2015年10月19日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (5)

    「感情動詞の補語についての一考察―「ニ」と「デ」について」(3)

 2 先行研究と考察の対象では、先に見たように形式主義的な用法の検討に基づき、

  これらのそもそも「デ」を使うことができない動詞を見てみると、「先輩にあこがれる」の「先輩」は「あこがれる」の対象であり、宗田(1992)の言うように「二」は「感情の対象」をマークすると言える。一方の「二」と「デ」を言いかえることができる場合がある動詞も、「地震に驚く」の「地震」は「感情の対象」と言えるであろう。そして「地震で驚く」と言った場合は、「地震」は「驚く」の「原因」である。つまり「地震」は「驚く」の「感情の対象」であり、かつ「原因」でもあるのである。「ニ」をどのような場合に「デ」に言いかえることができるか、という問題は、「感情の対象」がどのような条件を満たせば「原因」と言えるのかという問題である。

 と、感情の対象の条件に単純化され、これに基づき言いかえできるか否かの<条件>を明らかにするという論理展開になります。しかし、人が何かの感情を喚起されるからには何らかの要因があります。そこには因果関係があり、何を対象とし、何を原因とするかは話者の認識の問題であり、その認識が文として表現されます。従って、「言いかえ」とは対象の捉え方の変更あるいは、表現方法の変更として検討すべきものと考えられます。「感情の対象」自体の条件とは考えられませんが、その論理を辿ってみましょう。

 続く<3 「二」が使えるとき・使えないとき>の3.1は次の通りです。

 31 「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合

 「二」は「感情の対象」をマークするものであり、基本的に「二」を使うことができない場合はないと言える。しかし、次の例は、「デ」が使われているが、「二」に言いかえると文意が変わってしまう。

  (7)「斐川の離脱で迷った。合併の答えが出るには二十年はかかる。二市五町で期待していたものをどれだけ二市四町で出来るかだ。市民一丸となって改めて取り組んでいきたい」(読売20031216

 (7)は、7つの市町村で合併を検討していたところ、斐川町という町が合併計画からの離脱を表明し、そのことに対して斐川町に隣接する市の市長がコメントを述べたものである。この例では、「迷った」のは「自分の市が市町村合併に参加するかどうか」であり、これが「感情の対象」である。「斐川の離脱」は、「迷う」の「原因」ではあるが、「感情の対象」ではない。このように、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合、「原因」を「二」でマークすることはできない。

  ここでは最初に「文意が変わってしまう」のを根拠に<「原因」を「二」でマークすることはできない>とされます。しかし、文意を問題にするのであれば「二」は単に対象の認識を表すものであり、「デ」は理由・誘因の認識を表すものですから、最初から「言いかえ」などありえないことになります。「斐川の離脱迷った」は、「離脱」を「悩み」の原因として認識し表現しています。論者は「斐川の離脱で、自分の市が市町村合併に参加するかどうか迷った」と理解しているのですが、それは論者の認識で、市長がそう表現しているわけではありません。事実をそのように認識し表現することも出来るということです。

 事実は、7つの市町村で合併を検討していたところ、斐川町という町が合併計画からの離脱を表明したため、斐川町に隣接する市が、当初の計画通り合併を推進すべきかが問題となり、検討したが、やはり予定通り市民一丸となって改めて推進に取り組んでいくことになったということです。

最初に<基本的に「二」を使うことができない場合はないと言える>と記された通り、<「斐川の離脱に迷った」>と表現することもできます。これは、「非文」でも「不自然」でもありません。この場合は、市長が単純に「斐川の離脱」を「悩む」という「感情の対象」として捉え表現しています。また「斐川の離脱(の為迷った」の省略形とも捉えられます。そして、次のように続けて表現できます。

 斐川の離脱迷った。合併の答えが出るには二十年はかかる。二市五町で期待していたものをどれだけ二市四町で出来るかだ。市民一丸となって改めて取り組んでいきたい」

 原因である対象を単に対象と捉え表現することは認識の相違であり、それに対応した表現が可能です。市長は、「斐川の離脱」悩み、「自分の市が市町村合併に参加するかどうか」の判断を迫られ、「合併に参加する」ことを決めたと言えます。ある見方からは原因であるものも、見方を変えれば結果でもあり、それぞれの事実は認識の対象でもあります。

このように、<「斐川の離脱」は、「迷う」の「原因」ではあるが、「感情の対象」ではない。>というのは、論者の認識を絶対化した誤りであり、

 このように、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合、「原因」を「二」でマークすることはできない。

 というのは、対象→認識→表現の過程的構造と、その相対的独立を理解できないための誤りというしかありません。■

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