2015年11月01日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (13)

     「ニ格とデ格の交替について」、「感情動詞におけるニ格とデ格の交替について」 張 麗(大東文化大学)

 最後に題記2編の論文についてみましょう。この論文の特徴は、国立国語研究所が提供している『現代書き言葉均衡コーパス(中納言)』を通して、相当文を検索し使用実績を調査、検討していることである。このコーパス(中納言)の概要は次の通りです。

 『現代日本語書き言葉均衡コーパス』(BCCWJ)は、現代日本語の書き言葉の全体像を把握するために構築したコーパスであり、現在、日本語について入手可能な唯一の均衡コーパスです。書籍全般、雑誌全般、新聞、白書、ブログ、ネット掲示板、教科書、法律などのジャンルにまたがって1億430万語のデータを格納しており、各ジャンルについて無作為にサンプルを抽出しています。 すべてのサンプルは長短ふたつの言語単位を用いて形態素解析されており、さらに文書構造に関するタグや精密な書誌情報も提供されています。著作権処理も施されていますので、安心して使っていただけます。 

 さて、最初の「ニ格とデ格の交替について」は「1.はじめに」で次のように記しています。例文は、(1)(2)のみ示します。 

(1)~(4)が示すように、「とる」「もつ」「かかえる」「だく」のような動詞は格体制の交替(~ヲ~ニ形と~ヲ~デ形)を起こす。

1a)彼女はグラスを手にとり、一口飲んでみた。 (海老沢泰久『男ともだち』講談社 1998

1b)茶碗を右手でとり、左手で扱って、右手で勝手付に仮置きする。  (千宗左『小棚の点前』主婦の友社 1990

2a)すると、雑誌を手にもって農家の人が大勢たずねてくるようになった。  (横森正樹『夢の百姓』白日社 2002

2b)ときどき六寸ぐらいある基盤を片手でもって、五十匁蝋燭の火を団扇のように煽り消したそうです。      

 この、(a(b)を「格体制の交替(~ヲ~ニ形と~ヲ~デ形)」と捉えているわけですが、これまで見てきた通り、単に形式的に「ニ」と「デ」が交替している訳ではありません。「ニ」の場合は動作の始点・終点を指し、「デ」は動作の手段・手段を表しています。つまり、表現している意味が異なっているのであり、単なる交替と捉えること自体が誤っています。先行研究について次のように記しています。 

 「とる」「もつ」「かかえる」「だく」はニ格とデ格の交替が可能だと言われるが、それぞれニ格とデ格の使用率はまだ明らかにされていない。先行研究(言語学研究会 1983309)ではに格の名詞は主に身体の部分(とくに手)をしめすものであると指摘しているが、「手に~」以外にどんな表現があるかまだはっきりわからない。また、どんな場合、交替ができるかも分からない。

 先行研究ではニ格は古い道具を示す指摘もあり、空間の意味を示す研究もある。本稿ではデ格は道具性を表し、ニ格は空間性を表すと考える。 

「ニ格とデ格の交替が可能だと言われる」こと自体が現在の日本語学の誤りを示しています。「ニ格とデ格の使用率」などあまり意味があるとも思えません。論者の日本語の使い方も若干おかしな所が見られ、どのような教育、指導を受けたかの方が気になるところです。「デ格は道具性」、「ニ格は空間性」を表すというのは、方法・手段と支店・終点を言い替えものと考えれば当らずといえども遠からずというところです。

「感情動詞におけるニ格とデ格の交替について」では、「感情動詞の定義を筆者なりに述べておくと、人間の心理、感情にかかわる動詞としてとらえ、思考動詞などは対象外とする」として、「驚く」「怯える」「苦しむ」「困る」「悩む」「びっくりする」「迷う」について調べています。それぞれ「ニ格、デ格の使用率」と「ニ格とデ格の交替条件は何なのか」を明らかにすることを目的としています。「とる」「もつ」等の動詞については、<「手に~」以外にどんな表現があるか>も調べられています。

使用比率など興味はありませんが、結果はリンクを張っておきますので論文をみていただきたいと思います。明確な方法論もなく、安易にデータベースを使用する傾向も気になります。交替可能の条件は次のような結論になっています。 

以上、「手にとる」「手にもつ」「手にかかえる」と「手でとる」「手でもつ」「手でかかえる」の用例が全部見つかり、「とる」「もつ」「かかえる」のニ格とデ格の交替可能の用例は身体の部分「手」と結ぶことであると思われる。また、「かかえる」のもう一つ交替可能の用例は身体の部分「腕」と結ぶことであると考えられる。

 これは、交替でも何でもなく、「手持つ」と「手持つ」の意味の相違が現れているだけです。感情動詞については、次のように纏められています。 

考察した結果、日常生活を描く抽象度の低い名詞と接続する場合、デ格しか使えなく、ニ格が使いにくく、ニ格とデ格の交替が難しいということが分かった。もう少し抽象度が高くなった人間の生活を表す名詞や病名を表す名詞の場合、ニ格とデ格の交替が可能だと考える。抽象度が高い名詞と接続する場合、デ格の使用が限られている。ニ格とデ格の交替が不可能という結論が得られた。しかし、一見抽象度が高い名詞でも、デ格の使用も可能の場合があるため、抽象度が高い名詞にはデ格が使えないとは言い切れないと思われる。ニ格とデ格の交替についての研究を深めたいなら、名詞の抽象度についての研究もさらに深まる必要がある。それを今後の課題とする。
  先の論考の、「外的原因」や「欠乏」とは異なり「名詞の抽象度」とされていますが、抽象度自体の意味が判っていないのではと考えられます。「名詞の抽象度についての研究」は深めてもらいたいと思いますが、それは格交替とは別の問題です。このような、機能的、形式主義的な研究が見掛けの取り付き易さから、意味もなく繰り返されていることに問題があります。
  時枝誠記は、「ただ現象的なものの追求からは文法学は生まれて来ない」と忠告しています。   
  これまで見てきたように、言語表現を直接支える認識を無視してピント外れの「壁塗り構文」問題や、格交替という現象を論じていては言語の科学的な解明は不可能であることに気付くべきと言えます。■
  
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2015年10月31日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (12)

    「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(10)

 最後に、「~のことで」という形について考察されています。

 また、「デ」が「~のことで」という形でその内容を表す(庵(2000))とされているが、次の例は、困ったり悩んだりしている内容を表している。

 (5230歳代主婦。親類の60歳代男性のことで困っています。家族が集まった席で、親類の子どもたちにしつこくお酒を勧めるのです。(読売20080403

 (53) 5年前の11月、60歳の誕生日。商売や家庭のことで苦しみ、「いっそ死んじゃおうか」とまで考えていたころだった。(読売20050501

 (54)来月、従妹の結婚式に訪問着で出席しようと思っていますが、髪型のことで悩んでいます。(知恵袋OC1100692

 (5520歳代後半の女性です。2年ほど付き合ってきた30歳代の男性との結婚のことで迷っています。(読売19991023

 (52)を例に見てみると、「親類の60歳代男性」に関すること、この男性の行動について「困っている」のである。「~のことで」は、困ったり悩んだりしている内容を表している。

  この「こと」は抽象名詞(形式名詞)で、まず対象を「こと」として抽象的に表現し、具体的な内容は次の文で述べられています。英語の場合のIt~that構文、関係代名詞による表現と同じです。ここでは、論理が逆転しています。「~のことで」が内容を表すのではなく、「デ」が格助詞として使用された例を集め、その場合に「~のことで」が感情動詞の補語として機能し理由としての内容を表しています。<32 格助詞の「デ」ではない「デ」>で論じたように、「デ」には格助詞の場合と、肯定判断辞の「ダ」の連用形「デ」の二種類があります。この内の格助詞の場合を集めたものです。「~のことで」という形式に捕らわれる誤りを示しています。「32」での、<ナ形容詞、「第三形容詞」の連用形の「デ」、主題・主語が言語化されている判定詞の「デ」は、述語であるという点で格助詞の「デ」と区別でき>るという論理の誤りはそこで示し通りですが、この区別された格助詞の事例を集めたもので、本来この点を明確にすれば良いだけのことなのです。 

 また、次の例も、困ったり悩んだりしている内容を表わしている。

 (56)電話番号で困ってます。引越ししてきて、今の電話番号になってから約3年経つのですが、未だに昔の人宛てに電話がかかってきます。(知恵袋OCO801916

57)来週二次会があるのですが、そのときに着ていく服装で悩んでいます。(知恵袋OCO9 01699

58)店を継ぐ気持ちは変わらなかったが、中学3年のとき、進路で迷った。(読売20070824

 (56)~(58)は、「電話番号」「服装」「進路」の存在が感情を引き起こしているわけではない。(56)~(58)は、「電話番号に関すること」「服装に関すること」「進路に関すること」について困ったり悩んだりしているのである。(56)~(58)は、「~のことで」と同様に、困ったり悩んだりしている内容を表している。

 (52)~(58)は、困ったり悩んだりしている内容を表しているのであるが、この内容は、困ったり悩んだりする「原因」でもあり、(52)~(58)は、困ったり悩んだりしている内容を表すと同時に、その内容が感情を引き起こした「原因」であることも表していると言えるだろう。 

56)の場合は「電話番号のことで」の「こと」の内容はその次の文に示されています。(57)では、「そのときに着ていく服装」と内容が示されています、(58)では、「進路」の具体的な内容は示されていません。それゆえ、原因としての具体性に若干乏しく、不自然な感じがします。

以上、「困る」「苦しむ」「悩む」「迷う」について、[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができないが、[存在]の場合は、「デ」も使うことができることを見た注11

また、[存在]以外にも、範囲を限定する「デ」や内容を表す「デ」も、困ったり悩んだりしている範囲を限定する、または、その内容を表すと同時に、その範囲や内容が感情を引き起こした「原因」であることを表す「デ」として使うことができることを見た。この困ったり悩んだりしている範囲や内容というのは、まさに「感情の対象」である。これらは、「感情の対象」として「二」でマークすることもでき、また、「デ」でその範囲や内容を限定することによって、感情を引き起こした「原因」であることを表すこともできるのである

以上、見てきた通り[欠乏]やら[存在]などという対象の問題が「デ」や「ニ」でマーク出来るか否かの問題ではなく、単に話者が対象を原因として捉えるか、単に対象としてにみ捉え表現するかの認識の相違であることは明らかである。このような思考の誤りは、上に挙げられている注11にも示されています。次の通りです。 

 宗田(1992)は、「挨拶で困る」と「挨拶に困る」を例にあげ、前者は「慇懃無礼な挨拶」をされたことを思い出し困っている状況、後者を「何と言っていいかわから」ない状況での発話であると述べている。これは、本稿の用語では、「挨拶に困る」は[欠乏]であるが、「欠乏」が「二」、[存在]が「デ」のように相補分布的な関係ではなく、「二」は[存在]の場合も使うことができ、また、「デ」が範囲や内容を表すと同時に「原因」であることも表すことができるというのが本稿の主張である。 

 「慇懃無礼な挨拶困る」ことも、「慇懃無礼な挨拶困る」こともあるのは明らかです。「5.まとめ」は次のように始まります。  

感情動詞の補語を表す「二」が、どのような場合に「デ」に言いかえることができるかについて考察を行った。これは、「感情の対象」は、どのような条件を満たせば「原因」と言えるかということである。 

 明らかになったのは、「言いかえ」という捉え方自体が誤りであり、「感情の対象」の問題ではないということです。

  
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2015年10月29日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (11)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(9)

 さらに、<[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができない>例が挙げられます。

   また、「苦しむ」「悩む」「迷う」も、「困る」と同様に、[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができない。

 (36)どうして、宝石店の店貝が謙人さんのような方と知り合いになったのか、理解に{*で}苦しみました。(『異人たちの館』)

 (37)高校時代、サッカーをするのが好きだったが「趣味は」と聞かれると、返答に{*で}悩んだ。(読売20080207

 (38)「給水を止めると事後処理が大変なので判断に{*で}迷った。日曜日で職員の手当も付かず、対応が遅れた」(読売20050524

 このように、「困る」「苦しむ」「悩む」「迷う」では、[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができない。

 [欠乏]の例の二格名詞句には、他に「話題」「処置」「判定」「区別」「形容」「気持ちのやり場」等がある。

  「理解」が[欠乏]しているのではなく、「理解できないで」苦しんだのであり、「理解」「返答」「判断」等の漢語は動詞的内容を持った名詞です。これを形式的に「デ」としてしまうと単なる動作でしかなく、原因としての具体性が欠けているために不自然に感じられます。ここでも、[欠乏]しているのは、「二格名詞句」ではなく、具体的内容なのです。認識の表現としての言語という本質をとらえられないと、このような形式的解釈に進しかありません。次は「~デ困った」の検討です。

