先の論考①「壁塗り交替についての考察」で、
a.ジョンは、壁にペンキを塗った。(〜ニ〜ヲ) b.ジョンは、壁をペンキで塗った。(〜ヲ〜デ)
に対し、(a)は、「その結果としての壁の状態は言及していない。したがって、壁の一部にしかペンキが塗られていない状況を表現することが可能である。」や、(b)では、「壁全体がペンキで塗られたという解釈が強くなる。結果的に、一般的な状況のもとで、壁の一部にしかペンキが塗られていないという事象を表現することはできない。」というのは、「壁塗り交替」という現象を前提にしているための強引な推論に過ぎず、文とは対象の認識の表現であることを考えれば、形式的に格助詞を入れ替えた形は単に語の形式的な羅列に過ぎず、認識が対応していないので本来の文ではないことになります。それを、論者の経験の中にある形式と結びつけ、逆に対象を想像しているだけとなります。本来の文としての「ジョンは、壁にペンキを塗った」という表現は、この一文だけでは先に理解したように、「壁に塗った」という事実の認識の表現としか読みとれません。しかし、実際の会話や文章の文脈においては、前後の文脈で「壁」や「ペンキ」は「家の壁」「倉庫の壁」や「赤いペンキ」「白いペンキ」という具体的な意味が与えられ、その状況が知られて理解されます。それが、表現としての文章での具体的な意味となります。
一方,次の「付ける」や「汚す」等のように,こうした交替を起こさない動詞もある。
(4)a.*壁にペンキを汚す b.壁をペンキで汚す
このように、「壁塗り交替」という現象的な捉え方自体が誤りであることが判明すれば、全く無意味な論を展開していることが判ります。
②「いわゆる「壁塗り交替」について―構文は交替しない.単に(意味の相互調節に基づいて)選択されるだけである―」では、「彼はその仮説の立証のために,わざわざ三本の論文を費やした」に対し、
(5) X∗, Y, V2 = 費やす (非交替)
a. P1: *彼は [X∗ の仮説の実証] を[Y三本の論文]で費やした b. P2: 彼は [X∗その仮説の実証]に[Y三本の論文]を費やした
(6) X∗, Y, V1 = する (おしくも非交替)
a.?彼は [X∗ その仮説の実証] を [Y 三本の論文]でした b. *彼は [X∗ その仮説の実証] に [Y三本の論文]をした
この論文を書かれた黒田航氏は、「純粋内観批判―生成言語学の対抗馬であるだけでは認知言語学は言語の経験科学にならない」(2005)という論稿で、認知言語学の現状に対し、