2017年04月30日

形容動詞という誤り (3)

                                    権 善和 「日本語形容動詞の研究」 
                                      松本靖代 「日本語教育における形容動詞の扱い―国文法との比較を通して―」

 形容動詞という概念の誤り①

[権善和稿:研究]の「 2. 形容動詞の概念」、「2.2.1. 形容動詞の種類」を検討します。
  形容動詞は、もと、「静カニ」「堂々ト」などの一部の副詞に、動詞「アリ」をつけて「静カニアリ」「堂々トアリ」となり、さらに縮約(母音脱落)して、文語の形容動詞「静ナリ」「堂々タリ」になったものである。それが漢語の流入によって、属性概念の漢語に「~ナリ」「~タリ」が接続した形態に発達し、後には「ダ・ナ活用」になって、今日の形容動詞の形態に定着したのである。
 形容動詞は、意味的には事物の性質・状態を表わす自立語で、活用があるという特徴を有するが、文語と口語で活用が異なる。
 先にも見た通り、この論文では<形容動詞>という品詞区分には疑問を持たず、否定論を検討しながら、「この問題を飛び越して、運用上の特徴を中心に考察を進めたい」と最初に述べられている通り<形容動詞>肯定論にたち、「運用上の特徴」を検討するだけの論となっており、単なる現象論、機能論となるしかありません。
 この種類の検討でまず問題となるのは、最初の、
 もと、「静カニ」「堂々ト」などの一部の副詞に、動詞「アリ」をつけて「静カニアリ」「堂々トアリ」となり、さらに縮約(母音脱落)して、文語の形容動詞「静ナリ」「堂々タリ」になったものである。
という文章です。ここでは、副詞とは何か、動詞「アリ」とは本当に動詞であるのか、縮約(母音脱落)して、文語の形容動詞「静ナリ」「堂々タリ」になったとする「ナリ」は活用なのかが全く検討されていません。このため、「形容動詞は、意味的には事物の性質・状態を表わす自立語で、活用があるという特徴を有するが、文語と口語で活用が異なる。」と<形容動詞>は自立語で活用を持つと安易に決めつけられています。
 口語の副詞は通常「品詞の一。自立語で活用がなく、主語・述語になることのない語のうち、主として連用修飾語として用いられるもの。」(大辞林 第三版の解説)とされ、「活用」を持ちません。文語でも同様であり、≪「静カニ」「堂々ト」などの一部の副詞≫と無造作に述べている所がまったく非論理的です。これらは、「静カ」「堂々」という語に<格助詞>「ニ」「ト」が付加されたものと見なければなりません。そして、<動詞>「アリ」は判断の助動詞「アリ」でなければばりません。当然、
 それが漢語の流入によって、属性概念の漢語に「~ナリ」「~タリ」が接続した形態に発達し、後には「ダ・ナ活用」になって、今日の形容動詞の形態に定着したのである。
と記す「ダ・ナ活用」の「ダ・ナ」も活用ではなく、判断の<助動詞>「ダ・ナ」でなければなりません。このように膠着語である日本語の単語とは何か、活用とは何かが全く検討されることなく、≪文語の形容動詞「静ナリ」「堂々タリ」になった≫と<形容動詞>という一語の品詞を承認してしまっています。
 こうなるしかないのは、「形容動詞は、意味的には事物の性質・状態を表わす自立語で、活用があるという特徴を有する」と記しているように、品詞分類の基準が意味と自立・非自立と言う形式、活用の有無という形式に依拠した形式主義的な観点にその本質的な欠陥があります。それは、学校文法である橋本文法の観点でもあり、この点に関する反省が全くなされていません。
 すでに、語の定義、活用の本質他についてはこれまで論じてきたところですが、この観点から形容動詞という誤りを明かにしましょう。■
  
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2017年04月22日

形容動詞という誤り (2)