      次は、「デ」の例を見てみよう。

39)「鳥インフルエンザ問題の風評被害で困った。(以下略)」(読売20040625

40)「県内には非正規労働者が86000人いるとされ、低賃金で苦しんでいる。(以下略)」(読売20080305

41)自分の出来心でつけてしまったやけどのあとで悩んでいます。(読売19980731

42)父の一言で迷った。(作例)

 これらは、「風評被害」「低賃金」「やけどのあと」「父の一言」が無くて困ったり悩んだりしているわけではなく、「風評被害」「低賃金」「やけどのあと」「父の一言」が存在していることによって、困ったり悩んだりしているのである。このように二格名詞句の存在が感情を引き起こしているものを[欠乏]に対し、[存在]と呼ぶ。さきに、「驚く」「びっくりする」において「デ」を使うには、名詞句が[外的原因]でなければならないことを見た。しかし、「困る」等では、例えば(41)の「やけどのあと」は、出来事ではなく、[外的原因]とは言えない。しかし、(41)は適格文であることから、「困る」等では、デ格名詞句が[外的原因]である必要はなく、[存在]の場合は、「デ」を使うことができると言える。

  これは、先に検討したように[存在]や[外的原因]の問題ではなく、「風評被害」「賃金」や「やけどのあと」「父の一言」等は原因となる具体性をもっているからです。

     もちろん[存在]の場合も、二を使うことができる。

43)隣に住む60歳代の認知症の男性に困っています。(読売20080702

44)人々は借金に苦しんだり、夫や妻の浮気に苦しんだり、財産争いて悩んだりしていた。(『完全犯罪はお静かに』)

45)マナーの悪い飼い主に悩んでいます。(知恵袋OC1100019

46)入学後、野球部に入った友達と遊び半分で野球をしていると、友達は「野球しようや」と言った。私はこの一言に迷った。中学の時のような惨めな思いはもうしたくなかったからだ。(読売20061214

 (43)~(46)は、それぞれ「認知症の男性」「借金」「夫や妻の浮気」「マナーの悪い飼い主」「この一言」の存在が感情を引き起こしているのであり、[存在]であると言える。

  「に」の場合は単に対象をスタティックに指すだけですから、聞き手は理解に迷うことなく、いつも使用できます。

    次の例は、[欠乏]と[存在]の違いをよく表している。

 (47) a 人手に困った。

     b ?人手で困った。  (作例)

 働く人間や労働力が足りないという状況を思い浮かべると、(47aは自然であるが、(47bは不自然である。これは、[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができないからである。

  これも、[欠乏]しているのは「人手」の何に困ったかの原因としての具体性である。

 次に、例えば、ボランティア活動の責任者が、ボランティアが大勢来てくれたものの仕事が無くて、何をさせていいか困ったという状況を思い浮かべてみる。これは[存在]である。すると、次の(48abは、ともに適格文である。

 (48a有り余るほどの人手に困った。

    b有り余るほどの人手で困った。 (作例)

 また、(48bは、次の(49)ように、文脈で何らかの主題が設定されていれば、判定詞の「デ」の解釈も可能である。

 (49) 「昨日の海岸清掃は、どうでしたか。」

     「有り余るほどの人手で困ったよ。」 (作例)

 (49)は、「昨日の海岸清掃は、有り余るほどの人手だった」のように主題があると解釈すれば、判定詞の「デ」である。

  これらも[存在]や主題の問題ではなく「有り余るほどの人手」と、原因としての具体性があれば不自然には感じられません。

    ところで、「デ」の用例を見ていくと、一見、原因を表す「デ」とは言えないような「デ」もある。

50)氏康は、そう怒っては見たものの、さて、あかねの戸倉訪問を事前通告と見るべきか計略と見るべきかで迷った。(『武田信玄』)

51)エリア・カザンを最終的に支持するかしないかで、私は、果てしなく悩んだ。今も悩んでいる。(『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ』)

50)は「事前通告と見るべき」か「計略と見るべき」か、という2つの選択肢の中で「迷った」ということを表している。これは、「果物で何が一番好きですか」の「デ」と同じように範囲を限定する「デ」であると言える。(51)も同様である。このような範囲を限定する「デ」は、「困る」等の補語をマークする場合は、何について困ったりしているのか、その範囲を限定しているのである。そして、その範囲の事柄が、感情を引き起こした「原因」でもあり、範囲を限定する「デ」は、困ったり悩んだりしている範囲を限定すると同時に、感情を引き起こした「原因」であることも表すと言えるだろう。

  これは、対象の二者択一が原因で悩んだのであり、「補語をマークする」と見なす機能的見方では「デ」の本質が話者の主体的認識の表現であることが理解できないことを示しています。■

  
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2015年10月25日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (9)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(7)

[外的原因]とは言えない>例をみてみましょう。

     もう少し、「二」が使われている用例を見てみよう。

 (22)「当初、新潟にしかない魚と野菜にびっくりした。(以下略)」(読売20080704

 (23) 同州南部の町、ドラムヘラーで初めてフッタライトを見かけ、異様な服装に驚いた。(読売19880206

 (22)(23)の「新潟にしかない魚と野菜」「異様な服装」は、出来事ではないし、複文にしても「(私が)新潟にしかない魚と野菜を見て」「(私が)異様な服装を見て」のように、感情の主体がガ格に現れる。これらは、[外的原因]とは言えない。(22)(23)のように、名詞句が感情の主体の外部で起きた出来事ではない場合、「デ」にすると不自然である。例えば、次の(24)は、かなり不自然であろう。

 (24) ?新潟にしかない野菜でびっくりした。 (作例)

  これは、複文にする際、驚きの動作主をガ格にしただけで、感情の対象も外部の物、あるいは売られているという出来事、「異様な服装をしている」という出来事である。全くの[外的原因]である。[内的原因]というならば、「頭痛」や「腹痛」のような体内現象の場合であろうが、これとて「突然の頭痛で驚いた」り「急な腹痛に驚く」のである。誤った論理に強制された詭弁でしかない。「新潟にしかない野菜でびっくりした。」も何ら不自然ではない。これについては、次のように論じている。

  しかし、さきに見たように、「デ」が判定詞の「デ」と解釈されれば、次のように「デ」も使うことができる。

 (25)「もう、長岡菜を食べましたか」

    「ええ、新潟にしかない野菜で、びっくりしました」  (作例)

 (25)では、文脈で「長岡菜は」という主題が設定されており、判定詞の「デ」と解釈できる。(24)を不自然だと感じない母語話者もいるが、それは(25)のように判定詞の「デ」は使用可能で、格助詞の「デ」と判定詞の「デ」の境界がはっきりしないことによるものと考えられる

  この「境界がはっきりしない」のが形式にとらわれた誤りであることは先に指摘した通りで、ここでも語の形式と話者の認識に基づく意義の関係を理解出来ていないことを明かしているにすぎない。言語実体観によっては、この点を正しく理解することは出来ません。続く論を見てみましょう。

  また、「驚く」「びっくりする」には、次のように「~さに驚く」という例が多い。

 (26)まさか自分が浮気するなんて思ってもいなかったので、自分自身の大胆さに{?で}びっくりしています。(知恵袋OC15_OOO17

 (27) 出勤して、コンビニで取り扱う商品の多様さに{?で}驚いた。(読売20090312

 (28)近江商人とか、伊勢商人というが、初めて、その商い振りを見て誘いの激しさに{?で}驚いた。(『追憶』)

 (26)~(28)は「デ」に言いかえると不自然である。(26)を例に見てみると、自分が浮気をしたことに対し、「自分自身の大胆さ」を感じたのである。(27)は、コンビニの商品を見て、そこに「商品の多様さ」を感じたのである。このように、感情の主体の判断による「~さ」という名詞句は、[外的原因]とは言えない。[外的原因]とは、感情の主体の外部で、感情が動く時点においてすでに起きた出来事であった。「雷で驚いた」であれば、複文にした場合「雷が鳴って、驚いた」のように、デ格名詞句が前件の主体となるものである。(26)~(28)は、複文にすると「自分自身の大胆さを感じて」「コンビニで取り扱う商品の多様さに気がついて」のように「~さ」を認識したことを表す動詞が現れる。複文にした場合の動詞は、他にも考えうるが、「自分の大胆さ」「コンビニで取り扱う商品の多様さ」が、「雷」や「地震」等とは異なり、感情の主体の外部で起きた出来事ではないということが重要である。現実の世界では、コンビニの商品が多種多様であったとしても、そこに「多様さ」を感じるのは感情の主体であり、感情の主体の判断による「~さ」という名詞句は、[外的原因]とは言えない

 また、「~は、誘いの激しさだ」「~は、自分自身の大胆さだ」のように、何らかの主題があるとは考えにくく、判定詞の「デ」であるという解釈を許さない。そのため、「デ」を使うことができないのであろう。

 「雷」や「地震」が外部で起ころうが、それを聞いたり、感じたりしなければ驚きはしません。「雷が鳴って、驚いた」のは、音や、光を聞いたり、見たりしたからであり、感情を引き起こす誘因の認識なしに感情は起こりません。複文にする際、対象自体の動作を表す動詞と感情主体自体の知覚動詞を使い分け外部‐内部としているに過ぎません。判定詞という解釈の誤りも先に指摘しました。では、ここで「ニ」を「デ」に替えた場合に不自然さを感じるのは何故でしょうか。

 それは、一つは「~さ」というのが対象の属性を実体化し量的に扱った表現であることにあります。「高さ2メートル」であり、「重さ1t」や「騒がしさ50ホン」と言った使い方をします。これに対し「~み」と言う場合は、「温かみ」「高み」「重み」「痛み」「楽しみ」というように質的に扱って表現します。

 二つめは、「ニ」という格助詞は単純に対象を指し示す認識しかありませんが、格助詞「デ」は原因としての認識を表すので、その点が示されないと不完全、不適切に受けとられます。これらの理由により、「自分自身の大胆さびっくりしています。」や「誘いの激しさ驚いた。」といった表現に不自然さを感じます。

 次回、これをもう少し詳しく考えてみましょう。■

  
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2015年10月24日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (8)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(6)

 次に<判定詞の「デ」と格助詞の「デ」の区別が難しい例>が検討されます。

       しかし、次のように、判定詞の「デ」と格助詞の「デ」の区別が難しい例も多い。

 (15)「予想像以上のごみで{に}驚いた。マナーを守ってほしい」(読売20090302

 (16)「非常に意外な判決で{に}驚いている。上級庁と協議して適切に対応したい」(読売20080510

 (15)は、川の清掃活動に参加した中学生のコメントであり、「清掃活動をしての感想」が話題となっており、感想として「ゴミの量が想像以上だった」そして「驚いた」ということを言わんとしていると思われる。(16)も、無罪判決に対する検事のコメントで、「この度の判決は」といった主題があるものと思われる。このように文脈上、何らかの主題があると思われる場合、「デ」は判定詞の「デ」と解釈することができる。しかし、さきに見た(10)~(14)の「デ」が「二」に言いかえることができないのに対し、(15)(16)は「二」に言いかえることも可能で、格助詞の「デ」との区別は困難である。これは、(15)(16)の「ごみ」「判決」は、指示対象を持つ名詞らしい名詞であり、名詞に格助詞の「デ」がついたものとも解釈でき、また、名詞が判定詞をともない述語になることもできることにより、述語であるという解釈も可能なためであると考えられる。

  文脈における主題の有無と、それをどのように表現するかは別次元の問題であり、事態を客観的に名詞句としてとらえた「予想像以上のごみ」や「非常に意外な判決」を、単に因果関係や対象として捉え表現した例文の「で」「に」は格助詞である。その事態を再確認し、動かぬものとして判断し形式名詞「の」で概念を纏め強調して表現した、「ごみが予想像以上に多いので{に}驚いた。」や「判決は非常に意外なので{に}驚いている。」の場合は肯定判断の助動詞「だ」の連用形「で」となります。

  (15)(16)は「二」に言いかえることも可能で、格助詞の「デ」との区別は困難である。これは、(15)(16)の「ごみ」「判決」は、指示対象を持つ名詞らしい名詞であり、名詞に格助詞の「デ」がついたものとも解釈でき、また、名詞が判定詞をともない述語になることもできることにより、述語であるという解釈も可能なためであると考えられる。

 などと、「言いかえることも可能」とか、「述語であるという解釈も可能」といった話者の対象認識とはかけ離れた、言いかえや解釈可能性で表現された語の品詞が判断できるものではありません。ここでは、語の意義と意味の関係も理解されていません。これでは、 

