2017年04月09日

「非文」について(3)

 
 宮下眞二による「変形文法の展開とホーキンズの冠詞論」の「三 非文とは何か」の後半を転載します。
          ………………  ■  ………………

 非文法性とは文法違反のことである筈だから、文法違反とは言語のどういう事実であるかを反省してみよう。言語は規範に媒介された表現である。所謂文法とは言語を媒介する言語規範のことである。文法違反とは、言語が文法に依って正しく媒介されないことである。詳しく説明すれば、言語は対象―認識―表現という客観的関係をもっていて、この関係は文法に依って媒介されねばならない。文法とは、或る種の対象を表す場合には或る種の音声や文字を用いると云う表現のための約束である。話手が赤くて酸っぱいリンゴを表すために、リンゴの語彙を用いて「リンゴ」と言えば、対象と認識と言語とは正しく媒介されて、聞手は内容を正しく把握することが出来る。しかしこの場合に、話手がリンゴの語彙を忘れたり、又は間違えたりして「ミカン」と言ったとすると、これは対象―認識―表現の関係を正しく媒介していないから、文法違反即ち非文である。このように、文法違反か否かとは、言語の過程的構造が言語規範に依って正しく媒介されているか否かであって、言語の内容が常識に適っているか否か、又は言語の表面的の統語構造の辻褄が合っているか否かではないのである。チョムスキーらは、文の背後にある、話手が何をどう表現したかと云う表現過程を無視して、文の内容を日常的常識と比べて、文法的とか非文法的とかまことに安直に判定して、それを土台として変形文法の理論をデッチ上げたのである。
           ………………  ■  ………………

 この指摘は、原理とパラメターのアプローチからミニマリスト・プログラムへと変転しても何ら変わっていないといえます。そして、この非文を安直に取り込んでいる現在の日本語記述文法もまた同様であり、これまで検討してきた、杉村泰稿「ヨウダとソウダの主観性」でも明かかと思います。先にたまたま見つけた博士論文もまたということになります。■

  
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2017年04月07日

「非文」について(2)


 次に紹介するのは、宮下眞二による「変形文法の展開とホーキンズの冠詞論」という1981年9月刊の三浦つとむ編『現代言語学批判  ■言語過程説の展開』の中の論考の一節です。宮下はすでに、1970年5月に雑誌『試行』に「構造言語学の変形としての変形文法―チョムスキー『言語と精神』の批判」(『英語はどう研究されてきたか―現代言語学の批判から英語学史の再検討へ』1980年2月刊に収録)を発表しており、この論文では変形文法が統語的解釈と意味的解釈との対立から折中ないしは総合へと展開してきた跡をたどり、変形文法の混迷が、その意味の把握が、日常的常識的な意味観を流用した安直かつ曖昧なものであることを指摘し、生成文法の意味素性の概念を、意味そのものではなくて、意味を媒介する語彙の対象の諸側面を分類したものに過ぎないと断じています。そして、非文という安直な発想による生成文法のデッチ上げを明かにしています。この「三 非文とは何か」を転載します。
            ………………  ■  ………………
    三 非文とは何か (1/2)
 変形文法のもう一つの特色は、何らかの意味で「変」な文即ち変形文法で云う非文(ungrammatical sentence)を資料として、正常な文を「生み出す」規則を探り出そうと云う研究方法である。変形文法以前には、正常な文を資料としてその背後にある文法を明かにしようとしていたから、変形文法の研究方法は「画期的」とされ、変形文法の「一大特徴」とされている。しかし変形文法では、母国語話者が直観的に、常識的な意味で「変」だと感ずる文を、すべて「非文法的」と見做し、これを根拠として言語の研究を進めている。変形文法化に言わせれば、母国語話者の直感こそ経験科学の唯一の基盤という訳だろう。しかし科学は、言うまでもなくこの直観を反省するところから始まるのである。
 変形文法で云う非文とは、内容が非現実的又は超現実的なものや、表現がくど過ぎる物や、統語構造が複雑で一読したのでは語と語とのつながりが掴みにくいものなどである。これらは母国語話者には一見して「変」だと思われるために、変形文法家に依って非文法的文と見做された。一例を挙げれば、チョムスキーはAspects(1965年)に於いて、‘The harvest was clever to agree.’(収穫は懸命にも同意した)や、‘Harry drank his typewriter.’(ハリーはタイプライターを呑んだ)を非文と判定して、このような非文を生み出さないために語彙の選択を制限すべき「選択制限」と云う規則が必要であると主張している。しかし、常識ある者ならば、非現実的なものや超現実的なものを空想して言語に表現したら、内容が非現実的又は超現実的になるのは当たり前で、すこしも変ではないと思うだろう。又、人間は嘘をつくことも出来るが、変形文法化に依れば、超現実的な文は非文と云う事になるだろう。ホーキンズは‘The harvest was clever to agree.’は「お伽話」‘a fairy tale’では全く自然でありうると指摘している。彼はイギリス人だからさすがにアメリカの変形文法家ほど非常識ではない。常識ある者ならば、表現がくどくても、複雑で一読では意味が掴み切れなくても、それだけで非文法的とは云えないと思うだろう。そこで変形文法家の非文法性と云う考えそのものが間違っているのではないかと云う疑問が生じる。■
  
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2017年04月03日

助動詞「だ」について(28)

                                    杉村泰「ヨウダとソウダの主観性」
                        〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
 
  モダリティ論という誤り
 
 「ヨウダとソウダの主観性」を検討してきましたが、最終的に膠着語である日本語を命題やモダリティという屈折語文法の用語を借りて解釈する誤りという結論に至りました。結局、最初に戻りここでモダリティ論の誤りを言語過程説の立場から明かにしておきましょう。「 2.1 命題とモダリティ」でのモダリティの定義を次に引用します。
 主観性ということばは多義に使われるが、本研究では、モダリティ論における話し手の心的態度の現れについて用いることにする。モダリティ論によると、一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる。4)「モダリティ」はさらに、話し手による客体世界の把握の仕方と関わる「命題態度のモダリティ」と、話し手の発話態度と関わる「発話態度のモダリティ」とに分けられる。 
 《一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つ》としますが、この内容が誤っています。文は、客体的表現である詞と主体的表現である辞との組合せから成ります。そして、これが入れ子型に組み合わされます。時枝は彼の機能主義的な発想から辞が詞を包むと見なし、風呂敷型構造形式と呼んでいますが、これは観念の運動形式と捉えるべきものです。「話し手が切り取った客体世界」は当然、詞として表現されますが、「怒り」「怒る」、「判断」「判断する」、「思考」「思考する」「意志」「意志する」等、「話し手の心的態度」も一旦客体化されて概念化されれば詞となります。感情、判断、意志等を客体化することなく、直接に概念化したのが辞です。これを区分することなく(できずに)、「モダリティ」「命題」と名付け立体的な構造を平面化してしまっているのが判ります。当然、主観の概念も曖昧になってしまいます。

 英語のような屈折語では動詞の場合、時制/人称/動的属性という主体的表現と客体的表現が一語となり、日本語の句に当たります。この一語に複数の概念が一体化されているという矛盾とその相対的独立が正しく捉えられないところに、「命題」「モダリティ」概念が生まれ、現象的・形式的・機能的な解釈がなされることになります。

 しかし、膠着語である日本語は一語が単純な概念しか表さず、これを粘着して文を構成していることはこれまで論じてきた通りです。このような安易な発想の根底には言語を実体的、構成的にしか捉えられないソシュールの、言語規範をラングとする誤りがあることもこれまで論じたところです。このため、言語とはパロールである表現であることを理解できず、屈折語の概念を膠着語である日本語に適用し語の意義と文での意味も区分出来ないまま錯綜した論理を展開しているのが本論考であるのが理解いただけると思います。三浦つとむが時枝の『国語学原論』を言語学の「コペルニクス的転換」と評価した意義がここにあります。
 
 この様な発想に基づく、統語論もまた錯綜したものになる他ありませんが次にいくつかの事例を見ることにしましょう。■
  
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2017年03月27日

助動詞「だ」について(27)

                                        杉村泰「ヨウダとソウダの主観性」
                     〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
  「そう」の捉え方[2]
 「ヨウダ」と「ソウダ」の主観性の違いについて、次に「が/の」交替テストが論じられています。「が/の」交替というのは、機能主義者である三上章が『現代語法序説』で<形式名詞>「の」と<格助詞>「の」の相違を認識論的に明かにすることができず、「の」を「が」に変えられるか否かで、その名詞の度合いを判定し、「名詞くずれ」という誤った概念を提起した特有な機能条件です。
 ここでは、その「名詞くずれ」により「そうだ」の主観性を判定しようという三上の機能主義を引き継いだ機能判定がなされます。もともと、「ヨウダ」と「ソウダ」の違いを論理的に説明、解明できないためにモダリティ―論を持ち出し主観性の差異に帰着させようとすること自体が形式主義、機能主義的言語論の限界なのですが、さらに屋上屋を重ねる結果にしかならないのは致し方ないところです。
 この交替テストのため、「の」の後ろに名詞性成分「予感(がする)」を補った次の文が提示されます。