                     権 善和 「日本語形容動詞の研究」
                      松本靖代 「日本語教育における形容動詞の扱い―国文法との比較を通して―」

 2) 形容動詞論の現状
 形容動詞の名称と品詞の扱いの来歴が次に記されていますので引用します。
 「形容動詞」という名称を初めて用いたのは、大槻文彦(1897)であるが、これは日本語の形容詞が、英語のadjectiveの訳語としての形容詞との混乱を避ける目的で提案したものである。現代と同じ意味で「形容動詞」という名称を最初に使ったのは芳賀矢一(1904)である。
吉岡郷甫(1912)は形容動詞を口語についても適用しているが、形容動詞が一品詞として定着されたのは、吉沢義則(1932)と橋本進吉(1935)による。
 反面、形容動詞を認めない説も現れている。
 佐久間鼎(1940)は形容詞と形容動詞を一括して「性状語」と呼んだ。
 否定論の代表的な学者である時枝誠記(1950)は、形容動詞を全面的に否定して語幹を体言とし、語尾を断定の助動詞とすべきであると主張した。
 そして、「橋本進吉(1935)の以前の研究ではカリ活用を形容動詞と認める見解もあるが、現在の研究では、カリ活用は形容詞の範疇とし、ナリ活用とタリ活用とを、形容動詞の範疇とするのが一般的である。」と現況が述べられています。これに沿って、教育が行われ第二言語の学習者のみならず、国語教育でも混迷を招いているのは、たとえばYahoo! JAPAN知恵袋やOKWAVE Q&Aの国語、日本語の質問等をみると、形容動詞の定義や、形容詞と副詞との相違、名詞との関係等多くの質問が毎回出されています。
 第二言語の学習者に対する日本語教育については、[松本稿:扱い]で次のように記しています。
 日本語教育では、国文法における形容動詞を、「ナ形容詞」と呼び「形容詞」の下位分類の一つとして学ぶ方法と、「名詞的形容詞」と呼び「名詞+だ」と同じくくりで学習する方法の2種類が一般的である。
 このように、形容動詞という分類を形容詞の下位区分とし、「ナ形容詞」とするのは単に名称の問題で、「健康な体」「彼は健康だ」の「な」「だ」を活用とし、「健康な」「健康だ」を一単語、一品詞とする点で「形容動詞」論の一変形でしかありません。
 [松本稿:扱い]では現状が前提され論じられているため、形容動詞否定論には触れられていませんが、[権善和稿:研究]では「4.2. 否定論」で、松下大三郎、時枝誠記、水谷静夫の否定論に言及されています。しかし、第一章 序論で、「形容動詞の認定論と否定論については、第2章で詳しく言及するが、これは研究史を探る程度の水準にとどめておき、本論文では、この問題を飛び越して、運用上の特徴を中心に考察を進めたい。」と、この問題を飛び越してしまいます。形容動詞を論じて、この問題を飛び越したのでは本質的な議論など出来ないのであり、教育方法もまた明確にはできません。この点で[松本稿:扱い]も[権善和稿:研究]も共に、その限界が明かといえます。

 残念ながら、この点を明確にした論文は現状では見当たらず、唯一明確にしているのは三浦つとむの言語過程説による解明です。
 これが、現在の日本語文法、文法教育の現状ですが、次に具体的な内容をみることにします。■
  
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2017年04月16日

形容動詞という誤り (1)

                    権 善和 「日本語形容動詞の研究」
                    松本靖代 「日本語教育における形容動詞の扱い―国文法との比較を通して―」
 1) 問題提起
 先に<判断辞>「だ」について検討してきましたが、これに関連するのが形容動詞の扱いです。現在の学校文法(橋本文法)では一品詞として立てられているがこれは誤りです。
 この問題を考えるには、言語とは何か、特に語、単語とは何か、品詞分類の基準は何か、活用とは何か、さらに、日本語の歴史がからみ、科学的、本質的な論理を明かにしないと明解な結論を導くことができません。
 その上、日本語を学ぶ外国人に対する教育の問題がからみ、ここでも安易な形式主義や機能論により論理の本質が見えなくなってしまうことになります。
 形式主義言語論に過ぎない、生成文法や日本語文法では当然解明することなど原理的に不可能ということになります。この現状と、本質的な解明を提示したいと思います。
 現状を見るために、二つの論考を検討してみましょう。
 仁荷大学校 大学院の権善和氏による「日本語形容動詞の研究」(2005年8月)<以下[権善稿:研究]と略称>と慶応義塾大学法学部政治学科の松本靖代氏の副専攻卒業論文「日本語教育における形容動詞の扱い―国文法との比較を通して―」(2015年1月27日)<以下[松本稿:扱い]と略称>です。

