工藤 真由美著『現代日本語ムード・テンス・アスペクト論 (ひつじ研究叢書(言語編)第111巻)』では時制を次のように定義している。
また、バーナード コムリー (著), Bernard Comrie (原著), 久保 修三 (翻訳)『テンス』(開拓社 :2014/9/19)では、
①直示中心、②事象が直示中心より前なのか、後なのか、③事象が位置づけられる直示中心からの時間的距離について議論され、この直示(Deixis)の中心を任意の参照点として確立するためにもっとも典型的なものとして発話状況を上げている。そして、テンスは状況を現在時点と同じ(あるいは現在時点を含んでいる)時間か、現在・の前か、または現在点の後かに位置づける
自己ベスト一直線 2020年東京オリンピックまで5年 2015年7月25日05時00分 朝日新聞
力強い踏み切りで大技 女子高飛び込み・板橋美波(15歳)
404・20。掲示板に合計得点が表示されると、観客席がどよめいた。
6月に東京辰巳国際水泳場であった飛び込みの日本室内選手権。女子高飛び込み決勝で、15歳の板橋美波(みなみ)が、日本女子初となる400点超えをマークして優勝した。2012年ロンドン五輪では銀メダル、13年の世界選手権では1位相当の好記録に「思わず、跳びはねてしまった」。151センチの体をいっぱいに使って喜んだ。
404・20。掲示板に合計得点が表示されると、観客席がどよめいた。
ここでは、「表示される」で現在形になっていて、文末で「どよめいた。」と過去形になっている。先の定義では、現在と過去が入り混じることになる。この点はどう解釈されるのだろうか、ここは歴史的現在、あるいはテンスとアスペクトの二元説、あるいは相対時制で直示中心を振り分けることになるしかない。
これが、教科研文法、西欧屈折語文法という形式主義文法の時制論の実態で、新聞記事一つ満足な説明が出来ないのである。国文法、日本語教育文法なるものも同様である。
では、言語過程説ではどのように理解されるのであろうか。三浦は『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫 1976.6.30/初出1956.9)の「<助動詞>の役割」の「b 時の表現と現実の時間とのくいちがいの問題」で次のように述べている。
過去現在未来は、属性ではなく、時間的な存在である二者の間あるいは二つのありかたの間の相対的な関係をさす言葉にほかなりません。……過去から現在への対象の変化は、現実そのものの持つ動きです。これを、言語は、話し手自身の観念的な動きによって表現します。ここに、言語における「時」の表現の特徴があるのです。……
言語で表現する現在は、現実の現在ばかりでなく、観念的に設定した過去における現在や未来における現在、あるいは運動し変化する対象と行動を共にするかたちでの現在などいろいろなありかたをとりあげています。時制と時は無関係ではないし、また非論理的な表現でもないのです。話し手はその感ずるところを素朴に表現しているにもかかわらず、きわめて合理的であり論理的なものだということを理解しなければなりません。
ここでは「話し手」は「記者」であるが、三浦の記す通り「話し手はその感ずるところを素朴に表現しているにもかかわらず、きわめて合理的であり論理的なものだということを理解しなければなりません。」ということが良く理解できる。
このように、文、文章の中での複雑な記者の観念的な運動を形式主義的に―<発話時>を基準にして、事象が発話以前に起こったのか否かを義務的に表し分ける文法的カテゴリーが<テンス>である。―などとする理解がいかに言語事実と相違する誤謬であるかが分かる。■