『謎解きの英文法 ― 時の表現』久野すすむ・高見健一 (著)[くろしお出版 (2013/8/10)]
●「だろう/でしょう」は「推量」の助動詞
この節は、「だろう/でしょう」は、未来時を表す要素ではなく、話し手の推量を表す助動詞です、と始まります。そして、
つまり、話し手がある事柄を真実であると考えつつも断定せず、言い切らないで保留する表現です。国語辞典などでは、推量を表す助動詞として、「う/よう」(明日は雨が降ろう/午後は晴れよう)が上がっていますが、現代語では「だろう」の方が自然で、その丁寧な形が「でしょう」です。したがって、この助動詞は次に示すように、過去、現在、未来のいずれの事柄についても用いられます。
として次の例文を挙げています。
a.君は昨日事故にあって、さぞ怖かっただろう/でしょう。 [過去時]
b.京都は今頃、紅葉がきれいだろう/でしょう。 [現在時]
c.洋子は明日、パーティーにきっと来るだろう/でしょう。 [未来時]
以上から、「だろう/でしょう」は話し手の推量を表す助動詞で、未来を表すわけではなく、したがって未来時制要素でもないことが明らかです、と結論しています。そして、「●動詞の現在形が現在時と未来時を表す」と論じています。しかし、新聞記事で見た通り過去の事柄も現在形で表されます。いわゆる歴史的現在や、「ト書」等は現在形です。黙阿弥作の「弁天小僧」四幕目の稻瀬川勢揃の場の最後は次のようです。
ト波の音、佃になり、南郷、辧天は花道へ、十三、忠信は東の假花道(あゆみ)へ、駄衛門は捕手の一人を踏まえ、一人を捻ぢ上げ後を見送る。四人は花道をはひる。これをいつぱいにきざみ、よろしく ひようし 幕
つまり、現在形という表現と対象の事象そのものの時間的性質とが直接対応しているわけではないのです。先の例文で著者が時制を判断しているのは、昨日、今頃、明日等によるもので、時制表現による判断ではないのです。
まず最初の文では、「君は昨日」で話者は観念的に過去に移動し、「事故にあって」と現在形で語られ、次に「さぞ怖かった」と、現在に戻りそれまでの内容が過去であったことを表現しています。「た」と言っているのは現在なのです。そして、c.では、「洋子は明日」で話者は未来の明日に移動し、「きっと来るだ」と観念的に明日に対峙して現在形で「だ」と「来る」のを断定し、ここから現在に戻り「う」とそれまでの内容が未来の推量であったことを表現しているのです。「だろう」というのは、断定の助動詞「だ」+未来推量の助動詞「う」であり、「でしょう」というのは断定の助動詞「だ」の連用形「で」+未来推量の助動詞「う」なのです。「だろう/でしょう」が助動詞なのではなく、未来、推量を表しているのは助動詞「う」で多義なのです。未来の事は当然未確定であり推量するしかないためこのような表現を取ることになり、英語もまた同様で、この点は後で詳しく見てみましょう。
新聞記事の所で述べたように、
過去現在未来は、属性ではなく、時間的な存在である二者の間あるいは二つのありかたの間の相対的な関係をさす言葉にほかなりません。……過去から現在への対象の変化は、現実そのものの持つ動きです。これを、言語は、話し手自身の観念的な動きによって表現します。ここに、言語における「時」の表現の特徴があるのです。(三浦は『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫 1976.6.30/初出1956.9))
ということです。しかし、この話者の認識を扱えない生成文法や日本語文法では、対象の時間的属性と表現された文の内容を直結し、そこに示された時を表す語である、昨日、今頃、明日等を頼りに文の時制として丸ごと判断するしかないことになります。
人間のダイナミックな対象―認識―表現の過程的構造を捉えられない言語本質観では、当然ながら日本語も、英語も、その表現を理解することができません。著者の解説を、さらに見てみましょう。■