2015年10月29日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (11)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(9)

 さらに、<[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができない>例が挙げられます。

   また、「苦しむ」「悩む」「迷う」も、「困る」と同様に、[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができない。

 (36)どうして、宝石店の店貝が謙人さんのような方と知り合いになったのか、理解に{*で}苦しみました。(『異人たちの館』)

 (37)高校時代、サッカーをするのが好きだったが「趣味は」と聞かれると、返答に{*で}悩んだ。(読売20080207

 (38)「給水を止めると事後処理が大変なので判断に{*で}迷った。日曜日で職員の手当も付かず、対応が遅れた」(読売20050524

 このように、「困る」「苦しむ」「悩む」「迷う」では、[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができない。

 [欠乏]の例の二格名詞句には、他に「話題」「処置」「判定」「区別」「形容」「気持ちのやり場」等がある。

  「理解」が[欠乏]しているのではなく、「理解できないで」苦しんだのであり、「理解」「返答」「判断」等の漢語は動詞的内容を持った名詞です。これを形式的に「デ」としてしまうと単なる動作でしかなく、原因としての具体性が欠けているために不自然に感じられます。ここでも、[欠乏]しているのは、「二格名詞句」ではなく、具体的内容なのです。認識の表現としての言語という本質をとらえられないと、このような形式的解釈に進しかありません。次は「~デ困った」の検討です。

      次は、「デ」の例を見てみよう。

39)「鳥インフルエンザ問題の風評被害で困った。(以下略)」(読売20040625

40)「県内には非正規労働者が86000人いるとされ、低賃金で苦しんでいる。(以下略)」(読売20080305

41)自分の出来心でつけてしまったやけどのあとで悩んでいます。(読売19980731

42)父の一言で迷った。(作例)

 これらは、「風評被害」「低賃金」「やけどのあと」「父の一言」が無くて困ったり悩んだりしているわけではなく、「風評被害」「低賃金」「やけどのあと」「父の一言」が存在していることによって、困ったり悩んだりしているのである。このように二格名詞句の存在が感情を引き起こしているものを[欠乏]に対し、[存在]と呼ぶ。さきに、「驚く」「びっくりする」において「デ」を使うには、名詞句が[外的原因]でなければならないことを見た。しかし、「困る」等では、例えば(41)の「やけどのあと」は、出来事ではなく、[外的原因]とは言えない。しかし、(41)は適格文であることから、「困る」等では、デ格名詞句が[外的原因]である必要はなく、[存在]の場合は、「デ」を使うことができると言える。

  これは、先に検討したように[存在]や[外的原因]の問題ではなく、「風評被害」「賃金」や「やけどのあと」「父の一言」等は原因となる具体性をもっているからです。

     もちろん[存在]の場合も、二を使うことができる。

43)隣に住む60歳代の認知症の男性に困っています。(読売20080702

44)人々は借金に苦しんだり、夫や妻の浮気に苦しんだり、財産争いて悩んだりしていた。(『完全犯罪はお静かに』)

45)マナーの悪い飼い主に悩んでいます。(知恵袋OC1100019

46)入学後、野球部に入った友達と遊び半分で野球をしていると、友達は「野球しようや」と言った。私はこの一言に迷った。中学の時のような惨めな思いはもうしたくなかったからだ。(読売20061214

 (43)~(46)は、それぞれ「認知症の男性」「借金」「夫や妻の浮気」「マナーの悪い飼い主」「この一言」の存在が感情を引き起こしているのであり、[存在]であると言える。

  「に」の場合は単に対象をスタティックに指すだけですから、聞き手は理解に迷うことなく、いつも使用できます。

    次の例は、[欠乏]と[存在]の違いをよく表している。

 (47) a 人手に困った。

     b ?人手で困った。  (作例)

 働く人間や労働力が足りないという状況を思い浮かべると、(47aは自然であるが、(47bは不自然である。これは、[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができないからである。

  これも、[欠乏]しているのは「人手」の何に困ったかの原因としての具体性である。

 次に、例えば、ボランティア活動の責任者が、ボランティアが大勢来てくれたものの仕事が無くて、何をさせていいか困ったという状況を思い浮かべてみる。これは[存在]である。すると、次の(48abは、ともに適格文である。

 (48a有り余るほどの人手に困った。

    b有り余るほどの人手で困った。 (作例)

 また、(48bは、次の(49)ように、文脈で何らかの主題が設定されていれば、判定詞の「デ」の解釈も可能である。

 (49) 「昨日の海岸清掃は、どうでしたか。」

     「有り余るほどの人手で困ったよ。」 (作例)

 (49)は、「昨日の海岸清掃は、有り余るほどの人手だった」のように主題があると解釈すれば、判定詞の「デ」である。

  これらも[存在]や主題の問題ではなく「有り余るほどの人手」と、原因としての具体性があれば不自然には感じられません。

    ところで、「デ」の用例を見ていくと、一見、原因を表す「デ」とは言えないような「デ」もある。

50)氏康は、そう怒っては見たものの、さて、あかねの戸倉訪問を事前通告と見るべきか計略と見るべきかで迷った。(『武田信玄』)

51)エリア・カザンを最終的に支持するかしないかで、私は、果てしなく悩んだ。今も悩んでいる。(『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ』)

50)は「事前通告と見るべき」か「計略と見るべき」か、という2つの選択肢の中で「迷った」ということを表している。これは、「果物で何が一番好きですか」の「デ」と同じように範囲を限定する「デ」であると言える。(51)も同様である。このような範囲を限定する「デ」は、「困る」等の補語をマークする場合は、何について困ったりしているのか、その範囲を限定しているのである。そして、その範囲の事柄が、感情を引き起こした「原因」でもあり、範囲を限定する「デ」は、困ったり悩んだりしている範囲を限定すると同時に、感情を引き起こした「原因」であることも表すと言えるだろう。

  これは、対象の二者択一が原因で悩んだのであり、「補語をマークする」と見なす機能的見方では「デ」の本質が話者の主体的認識の表現であることが理解できないことを示しています。■

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