   (48)a. 今年のクリスマスは雪が降りソウナ予感がする。
      b. 今年のクリスマスは雪の降りソウナ予感がする。
   (49)a. 今年のクリスマスは雪が降るヨウナ予感がする。
      b.?今年のクリスマスは雪の降るヨウナ予感がする。
そして、
 ここで注目したいのは、(49b)は依然(49a)に比べて許容度が落ちるということである。この文法性の差は「ソウダ」と「ヨウダ」の主観性の違いに基づくと考えられる。すなわち、「ソウダ」は命題表現であるため容易に従属節の中に入るのに対し、「ヨウダ」はモダリティ成分であるためそれが困難なのである。一方、(49a)が適格となるのは、「今年のクリスマスは雪が降る」が主節として機能し、「ヨウナ予感がする」はそれ全体でモダリティ表現となっているためであると考えられる。
としています。ここでは、<格助詞>「が」と「の」の相違を論理的に解明することができず、許容度や主観性の相違などという曖昧な概念をもて遊ぶしかなくなっています。「雪が降る」は<格助詞>「が」が対象の個別性の認識を表現し「雪」が<動詞>「降る」の動作主体として表現されているので、「雪が降る」という具体的な事態が認識され、「ヨウ」が推量を表し、判断辞「ナ」でその事態を肯定し、それを「予感」の内容として理解されます。
 しかし「雪の降るヨウナ」とした場合には二つの解釈ができ、どちらもあまり適切な表現ではなくなるため、「許容度が落ちる」ことになります。<格助詞>「の」は名詞と名詞の関連を表現する語です。ここでは、《「雪」の降る「様(ヨウ)」》か《「雪」の「降るヨウナ予感」》となります。《「雪」の降るヨウ(様)》の場合これが「予感」の内容となりますが、「雪の降るヨウ(様)」≠「予感」であり、この場合は「雪の降る日のヨウナ予感」としないと文法的、論理的に繋がりません。他方、《「雪」の「降るような予感」》と解釈すれば、文法的、論理的には正しい表現となりますが、不自然な区切りとなります。
 つまり、《この文法性の差は「ソウダ」と「ヨウダ」の主観性の違いに基づく》わけでも何でもないということです。単に、機械的に「が」と「の」を入れ替える《「が/の」交替テスト》という形式主義的な発想そのもが誤りであり、それに依拠してモダリティ―論を持ち出し主観性の差異を判定しようとすること自体が誤りということになります。次に、時制との関わりが論じられます。
 次に時制との関わりの違いについて論じる。(50)(51)において時の副詞の係り先を比較すると、「ヨウダ」と「ソウダ」では違いが見られる。
  (50) a.昨日は雨が降ったヨウダ。
        b.現在雨が降っているヨウダ。
           c.明日は雨が降るヨウダ。
  (51) a.昨日は雨が降りソウダッタ。
        b.現在雨が降っていソウダ。
       c.明日は雨が降りソウダ。
(50)の場合、時の副詞は「雨が降る」の部分と関わっており、「ヨウダ」とは関わっていない。そのため「*昨日は雨が降るヨウダッタ」は非文となる。一方、(51)の場合、時の副詞は「雨が降りソウダ」全体と関わっており、「ソウダ」の時制に影響を与えている。こうした事実からも、「ヨウダ」が命題の時制とは独立に機能するモダリティ表現であるのに対し、「ソウダ」は命題の時制の中に含み込まれた命題表現であることが証明される。
 ここで時の<副詞>といわれているのは「昨日」ですが、<副詞>とは「花がハラハラと散る。」や「とても美味しいお菓子だった。」のように、<動詞>「散る」や<形容詞>「美味しい」に添えて属性の立体的な内容を表現する語であり、「昨日」は<副詞>ではありません。用言と関係があるから<副詞>だという形式主義的な分類の誤りです。さらに、「時の副詞の係り先」などというのは語が「係る」機能を持つという機能的な見方でしかありません。語の意義という本質をとらえられない、形式的、機能的な言語観の欠陥がここにも露呈しています。
 「昨日」は話者の居る「今日」との関係を表す<関係詞>いわゆる<代名詞>か、この関係を実体的にとらえた<名詞>です。≪「*昨日は雨が降るヨウダッタ」は非文≫と感じるのは、《時の副詞は「雨が降る」の部分と関わっており、「ヨウダ」とは関わっていない。》からではありません。「非文」などという曖昧な概念で感覚的な正非を唱えてもなんら説明にはなりません。
 「昨日は雨が降るヨウナ気配だった。」と比況の意味で使用すれば正しい文です。ここでは、「雨が降る」は<動詞>の連用形です。しかし、「昨日は雨が降るヨウだった。」は推量の意味にとるしかありません。この場合、最初の「昨日」という関係表現により、話者は昨日という過去に観念的に移動し、現在として対峙し「雨が降る」と断定した後に更に「ヨウ」と推量するため論理的な不整合を感じことになります。「c」の「明日は雨が降るヨウダ。」は、話者は観念的に明日という未来に観念的に移動し「雨が降る」と判断し、その後現在に戻り、「ヨウダ」と推定しています。これは、ごく普通の未来形でしかありません。
 「(50) a.昨日は雨が降ったヨウダ。」の場合は話者が現在の立場から何らかの徴候により、昨日の「雨が降る」という事態を追想している文で、これも通常の表現です。この場合、話者は「昨日」で過去に対峙し、「雨が降る」と判断した後に、現在に戻り「た」と追想しています。形式主義では、このような話者の観念的な自己分裂という認識の運動を理解できず、時制の本質を解明できません。
 「非文」という曖昧なプラグマティックな用語で機能的な解釈をするしかなくなります。結局、ソシュール的な言語実体観、煉瓦的構成観が根底にある誤りで、そこから生まれた、命題やモダリティーという屈折語文法の用語を借り、膠着語である日本語を解釈しようとする誤りでしかないことが判ります。■
  
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2017年03月16日

助動詞「だ」について(26)

                                        杉村泰「ヨウダとソウダの主観性」
                             〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
 「そう」の捉え方 [1] 
 
 <代名詞>「ソ」+意志・推量・勧誘の<助動詞>「ウ」の使用方法をみてみましょう。
 良く使うのは応答の時で、「はい、そうです。」と答えます。このときの「そ」は相手の質問自体を指し、それに対して意志、つまり同意の意を述べています。これは、一般には<副詞>とされていますが、「なるほど、そうだ。」「そうしよう。」「そうか!」等、用言に続く形式をとらえ<副詞>と名付けた形式的なものです。これらは、全て相手の発現を<代名詞>「ソ」と捉えたものです。
 次は、「美味しそう。」「今にも食べそう。」等の<形容詞>の語幹、<動詞>の連用形に接続する使用法で、時枝が<接尾語>としたものです。これは、「美味しそうだ。」「今にも食べそうだ。」と、判断辞「だ」が付加され、話者の確信が示されます。例文に挙げられている、
  (36) やさしそうな表情は女たちの流行。(中島みゆき『誘惑』)
  (37) 崩れそうな強がりは男たちの流行。(中島みゆき『誘惑』)
  (38) 人々はみな髪を光にすかして幸福そうにすれ違ってゆく。(吉本ばなな『ムー ンライト・シャ
      ドウ』)
  (39) 夫は煙草をくわえて煙を吐き、目をけむたそうにしかめた。(松本清張『ゼロ の焦点』)
等、この論考で連用形について「兆候や様相の現れ」を表すものと呼んでいるものです。この場合、<代名詞>「ソ」で指定しているのは、<形容詞>の語幹、<動詞>の連用形が意味している属性そのものです。そして、それに対してその属性を断定する根拠をもたないため推量の<助動詞>「ウ」を続けて、更に判断辞の連体形「な」や<格助詞<「に」を続け比況の意味を表しています。これに対し、
  (43) これで横綱への夢もどうやら実現しそうです。(総合「大相撲夏場所千秋楽」1999.5.23)
  (44) 私はびっくりして目を見開いてしまった。かなり歳は上そうだったが、その人は本当に美しかった。
      (吉本ばなな『キッチン』)
  (45)「教習所ここにしようかと思って家からも近いし設備もよさそうだし」(臼井儀人『クレヨンしんちゃん④』)
では推量の<助動詞>「ウ」の後に肯定判断の<助動詞>「だ」「です」が続き「推定」を強調しています。
 さらに、「雨が降るそうだ。」「これは貴重な写真だそうだ。」のような、終止形に続く場合は、<代名詞>「ソ」が指定しているのは「雨が降る」「これは貴重な写真だ」という、句そのものです。時枝の入れ子型で示せば、[雨が降るそう]だ。]と、前の属性表現の<動詞><形容詞>そのものではなく、句全体を「そ」で指定しています。この場合は比況/推量ではなく、伝聞になります。この時、「雨が降る」と言っているのは話者から自己分裂した観念的自己で、そう言った人になり変っています。そして、「そ」と言う時に現実の自己に戻り、<助動詞>「う」で当然・適当の意を表しているわけです。比況の表現の場合にはこのような観念的な自己分裂は発生していません。この時の<助動詞>「ウ」は「はい、そうです。」と同じように意志、同定の意義で使用されています。
 このように見てくれば、「そう」が表現する「意義」が「う」の多義に対応し一貫していることが明かになります。
そして、杉村論稿の次の記述が明かに誤りであることが判ります。一つは、
本研究では、「ソウダ」は前接する動詞や形容詞と一体となって、それ全体で一つの形容動詞として機能すると考える。
と言うところです。「前接する動詞や形容詞と一体となって」というのは、「そ」が属性を捉えるために<形容詞>の語幹、<動詞>の連用形に続いていることを指していますが、「それ全体で一つの形容動詞として機能する」というのは、全く意味不明です。これは、「そうな」「そうだ」の「な」「だ」を「そうだ」の活用と捉え、活用の形式から判断しているに過ぎません。そもそも<形容動詞>の「機能」とは何であるのかを明確にし、それを生む「本質」を明かにしなければなりませんが、それはなされておらず、しょせん無理というしかありません。さらに、続けて、
 「ソウダ」は兆候や様相の現れを表す形容動詞であり、決して推量表現ではない。その証拠に、単に眼前の様相を述べる文では推量の意味が入らない。……
 推量の意味が感じられるのは、未実現・未確認の事態を推測する文脈である。
(43) これで横綱への夢もどうやら実現しそうです。(総合「大相撲夏場所千秋楽」1999.5.23)
(44) 私はびっくりして目を見開いてしまった。かなり歳は上そうだったが、その人は本当に美しかった。(吉本ばなな『キッチン』)
(45)「教習所ここにしようかと思って 家からも近いし設備もよさそうだし」(臼井儀人『クレヨンしんちゃん④』)
しかし、この場合にも「ソウダ」自体は兆候や様相の現れを表すのみで、推量の意味は「横綱が実現しソウ(に思われる)」、「年が上ソウ(に見える)」、「設備がよさソウ(に思う)」のように表現上隠された部分が担っていると考えられる。その証拠に、これらの「ソウダ」は「実現しそうな横綱の夢」、「年が上そうな女」、「設備がよさそうな教習所」のように連体修飾成分になる。
 ここでは、推量の意味を担うのは、《「横綱が実現しソウ(に思われる)」、「年が上ソウ(に見える)」、「設備がよさソウ(に思う)」のように表現上隠された部分》とされてしまいます。これは、牽強付会としかいいようがありません。明かに、論理的破綻を示しています。そして、《これらの「ソウダ」は、……連体修飾成分になる。》といってみたところで、単に言い替えでしかなく何の論証にもなっていません。「推量」という主体的表現を隠された、「見える」や「思う」という客体的表現に担わせることなど全く論理性を欠いています。
 ここには、現代日本語学が意味と意義の相違を理解出来ない欠陥、その根底にはソシュールのラングを言語とする根本的錯誤が露呈しているのが明かです。その結果、品詞分類の根拠を示すこともできず、肯定判断の<助動詞>「だ」を形式的にとらえ、形容動詞という品詞を唱え、「だ」を活用と見做す混乱に陥るしかありません。
 形式主義、機能主義的な言語観の欠陥が露わです。■
  
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2017年03月05日

助動詞「だ」について(25)

                                                     杉村泰「ヨウダとソウダの主観性」                                            〔『名古屋大学言語文化論集』第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕

   <助動詞>「だ」の捉え方(12)

 本ブログを諸般の事情から丸一年間以上お休みをいただきましたが、再開させていただきたいと思います。
 休止した理由の一つに、判断辞「だ」が助動詞であるのはこれまで論じてきたように問題ないのですが、ここで扱っている「ヨウ」と「ソウ」の本質的な相違がどこにあるのか、特に「ソウ」をどのように捉えれば良いのか今一不明な点がありました。これを明かにしないと、杉村稿が注で、

