未然形 連用形 終止形 連体形 仮定形
だろ だっ・で だ (な) なら
となっています。この「な」「なら」は前回指摘したように、「にあり」が「なり」となり、「なる」から「な」となったもので、「にてあり」→「であり」→「であ(じゃ)」→だ
→ 「である」
の変化から「だ」となったのと転成の系列が異なりますが共に判断の<助動詞>となっています。活用をもたない「綺麗」「荘厳」等の詳細な属性を表す漢語を「綺麗な」「荘厳な」と日本語に形容詞として取り込むために「な」が使われたのです。これを助動詞の<活用>ではなく、属性表現の漢語自体の活用と見なすところに<形容動詞>という誤った品詞が生みだされました。このことは、膠着語である日本語が裸体的に単純な概念を表し、これらを粘着的に連結していくのだという本質の理解を誤っています。
「綺麗ならば」という連帯形「なら」が方言では「だば」と使用されるのも理にかなっていることが分かります。そして、「ような」「そうな」という使用法からも「よう」「そう」が一語であることを示しています。
この事実を、国語学者はどのように理解しているのでしょうか。一例として、『北原保雄の日本語セミナー』(大修館書店、2006.8.10)を覗いてみます。
Q8「だろう」は連語か助動詞か?という次のような質問が掲げられています。
明日は晴れるだろう。
の「だろう」は一語の助動詞と見るべきものでしょうか。それとも「だろ」に「う」がついたものとみるべきでしょうか。ご教示ください。
これに対し著者は次のように答えています。
A:お尋ねのように、「だろう」については、これを一語の助動詞と見る考えと、断定の助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」の下接した連語とみる考えとがあります。「だろう」には例にあげられた、
(1)明日は晴れるだろう。
のように動詞に下接するもののほか、
(2)北国の冬は寒いだろう。
のように、形容詞に下接するもの、
(3)彼はまだ学生だろう。
(4)それはまたどうしてだろう。
などのように、名詞や副詞に下接するものもあります。また、
(5)海は静かだろう。
のように、形容動詞の未然形に推量の助動詞「う」の下接した「だろう」も同じ意味を表します。
断定の助動詞「だ」は、
(6)彼はまだ学生だ。
(7)それはまたどうしてだ。
などのように、名詞や副詞などに下接します。ですから、(3)や(4)の「だろう」は、断定の助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」が下接したものと見ることができます。
しかし、一方、断定の助動詞「だ」は、動詞や形容詞には下接することができません。
(8)明日は晴れるだ。
(9)北国の冬は寒いだ。
などとは、少なくとも共通語では言えません。つまり、動詞や形容詞には、「だ」は下接することはできませんが、「だろう」は下接することができるのです。ですから、(1)や(2)の「だろう」は、断定の助動詞「だ」の未然形とは簡単に言えません。接続の仕方という点を重視すれば、動詞や形容詞に下接する「だろう」は、(もともとは「だろ」+「う」ではありますが)、「だ」とは違った接続の仕方をするのですから、一語の助動詞だとする見方にも十分理があります。
「ヨウダとソウダの主観性」の論者はこの国文法の誤りを無批判に受け継ぎ、さらに生成文法の非文という主観的、プラグマテイックな判定法を取り入れ論を展開しているのが明らかです。
ここでは、
明日は晴れます。 北国の冬は寒いです。
と敬辞化すれば、断定の助動詞の丁寧形が現れ、推量の場合も
明日は晴れるでしょう。 北国の春は寒いでしょう。
と 明日は晴れる■。 北国の冬は寒い■。
と肯定判断が零記号となることが規範化している、つまり文法化していることが理解されていません。このような論理性を無視し、「やはり文法では形式を重視すべきではないかと考えます。」と話者の認識と語の本質ではなく、形式主義的な見方で判断しています。また、形容動詞を例に挙げている誤りも先に指摘した通りです。■