〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
モダリティ論という誤り
「ヨウダとソウダの主観性」を検討してきましたが、最終的に膠着語である日本語を命題やモダリティという屈折語文法の用語を借りて解釈する誤りという結論に至りました。結局、最初に戻りここでモダリティ論の誤りを言語過程説の立場から明かにしておきましょう。「 2.1 命題とモダリティ」でのモダリティの定義を次に引用します。
主観性ということばは多義に使われるが、本研究では、モダリティ論における話し手の心的態度の現れについて用いることにする。モダリティ論によると、一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる。4)「モダリティ」はさらに、話し手による客体世界の把握の仕方と関わる「命題態度のモダリティ」と、話し手の発話態度と関わる「発話態度のモダリティ」とに分けられる。《一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つ》としますが、この内容が誤っています。文は、客体的表現である詞と主体的表現である辞との組合せから成ります。そして、これが入れ子型に組み合わされます。時枝は彼の機能主義的な発想から辞が詞を包むと見なし、風呂敷型構造形式と呼んでいますが、これは観念の運動形式と捉えるべきものです。「話し手が切り取った客体世界」は当然、詞として表現されますが、「怒り」「怒る」、「判断」「判断する」、「思考」「思考する」「意志」「意志する」等、「話し手の心的態度」も一旦客体化されて概念化されれば詞となります。感情、判断、意志等を客体化することなく、直接に概念化したのが辞です。これを区分することなく(できずに)、「モダリティ」「命題」と名付け立体的な構造を平面化してしまっているのが判ります。当然、主観の概念も曖昧になってしまいます。
英語のような屈折語では動詞の場合、時制/人称/動的属性という主体的表現と客体的表現が一語となり、日本語の句に当たります。この一語に複数の概念が一体化されているという矛盾とその相対的独立が正しく捉えられないところに、「命題」「モダリティ」概念が生まれ、現象的・形式的・機能的な解釈がなされることになります。
しかし、膠着語である日本語は一語が単純な概念しか表さず、これを粘着して文を構成していることはこれまで論じてきた通りです。このような安易な発想の根底には言語を実体的、構成的にしか捉えられないソシュールの、言語規範をラングとする誤りがあることもこれまで論じたところです。このため、言語とはパロールである表現であることを理解できず、屈折語の概念を膠着語である日本語に適用し語の意義と文での意味も区分出来ないまま錯綜した論理を展開しているのが本論考であるのが理解いただけると思います。三浦つとむが時枝の『国語学原論』を言語学の「コペルニクス的転換」と評価した意義がここにあります。
この様な発想に基づく、統語論もまた錯綜したものになる他ありませんが次にいくつかの事例を見ることにしましょう。■