1)「ヨウダ」には「比況」、「推量判断」、「例示」、「婉曲」などの用法があるが、特に断わらない限り、本研究では「推量判断」の場合を指すことにする。
2)「ソウダ」には「雨が降りソウダ」のように連用形について「兆候や様相の現れ」を表すものと、「雨が降るソウダ」のように終止形について「伝聞」を表すものとがある。このうち本研究では「兆候や様相の現れ」を表す「ソウダ」について考察する。
と記していることの妥当性がはっきりしません。恣意的に都合の良い所だけを論じているのか、全く別の意義と考え論じて良いのか、この中だけでは判断できません。その点を明かにすることにより、論考の誤りも明確になるのではと思われます。この点が、ほぼ明らかになったので以下論じてみたいと思います。
 杉村稿では、
 推量判断の「ヨウダ」がモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」は命題として機能することが明らかとなった。ただし、厳密には「ソウ」の部分と「ダ」の部分では主観性に違いが見られる。
と結論しているわけですが、「ヨウ」と「ソウ」の本質が明確にできないため機能を論じ、<「ソウダ」は命題として機能する>と意味不明なことを述べているわけです。「ヨウダ」ではなく、「ヨウ」が推量であることをこれまで論じてきたところです。そして、「ソウ」は結論からいえば<代名詞>「ソ」+意志・推量・勧誘の<助動詞>「ウ」です。「ソウダ」は、この「ソウ」+断定の<助動詞>の終止形「だ」です。現在、辞書や国語文法では「ソウダ」一語で<助動詞>とし、注2)に記しているように、様態と伝聞に区分しており、この論考では、様態だけを扱っているわけです。これでは、様態と伝聞の関連が不明になってしまいますが、これは語の意義と句、文の意味との相違、関連が捉えられない現代日本語文法の欠陥であり、このため、「ヨウダ」「ソウダ」を一語の助動詞として扱い、本稿の結論、
 5.まとめ
 以上の考察の結果、推量判断の「ヨウダ」がモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」は命題として機能することが明らかとなった。ただし、厳密には「ソウ」の部分と「ダ」の部分では主観性に違いが見られる。このことを「雨が降りソウダ」を例に説明しよう。「雨が降りソウダ」を「雨が降りソウナ気配ダ」に置き換えた場合、「ソウ(ナ)」の部分は客観的な連体修飾成分となり、「ダ」の部分は話し手の確言的な判断を表す。したがって、「ソウ」の部分は命題として機能し、「ダ」の部分はモダリティとして機能することになる。
となります。機能を比較し、良く分からない結論を導く結果になります。これでは、伝聞との関係はどうなのかは明らかになりません。「ソウダ」では、なく「ソウ」の意義が何なのかを解明しなければなりません。これは「ヨウ」も同様で、これまで論じたところです。三浦は、<時枝文法では「そう」も<接尾語>に入れているが正当な扱いかたである。>と述べています。現在の慣用として、<助動詞>ではなく、<接尾語>とするのは理解できますが、こうしてしまうと様態と伝聞の関係は良く分らなくなってしまいます。
 (21)で記したように、「日本語の膠着語が裸体的に単純な概念を表し、これらを粘着的に連結していくのだという本質」から考えれば、「ソウ」も<代名詞>「ソ」+助動詞意志・推量・勧誘の<助動詞>「ウ」であることが判ります。この「ウ」は、金田一晴彦が「不変化助動詞の本質」[国語国文 22(3), 149-169, 1953-03 ]で文末にしか使用されない辞としての助動詞としたものです。この関連は後に述べるとして、「ソウ」の様態と伝聞の関係を次に見てみましょう。■

  
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2015年12月31日

助動詞「だ」について(24)

〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(11)

 これまでの検討に基づき、論文「ヨウダとソウダの主観性」の論理性を見てみましょう。

 題名が示しているように「ヨウダ」と「ソウダ」を各1語とし、その主観性の相違を明らかにしようとしています。そして、註に記されている通り「ヨウダ」の推量判断の用法と「ソウダ」の「兆候や様相の現れ」の用法が比較されています。本来は両者の各々の意義と品詞について明かにすべきと考えますが、ここではモダリティ論により主観性の検討がされているためにこのような扱いとなっています。 そして<助動詞「だ」について(17>で見たように次のように結論されます。

 しかし、「ソウ」と「ベキ」は客観的な命題として機能していると考えたほうがよい。その証拠に「ニチガイナイ」と「ヨウ」が疑問の対象とならないのに対し、「ソウ」と「ベキ」は疑問の対象となる。疑問の対象となるということは、「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表していることを示している。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

   b.*[太郎が来るヨウ]かどうかを考える。

   c. [太郎が来ソウ]かどうかを考える。  

   d.  [太郎が来るベキ]かどうかを考える。

 こうした事実により、「ニチガイナイ」と「ヨウダ」がそれ全体でモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」と「ベキダ」は「ダ」の部分のみモダリティとして機能し、「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能することが明らかとなる。

ここでは、語の意義ではなく句の機能が論じられているため≪「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表している≫とされますが、その本質が明確ではありません。これまでの検討からすれば、「ダ」はいずれも肯定判断を表す<指定の助動詞>と捉えられねばなりません。「ヨウダ」の推量判断の用法と「ソウダ」の「兆候や様相の現れ」の用法に主観性の差異があること自体は確かですが、それは「ヨウ」「ソウ」という形式と意義の組み合わせの相違として、その言語規範としての内容が明らかにされねばなりません。上記例文でも「ヨウか」「ソウか」と活用ではなく、「ヨウ」「ソウ」に助詞が接続しており、2語となっています。日本語の膠着語としての本質が理解されていないと言えます。

 これは、依拠した主観的モダリティ論の欠陥と考えられます。言語道具説である記述文法では文の本質を明らかにすることなく、文を形式的に次の平面的な構造に単純化し、

    【〔〔命 題〕 命題態度のモダリティ〕 発話態度のモダリティ】

           図3 文の構造

一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる

とするしかなく、言語の実体論的捉え方の限界を示していると言えます。

 命題とは論理学の用語であり、「AはBである。」という真偽が対象となる特殊な文の形式を指しています。その論理学自体、現在まで文とは何か、意味とは何かが明かに出来ず問題となっています。この命題を文の定義に形式的に取り込むのは単に論理の混乱を招くしかありません。この論文では、最初に指摘した通り、≪[[[雨]だ]よ]。≫という文に対し、≪これらは「雨(である)コト」という事態に対して、話し手が確言(「だ」)の判断を下したもの≫で、≪発話態度のモダリティに相当するのは「よ」の部分≫とし、≪「雨だ」、という判断を、話し手から聞き手への情報提供(「よ」)として伝える機能がある≫としています。そして、≪これらの表現は、話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能するのである。≫と論じています。

 しかし、名詞「雨」は規範としての実体概念であるに過ぎず、これを文から分離して≪「雨(である)コト」という事態≫とすることはできません。こうなるのは、文を命題とモダリティに二分し、「雨」を命題とし、「だ」「よ」をモダリティとした論理的必然です。事実は、「雨」という客体的表現と「だ」という主体的表現が話者の認識に基づいて組み合わされ、表現されて初めて「雨だ。」という文、命題となります。「雨!」という一語文の場合もありますが、この場合は「雨■!」と判断辞が零記号となっています。言語道具説では話者の認識の言語規範を媒介とした表現という言語表現の立体的構造を捉えることが出来ずこのような矛盾をかかえこむこととなります。

 これが明白に露呈しているのは、3.2の次の部分です。

 一方、(23b)に示されるように、推量判断の「ヨウダ」は一般に連体修飾成分とはならない。しかし、次のような場合には連体修飾成分となるので注意が必要である。

(24) 禎子は、本多良雄が夫について、もっと何か知っているような直感がした。(松本清張『ゼロの焦点』)

(25)「いや、つまらんところです。年じゅう、暗いような感じがして重苦しい所で」(松本清張『ゼロの焦点』)

(26) もっとも、その直後に数百年に一度の大震災が襲ってきたというのは、あまりにも偶然がすぎるような気もするが。(貴志祐介『十三番目の人格-ISOLA-』)

(27) 今年のクリスマスは雪が降るヨウナ予感がする。

これらに共通するのは、「ヨウダ」の後に「直感/感じ/気/予感」という話し手の直感的な感覚を表す表現が続く点である。この「ヨウダ」は、(24)のように第三者の心的態度を表したり、(25)のように連体修飾成分となる場合には、客観的表現であることが明確である。しかし、(26)の「気がする」や(27)の「予感がする」のように、「発話時における話し手の心的態度」を表す場合には、「~ヨウナ直感がする/感じがする/気がする/予感がする」全体がモダリティとして機能する。推量判断の「ヨウダ」は、こうした表現が短縮されて「ヨウダ」一語で表されるようになったものであると考えられる。(強調は引用者)

 連体修飾成分という捉え方自体が形式主義にすぎませんが、これまでみてきたように「ヨウダ」が一語で推量判断を表すのではなく、「ヨウ」が推量判断を表し、「だ」は「ヨウ」によって推量されるその内容を肯定判断しています。これらの例文では「だ」は「な」と連体形に活用し、続く「直感/感じ/気/予感」という名詞の内容を表しています。時枝のいう入れ子形の立体的表現であり、≪こうした表現が短縮されて「ヨウダ」一語で表されるようになったもの≫などというのは正しい文の構造の解明ではありません。また、「ヨウ思われる」、「ヨウよ。」などと助詞や終助詞に接続する場合もあり、推量を表しているのは「ヨウ」なのです。

 このように、主観的という感覚的な捉え方を屈折語言語論の発想による主観的モダリティ論によって論証しようとしても日本語の膠着語としての本質を論理的に解明することはできません。■

  
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2015年12月24日

助動詞「だ」について(23)

   杉村泰「ヨウダとソウダの主観性
〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕

      <助動詞>「だ」の捉え方(10)

  時枝が「そこには明かに陳述性が認められる」とする<助動詞>「だ」の連用形「と」と「に」を検討しましょう。次の用例が掲げられています。

  月明か、風涼し。(中止の場合、文語だけに用ゐられる)

  元気、愉快、働いてゐる。(連用修飾的陳述を表す)

  隊伍整然行進する。(連用修飾的陳述を表す)

  花が雪散ってゐる。(右に同じ)

  「今日は行かない」云ってゐた。(右に同じ)

  野なく、山なくかけまはる。

 これについても、先の三浦つとむ『日本語の文法』の「第八章 <助動詞>の特徴をめぐる諸問題」の「二 時枝文法の<助動詞>論の特徴と問題点」で論じられています。時枝の活用に対する理解の誤りを指摘していますので以下に当該部分を引用します。