 このように、感情動詞の「二」と「デ」について考える場合、その「デ」が格助詞の「デ」だけではなく、判定詞の「デ」と解釈できる場合もあり、その境界は、はっきりしないが、そのことを踏まえつつ考察を進めていきたい。

 と、「その境界は、はっきりしない」のは当然です。このような、ピンと外れの議論の基に、考察が進められます。<4. 「デ」が使えるとき・使えないとき>を検討しましょう。

 4. 1 驚く・びっくりする 

 まず、「驚く」「びっくりする」について見てみよう。

次の(17)~(20)は、「デ」が使われている用例である。

17)「火事、という声で驚き、外を見ると炎が私の家の窓まで迫っていた。(以下略)」(読売19940114

18この春のちゃちな空襲ですっかりおどろいちゃってるが、ぼくはちゃんと被害を視察に行ったのですぞ。(『楡家の人びと』)

 (19)「サイレンでびっくりして外に出た。煙が大量に出ていたので火事かと思ったが、違ったので安心した」(読売20081015

 (20)県消防防災課などによると、春日部市で女性(24)が地震の揺れで驚き、自宅ドアに組み込まれたガラスに左手をぶつけ、割れたガラスの破片で軽いけが。 (読売20051017

 これらの「デ」の用例を見てみると、名詞句が「声」「空襲」「音」といった人間の行為によって生じたものか、「地震の揺れ」等の自然現象である。これらは、宗田(1992)の指摘のとおり、「火事という声がして」「空襲があって」のように、複文に言いかえることができ、かつ、デ格名詞句が前件の主体となる。これらは、感情の主体の外部で起きた出来事なのである。このような感情の主体の外部で、感情が動く時点においてすでに起きた出来事を、宗田(1992)に倣い[外的原因]と呼ぼう。「驚く」「びっくりする」は、[外的原因]の場合、「デ」を使うことができる。もちろん[外的原因]は、次の(21)のように「ニ」も使うことができる。

 (21)雷に驚き、耳をふさいで道端にしゃがみ込んだこともあった。(読売20011109

 これは、「デ」でマークされる「原因」と「二」でマークされる「感情の対象」が、「原因」であれば「感情の対象」ではない、「感情の対象」であれば「原因」ではない、という関係ではなく、「感情の対象」が何らかの条件を満たした場合は、それが「原因」とも言えるということを示している。「おどろく」「びっくりする」は、「感情の対象」が、[外的原因]、つまり感情の主体の外部で、感情が動く時点においてすでに起きた出来事であれば、「原因」と言えるということである。

  ここでは、話者の「感情が動く時点においてすでに起きた出来事」を[外的原因]と名付け、この場合に「デ」を使うことができ、「ニ」も使うことができるとしています。しかし、感情が起こる以上、その原因なしに起こるはずがありません。外的であろうと、内的であろうと出来事、事態の認識により引き起こされるというのが因果関係です。従って、何ら説明にはなりません。この後、

 これは、「デ」でマークされる「原因」と「ニ」でマークされる「感情の対象」が、「原因」であれば「感情の対象」ではない、「感情の対象」であれば「原因」ではない、という関係ではなく、「感情の対象」が何らかの条件を満たした場合は、それが「原因」とも言えるということを示している。「おどろく」「びっくりする」は、「感情の対象」が、[外的原因]、つまり感情の主体の外部で、感情が動く時点においてすでに起きた出来事であれば、「原因」と言えるということである。

 と、纏められていますが全くの誤りです。現実は立体的な因果関係の連鎖ですから、何を原因とし対象とするかは話者の認識の問題です。<「デ」でマークされる「原因」と「二」でマークされる「感情の対象」>という見方が正に言語実体論的な現象論でしかないということです。「マーク」などという機能的な発想の用語がそれを明かしています。話者が対象を原因と認識したことを表現するために、言語規範に基づき格助詞「デ」を用いたのであり、対象と認識した場合には「ニ」を用いて表現するということです。このように、言語の本質の捉え方を誤った論理的必然として、問題の捉え方を誤り、そこから形式論理による最もらしい論理を展開するしかありません。どのような展開となるかを追跡しましょう。■

  
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2015年10月23日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (7)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(5)

32 格助詞の「デ」ではない「デ」>の第三形容詞を検討してみましょう。

 村木(2002)は、品詞の分類は「統語的な機能を優先させなければならない」としたうえで、統語的な特徴から、「第三形容詞」という品詞を設けるべきであるとしている。村木(2002)の「第三形容詞」とは、「底なし一」「がらあき一」「ひとりよがり・」等である。これらの語は、名詞を限定修飾する際に「ノ」が現れるという形態上の特徴から名詞とされてきが、統語的には、次の4つの特徴を持っていると指摘されている。「補語(主語・目的語)になれないか、なりにくい」、「もっぱら規定語として、名詞を修飾限定する用法で使用される」、「コピュラをともない述語になる」、「副詞に特徴的な連用用法を持っている」の4つである。そして、この4つの特徴は形容詞の特徴であるから、「底なし一」等は、名詞ではなく形容詞であるとしている。

 事物の分類は機能ではなく、本質に基づきなされなければ正しい分類はできません。空を飛ぶからといって、鳥や蝙蝠や蜂を一纏めにし、第一鳥類、第二鳥類、第三鳥類などと分類するようなものです。ここで第三といわれるのは、通常の形容詞を第一とし、「ナ形容詞」を第二とし、「ノ形容詞」を第三と分類しています。ここでは、「ナ」「ノ」が活用とされ、これらを含めて一語とし、述語になるとするわけです。先にも述べたように、形容詞の本質は対象の静的な属性の表現であり、「ナ」「ノ」は主体的な表現を表す単語ですから、全く異質の語を一纏めにし機能の共通性から分類したものです。これは、英語の動詞が動的属性とともに、現在、過去、完了という時制、相の表現が一語に結びついている屈折語という特殊な言語の特性を膠着語という日本語に押しつけて解釈する誤りです。

 言語の本質を道具と見る、機能的な発想が語の分類にまで貫かれるという論理的な強制を受けた誤りといえます。「非文」などというプラグマテイックな方法にたよる生成文法もまた、まともな品詞分類をもたないため、恣意的な他からの借用に頼ることとなります。例に挙げられている、「底なし一」「がらあき一」「ひとりよがり・」等は名詞「底」と接尾語「なし」の複合語であり、「がらあき」は静詞、または状態副詞「がら」と静詞「あき」の複合語、「ひとりよがり」は名詞「ひとり」と動詞「よがる」の連用形が名詞に転成したものとの複合語です。認識を扱えない現在の言語学や国語学では単語の定義さえまともに出来ないのが現状で、分散形態論という生成文法に依拠した語形成論もまた同様です。ここでは、第三形容詞論の借用により、

  そうすると、さきに見た(11)の「盛況」は、4つの特徴を備えており「第三形容詞」であると言える。(12)の「寝耳に水」は慣用句であり、「副詞に特徴的な連用用法」は持っていないが、他の3つの特徴は備えており、「第三形容詞」に近いと言えるだろう。(11)(12)は、「第三形容詞」であるために、述語であると解釈されるのである。

 このように、「第三形容詞」の連用形の「デ」は、ナ形容詞の連用形の「デ」と同様に、「~デ、感情形容詞」という構文においては、述語であるという点で、格助詞の「デ」とは区別することができる。そして、「第三形容詞」の連用形の「デ」も、「二」に言いかえることはできない。

 と述語の活用とされ、格助詞ではないことになってしまいます。次は、「判定詞」なるものが出て来ます。注8を見ると、

 判定詞とは、「名詞と結合して述語を作る」働きをする「ダ」「デアル」「デス」のことである。(益岡・田窪(199225))

 とされます。ここでも、「働き」つまり機能による分類が行われています。音声や紙に書かれた文字が、どうしてこんな機能を発揮できるのかをまず論理的に解明すべきでしょう。それでなければ、単なる現象論か、言霊論でしかありません。説明を見ましょう。 

 次の例は、判定詞「ダ」の連用形の「デ」の例である(以下、判定詞「ダ」の連用形の「デ」を判定詞の「デ」と呼ぶ)注8

 (13)「逮捕は突然のことで{*に}驚いている。大学側から何の連絡もなく、どうしていいかわからない」(読売20090601

 (14) 2年生の次男坊がきかん坊で{*に}困っています。(知恵袋OC1001625

 (13)(14)は、それぞれ「逮捕は突然のことだ」「2年生の次男坊がきかん坊だ」が「驚く」「困る」にかかっているのであり、「突然のことだ」「きかん坊だ」は述語で、(13)(14)の「デ」は判定詞の「デ」である。このように主題・主語が言語化されている判定詞の「デ」は、「二」に言いかえることはできない。

  判定詞とされているのは、肯定判断・指定の助動詞「だ」で、連用形が「で」です。(13)は、「突然の逮捕で驚いている」とすれば、「突然の逮捕」という名詞句で、単に事態を客観的に因果関係で捉えた表現となり、「で」は格助詞で、「突然の逮捕驚いている」と対象の認識としても表現できます。しかし、例文のように、「逮捕は突然のことで」という表現は、「逮捕」を普遍性の認識「は」で主題とし、「突然のこと」と形式名詞「こと」で事態を動かぬものとして媒介的に再確認し、これを肯定、断定する話者の判断表現「で」により、話者の「驚き」という認識が語られています。従って、この場合は肯定判断・指定の助動詞「だ」の連用形「で」です。これを、「述語を作る」などという機能からしか説明できないのでは論理的ではありません。(14)も「2年生のきかん坊の次男」とすれば、格助詞による表現となります。文意から格助詞ではないとする指摘は正しいのですが、論理的な解明ではありません。

 <主題・主語が言語化されている判定詞の「デ」は、「二」に言いかえることはできない。>などと、現象を指摘するだけで、ではいいかえはどうすれば出来るのかを明らかにすることもできません。■

  
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2015年10月19日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (6)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(4)

 先に続き、次のように記されています。

  また、次のように、「二」と「デ」が共起する場合の「デ」も「二」に言いかえることはできない。

 (8睡眠不足頭痛に悩んでいる。(宗田(1992))

 (9長期に亘る日照りで、作物の不作に苦しんだ。(三原(2000))注4

 (8)(9)の「デ」を「二」に言いかえることができないのも、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在することによる。

 ここでは、話者が悩み(苦しみ)の原因と結果を因果関係として認識し「~デ~ニ悩む(苦しむ)」という対で表現されているのであり、単に「共起」という現象を捉えても意味がありません。「睡眠不足にも悩んでいる」、「長期に亘る日照りにも苦しんでいる」と言えます。

 また、「睡眠不足と頭痛に(で)悩んでいる」し「長期に亘る日照りと、作物の不作に(で)苦しんだ」とも言える。

 事実として、睡眠不足が原因で頭痛が起こっていても、何を悩みの対象と考え、因果関係をどのように捉え、表現するかは、あくまでも話者の認識の問題です。誤った認識をし、「頭痛で、睡眠不足に悩んでいる」と表現するかもしれないし、どちらが真実かは、表現とは別の問題です。

「二」と「デ」が共起するからといって、意味を問題にしなければ「言いかえる」ことはできるが、意味を考えれば最初から「言いかえる」ことはできないということです。

続いて、<32 格助詞の「デ」ではない「デ」>を見ましょう。

 ところで、「~デ、感情動詞」という構文の用例を集めてみると、格助詞の「デ」ではない「デ」の用例がある。

 まず、次の(10)は、ナ形容詞の連用形の「デ」である

 (10)「簡単で{*に}驚いた。非常食では飽きてくるし、普段の料理に近いものを食べると安心できる」(読売20081223注5

 (10)は、災害時に簡単に作れる料理の講習会に参加し、さばのホイル包み焼きを作った人のコメントである。形容詞は何らかの属性を表すものであり、その属性の持ち主が必要である。(10)の「簡単で」は、言語化されていないが、「さばのホイル包み焼き」が属性の持ち主である。(10)の「簡単で」は、「さばのホイル包み焼きは簡単だ」の「さばのホイル包み焼き」が言語化されていないだけで、述語なのである。「さばのホイル包み焼きは簡単だ」ということが、「驚く」という感情を引き起こしたという点では、「簡単で」は「原因」であると言えるが、述語であるという点で、格助詞の「デ」とは区別することができる。そして、ナ形容詞の連用形の「デ」は、「ニ」に言いかえることはできない。