 [権善稿:研究]は最初に、「日本語の形容動詞が、日本語の体系の中でどのように位置づけられ、また、いかに運用されているのかについて考察したものである。」と述べ、[松本稿:扱い]では「日本語における形容動詞の位置づけを、国文法、日本語教育双方の視点から再確認し、日本語教育に於いて形容動詞を他の品詞と並べてどのように扱うことができるかを考えることである。」と述べられています。
 [権善稿:研究]は「最終的には日本語の形容動詞の意味範疇についての新たな解釈を試みたい。」とします。[松本稿:扱い]では「はじめに」で、日本語学習者のアメリカ人が、「嫌いだ」の否定形を「嫌いでない」ではなく、「嫌いくない」と表現した事例が挙げられ、「嫌い」を「悪い」と同じように活用させた事例が述べられています。これは、言ってみれば我々が英語やドイツ語の動詞の屈折形を誤ったのと同様なイメージで捉えられていることを示しています。そして、最終的にこのイメージに沿った解決法が提示されています。これらが、正しいか否かを検証しなければなりません。
 まず、[権善稿:研究]の「はじめに」の問題提起をみてみましょう。
 形容動詞とは、形容詞と同じく事物の性質や状態、人間の感覚・感情などを表す自立語で、意味的な性質は形容詞と同じであり、活用は動詞のラ変活用と同じくナリ活用・タリ活用をする日本語の品詞の一つである。
 日本語の形容動詞には、文語において「静かなり・まれなり」の「ナリ活用」、「堂々たり・整然たり」の「タリ活用」があり、口語には、「静かだ・まれだ」の「ダ・ナ活用」がある。
 このような、文語の「語幹+なり(語尾)」と口語の「語幹+だ(語尾)」は、形態的に「名詞+なり(助動詞)」と「名詞+だ(助動詞)と同じである。二つの異なる品詞の語が、同じ形態をしているのは、品詞の設定や用法などで混乱を引き起こす可能性があることを示している。
 このような形容動詞の設定と用法は、形容動詞を一語と見なすかそれとも、二語と見なすかという問題と、そこからはじまる形容動詞の認定論と否定論の両論化の現象を生み出しており、形容動詞についての研究の主なテーマになっている。■
  
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2017年04月09日

「非文」について(3)

 
 宮下眞二による「変形文法の展開とホーキンズの冠詞論」の「三 非文とは何か」の後半を転載します。
          ………………  ■  ………………

 非文法性とは文法違反のことである筈だから、文法違反とは言語のどういう事実であるかを反省してみよう。言語は規範に媒介された表現である。所謂文法とは言語を媒介する言語規範のことである。文法違反とは、言語が文法に依って正しく媒介されないことである。詳しく説明すれば、言語は対象―認識―表現という客観的関係をもっていて、この関係は文法に依って媒介されねばならない。文法とは、或る種の対象を表す場合には或る種の音声や文字を用いると云う表現のための約束である。話手が赤くて酸っぱいリンゴを表すために、リンゴの語彙を用いて「リンゴ」と言えば、対象と認識と言語とは正しく媒介されて、聞手は内容を正しく把握することが出来る。しかしこの場合に、話手がリンゴの語彙を忘れたり、又は間違えたりして「ミカン」と言ったとすると、これは対象―認識―表現の関係を正しく媒介していないから、文法違反即ち非文である。このように、文法違反か否かとは、言語の過程的構造が言語規範に依って正しく媒介されているか否かであって、言語の内容が常識に適っているか否か、又は言語の表面的の統語構造の辻褄が合っているか否かではないのである。チョムスキーらは、文の背後にある、話手が何をどう表現したかと云う表現過程を無視して、文の内容を日常的常識と比べて、文法的とか非文法的とかまことに安直に判定して、それを土台として変形文法の理論をデッチ上げたのである。
           ………………  ■  ………………

 この指摘は、原理とパラメターのアプローチからミニマリスト・プログラムへと変転しても何ら変わっていないといえます。そして、この非文を安直に取り込んでいる現在の日本語記述文法もまた同様であり、これまで検討してきた、杉村泰稿「ヨウダとソウダの主観性」でも明かかと思います。先にたまたま見つけた博士論文もまたということになります。■

  
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2017年04月07日

「非文」について(2)