 まず、「明か」「元気」「整然」などの語は属性表現ではあるが活用をもたないから、そのままでは文の終止に使えないわけであり、それゆえ<助詞>+<助動詞>と重ねた「に」「あり」→「なり」や「と」「あり」→「たり」を加え、「明かなり」「元気なり」「整然たり」と表現して来たことは周知のとおりである。この場合も、「に」「と」は依然<助動詞>であって、その下に重ねられる<助動詞>が零記号化しているもの、たとえば「月明か(して)、風涼し。」「元気て)、愉快て)、働いてゐる。」「隊伍整然て)行進する。」のような省略があって、<形式動詞>から転成した<助動詞>「し」が表現されずにあるもの、と受けとるのが妥当である。「に」「と」それ自体が判断を示すのではなくて、その下に零記号の判断辞が存在するのである。註の中では、「一つして上手に出来たものがない。」という例を上げているが、これこそ「と」ではなく下の「し」のほうが判断の表現である。つぎに「花が雪散ってゐる。」は、文字どおりに受けとってはならないところに注意しなければならない。「雪」は比喩であって、散りかたをそのまま<情態副詞>で表現するなら、「花がサラサラ散ってゐる。」のようになろう。属性の立体的な表現であって、「雪」の実体は直接の関係を持たず、雪の属性をダブルイメージにして花の散りかたを想像させているのである。それゆえ「雪」は「サラサラ」と同様に<格助詞>以外の何ものでもない。「雪」を<名詞>として文字どおりに受けとると、その下に判断が存在してそれが「と」であるかのような錯覚が生まれる。

  野なく、山なくかけまはる。

 ここでの「ない」は<打ち消しの助動詞>であるから、さきにも述べたように肯定判断の<助動詞>に伴って使われるべきものである。その肯定判断が「あらず」のように表現されないで、零記号になっているために、「と」それ自体が肯定判断であるかのように錯覚するのである。

 ここでの註に、谷崎潤一郎の『細雪』が、「……と思ってゐた。、ちょうどその時分、……」のかたちで「と」を使っているのを、やはり<助動詞>の例にあげているけれども、久保田万太郎の『春泥』や『市井人』が節の変わり目のところで、

  、立てるものは立て、押へるものは押へる由良の律儀さは以前とすこしもかはらなかった。
      ―――――――――――
  、その年もいよゝゝ終わろうといふ十二月の末になって、突然、萍人から、切手をペタゝゝ
貼った、厚い、カナ

  リの重みをもつた封書が速達でとゞきました。

のように表現していることも、考えてみる必要がある。これらは、すべて前の文ないし前の節の文と、後の文ないしこの節の文との思想と思想とを結合するために使われる語であって、<接続助詞>にほかならない。通常の表現では、「が」の場合には前の文の思想を判断辞の「だ」で受けとめて「が」のかたちで使うし、「と」の場合にも前の文の思想を<形式動詞>から転成した判断辞「する」で受けとめて「すると」の形で使っている。『細雪』の場合は、この判断辞が省略されているから、時枝は「と」それ自体が判断を表現したものと錯覚したのであろう。

  「今日は行かない」云ってゐた。

の場合には、表現それ自体を単に一つの対象として扱って、云ったことばを忠実に示すものである。別のいいかたをすれば、音声それ自体の複写としての括弧内のことばである。それゆえ本質的には「ブクブク沈んでいった。」のような、<擬声語>に加えられる「と」と同じであって、山田もいうように<格助詞>である。

 <助動詞>には語形変化すなわち活用が存在するが、これも<動詞>の活用と同様に、それに結びつく語のいかんによって決定されるもので、内容と関係のない形式だけの変化である。けれども時枝は<動詞>の活用を判断辞の機能に相当するものと解釈しているので<助動詞>の活用だけを異質なものとして扱うわけにはいかなかった。「助動詞は、話手の立場の中、何等かの陳述を表現するものであり、そのことのために、助動詞は、多くの場合に活用を持つことになるのである。」と、結びつく語との関係ではなく<助動詞>それ自体の判断表現の内容から生まれたものであるかのように、こじつけたのである。

これで、<助動詞>「だ」の活用も明確になりましたので、この点も含め杉村論文の論理性を見直してみましょう。■

  
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2015年12月19日

助動詞「だ」について(22)

             杉村泰「ヨウダとソウダの主観性

〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
   <助動詞>「だ」の捉え方(9)

 前回は国語文法(学校文法)の<助動詞>「だ」の活用を見ましたが、言語過程説を唱えた時枝誠記の「だ」の活用を見てみましょう。『日本文法 口語篇』(岩波全書,初版1950,改版1978)の「四  辞」の助動詞に「(一)指定の助動詞 だ」として次の表が掲げられ説明されています。

   

 語\活用形 

  未然形

 連用形

終止形

 連體形

假定形

命令形

  だ

  で

 と  に  で

  だ

 の  

  なら

  ○


  
  
   
     
  指定の助動詞は、話手の單純な肯定判断を表す語である。この中に、「に」と「と」「の」は、従来助詞として取扱われてゐたものであるが、下に舉げる例によって知られるように、そこには明かに陳述性が認められるので、これを助動詞と認めるのが正しいであろう。また、右の表に掲げた各活用形は、その起源に於いては、それぞれ異なった體系に屬する語であったであろうが、今日に於いては一つの体系として用ゐられるやうになったものである。本書に於いては、形容動詞を立てないから、従来形容動詞の語尾と考えられてゐた「だら」「だつ」「で」「に」「だ」「な」「なら」は、そのまま、或いは分析されて、すべて右の活用形に所屬させることが出来る。

 形容動詞についての説明は、これまで説いてきたところですが他にも相違があります。この相違について検討しておきましょう。未然形の「で」については、「であろう」の結合した「だろう」を別に推量の助動詞として取扱っているため<動詞>未然形の「ない」に接続する「で」を挙げています。問題は連用形の「と、に」と連體形の「の」です。

まず連體形の「の」ですが、杉村論文では、「推量判断の「ヨウダ」は一般に連体修飾成分とはならない。しかし、次のような場合には連体修飾成分となるので注意が必要である。」として、「(24) 禎子は、本多良雄が夫について、もっと何か知っているような直感がした。(松本清張『ゼロの焦点』)」他の例文を挙げています。ここでは、「ヨウダ」の活用として扱われているわけですが、この「な」と「の」を同列に扱っていることになります。通説では「の」は<格助詞>です。時枝は例文、「僅か御禮しか出來ない。」を記し、次のように注しています。

「な」「の」は屢〃共通して用ゐられるが、語によって、「な」の附く場合と「の」の附く場合とがある。「駄目の」「僅かな」とも云うことが出来るが、「突然」「焦眉」「混濁」等には「の」がつき、「親切」「孤独」「あやふや」等には、大體に「な」がつくようである。

この「の」の扱いについて吉田金彦『現代語助動詞の史的研究』(19714月初版,『吉田金彦著作選7 現代語の助動詞』所収)は次のように指摘しています。

 「の」も時枝説によって最近助動詞に入れられたもので、『日本文法口語篇』ではその連体形の所に掲げられてある(一八五頁)。しかし、助動詞「の」は問題があって『日本文法文語篇』などに至って、主語格以外の「の」をすべて指定の助動詞と拡大したことには、これが行き過ぎだという大きな批判がある。(青木玲子「問題となる助詞」『講座日本語の文法』三巻一六〇頁)。筆者も単なる接続機能的観点からのみで、主格以外のすべての「の」を指定の助動詞とすることには問題があると思う。所有・所属の意味を表すものが助詞であり、属性・指定の意味を表すものは助動詞である(拙稿「現代文における『の』の意味・用法」『月刊文法』19709月)

 このように国文学者からは批判されています。ここで言われている、「属性・指定の意味を表すものは助動詞」というのも誤りなのですが。三浦つとむ『日本語の文法』は、「第四章 単語の活動状態としての<名詞>への転成―<転成体言>の問題」の「三 時枝文法の「の」<助動詞>説の吟味」で青木玲子の否定論を取り上げ、「私の結論もやはり否定論であるが、ここにはただ否定するだけではすまない問題がふくまれていて、時枝が<体言>や<用言>の内容の特殊性に立ち入ることをしないで形式的に扱っていることや、<転成体言>の問題を積極的にとりあげようとしないこととの結びつきを考えなければならない。」として検討しています。そして、上の時枝の注について次のように誤りを結論しています。

  いま引用した、「な」と「の」の使い方についての時枝の説明を、この観点(<用言>から<体言>への転成は、<用言>の活用の形式いかんと直接の関係をもっていない:引用者注)から説明してみると、同じ「親切」という語でも、「親切友人」という場合には属性表現の語であろうが、「親切押し売り」という場合には属性を実体的にとらえた表現ではなかろうか、と思われてくる。「僅か光がさした。」という場合には<副詞>で属性表現の語であろうが、「僅かお礼しか出来ない。」という場合には属性を実体的にとらえた<名詞>ではなかろうかと思われてくる。それならここでの「の」も<助動詞>ではなく、<格助詞>である

 このように話者の認識をもとに慎重に語性を検討しないと、特に助動詞では論理を踏み外し易いのです。連用形の「と、に」についても検討してみましょう。■

  
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2015年12月13日

助動詞「だ」について(21)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
  <助動詞>「だ」の捉え方(8

 これまで見てきたように、肯定判断の<助動詞>「だ」の本質を正しく理解することが重要なのですが、「だ」の活用が学校文法でどのように捉えられているのかを見ましょう。次のようになっています。

   未然形  連用形   終止形  連体形   仮定形

   だろ   だっ・で              (な)           なら

となっています。この「な」「なら」は前回指摘したように、「にあり」が「なり」となり、「なる」から「な」となったもので、「にてあり」→「であり」→「であ(じゃ)」→だ

                   → 「である」

の変化から「だ」となったのと転成の系列が異なりますが共に判断の<助動詞>となっています。活用をもたない「綺麗」「荘厳」等の詳細な属性を表す漢語を「綺麗な」「荘厳な」と日本語に形容詞として取り込むために「な」が使われたのです。これを助動詞の<活用>ではなく、属性表現の漢語自体の活用と見なすところに<形容動詞>という誤った品詞が生みだされました。このことは、膠着語である日本語が裸体的に単純な概念を表し、これらを粘着的に連結していくのだという本質の理解を誤っています。

「綺麗ならば」という連帯形「なら」が方言では「だば」と使用されるのも理にかなっていることが分かります。そして、「ような」「そうな」という使用法からも「よう」「そう」が一語であることを示しています。

この事実を、国語学者はどのように理解しているのでしょうか。一例として、『北原保雄の日本語セミナー』(大修館書店、2006810)を覗いてみます。

Q8「だろう」は連語か助動詞か?という次のような質問が掲げられています。

  明日は晴れるだろう

の「だろう」は一語の助動詞と見るべきものでしょうか。それとも「だろ」に「う」がついたものとみるべきでしょうか。ご教示ください。

 これに対し著者は次のように答えています。

 A:お尋ねのように、「だろう」については、これを一語の助動詞と見る考えと、断定の助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」の下接した連語とみる考えとがあります。「だろう」には例にあげられた、

