2015年05月09日

現代言語学批判 1-2

  『シリーズ 日本語史』(金水敏 他編:岩波書店刊)の言語観 2

 この巻頭言では、まず「日本語史」への問いを「日本語(国語)とは何か」に、次いで「言語とは何か」と問い、答えは総て「多様・多岐」と答えるのみで何ら回答がなされていません。時枝は国語学を論ずるに当たってまず、「言語の本質とは何か」について「この問題を解決せずしては、私は今や一歩も末節の探求に進み入ることを許されない。」と考えたのは見て来た通りです。
 
  これに比し著者らは「この問題を解決せず」に種々の現象や、機能を列記することで満足しています。取上げたのはシリーズ全体の巻頭言ですが、本論で論じられているのではと読み進んでも全く問題にされていません。

 最初に、<「言語」を「言語の知識」という側面から見ることができる>などと心理学的接近法が取上げられていますが、これは現在のロナルド・W・ラネカーやジョージ レイコフらが唱える第2世代の認知言語学の発想でしかありません。ラネカーは『認知文法論序説』(山梨正明 監訳 研究社 2011年5月23日初版発行)の「第2章 概念意味論」の「2.1.1 意味は頭の中に存在するか」で「意味は、言語表現を産出し理解する話者の心の中に存在している。このほかに意味のありかを見つけるのは難しいだろう。」と意味が、産出する話者から理解する話者へ実体として飛んでいくかのごとき言語言霊論を述べています。そう考えれば、この頭の中に存在する意味を知識とでも考える他なくなるのは論理的必然です。

  この馬鹿げた発想を、訳者の山梨正明氏や、ここで取上げた著者の一人である金水敏氏ら記述文法を論じる人々も無批判に受け入れて言語を論じているのが現状です。そして、私が手にしているシリーズ3の『文法史』では<文法>とは何かの定義もなしに生成文法に依拠し源氏物語あたりの古代語からの文法を論ずるという体たらくです。「第2章 述部の構造 2.1 活用」では中世期の歌学に活用研究の萌芽が見られると始まっていますが、結局最後は「活用現象の実態について述べた、今後は、各時代、各資料ごとの記述の積み重ねと同時に、「活用とは何か」という本質論を深めていく必要がある。」と述べることしか出来ないのです。

 時枝であれば、これまで見て来たように、「日本語(国語)とは何か」、次いで「言語とは何か」と問い、さらに「文法とは何か」、「活用とは何か」とその本質を問い論を進めることになるしかありません。

 「日本語(国語)とは何か」の問いを放棄し、西欧屈折語言語の文法論に全面的に依拠して本質を問うことなく現象論に終始する現在の日本の言語学者の実態、レベルを見たら、時枝は呆れかえり、馬鹿にするしかないと思われます。

  ここで、時枝の言語過程説の確立に至る道の追求を一休みし、少し先回りすることにはなりますが、言語学批判を始めたついでに言語過程説の立場からNETの上で展開されている、上で述べた現代言語学者に教育を受け無批判にそれを受け入れている人たちのブログを覗いて見ることにしましょう。

  最初は、たまたま連休中に見つけた「killhiguchiのお友達を作ろう」というブログに、「現代日本語において、複語尾の終止法独自の用法を、喚体メカニズムで説明する可能性につ いて」という論が説明されており異を唱えるコメントをさせてもらいました。

 言語過程説はご存じないようで、どう説明して良いかまよったのですが。当方がまずひっかかたのが複語尾という用語です。
 これは、山田孝雄(やまだ よしお、1873年(明治6年)5月10日(実際には1875年(明治8年)8月20日) - 1958年(昭和33年)11月20日))という国学者が助動詞という品詞を認めずに、用言の語尾の複雑に発達した「複語尾」だと主張したものです。
 この用語を引き継いでいるということは、山田の誤った発想を引き継いでいるのではと感じたのです。そして、内容を見て見ると正にこの発想を引き継いでいるのです。助動詞という品詞を認めないわけではないのですが、結局この用語と発想を受け入れているわけです。それは現在の上記の記述文法という言語実体観では認識を認めることができずに山田と同じ発想になるしかないという論理的必然によるものです。

 時枝は複語尾説をとらず、判断辞を一語と認め、そしてそれの欠けているものに「零記号」を設定するのですが、この「零記号」が時枝を認めない国語学会の人々には受け入れられていません。時枝の師である橋本進吉が『国語学原論』を東京帝国大学の博士論文として推薦し、学位を得るよう奔走するのですが、この「零記号」については認めることができず、「そんなバカなことがあるものか!」と他の弟子にも語っており、最後まで認めませんでした。形式主義文法学者の橋本としては論理的に受け入れられないこととなります。この辺の複語尾説について次に考えてみましょう。■

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