  「ナ形容詞」などという品詞が持ち出されていますが、このような品詞の分類は誤りです。ここでは、名詞「簡単」に続く「格助詞」の「デ」が原因を表しています。「簡単」は形容詞的な内容を表している漢語で「簡単な作業」というように使用されます。この場合の品詞は活用のない形容詞というべきもので、通常の活用のある形容詞と形容詞的な内容をもつこれらの語を一括して「静詞」と名付けることを三浦つとむが提唱しています。形容詞とは実体の静的な属性を抽象したものです。しかし、ここではその属性を実体的にとらえた名詞として「簡単」が使用されています。

「簡単で」を一語の「ナ形容詞」の連体形とみることは、形容詞の活用と捉えるものですが、「形容詞」とは「属性」の表現であり、話者の主体的認識である原因の認識を表すことはありません。ここでは明らかに原因として認識し表現され、読み手もそのように認識しています。ここで論理が破綻しています。この矛盾を避けるために、「述語」などという規定を唐突に持ち出しているわけですが論理的とはいえません。

 初めの所に、注5が付けられ、次のようになっています。

 10)は、「ニ」に言いかえた場合、「たやすく驚いた」という意味では適格文である。

 と記されているように、「簡単に驚いた」とした場合は「簡単」は名詞ではなく静詞で属性表現の語と判断され、「さばのホイル包み焼き」が簡単なのではなく、「さばのホイル包み焼きを作った人」が「たやすく驚いた」という意味になってしまいます。適格文ではありますが、この文脈では全く意味が異なります。論者は、これをもって<「ニ」に言いかえることはできない>とし、「ナ形容詞」などを持ち出しているわけですが、これはとんだ藪睨みというしかありません。 

 たとえば、<「簡単‼」、驚いた。>と、「簡単」の名詞性を明確にすれば使用できます。また、<簡単なの驚いた>と、抽象名詞の「の」を使用して、「簡単なの」と概念を明確にすれば、「ニ」を使用できます。

  ナ形容詞の連用形の「デ」は、「ニ」に言いかえることはできない。

のではなく、<漢語である静詞「簡単」という語の特性により単に「デ」を「ニ」に言いかえると全く意味が変わってしまう>のです。ここにも、単純に文を実体的に捉え、「言いかえ」と見る発想の誤りが露呈しています。言語表現の本質を正しく理解し、論理的に解明できなければ科学的な言語論とはいえません。■

  
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2015年10月19日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (5)

    「感情動詞の補語についての一考察―「ニ」と「デ」について」(3)

 2 先行研究と考察の対象では、先に見たように形式主義的な用法の検討に基づき、

  これらのそもそも「デ」を使うことができない動詞を見てみると、「先輩にあこがれる」の「先輩」は「あこがれる」の対象であり、宗田(1992)の言うように「二」は「感情の対象」をマークすると言える。一方の「二」と「デ」を言いかえることができる場合がある動詞も、「地震に驚く」の「地震」は「感情の対象」と言えるであろう。そして「地震で驚く」と言った場合は、「地震」は「驚く」の「原因」である。つまり「地震」は「驚く」の「感情の対象」であり、かつ「原因」でもあるのである。「ニ」をどのような場合に「デ」に言いかえることができるか、という問題は、「感情の対象」がどのような条件を満たせば「原因」と言えるのかという問題である。

 と、感情の対象の条件に単純化され、これに基づき言いかえできるか否かの<条件>を明らかにするという論理展開になります。しかし、人が何かの感情を喚起されるからには何らかの要因があります。そこには因果関係があり、何を対象とし、何を原因とするかは話者の認識の問題であり、その認識が文として表現されます。従って、「言いかえ」とは対象の捉え方の変更あるいは、表現方法の変更として検討すべきものと考えられます。「感情の対象」自体の条件とは考えられませんが、その論理を辿ってみましょう。

 続く<3 「二」が使えるとき・使えないとき>の3.1は次の通りです。

 31 「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合

 「二」は「感情の対象」をマークするものであり、基本的に「二」を使うことができない場合はないと言える。しかし、次の例は、「デ」が使われているが、「二」に言いかえると文意が変わってしまう。

  (7)「斐川の離脱で迷った。合併の答えが出るには二十年はかかる。二市五町で期待していたものをどれだけ二市四町で出来るかだ。市民一丸となって改めて取り組んでいきたい」(読売20031216

 (7)は、7つの市町村で合併を検討していたところ、斐川町という町が合併計画からの離脱を表明し、そのことに対して斐川町に隣接する市の市長がコメントを述べたものである。この例では、「迷った」のは「自分の市が市町村合併に参加するかどうか」であり、これが「感情の対象」である。「斐川の離脱」は、「迷う」の「原因」ではあるが、「感情の対象」ではない。このように、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合、「原因」を「二」でマークすることはできない。

  ここでは最初に「文意が変わってしまう」のを根拠に<「原因」を「二」でマークすることはできない>とされます。しかし、文意を問題にするのであれば「二」は単に対象の認識を表すものであり、「デ」は理由・誘因の認識を表すものですから、最初から「言いかえ」などありえないことになります。「斐川の離脱迷った」は、「離脱」を「悩み」の原因として認識し表現しています。論者は「斐川の離脱で、自分の市が市町村合併に参加するかどうか迷った」と理解しているのですが、それは論者の認識で、市長がそう表現しているわけではありません。事実をそのように認識し表現することも出来るということです。

 事実は、7つの市町村で合併を検討していたところ、斐川町という町が合併計画からの離脱を表明したため、斐川町に隣接する市が、当初の計画通り合併を推進すべきかが問題となり、検討したが、やはり予定通り市民一丸となって改めて推進に取り組んでいくことになったということです。

最初に<基本的に「二」を使うことができない場合はないと言える>と記された通り、<「斐川の離脱に迷った」>と表現することもできます。これは、「非文」でも「不自然」でもありません。この場合は、市長が単純に「斐川の離脱」を「悩む」という「感情の対象」として捉え表現しています。また「斐川の離脱(の為迷った」の省略形とも捉えられます。そして、次のように続けて表現できます。

 斐川の離脱迷った。合併の答えが出るには二十年はかかる。二市五町で期待していたものをどれだけ二市四町で出来るかだ。市民一丸となって改めて取り組んでいきたい」

 原因である対象を単に対象と捉え表現することは認識の相違であり、それに対応した表現が可能です。市長は、「斐川の離脱」悩み、「自分の市が市町村合併に参加するかどうか」の判断を迫られ、「合併に参加する」ことを決めたと言えます。ある見方からは原因であるものも、見方を変えれば結果でもあり、それぞれの事実は認識の対象でもあります。

このように、<「斐川の離脱」は、「迷う」の「原因」ではあるが、「感情の対象」ではない。>というのは、論者の認識を絶対化した誤りであり、

 このように、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合、「原因」を「二」でマークすることはできない。

 というのは、対象→認識→表現の過程的構造と、その相対的独立を理解できないための誤りというしかありません。■

  
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2015年10月18日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (4)

    感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(2)

 前回は少し結論を急ぎすぎましたので、もう少し最初から論理展開を追ってみましょう。

 まず、題名ですが、「感情動詞の補語」についての「一考察」となっています。「補語」とは何かですが、デジタル大辞泉の解説をみてみましょう。

 1 《complement》英語・フランス語などの文法で、それだけでは完全な意味を表さない動詞の意をおぎなう  語。“He is rich.” “I make him happy.”のrich, happyの類。

2 日本語で、連用修飾語のうち、主として格助詞「に」「と」などを伴う語。「兄が弟に本を与える」の「弟に」の類。「を」を伴うものを目的語または客語というのに対する。

このように、本来は英語文法等の概念で、これを日本語にも適用したものです。そして、<主として格助詞「に」「と」などを伴う語>で格助詞「に」「で」そのものではありません。格助詞「に」と「で」の考察ではなく、感情動詞の<意味を補う語>の考察ということで、ここに、現象的・形式的な見方が示されています。

 そして、<問題の所在>では、<感情動詞には、「子を愛する」のようにヲ格をとるものと、「金に困る」のように二格をとるものがあり>と、先の「補語」の定義では<「を」を伴うものを目的語または客語というのに対する>「に」「と」なのですが、現象論的に「ヲ格をとるもの」「ニ格をとるもの」と質的な相違を無視して並置されます。さらに、 

  後者については、「ニ」と「デ」の言いかえが可能な場合があることが指摘されている。

 と、目的語との関連を無視したまま<「ニ」と「デ」の言いかえ>の問題に進みます。「ニ」と「デ」を伴う連用修飾語は補語ですが、「を」は目的語として通常は区別されるのですが、ここは無視されます。生成文法にはまともな品詞論がないのです。そして

     a 人手不足に悩む      b 人手不足で悩む  (作例)

   a 地震に驚く        b 地震で驚く    (作例)  

と「言いかえ」の例が示されます。これを、「言いかえ」とする根拠は「」を機械的に「で」に置き替えても違和感がない、「意味が通る」ので生成文法でいう「非文」ではないという判断です。しかし、「人手不足に悩む」は悩む対象を単にスタッティックに捉え表現しているにすぎず、「人手不足で悩む」は悩みの要因・原因を表現しているのであり、単なる「言いかえ」ではなく、話者の認識の表現、すなわち意味が異なる文です。論者はその点を問題として捉えることなく、「言いかえ」の例としています。さらに、その根拠を、

  「二」と「デ」を言いかえることができる場合があるのは、述語が感情動詞の場合、「ニ」が「感情の動きの誘因」を表す(寺村1982139)とされ、「デ」が多くの用法のひとつとして、「原因」を表すことがあるためと考えられる。

 とします。まず、寺村秀夫(1982)『日本語のシンタクスと意味1』での、<述語が感情動詞の場合、「ニ」が「感情の動きの誘因」を表す>という指摘を肯定しています。これが妥当か否かをまず検討する必要があります。デジタル大辞泉の解説を見ましょう。

 に】

  [格助]名詞、名詞に準じる語、動詞の連用形・連体形などに付く。

1 動作・作用の行われる時・場所を表す。「三時―間に合わせる」「紙上―発表する」

2 人・事物の存在や出現する場所を表す。「庭―池がある」「右―見えるのが国会議事堂です」

3 動作・作用の帰着点・方向を表す。「家―着く」「東―向かう」

4 動作・作用・変化の結果を表す。「危篤―陥る」「水泡―帰する」

5 動作・作用の目的を表す。「見舞い―行く」「迎え―行く」

6 動作・作用の行われる対象・相手を表す。「人―よくかみつく犬」「友人―伝える」

7 動作・作用の原因・理由・きっかけとなるものを示す。…のために。…によって。「あまりのうれしさ―泣き出す」「退職金をもとで―商売を始める」

8 動作・作用の行われ方、その状態のあり方を表す。「直角―交わる」「会わず―帰る」

9 資格を表す。…として。「委員―君を推す」

10 受け身・使役の相手・対象を表す。「犬―かまれた」「巣箱を子供たち―作らせる」

11 比較・割合の基準や、比較の対象を表す。「君―似ている」「一日―三回服用する」

12 (場所を示す用法から転じて、多く「には」の形で)敬意の対象を表す。「博士―は古稀(こき)の祝いを迎えられた」「先生―はいかがお過ごしですか」

13 (動詞・形容詞を重ねて)強意を表す。「騒ぎ―騒ぐ」

14 「思う」「聞く」「見る」「知る」などの動詞に付いて状態・内容を表す。

15 比喩(ひゆ)の意を表す。

この、7.の「動作・作用の原因・理由・きっかけとなるものを示す。」が該当するわけですが、この説明も語の意義と文の意味を混同している所があると言わなければなりません。この説明に続けて「…のために」、「…によって」と記されているように「原因・理由」の認識はそれに続く語が担っているのであり、「に」は単にスタッティックな事物のありかたの方向、対象との結び付きを意識しているだけで、「原因・理由」を意識しているのではないのです。12.や3.が時や場所や「動作・作用の帰着点・方向を表す」と記し、6.で「動作・作用の行われる対象・相手を表す」と記すように、格助詞「に」そのものはスタッティックな対象との結び付きの認識でしかありません。文脈での意味を「語」の意義に持ち込んでしまう解釈が上記の記述に表れています。

これは、現在の言語学、国語学が語の意味と言うときに、語の規範である意義と、文脈上での意味の二つが関連はあるが異なることが理解されていないことによります。

「に」対し、「子を愛する」の格助詞「を」はダイナミックな認識を表します。そして、格助詞「で」こそが、「原因・理由」を意識し表現しているのです。この事実を踏まえて、続けて検討していきましょう。■

  
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2015年10月15日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (3)

     「 感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(1)

  作用を表す動詞に関する「壁塗り交替」という現象論を見ましたが、感情動詞の補語、あるいはニ格~デ格の格交替の問題を考察している国語学、日本語学の論考があります。本質的には同じ問題ですが、これらの論を見てみましょう。

