2015年10月24日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (8)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(6)

 次に<判定詞の「デ」と格助詞の「デ」の区別が難しい例>が検討されます。

       しかし、次のように、判定詞の「デ」と格助詞の「デ」の区別が難しい例も多い。

 (15)「予想像以上のごみで{に}驚いた。マナーを守ってほしい」(読売20090302

 (16)「非常に意外な判決で{に}驚いている。上級庁と協議して適切に対応したい」(読売20080510

 (15)は、川の清掃活動に参加した中学生のコメントであり、「清掃活動をしての感想」が話題となっており、感想として「ゴミの量が想像以上だった」そして「驚いた」ということを言わんとしていると思われる。(16)も、無罪判決に対する検事のコメントで、「この度の判決は」といった主題があるものと思われる。このように文脈上、何らかの主題があると思われる場合、「デ」は判定詞の「デ」と解釈することができる。しかし、さきに見た(10)~(14)の「デ」が「二」に言いかえることができないのに対し、(15)(16)は「二」に言いかえることも可能で、格助詞の「デ」との区別は困難である。これは、(15)(16)の「ごみ」「判決」は、指示対象を持つ名詞らしい名詞であり、名詞に格助詞の「デ」がついたものとも解釈でき、また、名詞が判定詞をともない述語になることもできることにより、述語であるという解釈も可能なためであると考えられる。

  文脈における主題の有無と、それをどのように表現するかは別次元の問題であり、事態を客観的に名詞句としてとらえた「予想像以上のごみ」や「非常に意外な判決」を、単に因果関係や対象として捉え表現した例文の「で」「に」は格助詞である。その事態を再確認し、動かぬものとして判断し形式名詞「の」で概念を纏め強調して表現した、「ごみが予想像以上に多いので{に}驚いた。」や「判決は非常に意外なので{に}驚いている。」の場合は肯定判断の助動詞「だ」の連用形「で」となります。

  (15)(16)は「二」に言いかえることも可能で、格助詞の「デ」との区別は困難である。これは、(15)(16)の「ごみ」「判決」は、指示対象を持つ名詞らしい名詞であり、名詞に格助詞の「デ」がついたものとも解釈でき、また、名詞が判定詞をともない述語になることもできることにより、述語であるという解釈も可能なためであると考えられる。

 などと、「言いかえることも可能」とか、「述語であるという解釈も可能」といった話者の対象認識とはかけ離れた、言いかえや解釈可能性で表現された語の品詞が判断できるものではありません。ここでは、語の意義と意味の関係も理解されていません。これでは、 

 このように、感情動詞の「二」と「デ」について考える場合、その「デ」が格助詞の「デ」だけではなく、判定詞の「デ」と解釈できる場合もあり、その境界は、はっきりしないが、そのことを踏まえつつ考察を進めていきたい。

 と、「その境界は、はっきりしない」のは当然です。このような、ピンと外れの議論の基に、考察が進められます。<4. 「デ」が使えるとき・使えないとき>を検討しましょう。

 4. 1 驚く・びっくりする 

 まず、「驚く」「びっくりする」について見てみよう。

次の(17)~(20)は、「デ」が使われている用例である。

17)「火事、という声で驚き、外を見ると炎が私の家の窓まで迫っていた。(以下略)」(読売19940114

18この春のちゃちな空襲ですっかりおどろいちゃってるが、ぼくはちゃんと被害を視察に行ったのですぞ。(『楡家の人びと』)

 (19)「サイレンでびっくりして外に出た。煙が大量に出ていたので火事かと思ったが、違ったので安心した」(読売20081015

 (20)県消防防災課などによると、春日部市で女性(24)が地震の揺れで驚き、自宅ドアに組み込まれたガラスに左手をぶつけ、割れたガラスの破片で軽いけが。 (読売20051017

 これらの「デ」の用例を見てみると、名詞句が「声」「空襲」「音」といった人間の行為によって生じたものか、「地震の揺れ」等の自然現象である。これらは、宗田(1992)の指摘のとおり、「火事という声がして」「空襲があって」のように、複文に言いかえることができ、かつ、デ格名詞句が前件の主体となる。これらは、感情の主体の外部で起きた出来事なのである。このような感情の主体の外部で、感情が動く時点においてすでに起きた出来事を、宗田(1992)に倣い[外的原因]と呼ぼう。「驚く」「びっくりする」は、[外的原因]の場合、「デ」を使うことができる。もちろん[外的原因]は、次の(21)のように「ニ」も使うことができる。

 (21)雷に驚き、耳をふさいで道端にしゃがみ込んだこともあった。(読売20011109

 これは、「デ」でマークされる「原因」と「二」でマークされる「感情の対象」が、「原因」であれば「感情の対象」ではない、「感情の対象」であれば「原因」ではない、という関係ではなく、「感情の対象」が何らかの条件を満たした場合は、それが「原因」とも言えるということを示している。「おどろく」「びっくりする」は、「感情の対象」が、[外的原因]、つまり感情の主体の外部で、感情が動く時点においてすでに起きた出来事であれば、「原因」と言えるということである。

  ここでは、話者の「感情が動く時点においてすでに起きた出来事」を[外的原因]と名付け、この場合に「デ」を使うことができ、「ニ」も使うことができるとしています。しかし、感情が起こる以上、その原因なしに起こるはずがありません。外的であろうと、内的であろうと出来事、事態の認識により引き起こされるというのが因果関係です。従って、何ら説明にはなりません。この後、

 これは、「デ」でマークされる「原因」と「ニ」でマークされる「感情の対象」が、「原因」であれば「感情の対象」ではない、「感情の対象」であれば「原因」ではない、という関係ではなく、「感情の対象」が何らかの条件を満たした場合は、それが「原因」とも言えるということを示している。「おどろく」「びっくりする」は、「感情の対象」が、[外的原因]、つまり感情の主体の外部で、感情が動く時点においてすでに起きた出来事であれば、「原因」と言えるということである。

 と、纏められていますが全くの誤りです。現実は立体的な因果関係の連鎖ですから、何を原因とし対象とするかは話者の認識の問題です。<「デ」でマークされる「原因」と「二」でマークされる「感情の対象」>という見方が正に言語実体論的な現象論でしかないということです。「マーク」などという機能的な発想の用語がそれを明かしています。話者が対象を原因と認識したことを表現するために、言語規範に基づき格助詞「デ」を用いたのであり、対象と認識した場合には「ニ」を用いて表現するということです。このように、言語の本質の捉え方を誤った論理的必然として、問題の捉え方を誤り、そこから形式論理による最もらしい論理を展開するしかありません。どのような展開となるかを追跡しましょう。■

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