2017年04月05日

「非文」について(1)


 これまでの検討で、非文の非論理性に触れて来ました。これは、以前に<チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (2)の「非文という主観的判定法 」>で論じた通り、「文法の妥当性をテストする一つの方法は、その文法が生成する列が実際に文法的かどうか、即ち、母語話者にとって容認可能かどうか等を確認することである。」という母語話者が容認可能か否かという直感的な判定でしかありません。「辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書」を見ると次のように説明されています。
 文法が誤っており、正しい文章として成立しない文を意味する語。非文であることを示すために、文の先頭や誤った部分などにアスタリスクが付け加えられることがある。
これを読むともっともらしく思われますが、現実には「文法が誤っており」と判断できるような文法論自体が確立されていないため、「母語話者にとって容認可能かどうか等を確認する」という曖昧な概念でしかありません。それゆえに、現在の研究論文や英語、日本語教育でその定義も示さないまま次のように安易に重宝に使用されています。 
 2. 例文の‘*’は、その文が非文であることを示す。
   (「博士学位論文:聞き手領域に対する配慮が言語形式の選択に与える影響―テクレル・テモラウ及びノダ文・非ノダ文の場合―」)
と最初に記されています。この点に関する文章を二件ほど紹介させていただきます。最初は、日本語学説史/奈良時代語音韻史、研究者の釘貫 亨氏の「日本文法学に於ける「規範」の問題―学説史的考察―」(名古屋大學文學部研究論集. 文學. v.42, 1996, p.251-287)から、終わりに近い部分を引用します。
 ところで最近の現代語の文法研究の潮流は、生成文法の方法の導入以来、文と非文の選別を基本にする方法を軸にして展開している。文と非文の選別を基礎にする方法は、あたかも音韻論における交換テスト commutation test に対応するものである。しかし、音韻論における交換テストと文/非文の判定テストとの質的な相違は、前者が最小対 minimal pair の構成に基づいて行われるために、音声的な対立が弁別的機能をもっているか否かの判定に個人差が生じることが有り得ないのに対して、文/非文の判定にはかかる客観的基準が確立しておらず、たとえ統計的方法に依存して客観化を図ったとしても、最終的な判定は、研究者の内省に頼らざるを得ないのである。そしてその内省は、おそらく彼が保有する規範と密接にかかわっているだろう。個人による判断差のない文/非文の客観的判定基準は、未だ開発されていない。遺憾ながら、現代語の文法論は、その最先端を行く理論的研究において、重大な主観主義をはらんでいると考えざるを得ないのである。
 ここでの規範は、いわゆる規範文法でいう規範で、「真の意味での文法の歴史的研究が今日に至るまで存在していないのは、文法研究がいまだに克服していない規範の観念が障害となっているからである。」という主旨の論理が展開されています。国語学からも、このような真っ当な批判が出されているのですが、残念ながら無視されているのが現状です。というより、これに答える手段をもっていないというのが現状です。
 これは、1996年に発表されたものですが、既に1981年に言語過程説の立場から本質的な生成文法批判が提起されていますので次にそれを紹介致します。■
  
Posted by mc1521 at 17:03Comments(0)TrackBack(0)