『シリーズ 日本語史』(金水敏 他編)の言語観 1
時枝誠記の『国語学原論』への流れを追っていますが、昭和4年に記された「新しき国語学の提唱」に対し、現代の国語学の状況として2011年7月28日 第1刷発行の岩波書店刊、『シリーズ日本語史3 文法史』に記された言語観を比べてみましょう。編者は金水 敏氏他8名によるもので、序に当たる「日本語史へのいざない」は次のように始まっています。
「日本語史」とは何かという問いへの答えは、日本語(国語)とは何か、ひいては言語とは何かという問いに対する答えと同じくらいに多岐・多様である。
言語とはまず、外面的に見た場合、音声や文字(時に手話)などの物理現象としての側面を持っている。しかし特定の音声や視覚的刺激が「言語」であるかそうでないか、また意味を持つ(あるいは意味を区別する)かどうかは、それを受け入れる人間の「心」が決定する。したがって、言語とは心の問題であるという心理学的接近法がある。言語を言語と認識することのできる心の状態を、広い意味で「知識」と呼ぶならば「言語」を「言語の知識」という側面から見ることができる。
ここでは「言語とは何か」という問いに対する答えは多岐・多様であるとはぐらかされ、「言語」を「言語の知識」という側面から見ることができる、と「言語」の一側面の提示に終わっている。
これを時間の流れの中で見れば、個別の話者の知識がどこからどのようにもたらされるか、といういわゆる「言語の習得」の問題と見なせる。
と「言語の習得」の問題の側面を提起し、
言語は話者の世代が更新されるたびに、いわば“生まれ直す”のだという認識をもつことは、言語の歴史を考えるうえで重要な視点であると考える。
とされる。さらに、
次に、言語はコミュニケ―ションという社会的行為に用いられるという事実がある。……
さらに、標準語の制定や漢字の制限、国語教育など、言語は国家にとって重要な政策の対象となる。言語は極めて政治的な存在でもある。……
このように、言語は物理的、心理的、生物学的、社会的、政治的な側面を持っており、それぞれの観点から眺めることで随分違った像が結ばれることになる。そしてそのすべてが言語の姿である。
と言語の姿の側面をあれこれ提起するのみで、「言語とは何か」に答えることなく、
本シリーズが目指す「日本語史」とは、上記のような多岐にわたる問題のすべてを視野に収めようとする志向を持った試みである。
と結ばれています。
これが、時枝の、
言語は絵画、音楽、舞踏と等しく、人間の表現活動の一つであるとした。然らば言語と云はれるものは、表現活動として如何なる性質を持つものであるかを考えて、始めて、言語の本質が、何であるかを明らかにすることが出来る。……
言語の本質は、音でもない、文字でもない、思想でもない、思想を音に表わし、文字に表わす、その手段こそ言語の本質というべきではなかろうか。 ここにおいて、言語学の対象は、音響学の対象とはあきらかに区別せられるであろう。言語学者が音声を取扱うのは、音声そのものが対象の如く見えて実は然らず。音声を仲介として思想の表さるるprocessである。
と言う到達点と、海外留学から得た実体験とから、
国語の歴史は西洋諸国語のそれとは自ずから異なったものでありますから、その特質を明かにすることによって、西洋言語学とは別個の言語学を生み出し得るのではないかという予想と、ローマ字ならざる意文字が主要な要素となっている言語の研究には、文字の言語に働く作用役割というものを充分に研究してかからねばならないということであります。
という提唱とは、全く相容れないことは明白です。もう少し具体的に問題点を解剖してみましょう。■