2015年11月12日

助動詞「だ」について(9)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 (通巻 29 2010) 
   <助動詞>「だ」の自立した使い方について(1)

 劉 雅静論文で問題とされているのは、

   (2) 「桂太君かっこよくない!?」

       ね、一際目立ってるかも…」『虹色の約束』

に見られるような単独の<指定の助動詞>「だ」の使用法です。橋本文法や教科研文法では、付属語とか付属辞とよばれて、かならず上の語に付属することになっているため、<助動詞>とすることに疑問を呈されています。たしかに、「付属語で活用があり、体言・用言に意味を添える単語」とすると、「意味を添える」べき「体言・用言」が存在せずおかしなことになってしまいます。しかし、これまで見てきた通り形式や機能は語の本質ではなく、表現としての語の本質により品詞を決めねばなりません。従って、話者の主体的表現で、肯定判断を表す語として「だ」の使用法を検討しなければなりません。

 この論文では、最初に先行説の検討を行っています。それらは、すべて形式的、機能的な観点からの解釈でしかないのですが、その誤りを明らかに出来ずに同じ枠内でしか思考していません。時枝誠記の詞・辞の説もこれらと一括りにされています。言語とは、対象→認識→表現の過程的構造をもった表現であり、<指定の助動詞>「だ」もまたこの本質に基づく表現であることを基に論文を見直してみましょう。三項目の問題点が挙げられます。順次、検討しましょう。

 (a) 伝統文法で規定されている文法単位が話し言葉の分析において必ずしも有効ではない。

  この点は、これまで見てきた通り、伝統文法自体が形式や機能に頼った誤った分析ですので当然のことです。

 (b) 形式上、「だ」は多くの助動詞に見られない単独用法を持つ。

 例文に挙げられている通り、会話の場合には「だね」「だよね」「ですね」と使用され、これがいかなる使用法であるかを明らかにしなければなりません。これについては、三浦つとむの「<助動詞>と<助詞>の自立した使い方について」(『言語学と記号学』1977.7.10 勁草書房刊)という論文がありますので、これに依拠して例文(5)を検討してみましょう。

 (5) (いつも朝早くから出勤する田中さんの姿がいないことに気づいた社員たちのもとに課長がやってきた。

そして、課長が社員A に向かって)

「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということ

課長が座席に戻って行く。社員A が自分の後に座る社員B に、

そうです」/「ってさ」 (作例)

 この場合、課長の言った「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということで」という言葉を社員ABも同時に聞き、課長の立場にたって内容を追体験することにより内容を理解します。この理解のためには、聞き手は観念的な自己分裂によって観念的な自分が相手の立場に立ち、追体験をすすめていきます。課長の「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということ」という表現を理解しようとするなら、追体験によって社長の体験を繰り返すことにより「だ」の連用形「で」をも追体験します。つまり、追判断が行われます。社員ABに、この体験を念押しのため表現する場合、この追体験をいま一度表現し、課長の言葉を「そう」と指定することにより、「そうです」となり、「だいうことさ」の「と」が「って」となり「いうこと」が省略されて「ってさ」となることにより、助動詞「だ」が文の先頭に現れます。これは、形式的には「だ」が自立していると同時に、内容的には追体験を媒介にして相手の判断に結びついているわけです

 さらに、三浦の論を筆者の責任で読みやすくアレンジし引用します。

判断辞が文の先頭に使われるのは、多くはこのような相手の追判断の表現ですが、相手の判断に直接結びついていない場合もあります。たとえば、面会時間におくれてやって来た相手が、「何とかとりついでくれませんか。事故で遅れたものですから。」と訴えた場合、聞き手はこれを追体験して、もっともと一応肯定しはしますが、とはいえ規則だからどうにもならないと考えた場合は、忠実に表現するならば、「それはそうです」とか「ごもっともです」とか、まず事情を肯定する形となりますが、「それはそう」「ごもっとも」を略して、肯定判断辞の「です」から表現するなら、ごもっともですが面会はいたしかねます。」が「ですが面会は致しかねます。」になり「です」が先頭にあらわれます。「です」に続く「が」は<接続助詞>で、逆説とよばれる使用法です。何に対して逆かといえば、表現されていない肯定した思想です。この「です」は相手の判断に直接むすびついているのではなく、追体験を媒介として聞き手の思想を形成し、聞き手独自の判断を示すという、媒介関係にある判断辞なのです。

 会話だけでなく、別れの挨拶をしたり、仲間に声をかけたりする場合にも、自分の思想を形成しいその判断を文の先頭に示しています。いろいろ考え合わせてみて、訪問の目的はこれで達したなとか、これではいくら話かけても拒否されるだけ無駄だとか、別の訪問客が来たので話さないのが賢明だとか、それなりに独自の判断を行って、「はこのへんで。」と表現します。あるいは、このくらい休憩すればみんなの疲れもいくらかとれたろう、出発する時が来たと判断して、「では行こうか」と表現してよびかけます。(引用終わり)

  このように見てくれば、肯定判断を表す<指定の助動詞>「だ」として論理的、合理的な使用法であり、談話という場面、前提を共有した直接的な文のやり取りという場で話者の追体験に対する判断辞が先頭に現れる文であることが判ります。

 この、言語表現の本質である過程的構造を理解出来ずに、言語実体観によりすべてを文・語の機能として理解するしかないところにこの論文の本質的な欠陥があります。それは、現在の言語学、国語学、日本語学の本質的な欠陥であり、時枝誠記が言語を表現と看破したコペルニクス的転回以前の学でしかないということです。

 次に、ここに言われている「多くの助動詞に見られない単独用法」とは何なのかを検討しましょう。■

  
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2015年11月11日

助動詞「だ」について(8)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
  <助動詞>とは何か

  現在の学校文法では助動詞>は、「付属語で活用があり、体言・用言に意味を添える単語」と形式的な規定を、「体言・用言に意味を添える」という機能主義で補強しています。このためリンク先の表にもある通り、<比況・例示・推定の助動詞>として「ようだ」、さらに、<伝聞の助動詞>「そうだ」と<様態の助動詞><そうだ>などが入っています。