 次に紹介するのは、宮下眞二による「変形文法の展開とホーキンズの冠詞論」という1981年9月刊の三浦つとむ編『現代言語学批判  ■言語過程説の展開』の中の論考の一節です。宮下はすでに、1970年5月に雑誌『試行』に「構造言語学の変形としての変形文法―チョムスキー『言語と精神』の批判」(『英語はどう研究されてきたか―現代言語学の批判から英語学史の再検討へ』1980年2月刊に収録)を発表しており、この論文では変形文法が統語的解釈と意味的解釈との対立から折中ないしは総合へと展開してきた跡をたどり、変形文法の混迷が、その意味の把握が、日常的常識的な意味観を流用した安直かつ曖昧なものであることを指摘し、生成文法の意味素性の概念を、意味そのものではなくて、意味を媒介する語彙の対象の諸側面を分類したものに過ぎないと断じています。そして、非文という安直な発想による生成文法のデッチ上げを明かにしています。この「三 非文とは何か」を転載します。
            ………………  ■  ………………
    三 非文とは何か (1/2)
 変形文法のもう一つの特色は、何らかの意味で「変」な文即ち変形文法で云う非文(ungrammatical sentence)を資料として、正常な文を「生み出す」規則を探り出そうと云う研究方法である。変形文法以前には、正常な文を資料としてその背後にある文法を明かにしようとしていたから、変形文法の研究方法は「画期的」とされ、変形文法の「一大特徴」とされている。しかし変形文法では、母国語話者が直観的に、常識的な意味で「変」だと感ずる文を、すべて「非文法的」と見做し、これを根拠として言語の研究を進めている。変形文法化に言わせれば、母国語話者の直感こそ経験科学の唯一の基盤という訳だろう。しかし科学は、言うまでもなくこの直観を反省するところから始まるのである。
 変形文法で云う非文とは、内容が非現実的又は超現実的なものや、表現がくど過ぎる物や、統語構造が複雑で一読したのでは語と語とのつながりが掴みにくいものなどである。これらは母国語話者には一見して「変」だと思われるために、変形文法家に依って非文法的文と見做された。一例を挙げれば、チョムスキーはAspects(1965年)に於いて、‘The harvest was clever to agree.’(収穫は懸命にも同意した)や、‘Harry drank his typewriter.’(ハリーはタイプライターを呑んだ)を非文と判定して、このような非文を生み出さないために語彙の選択を制限すべき「選択制限」と云う規則が必要であると主張している。しかし、常識ある者ならば、非現実的なものや超現実的なものを空想して言語に表現したら、内容が非現実的又は超現実的になるのは当たり前で、すこしも変ではないと思うだろう。又、人間は嘘をつくことも出来るが、変形文法化に依れば、超現実的な文は非文と云う事になるだろう。ホーキンズは‘The harvest was clever to agree.’は「お伽話」‘a fairy tale’では全く自然でありうると指摘している。彼はイギリス人だからさすがにアメリカの変形文法家ほど非常識ではない。常識ある者ならば、表現がくどくても、複雑で一読では意味が掴み切れなくても、それだけで非文法的とは云えないと思うだろう。そこで変形文法家の非文法性と云う考えそのものが間違っているのではないかと云う疑問が生じる。■
  
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2017年04月05日

「非文」について(1)