①「 感情動詞の補語についての一考察―「ニ」と「デ」について」村上佳恵(2010

②「ニ格とデ格の交替について」張 麗(2013

③「感情動詞におけるニ格とデ格の交替について」張 麗(2014

まず、①について、詳しく検討してみましょう。次のように問題が提起されます。

 1 問題の所在

 感情動詞には、「子を愛する」のようにヲ格をとるものと、「金に困る」のようにニ格をとるものがあり、後者については、「ニ」と「デ」の言いかえが可能な場合があることが指摘されている。

 (1a 人手不足に悩む      b 人手不足で悩む   (作例)

 (2a 地震に驚く        b 地震で驚く      (作例)

「ニ」と「デ」を言いかえることができる場合があるのは、述語が感情動詞の場合、「ニ」が「感情の動きの誘因」を表す(寺村1982139)とされ、「デ」が多くの用法のひとつとして、「原因」を表すことがあるためと考えられる。しかし、次のように、「デ」に言いかえることができない「ニ」があることも事実である。

 (3a 彼女の優しさに驚いた   b ?彼女の優しさで驚いた。  (作例)

本稿では、感情動詞の補語をマークする「ニ」が、どのような場合に「デ」に言いかえることができるのかを考察する。

  ここでも、<「二」が、どのような場合に「デ」に言いかえることができるのか>と「言い替え」の問題として捉えられています。この論考は、<感情動詞の補語をマークする「ニ」>と格助詞「ニ」が「補語のマーカー」とされるように生成文法に依拠しています。そして、<用例の「*」は、その文が非文であること、「?」は不自然であることを示す。>と、先に生成文法の主観的判定基準として指摘した「非文」が出て来ます。

まず問題になるのは、「言い替え」とは何を言っているのかです。「問題の所在」で、「言いかえることができる」のは「ニ」が「感情の動きの誘因」を表し、「デ」が多くの用法のひとつとして、「原因」を表すことがあるためと考えられる>と記すように、用法が異なった表現ではあるが「非文」や「不自然」でなければ「言いかえ」が成立すると見なされていることです。表現としての言語として見れば、用法が異なるということは話者の認識が異なるのであり、当然のこととして、表現された文の意味は異なります。つまり、「言いかえ」ではありません。これを「言いかえ」と見なすには、その認識の対象である事実が同じと判断し、認識を無視する他ありません。そして、この、事実が同じか否かの判断は、その文が「非文」か「不自然」かという論者の主観的判断によるしかありません。ここに、これまで指摘してきた形式主義言語論であり、プラグマティックな発想に依拠する生成文法の本質が示されています。

実際に、22 「二」と「デ」について>の最後で、

 「二」をどのような場合に「デ」に言いかえることができるか、という問題は、「感情の対象」がどのような条件を満たせば「原因」と言えるのかという問題である。

 とされ、「感情の対象」である、事実あるいは想像の条件を検討することになります。しかし、対象と認識は相対的に独立しており、さらに認識と表現もまた相対的に独立しています。そして個別の対象は多様な、属性、構造、関係をもっています。このような方法での検討に意味があるとは思えません。生成文法に依拠する発想、論理がどのようなものであるか、以下少し詳しく見てみましょう。

 まず、2 先行研究と考察の対象  21 格助詞「デ」について>を見ましょう。最初に次のように記しています。

  格助詞の「デ」は、前にくる名詞句と、後ろにくる述語の意味によって、さまざまな用法があることが知られている。

  格助詞の用法、つまり機能が「前にくる名詞句と、後ろにくる述語の意味によって」決まるとされます。つまり、格助詞自身が意味をもっているのではなく、無限にある文の中で前後の関係から用法が決まると言っています。それは多分、人間がもっている普遍文法が決めるとでも考えるしかないのかもしれません。単語の意味、意義とは規範であり、助詞とは主体的表現の語であり、客観的な対象の持つつながりの認識の表現とみなす言語過程説の立場とは全く逆の発想といわねばなりません。言語とは、このような規範を媒介とした話者の認識の表現で、このような規範なしに表現も受け手の理解も成立しようがありません。

生成文法の発想は、現象、機能を本質と取り違えるところから始まっていると思われます。「2.」の纏めは、先の結論となります。 

「地震驚く」の「地震」は「感情の対象」と言えるであろう。そして「地震驚く」と言った場合は、「地震」は「驚く」の「原因」である。つまり「地震」は「驚く」の「感情の対象」であり、かつ原因」でもあるのである。「二」をどのような場合に「デ」に言いかえることができるか、という問題は、「感情の対象」がどのような条件を満たせば「原因」と言えるのかという問題である。■

  
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2015年10月14日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (2)

 先の論考①「壁塗り交替についての考察」で、 

   a.ジョンは、壁にペンキを塗った。(〜ニ〜ヲ)   b.ジョンは、壁をペンキで塗った。(〜ヲ〜デ) 

に対し、(a)は、「その結果としての壁の状態は言及していない。したがって、壁の一部にしかペンキが塗られていない状況を表現することが可能である。」や、(b)では、「壁全体がペンキで塗られたという解釈が強くなる。結果的に、一般的な状況のもとで、壁の一部にしかペンキが塗られていないという事象を表現することはできない。」というのは、「壁塗り交替」という現象を前提にしているための強引な推論に過ぎず、文とは対象の認識の表現であることを考えれば、形式的に格助詞を入れ替えた形は単に語の形式的な羅列に過ぎず、認識が対応していないので本来の文ではないことになります。それを、論者の経験の中にある形式と結びつけ、逆に対象を想像しているだけとなります。本来の文としての「ジョンは、壁にペンキを塗った」という表現は、この一文だけでは先に理解したように、「壁に塗った」という事実の認識の表現としか読みとれません。しかし、実際の会話や文章の文脈においては、前後の文脈で「壁」や「ペンキ」は「家の壁」「倉庫の壁」や「赤いペンキ」「白いペンキ」という具体的な意味が与えられ、その状況が知られて理解されます。それが、表現としての文章での具体的な意味となります。

 ④「壁塗り代換を起こす動詞と起こさない動詞:交替の可否を決定する意味階層の存在」では、

 一方,次の「付ける」や「汚す」等のように,こうした交替を起こさない動詞もある。

 3a.壁にペンキを付ける      b*壁をペンキで付ける

 (4a.*壁にペンキを汚す      b.壁をペンキで汚す

 と形式的な格助詞の交替により、意味を成さない例が検討されます。これまでの先行研究では、

 概ね、「塗る」等の動詞が交替を起こすのは位置変化と状態変化の両方を表すからであると論じられてきた。たとえば奥津(1981:左32)は.「(川野注:「塗る」等の交替動詞は)移動動詞の格の枠と,変化動詞の格の枠とをあわせた二重の格の枠をもつ動詞であり,そのどちらの枠を選ぶかによって,表層の格のちがい.つまり代換が壁塗り代換を起こす動詞と起こさない動詞説明できる」と述べている

 と先行研究が紹介されていますが、実際には論者が、その文形式に対応する意味が現実と対応する例を見つけられないため非文と判断しているに過ぎません。本来は現実の現象に対応した認識、またはそれに即した再構成の空想が認識され表現されるわけですが、そのような例は存在しないため形式的な文も非文と判断されることになります。

このように、「壁塗り交替」という現象的な捉え方自体が誤りであることが判明すれば、全く無意味な論を展開していることが判ります。

②「いわゆる「壁塗り交替」について―構文は交替しない.単に(意味の相互調節に基づいて)選択されるだけである―」では、「彼はその仮説の立証のために,わざわざ三本の論文を費やした」に対し、

 (5) X∗, Y, V2 = 費やす (非交替)

 a. P1: *彼は [X∗ の仮説の実証] [Y三本の論文]で費やした b. P2: 彼は [X∗その仮説の実証][Y三本の論文]を費やした

  (6) X∗, Y, V1 = する (おしくも非交替)

  a.?彼は [X∗ その仮説の実証] [Y 三本の論文]でした b. *彼は [X∗ その仮説の実証] [Y三本の論文]をした

 に対し、

  問題 1: (6a, b) のような,交替しそうでしない例で[V2: “する”⇒ V2 = 費やす”]のように語彙を変化させて「意味が通る」ようにできるのは,いったいなぜなのか? (しかも,(5) から明らかであるように,V2 =“費やす” が交替を許す動詞だというわけでもない)

 と、非交替の動詞が場合によっては交替を許すのは何故かを問題にしています。そして、「派生が構文間の競合の副産物だと言う主張」を導きだし、「それなりの説明モデル」を提起しています。これも、単に形式的な語の交替による文形式を作り、後から、現実に対応する認識があり得るのかを検証しているもので、論理的に逆転していることが理解出来ていません。

 この論文を書かれた黒田航氏は、「純粋内観批判―生成言語学の対抗馬であるだけでは認知言語学は言語の経験科学にならない(2005)という論稿で、認知言語学の現状に対し、

  あまりに多くの認知言語学者が認知言語学も客観主義と融和する必要性を理解していない.彼らの多くは客観主義や実証性を敵対視する「腐れ人文主義」に染まっている。彼らはそのくせ、自分たちのやっていることが言語の「科学」であると言う.正直なところ,これが仮にも「研究者」と呼ばれる人々の発言だとは私には信じられない.それは私が研究者だと思っている人たちの特性とはあまりに違う。

 と鋭い科学性に対する批判を展開されていますが、「科学」を単に経験科学とし、自然科学の一類と捉えている限り「言語の科学」の展開を望むことはできません。■

  
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2015年10月13日

形式主義言語学の 「壁塗り交替」 という現象論 (1)

生成文法の形式主義、言語実体観の誤りについて見て来ましたが、これらの影響下にある現代言語学の現象論の事例として「壁塗り交替」について考えてみます。Net上で次の論考を見ることができます。

①「壁塗り交替についての考察」佐藤章子(2002)

②「いわゆる「壁塗り交替」について―構文は交替しない.単に(意味の相互調節に基づいて)選択されるだけである―」黒田航(2005

③「構文文法に基づく日本語他動詞文の分析―壁塗り交替を事例に―」永田,由香(2005

④「壁塗り代換を起こす動詞と起こさない動詞:交替の可否を決定する意味階層の存在」川野靖子(2009

⑤「現代日本語の動詞「詰める」「覆う」の分析―格体制の交替の観点から―」川野靖子(2012 

「壁塗り交替」と呼ばれているのは、 

   a. ジョンは、壁ペンキ塗った。(〜ニ〜ヲ)  b. ジョンは、壁ペンキ塗った。(〜ヲ〜デ)

という様に、同じ「壁塗り」という現象が「~に~を」という文と、「~を~で」という二つの構文で表現されるのを捉え名付けられたものです。「塗る(った)」という動詞の形態が変わらない二つの構文を「壁塗り交替」と呼んでいます。これは英語でも同じで、①では、

   a. John sprayed paint on the wall.     b.  John sprayed the wall with paint.