しかし、これまで見てきたように語とは<表現主体が無意識的に運用しているところの規範において決定される>ものであり、語の分類にとってもっとも根本的なものは、<客体的表現と主体的表現のいずれに属するかという分類>からは、まず<助詞><助動詞><感動詞>等は<主体的表現>の語である<辞>として捉えられねばなりません。そして<助動詞>は話者の肯定判断、否定(打消し)判断、推量、その他を表現しています。これこそが、<助動詞>の本質的と言えます。<助動詞>という名称は英文法のAuxiliary verbを翻訳したものですが、日本語の<助動詞>は英語とは異質な、肯定判断、否定(打消し)判断、推量、その他を表現する主体的表現の語です。

このため、三浦つとむは、昔学者が使った<動辞>という名称を復活するのが妥当と提起しています。さらに、時枝はこの辞としての助動詞の定義から、『国語学原論』で新たに辞と認むべき「あり」及び「なし」の一用法辞より除外すべき受身可能使役謙譲の助動詞>を論じています。まず「あり」についてです。

 a. ここに梅の木がある。   b. これは梅の木である。

 aの「が」に続く「ある」は存在を表す<動詞>ですが、bの「で」に続く「ある」は判断的陳述を表しています。この「ある」は<動詞>から<助動詞>へ転成したものです。橋本文法では、補助動詞とされ、山田文法では「ある」を<存在詞>として別扱いしてこの違いを認識していません。bの「で」は肯定判断(断定)を表す<指定の助動詞>「だ」の連用形であり、判断辞の重加により肯定判断が強調されています。さらに強調を重ね「あるあります。」と、間に形式名詞の「の」を挟んで使用されます。橋本文法では、<補助動詞>とされ、山田文法では、「ある」は<存在詞>として一括特別扱いされています。

 また、動詞「ある」に対し「なし」は本来「お金がない」のように形容詞ですが、これが、「花が咲かない。」のように否定の判断辞となり<助動詞>に転成しています。橋本文法では<助動詞>に入れられていますが、山田文法では<動詞><存在詞>の複語尾とされています。これについては、以前〔山田孝雄(やまだよしお)の<助動詞>「複語尾」説 15〕で取り上げました。

 受身可能使役謙譲の<助動詞>、「れる られる」「す せる させる」は客体的表現であり<助動詞>から除いて<接尾語>に入れるべきと正当な主張をしています。

 さらに最初に記したように、<比況・例示・推定の助動詞>として「ようだ」、さらに、<伝聞の助動詞>「そうだ」と<様態の助動詞><そうだ>などが入っていますが、これらも助動詞ではないことを論じています。「ようだ」は<助動詞>「よう」+「だ」、「そうだ」は接尾語「そう」+<助動詞>「だ」と二語よりなっています。

 また、過去・完了の「た」が客体的表現ではなく、主体的表現である<辞>であることは、以前新聞記事に見る時制表現について〕で、

  過去現在未来は、属性ではなく、時間的な存在である二者の間あるいは二つのありかたの間の相対的な関係をさす言葉にほかなりません。……過去から現在への対象の変化は、現実そのものの持つ動きです。これを、言語は、話し手自身の観念的な動きによって表現します

と記した通りです。このような、助動詞、時制が現在も形式主義、機能主義的な国語学で正しく理解されていないのは、野村剛史稿「助動詞とは何か―その批判的再検討―」や、北原保雄著『日本語助動詞の研究』で「いわゆる助動詞」と記して明確な助動詞の定義が出来ないことからも明らかです。

 もっとも多く使われる<助動詞>が肯定判断を表す「ある」「だ」の系列で、これを<指定の助動詞>とよび、<敬辞>化したものが「です」「ます」の<敬意の助動詞>です。この<指定の助動詞>「だ」の本質である肯定判断に基づき、劉 雅静氏の論考を検討してみましょう。

  
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2015年11月09日

助動詞「だ」について(7)

   
談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   語とは何か (6)

  三浦つとむ「語の分類について― 二 時枝誠記は客観主義に反対する」の引用を続けます。(注は省略)
 そこで時枝は、「言語の客体的存在としての把握を脱却して、言語をあるがま々の存在として、即ち主体的経験として、これを把握する」という、過程的言語観の立場から、「単位としての単語の本質を主体的な言語経験に於いて規定しようとする」のである。つまり言語の思想的単位を、表現主体から切りはなして客体的存在として扱うのではなく、表現主体自身の認識に求め主体的存在として扱い単語の本質をこのような一概念の音声に表現せられる一回的過程」に求めるのであって、それとともにつぎのような事実に注意を求めている。

 極単にいえば、甲によって単語として経験されたものが、乙には単語の結合即ち複合語として経験されることがありえるということである。しかしながさ、このことは当然認めなければならないことであって、時代を経、土地を隔てるならば右の様なことは当然起こり得ることであって、過去に二単語であったものが現今一単語として経験されることのあるのは寧ろ自然の事実であって、客観的に或語が過去の現在を通じて一単位であると断定されることが寧ろ事実に反すると考えなければならない。……

……「白墨」は現今の主体的意識に於いては「白い」「墨」といふ二個の概念単位に還元されるのではなくして、「チョーク」という一概念単位を表すに過ぎない。従って「赤い白墨」「青い白墨」といふことが可能なのであつて、若し主体的意識に於いて「白墨」が二の概念に分析されるとしたら、「赤い白墨」といふが如きは全く非論理的表現といはなければならない。