 (1)明日は晴れるだろう

のように動詞に下接するもののほか、

 (2)北国の冬は寒いだろう

のように、形容詞に下接するもの、

 (3)彼はまだ学生だろう

 (4)それはまたどうしてだろう

などのように、名詞や副詞に下接するものもあります。また、

 (5)海は静かだろう

のように、形容動詞の未然形に推量の助動詞「う」の下接した「だろう」も同じ意味を表します。

 断定の助動詞「だ」は、

 (6)彼はまだ学生

 (7)それはまたどうして

などのように、名詞や副詞などに下接します。ですから、(3)や(4)の「だろう」は、断定の助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」が下接したものと見ることができます。

 しかし、一方、断定の助動詞「だ」は、動詞や形容詞には下接することができません。

 (8)明日は晴れる

 (9)北国の冬は寒い

などとは、少なくとも共通語では言えません。つまり、動詞や形容詞には、「だ」は下接することはできませんが、「だろう」は下接することができるのです。ですから、(1)や(2)の「だろう」は、断定の助動詞「だ」の未然形とは簡単に言えません。接続の仕方という点を重視すれば、動詞や形容詞に下接する「だろう」は、(もともとは「だろ」+「う」ではありますが)、「だ」とは違った接続の仕方をするのですから、一語の助動詞だとする見方にも十分理があります。

 「ヨウダとソウダの主観性」の論者はこの国文法の誤りを無批判に受け継ぎ、さらに生成文法の非文という主観的、プラグマテイックな判定法を取り入れ論を展開しているのが明らかです。

 ここでは、

明日は晴れます。  北国の冬は寒いです

と敬辞化すれば、断定の助動詞の丁寧形が現れ、推量の場合も

  明日は晴れるしょう。  北国の春は寒いしょう。

と 明日は晴れる■。   北国の冬は寒い■。

と肯定判断が零記号となることが規範化している、つまり文法化していることが理解されていません。このような論理性を無視し、「やはり文法では形式を重視すべきではないかと考えます。」と話者の認識と語の本質ではなく、形式主義的な見方で判断しています。また、形容動詞を例に挙げている誤りも先に指摘した通りです。■

  
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2015年12月09日

助動詞「だ」について(19)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕

   <助動詞>「だ」の捉え方(6)

  「2.主観性 2.1 命題とモダリティ」の最後に次のように記されています。
 ここで注意しておきたいのは、(3)で空から落ちてくる水滴を「みぞれ」や「雪」ではなく「雨」と捉えたり、(4)で雨の激しさを「相当」や「ずいぶん」ではなく「かなり」と捉えたりするのも、話し手の主観によると言えなくもないということである。しかし、これらの表現は話し手が客体世界の事態として切り取ったものであるため、本研究では客観的な成分であると考える

 ここでは「雨」や「かなり」が「話し手が客体世界の事態として切り取ったもの」で「客観的な成分」とされていますが、これは言語規範としての語の辞書的な意味、つまり語彙と話者の認識の表現としての文の中での語の意味の関連と相違が正しく理解されていないことを明かしています。

 前回も指摘した通り、「雨だよ。」の「雨」と「だ」を切り離し、「雨」を命題としてしまうのも同様の誤りです。そもそも文の本質が解明できないために、文を「命題とモダリティ」の煉瓦的な積み重ね、つまり機械的な集まりと見なすことになってしまっています。命題とは論理学での用語であり、大辞林第三版では、「〘論〙 判断を言語的に表現したもの。論理学では真偽を問いうる有意味な文をさす。また,その文が表現する意味内容をさす場合もある。」となっています。つまり、命題は文の一形態であり、特殊な文を指しています。従って、判断が表現されていなければ文でも、命題でもないことになります。

「雨!」が一語文であるのは、「雨■!」と、表現されていない肯定判断との組み合わせにより一語文となるのであり、「客観的な成分」である「雨」は言語規範としての辞書的な意味の語でしかありません。この表現されていない肯定判断が表現されたのが、「雨だよ。」の<助動詞>「だ」であり、これを「雨」と「だ」に各々分離して命題とすることはできません。ここでは、辞書的な語の語彙と文に表現された語の意味が理解できずに同一平面上に並べられています。

 このように、文の本質が理解できずに語、文と、語の意義と文の意味の関連と相違が理解されていないため、文を「命題とモダリティ」に分解するしかなくなります。これまで見てきたように、語とは何か、品詞分類の基準と定義も解明できないため、「モダリティ」自体が、語の意義であるのか、句、文での意味なのかが曖昧なまま論じられています。それ故、「22 命題とモダリティの分類基準」でも、機能的な基準が示されます。

  モダリティは発話時点における話し手の心的態度を表すため、それ自体は真偽の対象とならず、連体修飾成分にもならず、過去文の対象にもならないという性質をもつ。一方、命題にはこうした制限が加わらない。

 そして、これが「主観性判定テスト」なる正に主観的な非文か否かという基準で判断されることになります。この「主観性判定テスト」の結果、 
「雨だよ」という表現のうち「雨」の部分は命題に属し、「だ」と「よ」の部分はモダリティに属すことが確認された。

と、「雨」の部分が「命題に属し」ているとして「雨」と「だ」が機械的に分離されることになります。先にも見たように、「雨だ。」は客体的表現である「雨」と主体的表現である「だ」が話者の認識により累加されて表現されたところに成立するのであり、命題とモダリティとは次元を異にしています。

これまで、論じてきたように「だ」は、主体的表現の肯定判断を表す単語であり、語のもっとも基本的な区分はこの主体的表現と客体的表現にあるのですから、モダリティ(法性)は主体的表現の語について論じられなければならないことになります。というより、語の本質的な区分が出来ないために「主観表現論的モダリティ論」と呼ばれる中途半端な概念が提起されることになったと言えます。そして、「(9) 雨だろうか。」についても次のような解釈が示されます。

 しかし、この表現で疑問の対象となっているのは、「~だろう」の部分ではなく「雨」の部分である。その証拠に「雨」と「雪」を対比した文は成り立つが、「~だろう」と「~φ(無形の確言形)」を対比した文は非文となる。

10) 雨だろうか、雪だろうか。

11)*雨だろうか、雨か。

「~だろう」はこれまで何度も指摘してきたように<助動詞>「だ」の未然形「だろ」+<推量の助動詞>「う」で、肯定と推量という各々まったく異なった認識を表しています。これを一緒くたにして、「~だろう」と「~φ(無形の確言形)」を対比するという誤りを犯しています。「~φ(無形の確言形)」とは零記号の判断辞でなければならず、比較するのであれば、「雨だか、雨■か。」でなければなりませんが、そもそもこのような「主観性判定テスト」自体に意味があるとは思えません。■

  
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2015年11月25日

助動詞「だ」について(18)

 
〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(5)

 標記論考の「2.主観性 21 命題とモダリティ」を見てみましょう。

 主観性ということばは多義に使われるが、本研究では、モダリティ論における話し手の心的態度の現れについて用いることにする。モダリティ論によると、一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる。「モダリティ」はさらに、話し手による客体世界の把握の仕方と関わる「命題態度のモダリティ」と、話し手の発話態度と関わる「発話態度のモダリティ」とに分けられる。図3は発話態度のモダリティの中に命題態度のモダリティが埋め込まれ、さらにその中に命題が埋め込まれる様子を示している。

    【〔〔命 題〕 命題態度のモダリティ〕 発話態度のモダリティ】

           図3 文の構造

 文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つとされます。しかし、文とは時枝が明らかにしたように、客体的表現と主体的表現の組み合わせが入れ子型になり、一纏まりの思想を表現したものです。「起立。」「暖かい。」などは一語文と呼ばれています。この入れ子型構造は主体的表現による話者の観念的移行を伴った複雑な一体としての立体的構造をなしています。ここで言われる命題自体が、話者の心的態度である主体的表現なしには成立しませんし、客体的世界の認識を客体的表現と主体的表現の個々の語に分解し、再度組み立てる心的態度なしには表現はありえません。ここに定義された文の構造は、立体的な構造をもった構築物である文を線状に単純化し、命題、命題態度のモダリティ、発話態度のモダリティに形式化したものといわなければなりません。ここから、展開される具体例をみましょう。

 このことを具体的な表現で説明する。

(3)[[[雨]だ]よ]。

(4)[[[かなり雨が降る]だろう]ね]。

例文(3)(4)で命題に相当するのは「雨(である)コト」と「激しい雨が降るコト」の部分である。これらは話し手の存在とは独立に客体世界に存在するものであるため、客観的な命題として機能する。これに対し、モダリティに相当するのは「だ」、「よ」、「だろう」、「ね」の部分である。このうち命題態度のモダリティに相当するのは「だ」と「だろう」の部分である。これらは「雨(である)コト」、「かなり雨が降るコト」という事態に対して、話し手が確言(「だ」)や概言(「だろう」)の判断を下したものである。一方、発話態度のモダリティに相当するのは「よ」と「ね」の部分である。これらは「雨だ」、「かなり雨が降るだろう」という判断を、話し手から聞き手への情報提供(「よ」)として伝えたり、話し手と聞き手の情報の共有(「ね」)として伝えたりする機能がある。
これらの表現は、話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能するのである。

 ここでもまた、機能が並べたてられていますが、命題に相当するのは「雨(である)コト」というのは、「である」つまり判断時、<助動詞>「だ」の連用形「で」+<助動詞>「ある」を補って解釈しています。これを補っておいて、命題態度のモダリティに相当するのは「だ」というのは、本来、<名詞>「雨」+<助動詞>「だ」であった句を無理やり分離し解釈したものでしかありません。これは、「命題+モダリティ」という解釈のために立体的な句を平面化した形式的な解釈の誤りを示しています。そして、(4)では、「だろう」を「命題態度のモダリティ」としていますが、これは、<助動詞>「だ」の連用形「だろ」+<助動詞>「う」の二語からなる異なった意義をもつ二語で、主体的表現の累加であり、肯定判断+推量という想像の世界から現実世界への話者の観念的移行が表現されています。

 さらに、発話態度のモダリティが「話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能する」などと機能的な解釈を述べていますが、これは言語規範としての主体的表現の語の本質によるものです。■

  
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2015年11月24日

助動詞「だ」について(17)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(4)

 今回は、杉村 泰 稿「ヨウダとソウダの主観性」について検討してみましょう。金田一が提起した主観性が謳われています。「1.はじめに」を見てみましょう。

 一般に日本語の文末表現「ニチガイナイ」、「ヨウダ」、「ソウダ」、「ベキダ」などは、話し手の主観的な態度を表すモダリティ表現であるとされている。

  (1)a.太郎が来るニチガイナイ

   b.太郎が来るヨウダ

   c.太郎が来ソウダ

    d.太郎がくるベキダ

この考えに従うと、(1)の各表現は「太郎が来るコト」という客観的な命題について、話し手が「ニチガイナイ」、「ヨウダ」、「ソウダ」、「ベキダ」という主観的な判断を下したものであるということになる。これを図1に示す。