 これまでの検討で、非文の非論理性に触れて来ました。これは、以前に<チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (2)の「非文という主観的判定法 」>で論じた通り、「文法の妥当性をテストする一つの方法は、その文法が生成する列が実際に文法的かどうか、即ち、母語話者にとって容認可能かどうか等を確認することである。」という母語話者が容認可能か否かという直感的な判定でしかありません。「辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書」を見ると次のように説明されています。
 文法が誤っており、正しい文章として成立しない文を意味する語。非文であることを示すために、文の先頭や誤った部分などにアスタリスクが付け加えられることがある。
これを読むともっともらしく思われますが、現実には「文法が誤っており」と判断できるような文法論自体が確立されていないため、「母語話者にとって容認可能かどうか等を確認する」という曖昧な概念でしかありません。それゆえに、現在の研究論文や英語、日本語教育でその定義も示さないまま次のように安易に重宝に使用されています。 
 2. 例文の‘*’は、その文が非文であることを示す。
   (「博士学位論文:聞き手領域に対する配慮が言語形式の選択に与える影響―テクレル・テモラウ及びノダ文・非ノダ文の場合―」)
と最初に記されています。この点に関する文章を二件ほど紹介させていただきます。最初は、日本語学説史/奈良時代語音韻史、研究者の釘貫 亨氏の「日本文法学に於ける「規範」の問題―学説史的考察―」(名古屋大學文學部研究論集. 文學. v.42, 1996, p.251-287)から、終わりに近い部分を引用します。
 ところで最近の現代語の文法研究の潮流は、生成文法の方法の導入以来、文と非文の選別を基本にする方法を軸にして展開している。文と非文の選別を基礎にする方法は、あたかも音韻論における交換テスト commutation test に対応するものである。しかし、音韻論における交換テストと文/非文の判定テストとの質的な相違は、前者が最小対 minimal pair の構成に基づいて行われるために、音声的な対立が弁別的機能をもっているか否かの判定に個人差が生じることが有り得ないのに対して、文/非文の判定にはかかる客観的基準が確立しておらず、たとえ統計的方法に依存して客観化を図ったとしても、最終的な判定は、研究者の内省に頼らざるを得ないのである。そしてその内省は、おそらく彼が保有する規範と密接にかかわっているだろう。個人による判断差のない文/非文の客観的判定基準は、未だ開発されていない。遺憾ながら、現代語の文法論は、その最先端を行く理論的研究において、重大な主観主義をはらんでいると考えざるを得ないのである。
 ここでの規範は、いわゆる規範文法でいう規範で、「真の意味での文法の歴史的研究が今日に至るまで存在していないのは、文法研究がいまだに克服していない規範の観念が障害となっているからである。」という主旨の論理が展開されています。国語学からも、このような真っ当な批判が出されているのですが、残念ながら無視されているのが現状です。というより、これに答える手段をもっていないというのが現状です。
 これは、1996年に発表されたものですが、既に1981年に言語過程説の立場から本質的な生成文法批判が提起されていますので次にそれを紹介致します。■
  
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2017年04月03日

助動詞「だ」について(28)

                                    杉村泰「ヨウダとソウダの主観性」
                        〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
 
  モダリティ論という誤り
 
 「ヨウダとソウダの主観性」を検討してきましたが、最終的に膠着語である日本語を命題やモダリティという屈折語文法の用語を借りて解釈する誤りという結論に至りました。結局、最初に戻りここでモダリティ論の誤りを言語過程説の立場から明かにしておきましょう。「 2.1 命題とモダリティ」でのモダリティの定義を次に引用します。
 主観性ということばは多義に使われるが、本研究では、モダリティ論における話し手の心的態度の現れについて用いることにする。モダリティ論によると、一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる。4)「モダリティ」はさらに、話し手による客体世界の把握の仕方と関わる「命題態度のモダリティ」と、話し手の発話態度と関わる「発話態度のモダリティ」とに分けられる。 
 《一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つ》としますが、この内容が誤っています。文は、客体的表現である詞と主体的表現である辞との組合せから成ります。そして、これが入れ子型に組み合わされます。時枝は彼の機能主義的な発想から辞が詞を包むと見なし、風呂敷型構造形式と呼んでいますが、これは観念の運動形式と捉えるべきものです。「話し手が切り取った客体世界」は当然、詞として表現されますが、「怒り」「怒る」、「判断」「判断する」、「思考」「思考する」「意志」「意志する」等、「話し手の心的態度」も一旦客体化されて概念化されれば詞となります。感情、判断、意志等を客体化することなく、直接に概念化したのが辞です。これを区分することなく(できずに)、「モダリティ」「命題」と名付け立体的な構造を平面化してしまっているのが判ります。当然、主観の概念も曖昧になってしまいます。

 英語のような屈折語では動詞の場合、時制/人称/動的属性という主体的表現と客体的表現が一語となり、日本語の句に当たります。この一語に複数の概念が一体化されているという矛盾とその相対的独立が正しく捉えられないところに、「命題」「モダリティ」概念が生まれ、現象的・形式的・機能的な解釈がなされることになります。

 しかし、膠着語である日本語は一語が単純な概念しか表さず、これを粘着して文を構成していることはこれまで論じてきた通りです。このような安易な発想の根底には言語を実体的、構成的にしか捉えられないソシュールの、言語規範をラングとする誤りがあることもこれまで論じたところです。このため、言語とはパロールである表現であることを理解できず、屈折語の概念を膠着語である日本語に適用し語の意義と文での意味も区分出来ないまま錯綜した論理を展開しているのが本論考であるのが理解いただけると思います。三浦つとむが時枝の『国語学原論』を言語学の「コペルニクス的転換」と評価した意義がここにあります。
 
 この様な発想に基づく、統語論もまた錯綜したものになる他ありませんが次にいくつかの事例を見ることにしましょう。■
  
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