 日常生活でも同様の例が少なくない。「茶碗」ははじめ「茶」を注ぐ「碗」として二個の概念から成っていたのであろうが、現在では「茶」という意識は消滅して陶器の一種をさすこととなり、飯を盛る器でも、「茶碗」とよぶ。「薬罐」も同じように「薬」という意識は消滅して金属製の湯わかしをさすこととなり、落語のように「矢」が当ってカーンと音がしたから「ヤカン」なのだとこじつけることさえ行われている。しかしながら、「鉄瓶」はいまもって二個の概念から成っており、鉄製のものにしか用いられてない。「とうなす」「とうがらし」における「唐」すなわち中国産の意識も消滅しているし、「とうもろこし」に至っては「もろこし」がそもそも「唐」の意味でありながら植物の名となり、さらに「唐」を意識して加えたところそれすらも意識から消滅して、現在では「とうもろこし」全体が植物についての一概念である。「さつまいも」の「薩摩」という国の意識も消滅して、芋の一種を指す名となった。語の内容についても、辞書の説明どおりに解釈すれば正しいとはいえないのであって、流行語の「ハレンチ」は内容的に「破廉恥」とまったく異なっているから、これも表現主体の意識いかんから説明しなければならぬことは明白である。時枝の言語観は言語規範をネグっているから、正しくいいなおすと、一の語であるか否かは客観主義的に辞書的に規定された規範においてではなく、表現主体が無意識的に運用しているところの規範において決定されるのである。これが本質的な分類の基準である。すなわち、圧倒的多数の表現主体によって現に運用されている規範が、一般的な分類の基準となるわけであるから、時と場所から規定された相対的な分類となるので、絶対化してはならない。

それでは言語にとってもっとも根本的な語の分類は、どんな内容をもつものであろうか?それを把握するには、これまでの言語学がとらえることのできなかった言語の表現としての本質的な特徴を見なければならない。絵画や写真が客体的表現と主体的表現との直接的な統一であるのに対して、言語ではこの二種の表現が分離して別個の語によって行われることを、私は『日本語はどういう言語か』以後指摘してきた。語の分類にとってもっとも根本的なものは、この客体的表現と主体的表現のいづれに属するかという分類であって、これは日本語のみならずあらゆる言語に妥当する。松下大三郎があらゆる言語に普遍的な一般文法を論じて、<文節>的なものを<単性詞>と<複性詞>に先ず分類したのは、言語表現の本質を把握することなく与えられた言語表現の論理構造で区別するという、構造論的発想に自分をおしこめていた結果であった。

時枝が鈴木朖の言語観における<詞>と<辞>の区別に注目し、これを客体的表現と主体的表現との区別と受けとって西欧の言語学を超えたものと評価し、「この事実は、文法における品詞分類の第一基準として、文法学に重大な変革をもたらすものでなければならない」と主張したことは正当である。現在行われている<詞>と<辞>の区別は、橋本や空西に見るように内容における本質的な差異を意味するものではなく、形式における独立非独立に修正されているのであるから、朖の真意を読みとってここに分類の根本的な基準を置いた時枝の功績は高く評価されなければならない。けれども先の分類の一般論に照らして考えるなら、朖の言語観の再発見によってまず内容についての大きな分類を行うという仕事がようやく達成されたにすぎないのである。一般論として正しくとらえたということは、さらに具体化していく場合にすべて正しということを意味しない。蝙蝠を鳥ととらえ鯨を魚ととらえるような誤りは訂正しても、鳥と獣の中間に位置するような動物や生物と無生物の中間に位置するような存在にぶつかって、あれかこれかと機械的に区別することの限界を思い知らされる事実は、言語学にとっても教訓的である。すべての語が<詞>と<辞>に機械的に分類できるわけではなく、中間に位置するような存在にもぶつかるのだが、このときにこんどはそれまでの発想の裏返しに転落して、<詞>と<辞>を区別してきたことまで疑い、この区別をなげすててしまう学者が出てくるであろうと予想することもできる。》

 このような、語とは何かの本質的な定義もなく、語の分類にとってもっとも根本的なものが何かを捉えることもできずに、語の機能と形式にたよって分類を繰り返している現在の言語学では、助動詞とは何かを明らかにすることさえ出来ません。「語の分類について」は、さらに山田の分類と「<体言><用言>とは何をさすか」が論じられますが、これは後日、必要に応じて参照することとします。この、語の本質的な分類に基づき、次に助動詞とは何かを明らかにしましょう。■

  
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2015年11月08日

助動詞「だ」について(6)

言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   語とは何か。(5)

 三浦つとむ「語の分類について ― 二 時枝誠記は客観主義に反対する」の引用を続けます。(注は省略)

 英語学者の空西哲郎はつぎのような分類表を提出した。

 

 

体 言

名 詞

代 名 詞

形式名詞

 

用言

動   詞

形 容 詞

付 属 動 詞

付属形容詞

付属用言

 

副  詞

 

助  

接 続 詞

 

  体言は「もの」「こと」を表す語であるが、名詞の「机、人間、花」は総称的、共時的、一般的な語であって、それだけで独立した意味を有している。ところが代名詞の「それ、かれ、君」は文脈(context)や環境(situation)を抜きにしては意味がはっきりつかめないものである。言い換えると、代名詞は名詞と違って、独立性の乏しい語である。つまり辞である。……代名詞が辞であるのは、たとえば「それ」「かれ」がそれだけで独立して使えないからというのではなく、「それ」「かれ」がそれ自体では、名詞のような総称的、共時的、一般的な意味を伝えることができないからなのである。ところが、形式名詞が辞であるのは、たとえば「こと」「もの」が「……ということ」「……するもの」というふうに、他の語句につづかなければ使われない語、という意味で言うのである。辞といわれるものは、この後の意味で用いられるのが普通であろうが、代名詞を辞とみることも、独立性の乏しい点では、不当ではあるまいと思う。

 空西が<付属動詞>と<付属形容詞>、またはひっくるめて<付属用言>とよんでいるのは、いわゆる<助動詞>である。英語学者が日本語を論じるときには、英語の文法がプロクルステスの寝台になって、膠着語の表現構造が屈折語的に切断されることが多いが、空西の扱いかたもそうである。日本語における<活用>は英語の「屈折」に近いものと解釈され、<接尾語>の「れる」もこれまた<動詞>の<活用>の形態にぶちこまれる。明治二十二年に大槻文彦が批判した「洋文法ノ忠臣」と同じことを主張しているわけである。

  「子供たち」の「たち」は接尾語としてcodeから切り離し、「お手紙」の「お」は接頭辞としてcodeから切り離す。このような接辞は語としては取り扱わないから、品詞を決める必要もないのである。

