2015年09月25日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (3)

  「まえがき」から

『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 (岩波文庫:2014.1.16

 前回、形式主義言語観とプラグマティックな方法論との組み合わせによる定式化を見ましたが、生成文法に引導を渡すためには、その発想の根源を抑えなければならないでしょう。そのため、「まえがき」に戻り何を目指しているのかを明確にしておきましょう。 

 の研究では、広い意味の(即ち、意味論に対置されるものとしての)統辞構造と狭い意味の(即ち、音素論と形態論に対置されるものとしての)統辞構造の両方を取り扱う。

 最初に、意味と語に対置されるものとしての文が構成される仕組み、つまり文法の研究であることが宣言されています。ここに明らかなのは、言語、意味、音素、形態とは何であるか、その本質を明らかにすることは最初から放棄されているということです。というか、すでに既知のこととして扱われています。続いて次のよう述べています。

  本研究は、言語構造の形式化された一般理論を構築し、またそうした理論の基礎を探求しようとする試みの一部を成すものである。

  ここでは、「言語構造の形式化された一般理論を構築」すること、つまり形式的な扱いに何の疑問も抱かれていません。対極的な発想として、十六年前の1941年に公刊された、時枝誠記の『国語学言論』の「序」を見てみましょう。

  私は本書に於いて、私の国語研究の基礎をなす処の言語の本質観と、それに基づく国語学の体系的組織について述べようと思う。ここに言語過程説というのは、言語の本質を心的過程と見る言語本質観の理論的構成であって、それは構成主義的言語本質観或いは言語実体観に対立するものであり、言語を専ら言語主体がその心的内容を外部に表現する過程と、その形式において把握しようとするものである。…… さて、以上述べた様に、言語の本質の問題を国語学の出発点とすることには、方法論的に見て恐らく異論があり得ると思うのである。言語の研究を行う前に、言語の本質を問うことは、本末の転倒であって、本質は研究の結果明らかにされるべきものである。従って言語研究者は、言語に於いて先ず手懸りとされる処の音声、意味、語法等の言語の構成要素についての知識を得ることが肝要であるとするのである。しかしながら、部分的な知識が綜合されて、やがて全体の統一した観念に到達するとしても、既に全体をかかる構成要素に分析して考える処に、暗々裏に言語に対する一の本質観即ち構成主義的言語観が予定されて居りはしないか。私の懼れる処の危険は、言語の研究に当って、一の本質観が予定されていることにあるのではなくして、寧ろ白紙の態度として臨んでいる右の如き分析の態度の中に、実は無意識に一の言語本質観が潜在しているという処にあるのである。そして、かくして分析せられ、綜合せられた事実が、客観的にして、絶対的な真理を示しているかの如く誤認される処にあるのである。この危険を取り除く処の方法は、言語研究に先だって、まず言語の本質が何であるかを予見し、絶えずこの本質観が妥当であるか否かを反省しつつ、これに検討を加えて行くことである。言語研究の過程は、いわば仮定せられた言語本質観を、真の本質観に磨上げて行く処にあると思うのである。換言すれば、言語研究の指名は、個々の言語的事実を法則的に整理し、組織することにあるというよりも、先ず対象としての言語の輪郭を明らかにする処になければならないといい得るのである。言語本質観の完成こそは、言語研究の究極目的であり、そしてそれは言語の具体的事実の省察を通してのみ可能とされることである。(時枝誠記『国語学言論 ()』岩波文庫)

  チョムスキーの形式主義的、プラグマティックな発想とは根本的に異なることが明瞭です。これこそが、対象の本質をとらえようとする唯物弁証法的な発想であり、時代の相違とは言え隔絶したものがあります。ここには、科学とは対象の普遍性、法則性の認識であるという科学の本質が正しく捉えられています。時枝が懼れているように、無意識に構成主義的言語本質観を前提とし、「かくして分析せられ、綜合せられた事実が、客観的にして、絶対的な真理を示しているかの如く誤認され」ているのが生成文法の本質といえます。

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