2015年10月31日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (12)

    「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(10)

 最後に、「~のことで」という形について考察されています。

 また、「デ」が「~のことで」という形でその内容を表す(庵(2000))とされているが、次の例は、困ったり悩んだりしている内容を表している。

 (5230歳代主婦。親類の60歳代男性のことで困っています。家族が集まった席で、親類の子どもたちにしつこくお酒を勧めるのです。(読売20080403

 (53) 5年前の11月、60歳の誕生日。商売や家庭のことで苦しみ、「いっそ死んじゃおうか」とまで考えていたころだった。(読売20050501

 (54)来月、従妹の結婚式に訪問着で出席しようと思っていますが、髪型のことで悩んでいます。(知恵袋OC1100692

 (5520歳代後半の女性です。2年ほど付き合ってきた30歳代の男性との結婚のことで迷っています。(読売19991023

 (52)を例に見てみると、「親類の60歳代男性」に関すること、この男性の行動について「困っている」のである。「~のことで」は、困ったり悩んだりしている内容を表している。

  この「こと」は抽象名詞(形式名詞)で、まず対象を「こと」として抽象的に表現し、具体的な内容は次の文で述べられています。英語の場合のIt~that構文、関係代名詞による表現と同じです。ここでは、論理が逆転しています。「~のことで」が内容を表すのではなく、「デ」が格助詞として使用された例を集め、その場合に「~のことで」が感情動詞の補語として機能し理由としての内容を表しています。<32 格助詞の「デ」ではない「デ」>で論じたように、「デ」には格助詞の場合と、肯定判断辞の「ダ」の連用形「デ」の二種類があります。この内の格助詞の場合を集めたものです。「~のことで」という形式に捕らわれる誤りを示しています。「32」での、<ナ形容詞、「第三形容詞」の連用形の「デ」、主題・主語が言語化されている判定詞の「デ」は、述語であるという点で格助詞の「デ」と区別でき>るという論理の誤りはそこで示し通りですが、この区別された格助詞の事例を集めたもので、本来この点を明確にすれば良いだけのことなのです。 

 また、次の例も、困ったり悩んだりしている内容を表わしている。

 (56)電話番号で困ってます。引越ししてきて、今の電話番号になってから約3年経つのですが、未だに昔の人宛てに電話がかかってきます。(知恵袋OCO801916

57)来週二次会があるのですが、そのときに着ていく服装で悩んでいます。(知恵袋OCO9 01699

58)店を継ぐ気持ちは変わらなかったが、中学3年のとき、進路で迷った。(読売20070824

 (56)~(58)は、「電話番号」「服装」「進路」の存在が感情を引き起こしているわけではない。(56)~(58)は、「電話番号に関すること」「服装に関すること」「進路に関すること」について困ったり悩んだりしているのである。(56)~(58)は、「~のことで」と同様に、困ったり悩んだりしている内容を表している。

 (52)~(58)は、困ったり悩んだりしている内容を表しているのであるが、この内容は、困ったり悩んだりする「原因」でもあり、(52)~(58)は、困ったり悩んだりしている内容を表すと同時に、その内容が感情を引き起こした「原因」であることも表していると言えるだろう。 

56)の場合は「電話番号のことで」の「こと」の内容はその次の文に示されています。(57)では、「そのときに着ていく服装」と内容が示されています、(58)では、「進路」の具体的な内容は示されていません。それゆえ、原因としての具体性に若干乏しく、不自然な感じがします。

以上、「困る」「苦しむ」「悩む」「迷う」について、[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができないが、[存在]の場合は、「デ」も使うことができることを見た注11

また、[存在]以外にも、範囲を限定する「デ」や内容を表す「デ」も、困ったり悩んだりしている範囲を限定する、または、その内容を表すと同時に、その範囲や内容が感情を引き起こした「原因」であることを表す「デ」として使うことができることを見た。この困ったり悩んだりしている範囲や内容というのは、まさに「感情の対象」である。これらは、「感情の対象」として「二」でマークすることもでき、また、「デ」でその範囲や内容を限定することによって、感情を引き起こした「原因」であることを表すこともできるのである

以上、見てきた通り[欠乏]やら[存在]などという対象の問題が「デ」や「ニ」でマーク出来るか否かの問題ではなく、単に話者が対象を原因として捉えるか、単に対象としてにみ捉え表現するかの認識の相違であることは明らかである。このような思考の誤りは、上に挙げられている注11にも示されています。次の通りです。 

 宗田(1992)は、「挨拶で困る」と「挨拶に困る」を例にあげ、前者は「慇懃無礼な挨拶」をされたことを思い出し困っている状況、後者を「何と言っていいかわから」ない状況での発話であると述べている。これは、本稿の用語では、「挨拶に困る」は[欠乏]であるが、「欠乏」が「二」、[存在]が「デ」のように相補分布的な関係ではなく、「二」は[存在]の場合も使うことができ、また、「デ」が範囲や内容を表すと同時に「原因」であることも表すことができるというのが本稿の主張である。 

 「慇懃無礼な挨拶困る」ことも、「慇懃無礼な挨拶困る」こともあるのは明らかです。「5.まとめ」は次のように始まります。  

感情動詞の補語を表す「二」が、どのような場合に「デ」に言いかえることができるかについて考察を行った。これは、「感情の対象」は、どのような条件を満たせば「原因」と言えるかということである。 

 明らかになったのは、「言いかえ」という捉え方自体が誤りであり、「感情の対象」の問題ではないということです。

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