 これでは日本語の膠着語としての特徴に規定された語彙である、敬語についての体系的な理論は出てこない。「おみ足」という場合には、「足」に古い敬語の「み」だけでなく、さらに口語の敬語「お」を加えて強めた、敬語の重加である。「お」「み」がそれぞれ一定の意味を持つからこそこのような表現がなされたのである。「で」「ある」と判断の<助辞>を重加するのと似ている。これに対して「おみくじ」は、はじめわれわれのこしらえる「くじ」に対して神社仏閣のそれを敬語化し、「み社」「み仏」というのと同様に「みくじ」と言ったのであろうが、口語で「お」を加えることによって「み」は敬語の意識を失い、いわば「籤」から「籤」に、特殊なくじの意味に変わったものと考えられる。「おみき」「おみこし」も同じであろう。

 山田ないし橋本流の発想は、独立非独立を基準とする点で形式主義ということができるが、形式主義としては中途半端であり、さらに極端におしすすめたところに位置づけられるのが、かつての松下大三郎と現在の教科研の文法論である。橋本は、山田文法と松下文法とを部分的にとりいれたのであって、松下のように極端なところへまでは行かなかった。橋本は、音声で表現するときに実際に区切って発音される部分を一つの単位としてとりあげて、これを<文節>とよんだ。右の時枝の説明にもあるようにこの文節を構成する語をさらに独立非独立で区別して、詞と辞と名づけた。松下は橋本のいう<文節>それ自体を一品詞と見て、これを詞とよび、<助詞><助動詞>のようなものはこの詞をつくる材料(原辞と呼ぶ)でしかないから、一品詞とは認めなかったが、橋本はそこまで伝統的な文法論から逸脱しなかったわけである。ところが教科研文法は、橋本文法の批判者として登場し、これを事実上松下文法的に改作して、われこそ科学的文法なりと主張しているのである。教科研文法では、橋本のいう<文節>それ自体を一語と解釈し、橋本文法の<付属辞>や<補助用言>はすべて一語とは認めない。「学生ではなかったでしょう。」も<名詞>の<用言なみの語形>で一語であると規定する。

 時枝は山田ないし橋本流の発想と対立して、その形式主義を拒否しながら同様に一つの語とは何かを検討した。彼は『国語学言論』において、言語を表現主体の活動から切りはなして「専ら客体的表現として考えようとする処の主知的立場」、正しくいえば客観主義が言語学において伝統的なものであることを指摘し、つぎのようにその弱点をついて客観主義からの脱却を主張する。

  か々る見地に立つ処の単位としての単語の本質は、一方には概念単位によって決定せられ、他方音声群によって分割せられるとする。概念および音声は、相互に相手方としての役割を持ってゐる。こ々に一方には思想的単位を以て単語認定の基準とする内容主義が成立し、他方には音声群の終止や音調を以て基準とする形式主義が対立する。音声・概念の結合を以てする構成的言語観に立つ限り、右の二の対立は避けることが出来ない。》

  劉 雅静氏の論文では時枝のこの主張は無視され、<表1「だ」を「助動詞」と見なす先行研究>のなかに、<「だ」は独立して一文の文頭に用いられないことや独立せず、常に他の語に伴って現れるといったことが主張されている>、松下・橋本他と纏めてひと括りにされています。■

  
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2015年11月07日

助動詞「だ」について(5)

言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
  語とは何か。(4)

 続けて、三浦つとむ「語の分類について ― 二 時枝誠記は客観主義に反対する」を見て行きます。

 時枝は山田の述べた分類の基準を、『国語学言論』でつぎのように批判した。

 ……山田博士は、これを具象的な独立観念の有無といふことで説明されようとするのであるが、てにをは或は詞といはれるものが、他の語に比較して具象的な独立観念を持たないかといふのに、必ずしもさうとは云えないのである。博士が、観念語と云われるものの中にも、極めて抽象的な概念しかあらわさない「こと」「もの」のやうな語もあり、関係語の中にも、「か」「も」の如く疑問、強意の如き具象的な思想をあらはし得るものもあって、独立観念といふ点で、この両者を截然と分つことは困難である。山田博士は、更に独立的に思想をあらはし得るものと、さうでないものとの別を以て説明されようとする。この分類基準は、橋本進吉博士もとられたところのものであって、博士は語が文節を構成する手続きの上から、一はそれ自からで独立して文節を構成し得るもの、二は常に第一の語に伴って文節を構成し得るものに二大別され、前者を詞、後者を辞と命名された。しかしながら、語が独立して用いられるか否かといふことは、必ずしも絶対的なものでなく、語を分類する絶対的な条件とはすることが出来ないものである。例へば、用言の活用形、「行けば」の「行け」は、「ば」と結合してのみ用ゐられるものであって、「行け」はそれだけで文節を構成するものとは考へられない。また、「八百屋」「肉屋」の「屋」も、決してそれ自身独立して文節を構成するものとは考えられないにも拘はらず、「屋」を助詞の中に入れることはない。

<助詞><助動詞>はふつう独立して用いられないが、会話の場合にはしばしば独立することがある。「彼は私に気があるのよ。」「かもね。」とか、「この仕事をやってのけたらおやじも驚くぞ。」「だろうな。」とか、客体的表現の存在しないことが決して稀ではない。文法学者が会話における表現のありかたを正面からとりあげようとしない現状は、いろいろな意味で問題にする必要があろう。
 山田ないし橋本流の発想は、内容においてこれこそ基本的なものだという基準をとらえることができないために、その弱点を形式的な独立か非独立かでカヴァーするものである。それで内容で基準をとらえられない学者は、みな同じような発想になるけれども、内容をまったく無視するわけではないから、内容をどう考慮するかによっていろいろちがった分類が生まれてくる。》
 問題としている論稿は、正に<会話における表現のありかたを正面からとりあげようとしない現状>が、談話を取り上げるようになった現在での問題提起で、鋭い着眼です。しかし、何ゆえに<「だ」を「用言」と見なす先行研究>が4種類も存在するのか、<形式名詞>とは何であるかに疑問を抱くことなく、機能主義的な言語観の中で、新たな見解を加畳するだけという点に本質的な問題があります。
 さらに、この先でも明らかになるように先行研究の内容の検討が不十分であることが判ります。
 続けて、三浦の論の展開を見て行きましょう。■
  