の例を取り上げています。そしてこの二つの文が同じ意味なのか、相違するとすれば、何が異なるのか、その理由は、さらに「壁塗り交替」の出来ない動詞との相違の究明がテーマとなっています。①では、認知言語学の立場から、次のような解釈が提示されています。(以下、色付け、強調は評者。)

(a)では動詞から近い位置にあるのは移動物であるペンキ(paint)なので、動詞の影響を大きく受けているのはペンキである。ペンキに対する動詞の影響といえば普通は、「ペンキの壁への移動」だと考えられるため“移動”を叙述した文だと言える。また、pour型の構文を使っていることから、動詞の意味構造の<変化(移動)>の部分に焦点があてられているので、その結果としての壁の状態は言及していない。したがって、壁の一部にしかペンキが塗られていない状況を表現することが可能である。これに対し(b)では、動詞の影響を大きく受けるのは場所名詞である壁(thewall)である。壁に対する動詞の影響が大きいということは一般的に、「壁がペンキで塗り尽くされた」という事態が考えられるので“結果状態”を叙述した文ということになる。fill型の構文であるため、意味構造の<結果状態>の部分に焦点をあてて表現しているので、壁全体がペンキで塗られたという解釈が強くなる。結果的に、一般的な状況のもとで、壁の一部にしかペンキが塗られていないという事象を表現することはできない

表現形式が異なるだけで論理的な意味は等しいとされてきた2つの構文だが、ある状況を表現するのにどの部分に焦点をあてるかが異なっているということがわかった。形式の違いが意味に反映されるということは、どの形式を選択して表現するかによって、話者の認知の仕方が示されているといえるだろ。

ここでは、「動詞の意味構造」なるものが問題とされ、「ペンキに対する動詞の影響」を「大きく受ける」部分への話者の認知の仕方が問題とされています。すなわち、「動詞から近い位置にあるのは移動物であるペンキ(paint)」なので」、「動詞の影響を大きく受けているのはペンキ」であり、「動詞の影響を大きく受けるのは場所名詞である壁(the wall)である」と<動詞>の意味によらず、<動詞>自体が何かに影響を与えるという言語実体観による形式的な解釈が示されています。

言語過程説では、言語とは対象―認識―表現の過程的構造に支えられた表現ですから、この文に表現されている話者の認識が明らかにされなければなりません。これを「ジョンは、壁にペンキを塗った」について、丁寧に辿ってみましょう。

「ジョンは」と始まっていますから、他のビルやスミスではなく、ジョンという人の特殊性の認識を表しています。そのジョンが「壁に」ですから格助詞「に」は、<帰着点や動作の及ぶ方向を表す>ので、ここでは、<目標・対象などを指定する>ことになり、「壁」という動作対象の目標認識を示しています。次に、「ペンキを」で、格助詞「を」が<動作・作用の対象を表>しますから「ペンキ」が動作対象であることを認識しています。そして、「塗る」という動詞が<物の表面に液や塗料,また,ジャム・バターなどをなすりつける>動作の認識を示し、助動詞「た」が、これまでの内容が今現在ではなく、過去の事実であった認識を示しています。このように見てくれば、この文の意味は明瞭となります。意味とは、話者の認識と表現された形である文との関係ですから、この文が話者の認識と結びついているのが判ります。「ジョンは、壁をペンキで塗った」もまた、同様に意味をもち、対象が「壁」であり、材料、手段が「ペンキ」であることが示されています。つまり、この2つの文は、対象の認識が異なるのであり、格助詞「に」「を」「で」はそれぞれの話者の認識を表現しているのであり、交替をしているのでも何でもなく、話者の認識の相違に対応しています。

このように、対象―認識―表現という過程的構造を捉えられない、言語実体観という形式主義的な見方では単に表現された文や語という形自体か、認識抜きの対象と形との関係にすべての要因、原因を求めざるを得ないことになります。そして、単に文の形の比較から格助詞の交替という現象に意味があるという誤った判断に導かれます。

認知に注目した認知言語学も又、上に見るように「動詞に近い位置にある」「移動物」「場所名詞」などという、話者の認識を示す語の本質とは無関係な語順や名詞の属性という形式を問題にするしかないというのが実情です。

「壁塗り交替」などという形式的な現象を捉えるしかないところに現在の言語学の限界が露呈しています。さらに、もう少し内容を検討してみましょう。■

  
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2015年10月05日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (5)

  時代背景 ― 情報理論と人間機械論(2)
『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 (岩波文庫:2014.1.16)

 当時、情報科学と呼ばれたのは通信理論と共にノーバート・ウィーナーによって提唱された『サイバネティックス: 動物と機械における制御と通信』の発想と結びついていました。情報のフィードバック(帰還)による制御により単なるやりっぱなしではなく、結果をフィードバックし調和を実現する制御システムを目指したのです。その結果、JR始め、各種の券売システム、運行制御システムや銀行の営業店システム、ATMなどの現在の制御システムや、ディジタルTV、スマートフォンが生みだされることとなりました。
 このシステム理論により人間もまた、五感によりデータを入力し、脳による演算・制御を行い、その結果による行動を行い、感覚器官によるフィードバックを伴うシステムとみなされました。ある種の人間機械論ともいうべきものです。そして言語もまた、このような機械の産物とみなされました。これらは単に機能としての比較に過ぎず、人間と機械の本質的な違いは無視されていることが分ります。機械は、まず動力源、エネルギー源としての電力を外部から供給されねばなりません。そのエネルギーにより、電子などの運動を利用してデータの演算や、磁気を利用しモーターを動作させたりして与えられた手順に従って、情報や物を処理するに過ぎません。処理の手続きや異常時の処理方法は予め定められた手順により処理するだけです。
 しかし、人間は自分で食事によりエネルギーを補充し、生命を維持し、意志を持ち、認識、判断する自律した存在です。そして、互いに協働し意志の疎通を図り、社会生活を営んでいます。このために、お互いの認識を表現し交換しなければなりません。この人間の概念的認識の表現こそが言語であり、そのために共通の規範を生みだし運用しています。人間機械論は、この人間の本質を無視し単に機能を比較し論じているに過ぎません。先にも見た通り、

 各々が有限の長さを持ち、また、要素の有限の集まりから構成される文の(有限あるいは無限の)集合として言語(Language)を考えていく。全ての自然言語は、書かれたものであろうが話されたものであろうが、この意味における言語である。なぜなら、個々の自然言語には、有限の数の音素(あるいは、アルファベットの文字)があり、文の数は無限ではあるが、各々の文はこれらの音素(あるいは、文字)の有限列として表示されるからである。

という言語本質観は、正に人間機械が出力した文字の集合として文を捉えるもので、認識されたものの表現としての文ではありません。「左から右へと文を生み出していく有限マルコフ過程に基づいて文法性を分析しようとするアプローチは、第二章で退けた諸提案とまったく同様に、必ず行き詰まってしまうように思える」ため「句構造による記述」に進み、さらに、

 変換分析を正確に定式化すれば、それが句構造を用いた記述よりも本質的にもっと強力であるということが判る。これは、句構造による記述が、文を左から右へと生成する有限マルコフ過程による記述よりも本質的に強力であることと同様である。

と、その人間機械論という言語本質観の根本にある誤りに立ち戻ることなく単なる方法論のレベルでの修正を次々と重ねるだけでは言語の本質はもとより、文、文法も言語習得の本質も明らかにすることはできません。「第九章 統辞論と意味論」では9.2.1で、

 「意味に訴えることなしに、一体どのようにして文法を構築することが出来るのか」という問いに答えようとするために多大な努力が払われてきた。しかしながら、この問い自体が誤って立てられているのである。なぜなら、この問いの背後にある、意味に訴えれば文法が構築できるのは明らかだという暗黙の想定には全く根拠がないからである。

と人間機械論的発想で意味論を排除しているが、事実は先にも指摘したように「非文」という論者や、読者の主観に依拠して意味を密輸入し、文、文法の適否を判断するというプラグマテイックな手法で表面的に意味を排除しているに過ぎません。言語の本質に基づき意味とは何かを明らかにすることなしに、意味と文の関係を論ずることはできません。
 このように見てくれば、生成文法なるものの根底が時代思潮でもある人間機械論という当時の情報理論に依拠した形式的、機能主義的な言語論に過ぎないことが明確になります。このあとの、「デカルト派言語論」なる宣言もまた、この発想の延長線上でしかないことは「プラトン的イデア論への転落」として既に批判されているところです。■
  
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2015年10月02日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (4)

  時代背景 ― 情報理論と人間機械論(1)
『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 (岩波文庫:2014.1.16)

 チョムスキーは対談集『生成文法の企て』(福井 直樹 , 辻子 美保子 訳:2003.11.26)の「第一章 言語と認知」で次の様に述べている。

  一九五〇年代には、多くの人々が有限オートマトンに興味を示していました。なぜならば、その当時の技術の進歩に大きな信頼が寄せられていましたし、有限オートマトンの理論が理解され始めていた頃でもあったからです。情報理論との関連も明らかに存在しました。一九五〇年代初頭の、シャノンとウイーヴァーの共著『コミュニケーションの数学的理論』やジョージ・ミラーの著書『言語とコミュニケーション』に遡ってみると、研究上のブレークスルーが見つかったような感覚が確かにありましたね。情報理論、有限オートマトン、マルコフ型情報源、音声スペクトログラム等の専門技術が出そろった頃でした。自然科学が人間の心や人間の認知に関わる現象を含むまでに拡大しつつある、正にその瀬戸際に立っている、と皆思っていたのです。大変な興奮でした。ひどく単純な考え方ではありましたが。たぶんやってみる価値はあったんでしょう。私は当時学生だったんですが、そううまく行くはずはないと確信していましたし、事実こういった試みはすぐにつぶれてしまいました。今では誰も有限オートマトンで人間の認知能力の諸特性を表せるとは考えていないと思います。

  一九四八年にはMIT(マサチューセッツ工科大学)のノーバート・ウィーナー『サイバネティックス: 動物と機械における制御と通信』、ベル研究所在勤のクロード・シャノンによる論文「通信の数学的理論」が出され、ベル研究所でトランジスタが発明された、コンピュータ技術、通信技術と制御技術の揺籃期でした。この発明・発見の成果が今日の情報通信革命、ICT革命の源となっています。
 『通信の数学的理論』(クロード・E. シャノン/ワレン ウィーバー 著, 植松 友彦 翻訳:ちくま学芸文庫2009/8/10)の「通信の数学的理論への最近の貢献」では、情報についてつぎのように記しています。

 通信理論においては、情報という言葉は特別の意味で用いられており、それを日常的な用法と混同してはならない。特に情報を意味と混同してはならない。
 事実、あるメッセージは意味的に重要で、別のメッセージは全く無意味であったとしても、情報に対する今の視点からすれば、これらの2つのメッセージはまったく等価であるということがありうる。「通信の意味的側面は工学的側面とは関連がない」とシャノンが述べるとき、彼の言わんとするところは、まさにこのことだったに違いない。しかしながらこれは、技術的側面が意味的側面と関連がないということを必ずしも意味するわけではない。
確かに通信理論においては、情報という言葉は、実際に何を言うのかということよりも、何を言うことができるかということに関系している。すなわち、情報とはメッセージを選択するときの、選択の自由度のことなのである。(ゴシックの強調は原文のまま)

 そして、「Ⅰ 離散的無雑音システム」では、

 離散的情報源では、メッセージを記号毎に生成するものとして考えることができる。一般に情報源は問題となっている特定の記号のみならず、前に行った選択にも依存する確率に従って、後に続く記号を選択する、ある確立に支配されて、そのような記号の系列を生みだす物理的なシステムか、あるいはシステムの数学的モデルは、確率過程として知られている。したがって、離散的情報源は確率過程によって表現されると考えても良い。逆に、有限の集合から選ばれた信号の離散系列を生みだすいかなる確率過程も又離散的情報源とみなして良い。これは次のような場合を含んでいる。

として、「1.英語、ドイツ語、中国語などの自然言語の書き言葉」を挙げています。チョムスキーは『統辞構造論』で、この数学的には離散的マルコフ過程と呼ばれる確率過程を取り上げ、「要するに、ここで示したような、左から右へと文を生みだしていく有限マルコフ過程にもとづいて文法性を分析しようとするアプローチは、第2章で退けた諸提案と全く同様に、行き詰ってしまうように思える。」と記し、

 しかし英語のような非有限状態言語を生成するには、根本的に異なる方法と「言語学的レベル」についてのさらに一般的な概念が必要なのである。

と「句構造」の検討に進みます。このようにチョムスキーは「そううまく行くはずはないと確信して」いたにもかかわらず、実際は正しく当時の情報理論の渦中からその文法理論の構築を始めています。■
  
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2015年09月25日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (3)

  「まえがき」から

『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 (岩波文庫:2014.1.16

 前回、形式主義言語観とプラグマティックな方法論との組み合わせによる定式化を見ましたが、生成文法に引導を渡すためには、その発想の根源を抑えなければならないでしょう。そのため、「まえがき」に戻り何を目指しているのかを明確にしておきましょう。 

 の研究では、広い意味の(即ち、意味論に対置されるものとしての)統辞構造と狭い意味の(即ち、音素論と形態論に対置されるものとしての)統辞構造の両方を取り扱う。

 最初に、意味と語に対置されるものとしての文が構成される仕組み、つまり文法の研究であることが宣言されています。ここに明らかなのは、言語、意味、音素、形態とは何であるか、その本質を明らかにすることは最初から放棄されているということです。というか、すでに既知のこととして扱われています。続いて次のよう述べています。

  本研究は、言語構造の形式化された一般理論を構築し、またそうした理論の基礎を探求しようとする試みの一部を成すものである。

  ここでは、「言語構造の形式化された一般理論を構築」すること、つまり形式的な扱いに何の疑問も抱かれていません。対極的な発想として、十六年前の1941年に公刊された、時枝誠記の『国語学言論』の「序」を見てみましょう。