    【〔太郎が来る〕 ニチガイナイ、ヨウダ、ソウダ、ベキダ】  

           図1 従来考えられてきた文の構造

 しかし、「ソウ」と「ベキ」は客観的な命題として機能していると考えたほうがよい。その証拠に「ニチガイナイ」と「ヨウ」が疑問の対象とならないのに対し、「ソウ」と「ベキ」は疑問の対象となる。疑問の対象となるということは、「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表していることを示している。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

   b.*[太郎が来るヨウ]かどうかを考える。

   c. [太郎が来ソウ]かどうかを考える。   

  d.  [太郎が来るベキ]かどうかを考える。

こうした事実により、「ニチガイナイ」と「ヨウダ」がそれ全体でモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」と「ベキダ」は「ダ」の部分のみモダリティとして機能し、「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能することが明らかとなる。したがって、(1a)と(1b)は「太郎が来るコト」という事態について「ニチガイナイ/ヨウダ」という概言的な判断をした表現であり、(1c)と(1d)は「太郎が来ソウナコト」、「太郎が来るベキコト」について「ダ」という確言的な判断をした表現であるということになる。このことを図2に示す。

      【〔太郎が来る〕 ニチガイナイ、ヨウダ】

      【〔太郎が来ソウ、来ルベキ〕ダ】

         図2 本研究で考える文の構造

 以上の表現のうち、本稿では「ヨウダ」と「ソウダ」の主観性の違いについて考察する。なお、「ニチガイナイ」と「ベキダ」については稿を改めて論じることにする。

 これもまた、機能的な発想の塊で、さらに命題が文の内部構造として提示されモダリティ機能が論じられます。<「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能する>とされますが、これも言語実体観の発想で、本質が無視されています。認識を扱えないとこのようになるしかないのが分かります。<「ダ」という確言的な判断>がどのように位置づけられるかに興味があります。

まず気づくのは、いつもの生成文法のプラグマティクな発想である非文「*」の扱いです。何ら論理的な根拠もなく主観的判断で非文として論拠にする誤りです。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

これは、別に非文ではありません。「太郎が来るに違いないかどうかを考える。」とすれば、さらに明確です。また、「太郎が来るようなのかどうかを考える。」も問題ありません。

そして、主観性の相違により「ヨウダ」はモダリティとして機能し、「ソウダ」は「ソウ」+「ダ」と分離されて、「ソウ」は命題として機能し、「ダ」がモダリティとして機能すると結論づけられます。もっとも、「ヨウダ」が一語なのか、「ソウダ」が二語なのかは触れられていません。

なぜ、このような奇妙な論理が展開され、結論されるのかを辿ってみましょう。■

  
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2015年11月23日

助動詞「だ」について(16)

   <助動詞>「だ」の捉え方(3)

 金田一春彦は昭和305月に研究社から刊行された市河三喜・服部四郎編の『世界言語概説 <下巻>』の日本語の条に「文法」を書いています。この中の、「十一 助動詞」の項を引用します。

 助動詞は、付属語のうちで語形変化をするものの称で、学校文典で助動詞と呼ばれるものは、二十語内外ある。が、服部四郎博士の創唱の基準(1)によれば、その中には、語の一部とは認められぬものが多く入っており、真に、単語と認められるもの、すなわち、助動詞と呼ぶのにふさわしいものは、ダ・ラシイの二語にすぎない。もし、これ以外に加えるとすれば、ダロウを加え得る。また、有坂秀世博士(2)に随って、勉強スル・運動スルなどのスルを加えることも許されよう。また、連語で、一箇の助動詞と同様に用いられるものには、ノダ・ソウダ・ヨウダなどがある。これら助動詞は、それが自立語についた場合、全体が一種の動詞・形容詞のような機能を帯びるもので、橋本博士(3)は、その点から、これらと、助詞のうちの準体詞その他を加えて、準用辞という品詞を立てられた。

 (1)「附属語と附属形式」(前出)に見える。()昭和十四年ごろ筆者に直接もらされたお考え。(3)『国語法研究』七九ページ

 ここでは、橋本文法をベースにアメリカ構造主義言語学の影響を受けた服部説や先に触れた<抽象動詞>である「スル」を加えるなど全く機能的、形式的な見方であることが示されています。一語とは何かについても確たる根拠を有していないことが見て取れます。「ダ」を<助動詞>としながら「ダロ‐ウ」を加えたり、連語としながら「ノ‐ダ」「ソウ‐ダ」「ヨウ‐ダ」に何ら注意を払っていないのにも明らかです。続けて、次のように「ダ」について記しています。

 は名詞につけば、そのものに一致すること、そのものに属することを表し、~ナ型の形容詞の語幹につけば、そういう属性を有すること、そういう状態にあることを表す。ダの用法中、注意すべきものは、長い句を、「意味の上で根幹をなす名詞+ダ」で表現する手法で、「雨ガ降ッテイル!」という文は「雨ダ!」と言い換えることができ、「君ハ何ヲ食ベル?」に対して、「ボクハウナギヲ食ウ」と答える代りに、「ボクハウナギダ」と短く言えるがごときである。(『金田一春彦著作集 第三巻』193195p)

 ここには、金田一の語義解釈の特徴である、「そのものに一致すること、そのものに属することを表し」たり、「そういう属性を有すること、そういう状態にあることを表す」とする理解が明示されています。時枝は先の論文で、この解釈の誤りを次のように指摘しています。

  金田一氏は、私の詞辞の別を、表現される内容に結びつけて考えたがために、辞の表現性を問題とせず、辞が付くところの詞の表現内容を以て、直に辞の性質を考えてしまったのである。……確かに、すべての助詞助動詞は、それが付く詞によって表現される客体的(金田一氏の云ふ客観的)な事実や状態に対応している。それ故に、助動詞は客観的表現であるとするならば、辞はおそらく、すべて客体的な表現である詞に繰り入れられるべきで、特に主体的な辞を区別する根拠を失うに違いないのである。

このように、詞辞という日本語の基本的区分を捉え、助動詞の本質を捉えることなしに機能的、形式主義的な見方をしていては、<助動詞>「だ」が主体的表現で、話者の肯定判断を表す語であるという本質をとらえることなど出来ずに混迷を深めるしかなくなります。「不変化助動詞の本質 ―主観的表現と客観的表現の別について―」という論稿がどの程度のレベルかは、これで明らかかと思います。

また、語の文中での意味と規範としての意義の区分が問題となりますが、時枝は意味論を正しく展開することは出来なかったため、十分な理解を得られなかった面もあります。

この金田一の誤りが渡辺実の構文論や寺村秀夫のシンタクス論に引き継がれ、教科研文法などとも結びついて仁田義雄らのモダリティ論へと混迷を深めて行きます。この誤りは先に挙げた、尾上圭介の「不変化助動詞とは何か―叙法論と主観表現要素論の分岐点」(『国語と国文学』平成二十四年三月号 八十九巻第三号)他の一連の論考にも明確に見られます。さらに、生成文法のHalle and Marantzの「分散形態論」と結びつけて論じられて、もっともらしい論文が展開されています。最近の「ダ」の論文を覗いて見ましょう。■

  
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2015年11月20日

助動詞「だ」について(14)

    <助動詞>「だ」の捉え方(1)

 <助動詞>「だ」が主体的表現で、話者の肯定判断を表す語であり、客体的表現の<動詞>は実体の属性を時間的な変化、運動し、発展するものとして捉え表現するもので全く異なる語であることを見て来ました。

 これは、時枝誠記による言語とは表現の一種であり、表現過程の一形式であるとする言語過程説の提起を唯物弁証法により基礎づけた三浦つとむが助動詞の本質を明らかにすることにより到達した地点です。しかし、時枝の主体的表現と客体的表現という区分は発表当時より種々の疑問や、反対意見が表明され現在も受け入れられてはいません。ソシュールの言語実体観に対する批判自体をソシュール言語学の誤読とする批判が現在も主流を成し、主体的表現と客体的表現という区分も受け入れられてはいません。その現状はたとえば、釘貫亨『「国語学」の形成と水脈 (ひつじ研究叢書(言語編)113)』(2013刊)が、服部四郎によるソシュール批判の『一般言語学講義』に対する看過できない誤解の存在の指摘により「今日その学理性が論議されることがなくなった」と評する情況です。また、フランス文学者の松澤和宏「ソシュールの翻訳と解釈―時枝誠記による『一般言語学講義』批判をめぐる予備的考察―」(名古屋大学大学院文学研究科,2010)が、

 時枝が批判したラングとは『講義』の編著者によってこの根源的二重性が解体され、二項対立に還元された末の一辞項に過ぎず、したがってソシュール的ラングの残骸であったと言ってもけっして過言ではないのである。時枝のソシュール批判を文献学の観点から検討することを通して、言語過程説において概念と聴覚映像を結びつける箇所に本来働いている筈のラングの不在が浮き彫りになると同時に『講義』が遮蔽した言語の二重性が、まさに否定的に浮かびあがってくるのである。

 と記すように、言語規範としてのラングの本質を指摘するところまでには時枝は進めませんでした。しかし、川島正平『言語過程説の研究』が次のように述べている事実は、正しく受け継ぎ発展させられなければなりません。

 ソシュールの犯した最大の過ちは、言語を表現として、物質としてとらえなかったこと、そして言語の過程的構造において、表現主体の認識する独自の概念の存在を無視してしまったことにあります。つまり、彼は言語をただ精神的なものとしてきわめて平面的に扱うと同時に、そこに人間の意志、人間の能動的な精神作用の介入してくる道を塞いでしまっているのです。時枝のソシュール批判の本質はここに起因するものと思われますが、この意味で、彼がソシュールを頂点とする近代言語学の理論を「人間喪失の言語理論」(『国語問題のために』)皮肉ったことも、まんざら的をはずした戯れ言とはいえないのです。ソシュールにとって、言語とは「音の心的な刻印」でありその本質は「関係」である、ということになるでしょう。けれども今日の言語過程説の立場からするならば、言語とは表現すなわち物質であり、かつその本質は「関係」である、ということになります。このように実体と属性を統一してとらえ、その背後に存在する矛盾の構造を、すなわちその過程的構造を論理的にたぐっていかなければ、言語の本質は解明できないのです。

 時枝のソシュールに対する構成主義的言語観、言語実体観批判を理解できなかった国語学者は時枝の詞・辞論に種々の批判を投げかけていますが、その中で今日の国語学に大きな影響を与えているのが金田一春彦の「不変化助動詞の本質」や「国語動詞の一分類」「日本語動詞のテンスとアスぺクト」等の論考です。工藤浩の「三鷹日本語研究所」―文法研究ノート抄 その2―「■不変化助動詞」でも、

