2015年10月25日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (9)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(7)

[外的原因]とは言えない>例をみてみましょう。

     もう少し、「二」が使われている用例を見てみよう。

 (22)「当初、新潟にしかない魚と野菜にびっくりした。(以下略)」(読売20080704

 (23) 同州南部の町、ドラムヘラーで初めてフッタライトを見かけ、異様な服装に驚いた。(読売19880206

 (22)(23)の「新潟にしかない魚と野菜」「異様な服装」は、出来事ではないし、複文にしても「(私が)新潟にしかない魚と野菜を見て」「(私が)異様な服装を見て」のように、感情の主体がガ格に現れる。これらは、[外的原因]とは言えない。(22)(23)のように、名詞句が感情の主体の外部で起きた出来事ではない場合、「デ」にすると不自然である。例えば、次の(24)は、かなり不自然であろう。

 (24) ?新潟にしかない野菜でびっくりした。 (作例)

  これは、複文にする際、驚きの動作主をガ格にしただけで、感情の対象も外部の物、あるいは売られているという出来事、「異様な服装をしている」という出来事である。全くの[外的原因]である。[内的原因]というならば、「頭痛」や「腹痛」のような体内現象の場合であろうが、これとて「突然の頭痛で驚いた」り「急な腹痛に驚く」のである。誤った論理に強制された詭弁でしかない。「新潟にしかない野菜でびっくりした。」も何ら不自然ではない。これについては、次のように論じている。

  しかし、さきに見たように、「デ」が判定詞の「デ」と解釈されれば、次のように「デ」も使うことができる。

 (25)「もう、長岡菜を食べましたか」

    「ええ、新潟にしかない野菜で、びっくりしました」  (作例)

 (25)では、文脈で「長岡菜は」という主題が設定されており、判定詞の「デ」と解釈できる。(24)を不自然だと感じない母語話者もいるが、それは(25)のように判定詞の「デ」は使用可能で、格助詞の「デ」と判定詞の「デ」の境界がはっきりしないことによるものと考えられる

  この「境界がはっきりしない」のが形式にとらわれた誤りであることは先に指摘した通りで、ここでも語の形式と話者の認識に基づく意義の関係を理解出来ていないことを明かしているにすぎない。言語実体観によっては、この点を正しく理解することは出来ません。続く論を見てみましょう。

  また、「驚く」「びっくりする」には、次のように「~さに驚く」という例が多い。

 (26)まさか自分が浮気するなんて思ってもいなかったので、自分自身の大胆さに{?で}びっくりしています。(知恵袋OC15_OOO17

 (27) 出勤して、コンビニで取り扱う商品の多様さに{?で}驚いた。(読売20090312

 (28)近江商人とか、伊勢商人というが、初めて、その商い振りを見て誘いの激しさに{?で}驚いた。(『追憶』)

 (26)~(28)は「デ」に言いかえると不自然である。(26)を例に見てみると、自分が浮気をしたことに対し、「自分自身の大胆さ」を感じたのである。(27)は、コンビニの商品を見て、そこに「商品の多様さ」を感じたのである。このように、感情の主体の判断による「~さ」という名詞句は、[外的原因]とは言えない。[外的原因]とは、感情の主体の外部で、感情が動く時点においてすでに起きた出来事であった。「雷で驚いた」であれば、複文にした場合「雷が鳴って、驚いた」のように、デ格名詞句が前件の主体となるものである。(26)~(28)は、複文にすると「自分自身の大胆さを感じて」「コンビニで取り扱う商品の多様さに気がついて」のように「~さ」を認識したことを表す動詞が現れる。複文にした場合の動詞は、他にも考えうるが、「自分の大胆さ」「コンビニで取り扱う商品の多様さ」が、「雷」や「地震」等とは異なり、感情の主体の外部で起きた出来事ではないということが重要である。現実の世界では、コンビニの商品が多種多様であったとしても、そこに「多様さ」を感じるのは感情の主体であり、感情の主体の判断による「~さ」という名詞句は、[外的原因]とは言えない

 また、「~は、誘いの激しさだ」「~は、自分自身の大胆さだ」のように、何らかの主題があるとは考えにくく、判定詞の「デ」であるという解釈を許さない。そのため、「デ」を使うことができないのであろう。

 「雷」や「地震」が外部で起ころうが、それを聞いたり、感じたりしなければ驚きはしません。「雷が鳴って、驚いた」のは、音や、光を聞いたり、見たりしたからであり、感情を引き起こす誘因の認識なしに感情は起こりません。複文にする際、対象自体の動作を表す動詞と感情主体自体の知覚動詞を使い分け外部‐内部としているに過ぎません。判定詞という解釈の誤りも先に指摘しました。では、ここで「ニ」を「デ」に替えた場合に不自然さを感じるのは何故でしょうか。

 それは、一つは「~さ」というのが対象の属性を実体化し量的に扱った表現であることにあります。「高さ2メートル」であり、「重さ1t」や「騒がしさ50ホン」と言った使い方をします。これに対し「~み」と言う場合は、「温かみ」「高み」「重み」「痛み」「楽しみ」というように質的に扱って表現します。

 二つめは、「ニ」という格助詞は単純に対象を指し示す認識しかありませんが、格助詞「デ」は原因としての認識を表すので、その点が示されないと不完全、不適切に受けとられます。これらの理由により、「自分自身の大胆さびっくりしています。」や「誘いの激しさ驚いた。」といった表現に不自然さを感じます。

 次回、これをもう少し詳しく考えてみましょう。■

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