2015年11月01日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (13)

     「ニ格とデ格の交替について」、「感情動詞におけるニ格とデ格の交替について」 張 麗(大東文化大学)

 最後に題記2編の論文についてみましょう。この論文の特徴は、国立国語研究所が提供している『現代書き言葉均衡コーパス(中納言)』を通して、相当文を検索し使用実績を調査、検討していることである。このコーパス(中納言)の概要は次の通りです。

 『現代日本語書き言葉均衡コーパス』(BCCWJ)は、現代日本語の書き言葉の全体像を把握するために構築したコーパスであり、現在、日本語について入手可能な唯一の均衡コーパスです。書籍全般、雑誌全般、新聞、白書、ブログ、ネット掲示板、教科書、法律などのジャンルにまたがって1億430万語のデータを格納しており、各ジャンルについて無作為にサンプルを抽出しています。 すべてのサンプルは長短ふたつの言語単位を用いて形態素解析されており、さらに文書構造に関するタグや精密な書誌情報も提供されています。著作権処理も施されていますので、安心して使っていただけます。 

 さて、最初の「ニ格とデ格の交替について」は「1.はじめに」で次のように記しています。例文は、(1)(2)のみ示します。 

(1)~(4)が示すように、「とる」「もつ」「かかえる」「だく」のような動詞は格体制の交替(~ヲ~ニ形と~ヲ~デ形)を起こす。

1a)彼女はグラスを手にとり、一口飲んでみた。 (海老沢泰久『男ともだち』講談社 1998

1b)茶碗を右手でとり、左手で扱って、右手で勝手付に仮置きする。  (千宗左『小棚の点前』主婦の友社 1990

2a)すると、雑誌を手にもって農家の人が大勢たずねてくるようになった。  (横森正樹『夢の百姓』白日社 2002

2b)ときどき六寸ぐらいある基盤を片手でもって、五十匁蝋燭の火を団扇のように煽り消したそうです。      

 この、(a(b)を「格体制の交替(~ヲ~ニ形と~ヲ~デ形)」と捉えているわけですが、これまで見てきた通り、単に形式的に「ニ」と「デ」が交替している訳ではありません。「ニ」の場合は動作の始点・終点を指し、「デ」は動作の手段・手段を表しています。つまり、表現している意味が異なっているのであり、単なる交替と捉えること自体が誤っています。先行研究について次のように記しています。 

 「とる」「もつ」「かかえる」「だく」はニ格とデ格の交替が可能だと言われるが、それぞれニ格とデ格の使用率はまだ明らかにされていない。先行研究(言語学研究会 1983309)ではに格の名詞は主に身体の部分(とくに手)をしめすものであると指摘しているが、「手に~」以外にどんな表現があるかまだはっきりわからない。また、どんな場合、交替ができるかも分からない。

 先行研究ではニ格は古い道具を示す指摘もあり、空間の意味を示す研究もある。本稿ではデ格は道具性を表し、ニ格は空間性を表すと考える。 

「ニ格とデ格の交替が可能だと言われる」こと自体が現在の日本語学の誤りを示しています。「ニ格とデ格の使用率」などあまり意味があるとも思えません。論者の日本語の使い方も若干おかしな所が見られ、どのような教育、指導を受けたかの方が気になるところです。「デ格は道具性」、「ニ格は空間性」を表すというのは、方法・手段と支店・終点を言い替えものと考えれば当らずといえども遠からずというところです。

「感情動詞におけるニ格とデ格の交替について」では、「感情動詞の定義を筆者なりに述べておくと、人間の心理、感情にかかわる動詞としてとらえ、思考動詞などは対象外とする」として、「驚く」「怯える」「苦しむ」「困る」「悩む」「びっくりする」「迷う」について調べています。それぞれ「ニ格、デ格の使用率」と「ニ格とデ格の交替条件は何なのか」を明らかにすることを目的としています。「とる」「もつ」等の動詞については、<「手に~」以外にどんな表現があるか>も調べられています。

使用比率など興味はありませんが、結果はリンクを張っておきますので論文をみていただきたいと思います。明確な方法論もなく、安易にデータベースを使用する傾向も気になります。交替可能の条件は次のような結論になっています。 

以上、「手にとる」「手にもつ」「手にかかえる」と「手でとる」「手でもつ」「手でかかえる」の用例が全部見つかり、「とる」「もつ」「かかえる」のニ格とデ格の交替可能の用例は身体の部分「手」と結ぶことであると思われる。また、「かかえる」のもう一つ交替可能の用例は身体の部分「腕」と結ぶことであると考えられる。

 これは、交替でも何でもなく、「手持つ」と「手持つ」の意味の相違が現れているだけです。感情動詞については、次のように纏められています。 

考察した結果、日常生活を描く抽象度の低い名詞と接続する場合、デ格しか使えなく、ニ格が使いにくく、ニ格とデ格の交替が難しいということが分かった。もう少し抽象度が高くなった人間の生活を表す名詞や病名を表す名詞の場合、ニ格とデ格の交替が可能だと考える。抽象度が高い名詞と接続する場合、デ格の使用が限られている。ニ格とデ格の交替が不可能という結論が得られた。しかし、一見抽象度が高い名詞でも、デ格の使用も可能の場合があるため、抽象度が高い名詞にはデ格が使えないとは言い切れないと思われる。ニ格とデ格の交替についての研究を深めたいなら、名詞の抽象度についての研究もさらに深まる必要がある。それを今後の課題とする。
  先の論考の、「外的原因」や「欠乏」とは異なり「名詞の抽象度」とされていますが、抽象度自体の意味が判っていないのではと考えられます。「名詞の抽象度についての研究」は深めてもらいたいと思いますが、それは格交替とは別の問題です。このような、機能的、形式主義的な研究が見掛けの取り付き易さから、意味もなく繰り返されていることに問題があります。
  時枝誠記は、「ただ現象的なものの追求からは文法学は生まれて来ない」と忠告しています。   
  これまで見てきたように、言語表現を直接支える認識を無視してピント外れの「壁塗り構文」問題や、格交替という現象を論じていては言語の科学的な解明は不可能であることに気付くべきと言えます。■

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