非文という主観的判定法
『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 (岩波文庫:2014.1.16)
前回は、「言語Lの文法とは、Lの全ての文法的列を生成し、非文法的列を1つも生成することがない装置ということになる。」という形式主義的文法の定義を見ましたが、では具体的にどのように進めるのかを見てみましょう。次のように述べています。
何と、文法装置の論理的本質、構造を解明するのではなく、文法の妥当性をテストする一つの方法が「母語話者にとって容認可能かどうか等を確認すること」なのである。つまり、「各々が有限の長さを持ち、また、要素の有限の集まりから構成される文の(有限あるいは無限の)集合として言語(Language)を考えて」、この中で「文法的列」であるか否かは「母語話者にとって容認可能かどうか等を確認すること」だというのです。しかしここでは、「母語話者」とされていますが、実際の運用としてはどうなるのでしょうか。何の事はない、それを論ずる論者自身でしかありえないということです。つまり、言語、文法を論ずる論者の主観に依拠して判断されるという、実にプラグマティックな発想そのものなのです。「テストする一つの方法」と記していますが、このような論理展開では実際問題この方法しかなく、以後、現在までこの方法に依拠し論理が展開されているのです。これでは、とても客観的、本質的な言語の解明に至らないことは方法論的にも、論理的にも明らかです。
そして、次のような良く知られた文例が登場します。当該節を全部引用します。
2.3 第2に、「文法的」という概念は、意味論における「有意味な」(meaningful)や「有意義な」(significant)といった概念を同一視することは出来ない。例文(1)と(2)は共に意味を成さないことに変わりはないが、英語の話者なら誰でも前者のみが文法的であることが判るだろう。
(色のない緑の観念が猛然と眠る)
(2) Furiously sleep ideas green colorless
(あなたは近代音楽についての本をもっていますか)
(4) the book seems interesting
(その本は面白そうだ)
(5) read you a book on modern music?
(6) the child seems sleeping
こうした例が示しているのは、意味に基づく「文法性」の定義を求めることは全て無駄だということである。実のところ、(5)と(6)から(3)と(4)を区別する深い構造的根拠が存在するということを第7章で見ることになる。しかし、こうした事実に対する説明を得るためには、統辞構造の理論をそのよく知られた限界を相当超えるところまで推し進める必要があるだろう。
ここでは、論者たるチョムスキーが読者に(1)が意味をなさないこと、(5)よりも(3)を、(6)よりも(4)を選ぶ意味的理由はないとする主観的判断に同意するよう強要しています。常識的に考えれば、意味と文法性を截然と区別しているわけではなく、(1)はある文脈では意味を持ちます。それは、その文の作者が描く想像の対象に対応した表現の場合でです。「吾輩は猫である」と漱石が表現しても意味を成すのと同じです。「(5)よりも(3)を、(6)よりも(4)を選ぶ」のは「意味的理由はない」のではなく、文法的に正しくないため意味を取るのが困難であるにすぎません。
「意味に基づく「文法性」の定義を求めることは全て無駄だ」などというのは、意味と文法の本質がわからないままに、その関連と媒介性を理解できずに無造作に切り離しているに過ぎません。言語規範である文法に従った文でないと意味の理解が困難であることを理解、解析できないことを露呈しています。このように見てくれば、生成文法なるものが、
言語本質を捉える媒介の論理をもたない、形式主義的な定義と、形式論理に過ぎない数理論理的な表現をプラグマティックな方法と組み合わせた誤謬の論理でしかない
ことが明らかになります。生成文法の信奉者とは、この形式的扱いに眩惑されてあたかも科学的理論であるかのごとく思い込んでいる人々に過ぎません。
このように出発点から根本的に誤った論理的判断に基づいているのですが、生成文法に引導を渡すためにもこのような発想が生まれた背景と、これがもてはやされた時代背景を考察するため、一度「はじめに」に戻り思想的背景も踏まえ検討してみましょう。■