言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
劉論文では、<形式動詞>説に対する反論として、<「だ」は助動詞であり、その前に復元可能な要素が省略されているという見方>を想定し、反論していますが、単に形式的な復元可能な要素ではなく、相手の判断とその追判断を捉えられないと正しい反論とはなりません。この追体験の問題は、「だが」「ですが」という接続助詞の問題に繋がっていきます。しかし、現在の言語学では追体験の問題を取り上げていません。この原因を三浦つとむは、次のように明らかにしています。
西欧の言語学は、追体験をとりあげていない。なぜか?それは、追体験がソシュールのいうところの「言語活動(ランガージュ)」に属するものであって、「言語(ラング)」に属するものではないからである。具体的な言語表現と理解の過程的構造を言語学からタナあげして、言語規範のありかただけをとりあげているからである。言語学が「言(パロール)の運用によって、同一社会に属する話手たちの頭の中に貯蔵された財宝」だけを問題にしている限り、聞き手は話し手と同様にその「財宝」すなわち言語規範の持ち主であるというだけのことで、追体験問題は理論的にネグられてしまっている。現在支配的な地位を占めている構造言語学にしてもこのことに変わりはない。しかしながら、さきに見たように、話し手にしても文と文との接続においては、先行文における自分の判断を再判断して、「だが」とか「だから」とか表現しているのであって、「言語活動」における具体的な認識のありかたを問題にしないかぎり、聞き手の追体験はもちろんのこと話し手の<接続詞>の文法的な説明すら不可能なのである。
(『認識と言語の理論 第三部』(1972)―追体験による表現の展開 五 <接続助詞>と<接続詞>との連関―)
ソシュール言語学の亜流でしかない現在の言語学、文法論では本質的に扱いえない論理的構造になっていることが判ります。談話レベルの<助動詞>の在り方に疑問をだいたのは鋭い着眼ではありますが、それを解明する論理的支えが無いため、形式論、機能論の混迷に迷い込む他ないことを本論文は明らかにしています。
これで本論文の批判は終わりましたが、<助動詞>「だ」や<助動詞>そのものが他にどのように論じられているかを次に見てみましょう。■