)では、willは未来時を表す未来時制であると言われてきましたが、本当にそうなのでしょうか。日本語の「~だろう/でしょう」はどうなのでしょうか。英語や日本語に未来時を表す未来時制はあるのでしょうか。>と問題提起し、<●「~だろう/でしょう」は「推量」の助動詞>と論が進みます。まず、日本語の「~だろう/でしょう」から考えことになるので、次回、著者らの日本語理解の程度を含めじっくり検討することにしましょう。■

  
Posted by mc1521 at 12:35Comments(0)TrackBack(0)文法