2015年09月21日

「天の原 ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在  補遺

 昨日、奈良大学教授 上野誠氏の「(匠の美)御蓋山 平城びとの月」の記事を取り上げましたが、その後で「阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が仰ぎ見た月は、何処の月?」―「『古今和歌集』に載った仲麻呂の歌に関わる疑問」というHPの記事を見つけました。

 ここで、上野氏の著書『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』(角川選書:20139)に、「「天の原ふりさけ見れば」と題する一章があり、この和歌に関するさまざまな疑問を解説してある。」ことが記されていました。

 この本は未見のため、とりあえずHPの内容の前回指摘に関連する部分を転載、紹介させていただき、追って著書を読んだ感想を記させていただきます。

  ■ 「天の原」歌は、阿倍仲麻呂が天空に上った満月を見上げて詠んだとされている。しかし、上野氏は、この歌には次の2つの疑問があるという。即ち

(A)この歌を詠んだ時、作者が何処にいて、どこから見ている月か明示されていない

(B)作者がかって三笠の山に上る月を見たと云っているが、それが何時のことだったか明示されていない

つまり、この歌にはWhenWhereを示す要素が欠けていて、読者はこの歌に示された情景を思い描くことができない、と指摘されている。

 ■ しかし、上野氏はこの歌の詞書きや左注に疑問を挟まれる。先ず、『古今和歌集』は、平安中期に醍醐天皇の勅命で、紀貫之(きのつらゆき)らが中心になって延喜5(905年)ころ編纂された歌集だが、その時点で参考にした元資料には、詞書きなどついていなかったのでは・・・と推測される。なにしろ、仲麻呂が玄宗皇帝の許しを得て、藤原清河を大使とする第10次遣唐使の帰国船に便乗して帰国の途についたのは、唐の天宝12載(753年)11月で、およそ150年も前のことである。しかも仲麻呂が乗船した船は途中で難破して帰国できず、再び長安に戻り最後は唐土で客死している。そのため、当時流布されていた仲麻呂伝承に基づいて、紀貫之はこの詞書きを記したのであろう、と云われる。

  ■ さらに、左注についても、専門家の間では後人のものとされているそうだ。時代が降って、10世紀の末以降に藤原公任(ふじわらのきんとう、966 - 1041)あたりが、語りの際に挿入した註釈を付け加えたと考えられている。その結果、仲麻呂が仰ぎ見た月は、唐土の明州というところで、帰国送別宴の折に見た月、つまり海辺の月と理解されるようになった。

  ■ 『古今和歌集』に「この歌は、中国の明州で詠まれた」との左注があることから、阿倍仲麻呂が帰国の途についたのは明州、すなわち現在の浙江省の寧波市と信じられてきた。しかし、上野氏も指摘されている通り、藤原公任の理解には大きな間違いがあった。4隻からなる第10次遣唐使船が帰国のために待機していた港は、明州ではなく、蘇州の黄泗浦(こうしほ)だった。1,000年以上の歳月を経て明州とする説の誤りに気付き、現在は長江下流の黄泗浦に特定されている。

  ■ この和歌の左注では、遣唐使船が出港する前に明州で帰国送別宴が催されたと想定している。しかし、明州は誤りで、送別宴が催されたとすれば、出発を一日延期した1115日の夜で、場所は黄泗浦の楼閣だったであろう。その席上で、仲麻呂が振り返って見上げた月は、海上ではなく長江に浮かぶ満月だったはずだ。

  著書を読んでいないため、どこまでが上野氏の見解か判然としない点はありますが、前回指摘した事項に関する疑問は抱かれており、専門家の間でも諸説あるのが分かります。

 にも関わらず、今回通説に従って解説を書かれたということは単に疑問に終わり、解を得られていないことが理解されます。そして、この疑問に正しく答えるものこそ古田説であることが分かります。上野氏が満に一つも古田説をご存じないという可能性は考えられません。氏がこのような疑問を持たれたのであれば、古田説の正否を学会に問い、万葉学の正否についても問題とすることこそが、学者としての責務ではないでしょうか。

 それなしに、疑問の多い旧説を墨守し、公表、生徒を指導することは文科系学部不要が叫ばれてもやむを得ないことになるのでは。■

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