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2015年11月06日

助動詞「だ」について(4)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   語とは何か。(3) 

 三浦つとむ「語の分類について ― 山田孝雄は西欧模倣に反対する」の、分類についての一般論に続けて山田孝雄の分類を論じています。劉 雅静氏の論文では、山田他の<「だ」を「用言」と見なす先行研究>を取り上げていますが、なぜそのような見解が生まれたかについては問う事なく、単に新たな説を加畳するにすぎません。これを明治からの西欧文法受け入れの歴史的批判に立ち戻り誤りを正しているのが三浦の論考です。この節の最後の部分です。

 西欧の言語は、現象的に一語のかたちをとっていても、その内容が多面的・立体的であって、日本語の複合語ないし二語に相当するものがすくなくない。このことは、語の分類をさらに困難なものにしている。古代のアリストテレスの四品詞観も、現代のイエスペルセンの五品詞観も、ともに現象論にとらわれた平面的な分類であって、西欧の言語にすら妥当なものとはいいがたい。日本語の特殊性にある程度の理解のある学者なら、たとえ西欧の言語に妥当な分類であってもそのまま日本語に持ちこめないくらいは見ぬけるのであって、大槻文彦が西欧の文法論と日本の伝統的のそれとを折衷させて自分の文法論をつくりあげたのも無理からぬことであった。山田はさらにすすんで、語とはなんぞやと問い、自分の回答の上に語の分類を行おうとした。いわく

……これを独立の観念の有無によりて区別すれば、一定の明かなる具象観念を有し、その語一個にて場合によりて一の思想をあらわし得るものと然らざるものとあり。一は所謂観念語にして他は独立の具象的観念を有せざるものなり。この一語にて一の思想をあらわすことの絶対的に不可能なるものはかの弖爾乎波の類にして専ら観念語を助けてそれらにつきての関係を示すものなり。この関係を示す語と、それら関係語によりて助けらるる語との区別はかの具象的観念を単独に有するものと有せぬものとの区別に該当す。この故に、先ず単語を大別して観念語と関係語との二とす。ここに観念語と目するものは所謂名詞、代名詞、数詞、形容詞、動詞、副詞、接続詞、感動詞なり。これらは皆何等かの観念を代表し、時としては一語にて一の思想を発表し得べき性質を有するものなり。その関係をあらわす語は或る観念を明かに指定せるものにして、一定の関係に立ちて用ゐらるるものなり。その関係をあらわす語は極めて抽象のものにして所謂助詞と称せらるるものなるが、これは元来国語に於いて観念語操縦の為に生ずる種々の範疇を抽象したるものが言語の形をとれるものなりとす。

この観念語と関係語との区別はたゞ意義形態の上より来れるにあらずして、実に談話文章を構成する上に及ぼす職能作用の異同より来れるものなりとす。……

言語には、意義・形態・職能とさまざまな側面があるが、山田はそのうちのどれが基本的かを問うことなく、全体をひっくるめて直ちに分類の基準に持ちこんだのである。これによって、彼は意識することなしに西欧の学者たちの弱点を受けつぐ結果となった。形式と内容との間には矛盾がある。言語も例外ではない。意義と形態だけではその間の矛盾にぶつかってどう処理するかに苦しむから、そのとき第三者である職能に援助を求めるのである。そこで<観念語>と<関係語>との区別も、「三の点において著しく認めらる」ということになった。第一は、「観念語は必要に応じて一の語を以て一の思想を発表し得る性質を有す。然るに関係語たる助詞にはこの性質全く欠如せり。」という点である。第二は、「一は他を助くるを職能とする性質のものにして、他はそれらに助けらる々性質のものにして、この差別はその本性上の差異に基づくものにして、論理上二者は判然と区別せらるべきものなりとす。」という点である。第三は「関係語たる助詞は必ずその助くる対者たる語の下について決して上には行かぬといふ語なり。」という点である。第一は意義からの、第二は職能からの、第三は形態からの規定だというわけである。ところが、第一と第三だけだと、のちに時枝誠記が指摘したような問題にぶつからざるをえない。意義においては具象的観念で<観念語>というべきものでありながら、形態においては他の語の下に必ずつくから<関係語>といわねばならないような、<助動詞><接尾語>が存在するのである。そこで職能として他を助けるという第二の規定を持ち出して、二対一でこれらを<関係語>に入れるというやりかたである。最後には、「職能作用の異同」を持ち出すことになったわけである。1

嗜好飲料の分類を、山田的に行う者はいないが、もし行ったらどうなるか?酒は愛好する者が集まって、楽しくくみかわし、親睦を深めていくところに価値があるといい、そこで中味だけではなく各自が容器を手に持ってついだりつがれたりする形態と機能を加え、三つの点から分類するとしよう。殺人の目的で青酸加里を入れた酒は酒ではなく、またガラスびんやプラスチックびんは酒の中に入るが醸造元で桶やタンクの中に入れてあるものは酒の中から追放されてしまうであろう。嗜好飲料をまずどこで分類するかという場合に形態や機能を捨象しているのが正しいなら、同様に言語をまずどこで分類するかという場合にも、形態や機能を捨象するのが正しいことになるのである。

 先の注1は、次のように記されています。

どんな学問の分野でもそうであるが、本質論を正しくとらえることができなければ、形式論・機能論・構造論のどれかを本質論にスリ変えなければならない。同じ機能論者でも、どこまでそれをおしすすめ、どこまで機能主義的に解釈しているかは学者によってちがうし、またそこから学者の能力いかんを読み取ることができるのである。■

  
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2015年11月04日

助動詞「だ」について(3)

   語とは何か。(2)
談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」劉 雅静
― 言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
 三浦つとむの「語の分類について ― 山田孝雄は西欧模倣に反対する」の引用を続けて行きます。