  私は本書に於いて、私の国語研究の基礎をなす処の言語の本質観と、それに基づく国語学の体系的組織について述べようと思う。ここに言語過程説というのは、言語の本質を心的過程と見る言語本質観の理論的構成であって、それは構成主義的言語本質観或いは言語実体観に対立するものであり、言語を専ら言語主体がその心的内容を外部に表現する過程と、その形式において把握しようとするものである。…… さて、以上述べた様に、言語の本質の問題を国語学の出発点とすることには、方法論的に見て恐らく異論があり得ると思うのである。言語の研究を行う前に、言語の本質を問うことは、本末の転倒であって、本質は研究の結果明らかにされるべきものである。従って言語研究者は、言語に於いて先ず手懸りとされる処の音声、意味、語法等の言語の構成要素についての知識を得ることが肝要であるとするのである。しかしながら、部分的な知識が綜合されて、やがて全体の統一した観念に到達するとしても、既に全体をかかる構成要素に分析して考える処に、暗々裏に言語に対する一の本質観即ち構成主義的言語観が予定されて居りはしないか。私の懼れる処の危険は、言語の研究に当って、一の本質観が予定されていることにあるのではなくして、寧ろ白紙の態度として臨んでいる右の如き分析の態度の中に、実は無意識に一の言語本質観が潜在しているという処にあるのである。そして、かくして分析せられ、綜合せられた事実が、客観的にして、絶対的な真理を示しているかの如く誤認される処にあるのである。この危険を取り除く処の方法は、言語研究に先だって、まず言語の本質が何であるかを予見し、絶えずこの本質観が妥当であるか否かを反省しつつ、これに検討を加えて行くことである。言語研究の過程は、いわば仮定せられた言語本質観を、真の本質観に磨上げて行く処にあると思うのである。換言すれば、言語研究の指名は、個々の言語的事実を法則的に整理し、組織することにあるというよりも、先ず対象としての言語の輪郭を明らかにする処になければならないといい得るのである。言語本質観の完成こそは、言語研究の究極目的であり、そしてそれは言語の具体的事実の省察を通してのみ可能とされることである。(時枝誠記『国語学言論 ()』岩波文庫)

  チョムスキーの形式主義的、プラグマティックな発想とは根本的に異なることが明瞭です。これこそが、対象の本質をとらえようとする唯物弁証法的な発想であり、時代の相違とは言え隔絶したものがあります。ここには、科学とは対象の普遍性、法則性の認識であるという科学の本質が正しく捉えられています。時枝が懼れているように、無意識に構成主義的言語本質観を前提とし、「かくして分析せられ、綜合せられた事実が、客観的にして、絶対的な真理を示しているかの如く誤認され」ているのが生成文法の本質といえます。

  
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2015年09月22日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (2)

非文という主観的判定法  

『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 (岩波文庫:2014.1.16 

 前回は、「言語Lの文法とは、Lの全ての文法的列を生成し、非文法的列を1つも生成することがない装置ということになる。」という形式主義的文法の定義を見ましたが、では具体的にどのように進めるのかを見てみましょう。次のように述べています。

  言語に対して提案された文法の妥当性をテストする一つの方法は、その文法が生成する列が実際に文法的かどうか、即ち、母語話者にとって容認可能かどうか等を確認することである。

何と、文法装置の論理的本質、構造を解明するのではなく、文法の妥当性をテストする一つの方法が母語話者にとって容認可能かどうか等を確認すること」なのである。つまり、「各々が有限の長さを持ち、また、要素の有限の集まりから構成される文の(有限あるいは無限の)集合として言語Language)を考えて」、この中で「文法的列」であるか否かは「母語話者にとって容認可能かどうか等を確認すること」だというのです。しかしここでは、母語話者」とされていますが、実際の運用としてはどうなるのでしょうか。何の事はない、それを論ずる論者自身でしかありえないということです。つまり、言語、文法を論ずる論者の主観に依拠して判断されるという、実にプラグマティックな発想そのものなのです。「テストする一つの方法」と記していますが、このような論理展開では実際問題この方法しかなく、以後、現在までこの方法に依拠し論理が展開されているのです。これでは、とても客観的、本質的な言語の解明に至らないことは方法論的にも、論理的にも明らかです。

 そして、次のような良く知られた文例が登場します。当該節を全部引用します。

2.3 第2に、「文法的」という概念は、意味論における「有意味な」(meaningful)や「有意義な」(significant)といった概念を同一視することは出来ない。例文(1)(2)は共に意味を成さないことに変わりはないが、英語の話者なら誰でも前者のみが文法的であることが判るだろう。

  (1) Colorless green ideas sleep furiously

   (色のない緑の観念が猛然と眠る)

(2) Furiously sleep ideas green colorless

 同様に、(5)よりも(3)を、(6)よりも(4)を選ぶ意味的理由はないが、(3)(4)のみが英語の文法的な文である。

  (3) have you a book on modern music?

       (あなたは近代音楽についての本をもっていますか)

 (4) the book seems interesting

 (その本は面白そうだ)

 (5) read you a book on modern music?

  (6) the child seems sleeping

 こうした例が示しているのは、意味に基づく「文法性」の定義を求めることは全て無駄だということである。実のところ、(5)と(6)から(3)(4)を区別する深い構造的根拠が存在するということを第7章で見ることになる。しかし、こうした事実に対する説明を得るためには、統辞構造の理論をそのよく知られた限界を相当超えるところまで推し進める必要があるだろう。

 ここでは、論者たるチョムスキーが読者に(1)が意味をなさないこと、(5)よりも(3)を、(6)よりも(4)を選ぶ意味的理由はないとする主観的判断に同意するよう強要しています。常識的に考えれば、意味と文法性を截然と区別しているわけではなく、(1)はある文脈では意味を持ちます。それは、その文の作者が描く想像の対象に対応した表現の場合でです。「吾輩は猫である」と漱石が表現しても意味を成すのと同じです。「(5)よりも(3)を、(6)よりも(4)を選ぶ」のは「意味的理由はない」のではなく、文法的に正しくないため意味を取るのが困難であるにすぎません。

 「意味に基づく「文法性」の定義を求めることは全て無駄だ」などというのは、意味と文法の本質がわからないままに、その関連と媒介性を理解できずに無造作に切り離しているに過ぎません。言語規範である文法に従った文でないと意味の理解が困難であることを理解、解析できないことを露呈しています。このように見てくれば、生成文法なるものが、

言語本質を捉える媒介の論理をもたない、形式主義的な定義と、形式論理に過ぎない数理論理的な表現をプラグマティックな方法と組み合わせた誤謬の論理でしかない

ことが明らかになります。生成文法の信奉者とは、この形式的扱いに眩惑されてあたかも科学的理論であるかのごとく思い込んでいる人々に過ぎません。

このように出発点から根本的に誤った論理的判断に基づいているのですが、生成文法に引導を渡すためにもこのような発想が生まれた背景と、これがもてはやされた時代背景を考察するため、一度「はじめに」に戻り思想的背景も踏まえ検討してみましょう。■

  
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2015年09月19日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (1)

                     『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 福井直樹/辻子美保子 訳
                 (岩波文庫:2014.1.16 

 前回の「英文法に見るテンス解釈(6)」には若干勇み足があり訂正いたしますが、基本的には、これまで述べた所に尽き、先も見えているので、今回は著者らが依拠する生成文法の根本的誤りを初期の著作『統辞構造論』により指摘しておきましょう。

 題記新訳が出ていますので、これによります。「第2章 文法の独立性」から引用します。(句読点は和文のままとします。) 

2.1 以下では、各々が有限の長さを持ち、また、要素の有限の集まりから構成される文の(有限あるいは無限の)集合として言語Language)を考えていく。全ての自然言語は、書かれたものであろうが話されたものであろうが、この意味における言語である。なぜなら、個々の自然言語には、有限の数の音素(あるいは、アルファベットの文字)があり、文の数は無限ではあるが、各々の文はこれらの音素(あるいは、文字)の有限列として表示されるからである。 

 ここには屈折語としての英語を、アプリオリに実体視した形式主義言語観が宣言されています。屈折語としての英語文は文頭を大文字で始め、個々の単語は分かち書きされるので、語の区分も明確であり、文末はピリオドがおかれるので形式的な文の形が明確です。しかし、音素の有限列として表示される形が文なのではありません。アルファベットの形をしたクッキーを、子供が楽しそうに無造作に並べた列を文と呼ぶことになってしまうしかありません。

膠着語である日本語の場合には、文の先頭も明確でなく、単語の切れ目も明確でないため、仮名文字が並んだ場合には読み誤りや、読めなかったりするのは日常茶飯事です。そもそも、文がアプリオリに無限に存在するわけがありません。文は話者が対象を認識し、文法を媒介として表現することにより生まれるので、個々の話者の認識の表現としてしか存在しない一回限りの表現でしかないのは自明です。 

 生成文法とは、このような誤った形式主義言語観に依拠しているため、本書のマルコフ連鎖、句構造文法から変形生成文法と当然の失敗の連続で、その都度この根底の誤謬に戻って顧みる事なく、毎回条件の抽象化によって問題を極限化しXバー理論、極小モデルへと暴走しているに過ぎません。当然、意味を扱うのは不可能なため、認識を認知に矮小化した認知言語学が生まれることとなったのです。先の文に続き次のように記しています。 

 同様に、数学の形式化されたシステムがもつ「文」の集合もまた言語と見なすことができる。言語の言語分析の根本的な目標は、言語の文である文法的(grammatical)列を、の文でない非文法的(ungrammatical)列から区別し、文法的列の構造を研究することである。従って、言語の文法とは、の全ての文法的列を生成し、非文法的列を1つも生成することがない装置ということになる。

  ここでは、形式化された文字列から文法的(grammatical)列を区別し、これを生成する装置が文法とされます。これが、普遍文法なるものの正体です。これでは、文法の本質はまったく明らかにならず、非文法的(ungrammatical)列を判定すべき論理的根拠も導きようがありません。この困難をどのように乗り越えるのかを次に見てみましょう。■

  
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2015年06月15日

言語の本質とは何か ― 9

   時枝誠記の言語過程説(7) ― 現象学の影響

 フッサールの現象学と言語過程説の関係については余り明らかにされていませんが、詞・辞の入れ子型構造で包む―包まれるという観念論的解釈他がその影響として指摘されています。この現象論に対する取り組みのエピソードが根来司『時枝誠記研究 言語過程説』に紹介されていますので記してみましょう。最初は講演での例です。

 まず昭和四十二年六月七日、これは時枝博士が亡くなられる年であるが、名古屋で鈴木朖の百三十年祭が催され、そこで博士は「『時枝文法』の成立とその源流―鈴木朖と伝統的言語観」と題して講演されている。それがさきの『(講座日本語の文法)第一巻』に収められているが、その中に自分が卒業論文を書く頃、鈴木朖が言語四種論で説いていることがよくわからなかった。というのが朖がことばを分類するのにどういう基準で分類したのか、その真意が的確につかめなかった。けれども、あとになって京都大学教授の山内という哲学者の『現象学叙説』(昭和四年)という書でもって、フッセルの現象学を勉強していたら、だいぶこうじゃないかということが納得がいくようになったといっておられるのである。続いてこの講演はこの朖の考え方を理解するべく手爾葉大概抄までさかのぼっていかれるのであるが、やはり山内博士が『現象学叙説』で説かれるいることがこれを読み解く鍵になるとして、次のように述べていられる。

 先ほど、フッサールのことを申しましたが、フッサールの現象学が、なぜ私がこれを解明する一つの助けになったかと申しますと、これは山内得立先生の説明によって、こういうことを学んだわけなんですが、フッサールは人間の意識を分析いたしまして、まず一つは、人間を取り巻くところの客観の世界、これをフッサールは、対象面、noemaというふうに言っております。ご存じですね。それからもう一つ、その対象面に働きかけるところの人間の働きですね。これを志向作用noesisというふうに言っております。つまり、noema と noesis、 対象面と、それに働きかける志向作用の合体によって、人間の意識というものは成立する。でありますから、たとえばうれしいという感情は、ただうれしいという感情だけじゃなくて、うれしいことの、なにか対象面がある。それは、はっきりしたものであろうとなかろうと、かまわないんですが、なにか対象面があって、それに対する働きかけによって、そこに人間の、うれしいということが出てくる。ですから、現象学の有名な言葉で、<うれしいというのは、うれしきことに対するうれしいことである>というふうな説明がありますが、そういうことなんですね。つまり、noema の表現が、さっき言いました「詞」の表現、noesis の表現が「手爾呼波」と、こういうふうに、一応の説明ができると思うんです。

 用語もまた現象学からのものであることが分かります。さらに根来氏は昭和十三年以降の論文では「現象学的なものの比重がだいぶ軽くなっていくのである」として、「それはなぜであろうか」と問い次のエピソ―ソドが紹介されている。

