松本靖代 「日本語教育における形容動詞の扱い―国文法との比較を通して―」
1) 問題提起
先に<判断辞>「だ」について検討してきましたが、これに関連するのが形容動詞の扱いです。現在の学校文法(橋本文法)では一品詞として立てられているがこれは誤りです。
この問題を考えるには、言語とは何か、特に語、単語とは何か、品詞分類の基準は何か、活用とは何か、さらに、日本語の歴史がからみ、科学的、本質的な論理を明かにしないと明解な結論を導くことができません。
その上、日本語を学ぶ外国人に対する教育の問題がからみ、ここでも安易な形式主義や機能論により論理の本質が見えなくなってしまうことになります。
形式主義言語論に過ぎない、生成文法や日本語文法では当然解明することなど原理的に不可能ということになります。この現状と、本質的な解明を提示したいと思います。
現状を見るために、二つの論考を検討してみましょう。
仁荷大学校 大学院の権善和氏による「日本語形容動詞の研究」(2005年8月)<以下[権善稿:研究]と略称>と慶応義塾大学法学部政治学科の松本靖代氏の副専攻卒業論文「日本語教育における形容動詞の扱い―国文法との比較を通して―」(2015年1月27日)<以下[松本稿:扱い]と略称>です。
[権善稿:研究]は最初に、「日本語の形容動詞が、日本語の体系の中でどのように位置づけられ、また、いかに運用されているのかについて考察したものである。」と述べ、[松本稿:扱い]では「日本語における形容動詞の位置づけを、国文法、日本語教育双方の視点から再確認し、日本語教育に於いて形容動詞を他の品詞と並べてどのように扱うことができるかを考えることである。」と述べられています。
[権善稿:研究]は「最終的には日本語の形容動詞の意味範疇についての新たな解釈を試みたい。」とします。[松本稿:扱い]では「はじめに」で、日本語学習者のアメリカ人が、「嫌いだ」の否定形を「嫌いでない」ではなく、「嫌いくない」と表現した事例が挙げられ、「嫌い」を「悪い」と同じように活用させた事例が述べられています。これは、言ってみれば我々が英語やドイツ語の動詞の屈折形を誤ったのと同様なイメージで捉えられていることを示しています。そして、最終的にこのイメージに沿った解決法が提示されています。これらが、正しいか否かを検証しなければなりません。
まず、[権善稿:研究]の「はじめに」の問題提起をみてみましょう。
形容動詞とは、形容詞と同じく事物の性質や状態、人間の感覚・感情などを表す自立語で、意味的な性質は形容詞と同じであり、活用は動詞のラ変活用と同じくナリ活用・タリ活用をする日本語の品詞の一つである。
日本語の形容動詞には、文語において「静かなり・まれなり」の「ナリ活用」、「堂々たり・整然たり」の「タリ活用」があり、口語には、「静かだ・まれだ」の「ダ・ナ活用」がある。
このような、文語の「語幹+なり(語尾)」と口語の「語幹+だ(語尾)」は、形態的に「名詞+なり(助動詞)」と「名詞+だ(助動詞)と同じである。二つの異なる品詞の語が、同じ形態をしているのは、品詞の設定や用法などで混乱を引き起こす可能性があることを示している。
このような形容動詞の設定と用法は、形容動詞を一語と見なすかそれとも、二語と見なすかという問題と、そこからはじまる形容動詞の認定論と否定論の両論化の現象を生み出しており、形容動詞についての研究の主なテーマになっている。■