 言語は表現としての過程的構造を持っている。現象的な音声や文字のありかただけが言語の構造ではなく、その背後には表現主体の認識が、ひいては対象の構造がかくれているのであるから、立体的な存在である。語を分類するときにも、この立体的な存在のある側面においておこなうのであるから、語の分類もそれぞれの側面での分類が相互にむすびつくことになり、平面的ではなく立体的になる。この一事をもってしても、西欧の文法書の品詞分類の弱点が指摘できるし、さらに仔細に見るならば、ある品詞は意味の側面で、ある品詞は機能の側面で、ある品詞は構造の側面でというように、さまざまな側面でとらえたものをならべているだけで、基本的な側面でこれとこれが区別されるのだという扱いかたがなされていないことがわかる。分類ということは、何も言語だけの問題だけではない。他の事物についても必要なことであって、これまでにも多くの事物がいろいろ分類されて来た。この分類は、いずれも対象の構造によって規定されているのであって、言語とても例外ではありえない。つまり、分類についての一般論が科学として成立するのであって、この一般論をふまえながら語の分類を考えていくならば、一応ふみはずしを防げるといってよい。それにもかかわらず、言語学者は分類の一般論をふまえて語の分類を考えているとは思われないのである。それゆえわれわれは、まずはじめに手近な、立体的ではあるが簡単な構造を持つ事物をとりあげて、分類の方法を反省してみよう。

 嗜好飲料には、ジュースやコーラやビールや酒など多くの種類があって、それらがガラスびんやプラスチックびんや缶や樽などに詰めて売り出されている。店頭にならんだこれらの商品について、何が基本的な問題かと言えば、中味は何か、であって、それに伴う第二義的な問題として、どんな容器に入っているか、がある。具体的にいうなら、コーラはきらいだからジュースをのもうというのが第一で、登山に持っていくのだからびんではなく軽い缶のほうがいいというのが第二である。軽ければ中味はどうでもいいというわけではない。それで嗜好飲料の分類も、まず中味でわけた上で、つぎに容器の特殊性をとりあげてどれがどんな長所を持つかを明らかにし、これによって中味の分類を補うのである。「登山やハイキングには、軽くて持ち運びに便利な缶入りジュース(缶入りビール)を」というCMにもなる。この方法を普遍化すると、中味は内容で容器は形式であるから、事物を内容と形式の統一においてとりあげる場合には、まず内容についての大きな分類が基本となり、それを形式についての分類で補うべきだ、ということになろう。これはまた、形式を不当に重視して第一義的に考える形式主義では正しい分類を行うことができない、と教えているわけであって、形式主義者の行った分類をうのみにするな、と警告していることになる。

 同じ嗜好飲料に属するジュースとコーラも、容器の壁にかかる圧力の点では大きな違いがあって、周知のようにコーラはしばしば爆発を起こしている。容器のありかたがジュースとコーラとではちがってくる。一般論でいうならば、内容は形式と区別されなければならないが、相対的な独立であるから、内容の変化はある条件において形式のありかたを大きく規定してくるのである。ビールのびんもしばしば爆発を起こしているが、これを現象的にとりあげて、ビールもコーラも同じアルコール性の飲料だというならそれは誤っている。言語は一般的な認識を直接表現するのだが、概念にしても抽象のレベルはさまざまであって、きわめて高度の抽象になると形式面を大きく規定してくる。<名詞>はふつう自立して使われるが、「もの」(物、者)「ところ」(所)「こと」(事、言)のような高度の抽象になると、「ものがものだから大切に」「ところ変われば品変わる」「ことと次第では考えよう」などと自立して使われることは少なくて、「きもの」「くいもの」「はれもの」「おとしもの」「くせもの」「しれもの」「おろかもの」「いどころ」「みどころ」「うちどころ」「かんどころ」「しごと」「ひめごと」「こごと」「ねごと」「うわごと」などのように、多面的・立体的な把握のときの複合語として使うことが多い。<動詞>も同様に「ある」「いる」「する」「なる」のような高度の抽象になると、「ひろげてある」「死んでいる」「つめたくする」「暖かくなる」などのように、多面的・立体的把握のときに他の具体的な属性表現と連結して使うことが多い。抽象的であろうがなかろうが、自立して使われなかろうが、これらはやはり<名詞>であり<動詞>であることに変わりはない。それが客体の把握であり客体的表現であることに変わりないからである。その特殊性に目をつけて、これらを<形式名詞><形式動詞>などと分類しているけれども<抽象名詞><抽象動詞>とよぶのが適当であろう。抽象的か具体的かで、大きな分類が変わるわけではない。<抽象動詞>が<助動詞>と同じように抽象的で<活用>があるからという理由で、いっしょくたに扱ってはならぬのは、ビールを薄めてもサイダーといっしょに扱えないのと同じである。》

  現在テーマにしている論文の筆者が、<形式動詞>をこのようなレベルで理解できていれば、おのずと異なった展開になったはずなのですが。しかし、根本的には「言語は表現としての過程的構造を持っている。」ことが形式主義的発想では理解できないところにあるということでしょう。引き続き、「語の分類について」の展開を追ってみましょう。■

  
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2015年11月03日

助動詞「だ」について(2)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」劉 雅静
― 言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010) 
  語とは何か。(1)

 題記論稿では助動詞「だ」を<形式動詞>と見なすのですが、助動詞と形式動詞とは何であるのかが機能的に比較されているにすぎません。これは現在の言語学の品詞分類が機能に依拠した屈折語文法の分類を模倣しているに過ぎないことを明かしています。これを乗り越えるためには、まず語とは何かを明らかにし、さらにその分類方法を見直さねばなりません。この点を根本から見直し、論じたのが、三浦つとむの著書「認識と言語の理論 第三巻」(勁草書房刊197211月)に収録されている「語の分類について」です。長くなりますが、まずこれを引用します。

