時枝誠記の言語過程説(5) ― 「新しき国語学の提唱」の今日的意義
時枝の留学によってさらに論理的に深められ、昭和4年に提唱された、国語学への提唱は現在の国語学、言語学の状況に対しても極めて本質的な問題を提起しています。
これまで辿ってきたところでは、卒業論文の段階で、
言語は絵画、音楽、舞踏と等しく、人間の表現活動の一つであるとした。然らば言語と云はれるものは、表現活動として如何なる性質を持つものであるかを考えて、始めて、言語の本質が、何であるかを明らかにすることが出来る。……
言語の本質は、音でもない、文字でもない、思想でもない、思想を音に表わし、文字に表わす、その手段こそ言語の本質というべきではなかろうか。 ここにおいて、言語学の対象は、音響学の対象とはあきらかに区別せられるであろう。言語学者が音声を取扱うのは、音声そのものが対象の如く見えて実は然らず。音声を仲介として思想の表さるるprocessである。
とする理解に達しています。卒業論文では江戸時代の国語研究の展開を辿り、その眼で欧米留学を経て得られた結論が、
国語学の問題や方法は、何にも、西洋言語学のそれのみを、追う必要はないのではなかろうか。それよりも国語の事実に直面して、その中に問題を求め、方法を考えるべきではなかろうか。西洋言語学の問題や方法を移して、以て国語学の規範とした啓蒙時代は既に過ぎ去ったのではなかろうか。
というものです。
これは、『国語学原論』の序に記された「言語の本質の問題を国語学の出発点とする」次の論理へと結実する思索の過程であり、それが論理と実感に支えらえたものであることが重要であるといえます。
言語の本質が何であるかの問題は、国語研究の出発点であると同時に、又その到達点でもある。言語の本質の研究は、言語乃至言語哲学の課題であって、国語学は言語学の特殊部門として、国語の特殊相の実証的研究に従事すればよいという議論は、未だ国語学と言語学との真の関係を明かにしたものではない。言語学が、個別的言語を他にした一般言語学(その様なものは実は存在しないのであるが)を、研究するものであるとは考えられないと同時に、国語学はそれ自体言語の本質を明める処の言語の一般理論の学にまで高められなければならないのである。国語学は決して言語学の一分業部門ではない。何となれば、国語学の対象とする具体的な個々の言語は、言語の一分肢でもなく、又その一部分でもなくして、それだけで言語としての完全な一全体をなすからである。それは、花弁が植物の一部分であり、手足が人体の一部分であるのとは異なるものである。国語の特殊相は、国語自身の持つ言語本質の現れであり、言語の本質に対する顧慮無くして、この特殊相を明かにすることは出来ないのである。この様にして、言語の本質が何であるかの問題は、国語学にとって、最初の重要な課題でなければならない。しかも、国語学の究極の課題は、国語の特殊相を通して、その背後に潜む言語の本質を把握しようとするのであるから、言語の本質の探求は、又国語学の結論ともなるべきものである。この様に見てくるならば、
何処までが国語学の領域であり、何処からが言語学の領域であるという風には考え得られないのであって、国語学は即ち日本語の言語学であるといわなければならないのである。(『国語学原論(上)』 10P)
ここには、日本語という個別言語の特殊相と普遍相に関する弁証法的な学問把握の論理が展開されています。この本質的意義を理解し、さらにいくつかの論理的な弱点の補足訂正と展開を図ったのは三浦つとむただ一人でした。三浦が「時枝理論との出会い」で、「東大のお弟子さんにそれをやってのける腕があるかどうかは疑問である」と記した通りです。アカデミズムの国語学、言語学は時枝誠記の言語過程説をその本質に於いて理解、発展させることが出来ず今日に至っているのが現状です。
その結果としての現在の言語学、国語学の一端を次に見てみます。■