 
 私はいましがた時枝誠記博士がある時期から現象学にあまり興味を示されなくなったといったが、、そこで思い浮かぶのは時枝博士の京城大学での上司であった高木市之助博士がものされた「時枝さんの思い出」(国文学四十七年三月、臨時増刊)という追悼文である。これは活字になったのがすでに時枝博士が逝去されて何年もたっていたのと、これが臨時増刊敬語ハンドブックに載ったためにあまり他人に知られない文章のようである。これを読んでいくと、次に引用するような時枝博士と現象学に関して衝撃的なことがわかるのである。

 それについて思いだされるのは時枝さんが教授時代の或る日のこと、突如私の宅を訪れ、京城大学を辞して京都大学へ聴講に行きたいと言出されたことである。あっけにとられている私の前で時枝さんが語られた理由は、「自分の国語学は現象学を必要とする段階に差しかかったが、自分はこの方面の知識に比較的弱いので、今自分が信頼する××教授の許で勉強したい。」というにあった。これはつまり時枝さんにとって、自分の学問の操守の前には、大学教授やそれに付随する一切が魅力を喪失したことに他ならなかったのである。
 私が時枝さんのこの決意を翻えさせるためにどんな苦労をしたかについては、当時このことに協力して頂いた麻生さんが知っていて下さると思うが、常識的に言って、大学教授の職というものは自分の勉強のために犠牲しなければならないほど窮屈なものとはおもわれなかったので、私達は時枝さんの辞職が京城大学の講座をどんなに窮地に陥れるかについて百方口説いて結局時枝さんを思い止まらせることに成功はしたが、時枝さんにとってはこの断念がどんなに不本意なものであったか。時枝さんの常識外れの、国語学に対する操守の前に屈服しつつも、時枝さんにこの卑俗な常識を護って貰うためにのみ私達は働かなければならなかったのである。
 これは時枝博士の学問的生一本さを証する例として認められるのであるが、時枝博士自身、京城時代のある日高木博士邸を訪れて現象学を勉強するべく、京城大学教授を辞して京都大学に聴講に行きたいと申し出たなど、学問的自叙伝ともいえる『国語学への道』にもしるされていない。ここに時枝博士がつきたいという××教授が京都学派でも体系的理論家として知られていた山内得立博士であることはいうまでもない。山内博士は明治二十三年生まれで時枝博士より十歳年長であり、あのヨーロッパ哲学によって学んだ現象学の方法によって「いき」を分析した九鬼周造博士と共に、西洋哲学を講じられていた。ちなみに博士は昭和五十七年九月十九日に九十二歳で不帰の客となられたが、京都哲学の最長老であった。とにかく高木博士はさきの文章で京城大学にこのままいるよう口説いて時枝博士を思い止まらせることに成功したと書かれているのであるが、それが昭和何年頃のことか明らかでない。それで推測するよりほかないが、高木博士が九州大学に転じられたのが昭和十四年であり、時枝博士の学問の進度から推して、昭和十年過ぎの出来事であろうと思われる。

 いかにも時枝らしいエピソ―ソドであるが、現象学に助けを求めるのはその後も続いていると思える。■  
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2015年06月14日

言語の本質とは何か ― 8

   時枝誠記の言語過程説(6) ― 留学戻りから源氏物語読解へ

 言語は表現の一種であるという時枝の卒業論文での論究から、その後京城帝大に赴任し一年半のヨーロッパ留学による言語学の実情の見聞により、

 国語学の問題や方法は、何にも、西洋言語学のそれのみを、追う必要はないのではなかろうか。それよりも国語の事実に直面して、その中に問題を求め、方法を考えるべきではなかろうか。西洋言語学の問題や方法を移して、以て国語学の規範とした啓蒙時代は既に過ぎ去ったのではなかろうか。

との自覚に達するところまでを見てきました。留学より戻ったのが昭和4年(1929)で、先の自覚について次のような理論的根拠を見出している。


 (一)国語学の方法及び問題点を、西洋言語学のそれを離れて、国語自体の現象の中に求めることは、先進科学の方法問題を無視して、唯我独尊を主張することではなくして、言語学の立脚する真の科学的精神に忠実であることであり、この精神を生かすことである。言語学の皮相な結論にのみ追随することが言語学に忠実である所以ではない。こ々に国語学と言語学との関係を明らかにすることができると同時に、科学的というには未完成な明治以前の国語研究を、今日以後の国語学の出発点とすると根拠をも理論づけることが出来る。それは単なる日本的言語学の樹立というような偏狭な態度を意味するのではなく、寧ろそこにこそ、国語学が言語学の一翼を負担する真の意義が生ずる。

 (二)学問研究の根本的態度は、方法論の穿鑿よりも、先ず対象に対する凝視と沈潜でなければならないということ。言語学の方法を法に忠実であろうとするならば、それが教える理論や方法を一先ず措いて、対象を凝視し沈潜することでなければならない。この信念に基づき、これを実行に移すため昭和五年四月の新学年の講義として「漢字漢語の輸入に基づく国語学上の諸問題」という題目を掲げること々した。

 この講義案は省略しますが、「究極の目的は、これによって国語史の特質を明らかにすることにあったのである。」と記しています。昭和十九年には文部省の助成金の申請までして研究を進めますが時局の影響もありわずかに十九年六月に総論的な発表で打ち切ります。ここには自然科学的という見せかけではなく、「真の科学的精神に忠実」であり、「この精神を生かす」という弁証法的思考に基づき「対象を凝視し沈潜する」姿勢が宣言されています。現在の外国の言語学に依拠することこそ学問的という非自立的な発想とは根本的に異なっています。

 他方で、「言語意識の発達、或いは言語に対する自覚ということは、少なくとも我が国に於いては、主として古典講読や解釈の結論であり、その副産物であって、国語学と古典解釈の密接不離な関係を思えば、明治以前に於ける国語研究の実際は、これら古典についての購読や解釈と、それの結論である国語理論とを相関的に観察してこそ、始めて国語研究の真相に触れることが出来るのである。そういう意味に於いて私の国語学研究史は甚だしく片手落ちであった。もっと私は国語そのものを凝視しなければならない。」との反省の基に、「昭和五年の春」を迎えたならば、我が古典の随一であり、難解の評のある源氏物語を読み始めようと決意した。」のです。そして、三年余りの日時を費やし、昭和八年の三月に読了しています。さらに、次のような地点に達します。

 この読解の仕事を通して、私は再度転じて私の国語学史研究に新しい立場を加えることの必要性を感ずるに至った(このことは更に別項に述べること々した)。同時に国語学史の研究は、単に過去への懐古的興味を以てなされるものでなく、将来の国語学建設への重要な足場となるべきものであることをはっきりと意識するようになった。古人の国語に対する自覚の最終点が、実に我我の国語意識の出発転であるべきこと。現在及将来の国語学の建設は、古人の国語研究を乗り越える処に始められるべきことが痛感せられるに至った。そしてその間他方に於いて、私は絶えず、私の国語研究の最初に予想せられた、言語は心的内容の表現過程そのものであるという、言語に対する一つの本質観を実証することを忘れなかった。源氏物語の読解は、私の今までの国語学史研究に活を入れるものであると同時に、国語学史より国語の特質の闡明への一大通路を開拓すべきものであることを信ずるに至って、私は此の二年間従事してきた「漢字漢語の輸入に基づく国語学上の諸問題」の講義をいったん打切り、源氏物語の演習を大学の教壇で開始することの計画を立てた。爾来私は東京帝大へ転任するに至るまで約十幾年間、殆ど毎年「中古語」研究の題下に専ら源氏物語の読解を継続することとしたのである。後に述べる国語学言論の理論の内容をなすものは、専らこの京城帝大に於ける中古語研究に於ける源氏物語読解の産物であったと云ってよい。

 この京城帝大に於ける研究過程で、フッサールの精神現象学を必要とする段階に差しかかったという時期があり、そのことを証する記事がありますが、次回はそれを紹介します。
 今回の引用は時枝誠記『国語研究法』(昭和二十二年九月三十日初版、三省堂)によりました。引用に当たっては旧漢字、仮名遣いを改めています。■  
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2015年05月09日

現代言語学批判 1-2

  『シリーズ 日本語史』(金水敏 他編:岩波書店刊)の言語観 2

 この巻頭言では、まず「日本語史」への問いを「日本語(国語)とは何か」に、次いで「言語とは何か」と問い、答えは総て「多様・多岐」と答えるのみで何ら回答がなされていません。時枝は国語学を論ずるに当たってまず、「言語の本質とは何か」について「この問題を解決せずしては、私は今や一歩も末節の探求に進み入ることを許されない。」と考えたのは見て来た通りです。
 
  これに比し著者らは「この問題を解決せず」に種々の現象や、機能を列記することで満足しています。取上げたのはシリーズ全体の巻頭言ですが、本論で論じられているのではと読み進んでも全く問題にされていません。

 最初に、<「言語」を「言語の知識」という側面から見ることができる>などと心理学的接近法が取上げられていますが、これは現在のロナルド・W・ラネカーやジョージ レイコフらが唱える第2世代の認知言語学の発想でしかありません。ラネカーは『認知文法論序説』(山梨正明 監訳 研究社 2011年5月23日初版発行)の「第2章 概念意味論」の「2.1.1 意味は頭の中に存在するか」で「意味は、言語表現を産出し理解する話者の心の中に存在している。このほかに意味のありかを見つけるのは難しいだろう。」と意味が、産出する話者から理解する話者へ実体として飛んでいくかのごとき言語言霊論を述べています。そう考えれば、この頭の中に存在する意味を知識とでも考える他なくなるのは論理的必然です。

  この馬鹿げた発想を、訳者の山梨正明氏や、ここで取上げた著者の一人である金水敏氏ら記述文法を論じる人々も無批判に受け入れて言語を論じているのが現状です。そして、私が手にしているシリーズ3の『文法史』では<文法>とは何かの定義もなしに生成文法に依拠し源氏物語あたりの古代語からの文法を論ずるという体たらくです。「第2章 述部の構造 2.1 活用」では中世期の歌学に活用研究の萌芽が見られると始まっていますが、結局最後は「活用現象の実態について述べた、今後は、各時代、各資料ごとの記述の積み重ねと同時に、「活用とは何か」という本質論を深めていく必要がある。」と述べることしか出来ないのです。

 時枝であれば、これまで見て来たように、「日本語(国語)とは何か」、次いで「言語とは何か」と問い、さらに「文法とは何か」、「活用とは何か」とその本質を問い論を進めることになるしかありません。

 「日本語(国語)とは何か」の問いを放棄し、西欧屈折語言語の文法論に全面的に依拠して本質を問うことなく現象論に終始する現在の日本の言語学者の実態、レベルを見たら、時枝は呆れかえり、馬鹿にするしかないと思われます。

  ここで、時枝の言語過程説の確立に至る道の追求を一休みし、少し先回りすることにはなりますが、言語学批判を始めたついでに言語過程説の立場からNETの上で展開されている、上で述べた現代言語学者に教育を受け無批判にそれを受け入れている人たちのブログを覗いて見ることにしましょう。

  最初は、たまたま連休中に見つけた「killhiguchiのお友達を作ろう」というブログに、「現代日本語において、複語尾の終止法独自の用法を、喚体メカニズムで説明する可能性につ いて」という論が説明されており異を唱えるコメントをさせてもらいました。

 言語過程説はご存じないようで、どう説明して良いかまよったのですが。当方がまずひっかかたのが複語尾という用語です。
 これは、山田孝雄(やまだ よしお、1873年(明治6年)5月10日(実際には1875年(明治8年)8月20日) - 1958年(昭和33年)11月20日))という国学者が助動詞という品詞を認めずに、用言の語尾の複雑に発達した「複語尾」だと主張したものです。
 この用語を引き継いでいるということは、山田の誤った発想を引き継いでいるのではと感じたのです。そして、内容を見て見ると正にこの発想を引き継いでいるのです。助動詞という品詞を認めないわけではないのですが、結局この用語と発想を受け入れているわけです。それは現在の上記の記述文法という言語実体観では認識を認めることができずに山田と同じ発想になるしかないという論理的必然によるものです。

 時枝は複語尾説をとらず、判断辞を一語と認め、そしてそれの欠けているものに「零記号」を設定するのですが、この「零記号」が時枝を認めない国語学会の人々には受け入れられていません。時枝の師である橋本進吉が『国語学原論』を東京帝国大学の博士論文として推薦し、学位を得るよう奔走するのですが、この「零記号」については認めることができず、「そんなバカなことがあるものか!」と他の弟子にも語っており、最後まで認めませんでした。形式主義文法学者の橋本としては論理的に受け入れられないこととなります。この辺の複語尾説について次に考えてみましょう。■  
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