  語の分類について

    一 山田孝雄は西欧模倣に反対する

  語の分類ということは、一見さほど困難でないように思えるが、実は容易ならぬ問題である。日本語は西欧の言語のようにわかち書きをしていないから、日本語について論じる学者はそれをどう区切って一語とみとめるかという、いまひとつの問題をいっしょに負わされている。そしてこの二つの問題は決して無関係ではなく、一方でのふみはずしは否応なしに他方の解決を歪めることになる。区切りかたについての自分の原則を持たないと、西欧の言語のわかち書きから類推して区切りを行い、これに西欧の文法論を焼き直した分類を与えるということになりかねない。日本の学者は、明治のはじめから今日に至るまでこれらの問題をつきつけられている。類推や焼き直しもいまもってあとを絶たない。

 自主的にかつ科学的にこれらの問題を解決するには、語或いは単語とはいったい何であるか、その本質を把握することが不可欠である。山田孝雄(やまだよしお)はその把握の必要を理解するとともに、それが困難であることをも自覚していた。『日本語文法概論』はつぎのように述べている。

  実に語の単位といふものは文法研究の一切の基礎となるものなり、これは吾人が一つ一つの語と考ふるものをさすなるが、その一つ一つの語とは何ぞやといふ問題に対してはこれに答ふることは容易のことにあらず。従来これを単語といひ、それを説明して「箇々の語」などといへるが、かくの如きはたゞ語をかへていへるに止まり、説明とは見るべからず、われらの要求する所はその箇々の語とは何ぞやといふことの説明なり。

  彼はこのように、西欧や日本の学者が思考停止していた基礎的な問題をとりあげて、自分の理論を提出したのである。いわゆる<名詞>を一つの語と認めることでは誰の見解も一致するが、問題はさらにそのさきに控えている。たとえば、「なべぶた」(鍋蓋)は「なべ」と「ふた」の二語から構成された一の語であることは、漢字で表現する場合からみても明らかであるが、「まぶた」(瞼)は同じように「め」と「ふた」の二語から合成された語でありながら、誰もこれを二語の合成として扱わないし、漢字で表現する場合にも一字で記している。これは合成語として扱うべきものか否か、その理論的根拠はどうか。これに答えなければ語とは何ぞやという問題を解決したことにはならない。また「辛い」(からい)を一つの語と認めることでは大体において異議はないが、「辛み」「辛さ」「辛め」という場合の「み」「さ」「め」を<接尾語>として一つの語と認めるかそれとも<形容詞>の語尾変化と認めるかでは意見がわかれているし、<接尾語>説の中には「辛い」の「い」もまた<接尾語>だという主張も存在する。これにも理論的に答えなければならないのである。

 西欧の文法書は、現象的に区切られている語を平面的に羅列して、八品詞とか十一品詞とかいろいろ分類している。山田はこの西欧の分類も吟味して、哲学者の手になるものであるから無用のことを規定したかに思われるものもあるといい、日本の学者に向かっては、現に八品詞または九品詞の分類を行っているが果たして事実を充分にしらべてから日本語の品詞を定めたのか、おそらくそうではなくて漫然と模倣したのであろうとたしなめている。そして山田以後の学者も、それまでの平面的な羅列ではなく、個々の品詞を超えた基礎的な分類の中にそれらを位置づけようとしているのである。それゆえ焦点は、その基礎的な分類が果たして合理的であるか否かに置かれることになったが、ではそれをどのように吟味したらよいであろうか、語とは何ぞやという問題は、この基礎的な分類いかんという問題と結びついているし、それはまた言語とよばれる表現の本質的な特徴は何かという問題とも直接にむすびついている。言語学者の分類の失敗は、この最後の問題についての正しい答えを持ち合していないことと無関係ではない。》

  この論が記され、公刊されてから既に43年が経過していますが、事態は何も変わっていません。むしろ、欧米の日本語学習者に合わせて欧米言語学へのもたれかかりがより進行し、国語学もまたこれに引き摺られているのが現状で、この誤りを正さねばなりません。それは西欧言語学の機能主義の誤りを正すことにもなります。この点は今問題にしている論稿に見られる通りです。続けて、みていきましょう。■

  
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2015年11月02日

助動詞「だ」について(1)

 「壁塗り構文」問題について格助詞の扱いを見て来ましたが、形式主義、機能主義的言語論で助動詞がどのように扱われるかを肯定判断の助動詞「だ」に関する論考により見てみましょう。

 <談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―>【劉 雅静: 言語学論叢 オンライン版第 3 (通巻 29 2010)】ですが、扱われているのは次の文です。 

  (1) 彼は学生だ。

 そして、次のように問題が提起されます。 

 例 (1) における「だ」は体言に接続し、助動詞として理解されやすいが、しかし、談話において、次の例 (2) (3) が示すように、「だ」は単独で文頭やターンの冒頭に出現したり、完結した文そのものに付いて用いられたりする場合もある。 

(2) 「桂太君かっこよくない!?」

 「だね、一際目立ってるかも…」『虹色の約束』

(3) どうせ、わたしはバカですよーだ。 (メイナード2000: 201)

談話における「だ」の出現位置と「だ」の意味機能の関係は興味深いことであるが、本稿では、例 (2)のような「だ」を考察対象とし、文頭やターンの冒頭に単独で出現する「だ」のことを単独の「だ」と呼ぶことにする。本稿の目的は、「だ」の単独用法を指摘・考察することによって、「だ」はいわゆる助動詞ではなく、形式動詞であることを主張するとともに、単独の「だ」の談話機能を明らかにすることである。 

タイトルからして「意味機能」で、「だ」の言語表現としての本質ではなく、意味機能や談話機能が問題とされます。本質から機能を導くという科学的な発想は見られず、機能が本質とされてしまいます。現在の国語学界や言語学会の論文や著作はすべて「~の機能について」なので、レヴェルが窺えます。

まず、品詞分類の先行研究の定義が示されます。 

「だ」の品詞分類に関して、従来から「助動詞」説と「用言」説の二つの立場がある。表1 が示すように、「助動詞」説には松下 (1961)、時枝 (1966)、橋本 (1969)、鈴木(1972) 等がある。「だ」を助動詞と見なす根拠として、「だ」は独立して一文の文頭に用いられないことや独立せず、常に他の語に伴って現れるといったことが主張されている。 