  「不変化助動詞」という現代日本文法学の基本的な みかた(paradigm)も、人間でいえば、もう来年で還暦を むかえようとしている。半世紀以上にわたって現代日本文法学を支配しつづけてきた、ねづよい迷信ともいっていい。「20世紀後半の基本思潮」とでもいうべき過去の思想にはやくなってほしいのだが。迷信にも一理あり、よってきたかんがえのみちすじを たどってみよう。

 と考察を重ねていますが、教科研文法のparadigmで解明できるとは思われません。これは、現在のモダリティー論に繋がる問題でもあり別途根本的な批判を展開したいと思いますが、まずはテーマである<助動詞>「だ」がどのように扱われているのかを見ましょう。それにしても、「不変化助動詞の本質」というタイトル自体が正に形式主義的な見方であることに限界を感じてしまいますが、その当否はおのずと明らかになるのではと思われます。

  
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2015年11月18日

助動詞「だ」について(13)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
    <助動詞>「だ」の自立した使い方について(5)

  <助動詞>「だ」が主体的表現で、話者の肯定判断を表す語であり、客体的表現の<動詞>は実体の属性を時間的な変化、運動し、発展するものとして捉え表現するもので、全く異なる語であることを見て来ました。さらに、「だということです」、「ですが面会は致しかねます」等と日常会話で上の語なしに自立して使われる事実は、「だ」が一語であることを示し、内容的には話者の相手の言葉に対する追体験媒介として、相手の判断に結びついている場合や、追体験を媒介として聞き手の思想を形成し、聞き手独自の判断を示すという媒介関係にある判断辞であることを確認してきました。

 劉論文では、<形式動詞>説に対する反論として、<「だ」は助動詞であり、その前に復元可能な要素が省略されているという見方>を想定し、反論していますが、単に形式的な復元可能な要素ではなく、相手の判断とその追判断を捉えられないと正しい反論とはなりません。この追体験の問題は、「だ」「です」という接続助詞の問題に繋がっていきます。しかし、現在の言語学では追体験の問題を取り上げていません。この原因を三浦つとむは、次のように明らかにしています。

 西欧の言語学は、追体験をとりあげていない。なぜか?それは、追体験がソシュールのいうところの「言語活動(ランガージュ)」に属するものであって、「言語(ラング)」に属するものではないからである。具体的な言語表現と理解の過程的構造を言語学からタナあげして、言語規範のありかただけをとりあげているからである。言語学が「言(パロール)の運用によって、同一社会に属する話手たちの頭の中に貯蔵された財宝」だけを問題にしている限り、聞き手は話し手と同様にその「財宝」すなわち言語規範の持ち主であるというだけのことで、追体験問題は理論的にネグられてしまっている。現在支配的な地位を占めている構造言語学にしてもこのことに変わりはない。しかしながら、さきに見たように、話し手にしても文と文との接続においては、先行文における自分の判断を再判断して、「だが」とか「だから」とか表現しているのであって、「言語活動」における具体的な認識のありかたを問題にしないかぎり、聞き手の追体験はもちろんのこと話し手の<接続詞>の文法的な説明すら不可能なのである。

 (『認識と言語の理論 第三部』(1972)―追体験による表現の展開 五 <接続助詞>と<接続詞>との連関―)

 ソシュール言語学の亜流でしかない現在の言語学、文法論では本質的に扱いえない論理的構造になっていることが判ります。談話レベルの<助動詞>の在り方に疑問をだいたのは鋭い着眼ではありますが、それを解明する論理的支えが無いため、形式論、機能論の混迷に迷い込む他ないことを本論文は明らかにしています。

これで本論文の批判は終わりましたが、<助動詞>「だ」や<助動詞>そのものが他にどのように論じられているかを次に見てみましょう。■

  
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2015年11月16日

助動詞「だ」について(12)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
  <助動詞>「だ」の自立した使い方について(4)

  <助動詞>「だ」が客体的表現である、<動詞>の中の<形式動詞>とされたのですが<動詞>はどのように定義されているのでしょうか。リンク先では、次の通りです。

 動詞…自立語で活用があり、動作・作用・存在を表す単語で、述語になる単語。

     言い切りの形が「ウ」段で終わる。[笑う(u) 書く(ku) 寝る(ru)]

 これも形式と共に意味、機能が挙げられ述語になる単語とされています。客体的表現である<動詞>の本質はどのように捉えられるのでしょうか。

 日本語は、言語形態として膠着語あるいは粘着語と呼ばれています。プロイセンの外交官、言語学者でフンボルト大学の創設者でもあった、カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt1767622日~183548日)が1836年に提唱した形態論上の分類で、西欧の屈折語と対比されます。日本語は「彼 本 持つ」と客体的表現の語を並べただけでは不完全な表現であり、「彼は本を持っています。」と<助詞>、<助動詞>を使って語を粘着的に連結して初めて文として完全な表現となるところに大きな特徴があります。屈折語である英語の場合は「He has a book.」と語を区切って表現し、「彼 持つ  本」で表現として完全なのです。そして、「彼は本を持っていた。」と過去形になれば、「He had a book.」となります。この場合、<動詞>「has」は「have」の三人称現在形で、主語が三人称であり、現在であるという時制認識を表し、過去形の場合の助動詞「た」は動詞の屈折が担っています。<助詞>「は」「を」の表現は省略されていますが、SVOという文型規範により主格、目的格という格を名詞が担っています。このように屈折語にも日本語の<助詞>、<助動詞>に相当する内容は存在していますが、その表現を省略したり、あるいは一語の形式をとらずに単語の語形変化で表現したりする場合が多いのです。そのため、形式上は自立した一語でも、内容は多面的・立体的なものになります。しかも<動詞>に見られるように、単なる多面性ではなく動作、人称、時制という客体的表現と主体的表現という対立した性格の認識を表現した部分が癒着し結合しています。しかし、膠着語である日本語の単語は名詞でも動詞でも単独の概念を裸体的に表現するだけです。これこそが、膠着語と言われる日本語全体の特徴で、内容における「裸体的」性格と形式における「粘着的」連結とを相伴うところの言語形態なのです。

 このような、日本語の裸体的性格を踏まえれば、<動詞>は対象の属性を運動し発展する時間的に変化するものとして認識し表現するもので、この認識だけを表現しています。時間的に変化しない静的な属性は形容詞として表現されます。そしてこれら客体的表現の語に、話者の判断、感情、意志等を客体化することなく表現した主体的表現を組み合わせることにより一纏まりの思想を文として表現します。このように本質的に異なる表現である、客体的表現の<詞>と主体的表現である<辞>を混同してしまうのは、本質ではなく形式と機能を基に語を分類した論理的強制ということになります。

 この論文では助動詞「だ」が<形式動詞>とされますが、この内容も定義されていません。対象となっている属性について具体的に知らなかったり、知っていても簡単にしか表現できなかったり、簡単な表現で足りる場合は抽象的な内容の語で表現します。動的な表現では、

   どこにあるのか。        (ある)

   どうするつもりか。       (する)

   誰かいるのか。         (いる)

   どうなるだろうか。       (なる)

   こうやるのだ。         (やる)

   そうしてもらうか。       (もらう)

   そうなさい。          (なす)

   よろしくお願いいたします。   (いたす)

等があります。これらの<動詞>が<形式動詞>と呼ばれています。これらは、具体的な内容を持つ<動詞>と組み合わせて、「空を飛んでいる。」「川が流れている。」「捜査を依頼してある。」「窓が開いている。」等と使用され、対象の属性を具体的と抽象的にとらえ立体的に表現しています。そして、「誰か居るだろう!」「誰が居るの!」のように<指定の助動詞>「だ」と組み合わせ使われます。

主語、述語というのは屈折語の文がSVO、SVOC等の文型を言語規範として持ち、主語と述語の間に人称等の結び付きが対応している所から生まれた、スーツケース型の定形表現に見られる、文中の語・句の持つ機能の名称であり、この機能をもとに品詞を分類することはできません。

<助動詞>の表現としての本質を捉えることが出来ずに「実質的な概念内容を持たず」とするしかなく、記述文法、教科研文法のように「文法的機能」や、本論文の生成文法のように「述語を代用する働き」を本質とすり替えている現状では科学的な言語論、文法論を築くことはできません。■

  
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2015年11月14日

助動詞「だ」について(11)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
      <助動詞>「だ」の自立した使い方について(3)

 これまで、<「だ」はいわゆる助動詞ではなく、特殊な用言であることを物語っている>と言う解釈が誤りであり、「特殊な用言」ではなく正に助動詞であることを見てきました。この誤った、結論に基づき、

  「だ」自体は実質的な意味を持たないにもかかわらず、談話の中で文脈や発話状況を受けて、自立語などを代用して実質的な意味を指し示すことが可能である。(10)

と、「だ」が意味をもたないことにされ、代用などという機能を「だ」に押しつけます。この誤りは、「だ」が肯定判断の表現であることが理解できないための論理的必然といえます。この注(10)では、<渡辺実 (1978) [1953]「叙述と陳述—述語文節の構造—」『日本の言語学』第3巻文法Ⅰ: 261-283,大修館書店.>を引用し、次のように記しています。

「だ」は体言を述語化するもので、述語の一部として扱うべきだと指摘している。また、「だ」が用言に接し得ない理由として、「だ」のもつ力は用言にはすでに備わっているからだと述べている。

これもまた、「だ」に「述語化する」機能を押し付けたり、「だ」のもつ力を用言に押し付けたりする謬見でしかありませんが、機能的発想ではそうならざるを得ないことになります。本論文もこうした機能的発想と、同類の生成文法の誤りが結びついた現在の言語学、国語学の誤りを反映した論文であることが判ります。

 そして、次の結論に至ります。

 本稿は「用言」説を支持し、「だ」は体言に接してそれを述語化することによって、「体言+だ」で述語をなすと主張する従来の論考 (渡辺19531971、寺村1982、北原1981、小泉2007) に基本的に賛同する。「雨が降る」「山が高い」といった発話における「降る」や「高い」が実質的な意味を持つ用言として単独で述語をなすのに対して、「彼は学生だ」「だといいけど」といった発話における「だ」は実質的な意味を持たずに、「体言+だ」で述語をなしたり、あるいは単独の「だ」で述語を代用したりする11。本稿では、それ自体が実質的な概念内容を持たずに、本来述語でない語句を述語化するあるいは述語を代用する働きを持つ「だ」の機能を形式動詞である「だ」の機能として捉えたい。

  ここで言われている、<「雨が降る」「山が高い」といった発話における「降る」や「高い」が実質的な意味を持つ用言として単独で述語をなす>というのは、先に指摘した「雨が降る■」「山が高い■」と判断辞が零記号になっていることが理解出来ない形式論理の産物であり、<動詞>「降る」や<形容詞>「高い」に判断辞の機能を押し付けたものです。山田孝雄の「用言の用言たる特徴は実にその陳述の作用を表す点にあり。」という主張と同じ誤りです。そして、その淵源は西欧文法の<動詞>解釈にあります。

