杉村泰「ヨウダとソウダの主観性」 〔『名古屋大学言語文化論集』第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
<助動詞>「だ」の捉え方(12)
本ブログを諸般の事情から丸一年間以上お休みをいただきましたが、再開させていただきたいと思います。
休止した理由の一つに、判断辞「だ」が助動詞であるのはこれまで論じてきたように問題ないのですが、ここで扱っている「ヨウ」と「ソウ」の本質的な相違がどこにあるのか、特に「ソウ」をどのように捉えれば良いのか今一不明な点がありました。これを明かにしないと、杉村稿が注で、
1)「ヨウダ」には「比況」、「推量判断」、「例示」、「婉曲」などの用法があるが、特に断わらない限り、本研究では「推量判断」の場合を指すことにする。と記していることの妥当性がはっきりしません。恣意的に都合の良い所だけを論じているのか、全く別の意義と考え論じて良いのか、この中だけでは判断できません。その点を明かにすることにより、論考の誤りも明確になるのではと思われます。この点が、ほぼ明らかになったので以下論じてみたいと思います。
2)「ソウダ」には「雨が降りソウダ」のように連用形について「兆候や様相の現れ」を表すものと、「雨が降るソウダ」のように終止形について「伝聞」を表すものとがある。このうち本研究では「兆候や様相の現れ」を表す「ソウダ」について考察する。
杉村稿では、
推量判断の「ヨウダ」がモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」は命題として機能することが明らかとなった。ただし、厳密には「ソウ」の部分と「ダ」の部分では主観性に違いが見られる。と結論しているわけですが、「ヨウ」と「ソウ」の本質が明確にできないため機能を論じ、<「ソウダ」は命題として機能する>と意味不明なことを述べているわけです。「ヨウダ」ではなく、「ヨウ」が推量であることをこれまで論じてきたところです。そして、「ソウ」は結論からいえば<代名詞>「ソ」+意志・推量・勧誘の<助動詞>「ウ」です。「ソウダ」は、この「ソウ」+断定の<助動詞>の終止形「だ」です。現在、辞書や国語文法では「ソウダ」一語で<助動詞>とし、注2)に記しているように、様態と伝聞に区分しており、この論考では、様態だけを扱っているわけです。これでは、様態と伝聞の関連が不明になってしまいますが、これは語の意義と句、文の意味との相違、関連が捉えられない現代日本語文法の欠陥であり、このため、「ヨウダ」「ソウダ」を一語の助動詞として扱い、本稿の結論、
5.まとめとなります。機能を比較し、良く分からない結論を導く結果になります。これでは、伝聞との関係はどうなのかは明らかになりません。「ソウダ」では、なく「ソウ」の意義が何なのかを解明しなければなりません。これは「ヨウ」も同様で、これまで論じたところです。三浦は、<時枝文法では「そう」も<接尾語>に入れているが正当な扱いかたである。>と述べています。現在の慣用として、<助動詞>ではなく、<接尾語>とするのは理解できますが、こうしてしまうと様態と伝聞の関係は良く分らなくなってしまいます。
以上の考察の結果、推量判断の「ヨウダ」がモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」は命題として機能することが明らかとなった。ただし、厳密には「ソウ」の部分と「ダ」の部分では主観性に違いが見られる。このことを「雨が降りソウダ」を例に説明しよう。「雨が降りソウダ」を「雨が降りソウナ気配ダ」に置き換えた場合、「ソウ(ナ)」の部分は客観的な連体修飾成分となり、「ダ」の部分は話し手の確言的な判断を表す。したがって、「ソウ」の部分は命題として機能し、「ダ」の部分はモダリティとして機能することになる。
(21)で記したように、「日本語の膠着語が裸体的に単純な概念を表し、これらを粘着的に連結していくのだという本質」から考えれば、「ソウ」も<代名詞>「ソ」+助動詞意志・推量・勧誘の<助動詞>「ウ」であることが判ります。この「ウ」は、金田一晴彦が「不変化助動詞の本質」[国語国文 22(3), 149-169, 1953-03 ]で文末にしか使用されない辞としての助動詞としたものです。この関連は後に述べるとして、「ソウ」の様態と伝聞の関係を次に見てみましょう。■