 この機能的発想から、<辞>である<助動詞>「だ」を客体的表現である<詞>の<形式動詞>と見なす誤りに辿りつきます。次は、<動詞>とは何か、<形式動詞>とは何であるのかを検討しておきましょう。■  
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2015年11月13日

助動詞「だ」について(10)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   <助動詞>「だ」の自立した使い方について(2)

 <(b) 形式上、「だ」は多くの助動詞に見られない単独用法を持つ。>とされる、「多くの助動詞」との差異について検討してみます。まず、次の指摘です。

 次の例(8)が非文であるように、同じく助動詞とされる「た」や「ない」「たい」「れる (られる) 」「せる (させる) (用言にしか接し得ない類のもの) は、自立語に付属しないと単独では使えない。

(8) A:昨日行ったよね。

B* たよ。

これは、<過去・完了の助動詞>「た」ですが、生成文法のプラグマティックな発想で「非文」と指摘するのみで、何故なのかを明らかにしていません。これまで、何度も指摘してきた通り過去の事態は話者の眼前にはなく直接対峙はできません。これに対峙するためには話者の観念的な自己分裂により過去に移行して過去の対象と対峙し認識、表現した後、現在に戻ってからそれが過去であることを示すために「た」と表現します。つまり、「た」と表現しているのは現在です。従って、過去と指摘すべき対象の認識、表現なしに「た」と言う事はありえないのです。一旦、過去への観念的な自己分裂による移行、認識があって後に「た」が表現されるのであり、そのような観念の運動なしに「た」だけが表現されることはありえないということです。否定の「ない」も同様で否定すべき対象の想像、認識なしに否定はできません。希望も同様です。そこに肯定判断との本質的な差異がありますが、主体的表現としての助動詞であることには変わりありません。受身謙譲可能使役が接尾語であることは既に指摘した通りです。

 次は、以下の通りです。

 一方、「らしい」や「だろう/でしょう」(体言と用言の両方に接し得る類のもの) といった助動詞には「だ」と似たような単独用法を持っていることが観察される。……一見「だ」の単独用法に似ているように見えるが、実際に幾つかの相違点が見られる。第一に、「らしい」「だろう/でしょう」はその前後に何も接せずに裸の形で用いられるのに対して、「だ」は裸の形では用いられない。

 第二に、次の例 (12) が示すように、単独の「だ」は補文内に現れるが、「らしい」「だろう/でしょう」

は単独では補文内に出現できない。第三に、各形式の単独用法以外の特徴であるが、「らしい」「だろ

う/でしょう」は直接動詞に接続できるが、日本語の標準語では「だ」は直接動詞に接続できない。

  第一の、「らしい」「だろう/でしょう」はその前後に何も接せずに裸の形で用いられる、というのは、「だろう」が<指定の助動詞>「だ」の「未然形」「だろ」+<推量の助動詞>「う」であり、「でしょう」が「です」の未然形「でしょ」に<推量の助動詞>「う」の付いたもので「だろう」の丁寧語であり、単独の「だ」の使用法に他なりません。また、「だ」が裸の形では用いられないのは次のような事情です。

通常、判断辞は零記号として表現ないことになっていますが、敬語化すれば表面に現れます。

  本がある■。→ 本があります。    本である■。 → 本であります

また、方言では「本があるだ。」という使い方をします。このため、方言では「んだ!」という「裸の形」で使用されますが、普通は、「そう■!」→「そうだ。」「そうです。」となり、「裸の形では用いられない」のです。このように、肯定判断は省略されやすいので「だが、それは……」のような会話でも「■が、それは……」と追体験の追判断が零記号となる時があります。

 また、「と思うんだけどね。」を例に上げて、「らしい」「だろう/でしょう」は単独では補文内に出現できないとしています。これは、「らしい」「だろう」+「と思うんだけどね。」とは繋がるが、丁寧形の「でしょう」とは、「でしょうと思うんですけどね。」と使用できなくはありませんが、「らしい」「だろう」「でしょう」が推量を表すため、「思う」と意味的に重なるところがあり、やや不自然さを感じます。

 第三は、<各形式の単独用法以外の特徴であるが、「らしい」「だろう/でしょう」は直接動詞に接続できるが、日本語の標準語では「だ」は直接動詞に接続できない>です。これは、「彼は家を買うらしい。」「彼は家を買うだろう。」「彼は家を買うでしょう。」とは言えるが、「彼は家を買うだ。」とは言えないと言っているようですが、全くの誤りであるのはこれまでの説明で明らかと思います、

 「彼は家を買うだろう。」は、「だ」の「未然形」「だろ」+「う」で「だ」が直接動詞に接続しています。「彼は家を買うでしょう。」は、この丁寧形です。そして、「彼は家を買う■。」の場合は零記号となっており、丁寧形になれば、「彼は家を買います。」と<敬辞>「ます」が表現されます。

 このように、すべて形式的、機能的な誤った解釈によるもので、何ら肯定判断を表す<指定の助動詞>「だ」の品詞の性質が「らしい」「だろう/でしょう」のそれと異ってはいません。語の認定、品詞分類自体が誤っていることが理解されていません。■

  
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2015年11月12日

助動詞「だ」について(9)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 (通巻 29 2010) 
   <助動詞>「だ」の自立した使い方について(1)

 劉 雅静論文で問題とされているのは、

   (2) 「桂太君かっこよくない!?」

       ね、一際目立ってるかも…」『虹色の約束』

に見られるような単独の<指定の助動詞>「だ」の使用法です。橋本文法や教科研文法では、付属語とか付属辞とよばれて、かならず上の語に付属することになっているため、<助動詞>とすることに疑問を呈されています。たしかに、「付属語で活用があり、体言・用言に意味を添える単語」とすると、「意味を添える」べき「体言・用言」が存在せずおかしなことになってしまいます。しかし、これまで見てきた通り形式や機能は語の本質ではなく、表現としての語の本質により品詞を決めねばなりません。従って、話者の主体的表現で、肯定判断を表す語として「だ」の使用法を検討しなければなりません。

 この論文では、最初に先行説の検討を行っています。それらは、すべて形式的、機能的な観点からの解釈でしかないのですが、その誤りを明らかに出来ずに同じ枠内でしか思考していません。時枝誠記の詞・辞の説もこれらと一括りにされています。言語とは、対象→認識→表現の過程的構造をもった表現であり、<指定の助動詞>「だ」もまたこの本質に基づく表現であることを基に論文を見直してみましょう。三項目の問題点が挙げられます。順次、検討しましょう。

 (a) 伝統文法で規定されている文法単位が話し言葉の分析において必ずしも有効ではない。

  この点は、これまで見てきた通り、伝統文法自体が形式や機能に頼った誤った分析ですので当然のことです。

 (b) 形式上、「だ」は多くの助動詞に見られない単独用法を持つ。

 例文に挙げられている通り、会話の場合には「だね」「だよね」「ですね」と使用され、これがいかなる使用法であるかを明らかにしなければなりません。これについては、三浦つとむの「<助動詞>と<助詞>の自立した使い方について」(『言語学と記号学』1977.7.10 勁草書房刊)という論文がありますので、これに依拠して例文(5)を検討してみましょう。

 (5) (いつも朝早くから出勤する田中さんの姿がいないことに気づいた社員たちのもとに課長がやってきた。

そして、課長が社員A に向かって)

「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということ

課長が座席に戻って行く。社員A が自分の後に座る社員B に、

そうです」/「ってさ」 (作例)

 この場合、課長の言った「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということで」という言葉を社員ABも同時に聞き、課長の立場にたって内容を追体験することにより内容を理解します。この理解のためには、聞き手は観念的な自己分裂によって観念的な自分が相手の立場に立ち、追体験をすすめていきます。課長の「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということ」という表現を理解しようとするなら、追体験によって社長の体験を繰り返すことにより「だ」の連用形「で」をも追体験します。つまり、追判断が行われます。社員ABに、この体験を念押しのため表現する場合、この追体験をいま一度表現し、課長の言葉を「そう」と指定することにより、「そうです」となり、「だいうことさ」の「と」が「って」となり「いうこと」が省略されて「ってさ」となることにより、助動詞「だ」が文の先頭に現れます。これは、形式的には「だ」が自立していると同時に、内容的には追体験を媒介にして相手の判断に結びついているわけです

 さらに、三浦の論を筆者の責任で読みやすくアレンジし引用します。

判断辞が文の先頭に使われるのは、多くはこのような相手の追判断の表現ですが、相手の判断に直接結びついていない場合もあります。たとえば、面会時間におくれてやって来た相手が、「何とかとりついでくれませんか。事故で遅れたものですから。」と訴えた場合、聞き手はこれを追体験して、もっともと一応肯定しはしますが、とはいえ規則だからどうにもならないと考えた場合は、忠実に表現するならば、「それはそうです」とか「ごもっともです」とか、まず事情を肯定する形となりますが、「それはそう」「ごもっとも」を略して、肯定判断辞の「です」から表現するなら、ごもっともですが面会はいたしかねます。」が「ですが面会は致しかねます。」になり「です」が先頭にあらわれます。「です」に続く「が」は<接続助詞>で、逆説とよばれる使用法です。何に対して逆かといえば、表現されていない肯定した思想です。この「です」は相手の判断に直接むすびついているのではなく、追体験を媒介として聞き手の思想を形成し、聞き手独自の判断を示すという、媒介関係にある判断辞なのです。

 会話だけでなく、別れの挨拶をしたり、仲間に声をかけたりする場合にも、自分の思想を形成しいその判断を文の先頭に示しています。いろいろ考え合わせてみて、訪問の目的はこれで達したなとか、これではいくら話かけても拒否されるだけ無駄だとか、別の訪問客が来たので話さないのが賢明だとか、それなりに独自の判断を行って、「はこのへんで。」と表現します。あるいは、このくらい休憩すればみんなの疲れもいくらかとれたろう、出発する時が来たと判断して、「では行こうか」と表現してよびかけます。(引用終わり)

  このように見てくれば、肯定判断を表す<指定の助動詞>「だ」として論理的、合理的な使用法であり、談話という場面、前提を共有した直接的な文のやり取りという場で話者の追体験に対する判断辞が先頭に現れる文であることが判ります。

 この、言語表現の本質である過程的構造を理解出来ずに、言語実体観によりすべてを文・語の機能として理解するしかないところにこの論文の本質的な欠陥があります。それは、現在の言語学、国語学、日本語学の本質的な欠陥であり、時枝誠記が言語を表現と看破したコペルニクス的転回以前の学でしかないということです。

 次に、ここに言われている「多くの助動詞に見られない単独用法」とは何なのかを検討しましょう。■

  
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