1 「だ」を「助動詞」と見なす先行研究

先行研究

松下 (1961)、時枝 (1966)、橋本 (1969)、鈴木 (1972)

 

主  張

・独立して一文の文頭に用いられない

・独立せず、常に他の語に伴って現れる

・他の語と共に一文節をなす


 これらの定義は、全て独立しているか否か、他の語と共に文節をなすかという形式や機能により定義されています。他方、助動詞と見なさない説もあります。

 一方、表2 が示すように、「だ」を助動詞と認めず、一種の用言と見なす立場もある。本稿では、こういった先行研究の立場をまとめて「用言」説と呼んでおく。その中に、山田 (1936) では「だ」は存在詞で、陳述作用を持つと述べている。渡辺 (19531971) や寺村 (1982) では「だ」は判定詞であるとし、北原 (1981) では「だ」は形式動詞で、詞相当のものであるとしている。小泉 (2007)では「だ」を準動詞と呼び、名詞的形容詞や名詞を述語化するための語尾要素にすぎないと指摘している。

         表2 「だ」を「用言」と見なす先行研究     

先 行 研 究

主 張

山田 (1936)

存在詞

渡辺 (19531971)、寺村 (1982)

判定詞

北原 (1981)

形式動詞

小泉 (2007)

準動詞

 ここでは、動詞他の類に入れられ、山田は助動詞を動詞の複語尾としていますが、「ある」との意味の類似性から存在詞とするという特別扱いをしています。小泉でも語尾要素にされています。さらに、形式に対して意味機能に対する先行説が示されています。これに対し、先の問題提起がされます。

 本稿では、自然会話を考察対象とし、文頭やターンの冒頭に立つ「だ」の単独用法を指摘することによって、「だ」は助動詞ではなく、形式動詞であることを主張する。また、談話レベルにおける「だ」の使用を考察することによって、「だ」は言語的或いは非言語的文脈を代用する機能を持つことを主張する。

  「だ」を形式動詞とし、「言語的或いは非言語的文脈を代用する機能を持つこと」が主張されます。何と、代用機能までもたされてしまいます。形式動詞というのも形式だけで内容がないということであり本来誤った名称と言えます。このように、本質を考えることなく形式と機能にたよる分類では見方によりそれぞれ恣意的な解釈が生みだされることになります。そもそも、名詞、動詞、形容詞類と助詞、助動詞類に本質的な差異があるのか否かも不明です。現在の記述文法や教科研文法では語彙機能と文法機能などという基準まで持ち出されています。

 この論考の主旨は、談話文においては、(2)(3)のような、文頭に単独で「だ」が使用される例が頻出し、構文の意味論的・語用論的考察から導かられた助動詞の定義ではこれを説明できないというところにあります。

 たしかに、文であろうと談話であろうと言語であることには変わりなく、これらに対し一貫した説明が出来ないような定義は論理的、科学的とは言えません。

 北原 (1981)でも「いわゆる助動詞」と助動詞の明確な定義を示すことができず、日本語文法、生成文法、や記述文法も同様なレベルです。この点、時枝誠記の助詞説が特徴的です。この点は、また別途論じましょう。

談話での使用例は何も談話に限る話ではなく、小説中の会話表現にも出てくるもので、いまさら談話などと特別視するのがおかしいと言えなくもありません。そもそも、助動詞の機能的、形式主義的な定義そのものに問題があるというのが本来の課題です。

これは、やはり言語とは何かの本質に立ち返り考察することなく、機能と形式を玩んでも根本的な解決になるとは考えられません。先ず問題になるのは、単語とは何を言うのか、どのように定義されるかです。■

  
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2015年09月06日

英文法に見るテンス解釈(6)

  『謎解きの英文法時の表現』久野すすむ・高見健一 ()[くろしお出版 (2013/8/10)

  He leaves for London tomorrow.と He will leave for London tomorrow 1

  これまで、日本語の時制の解釈の結果、「時間は、過去、現在、未来の3つがありますが、それらを表す時制は2つだけで、「未来時制」というものはないことになります。また、動詞の現在形が現在時と未来時を表すわけです」という結論を導く過程の誤りを見て来ましたが、ここでは「英語の場合も、動詞の現在形は、現在時と未来時の両方を指すことができます。次の例を見て下さい。」と文例が挙げられます。

  (12alike Hanako  [現在時]

            bTaro understands French.  [現在時]

     13aHe leaves  for London tomorrow [未来時]

           bTaro graduates from college next year[未来時] 

これらは、先に見た日本語の文に対応しており、(12a,b)は話し手や太郎の現在の状態を、(13a,b)は彼や太郎の未来の動作を表しており、動詞の現在形が、現在時と未来の両方を表わすことが分かります(【付記4】参照)。と、記し、「そうすると、英語も日本語と同じように、未来時を表す要素はなく、時制は2つで、現在時制が現在時と未来を表すと考えてよいのでしょうか。」と疑問を呈し、次のように論を進めます。まず、(13a)を再掲し、willを用いた文でも表現されることを示します。 

   aHe leaves for London tomorrow [未来時](=13a

     bHe will leave  for London tomorrow [未来時]

 そして、この両者の違いが次のように説明されます。

 それは、a.が、彼の明日のロンドン出発がすでに確定しており、話し手がそれをもはや変更の余地のない確実なことだと見なしているのに対し、b.は、彼の明日のロンドンへの出発が、a.ほどには確定したものではなく、「明日はロンドンへ出発するだろう」という、話し手の推量、予測を表わしています。そして、重要なことは、彼がロンドンへ出発するのは未来時(明日)に起こることですが、話し手がそう述べているのは、発話時の、つまり現在の予測だという点です。

この、b.に対する説明は正にその通りの正しい説明ですが、a.の場合leavesと3人称単数現在になっており、話者は明らかに「Heロンドン出発」という事態に現在として対峙していると見なければなりません。従って、「話し手がそれをもはや変更の余地のない確実なことだと見なしているの」は発話時の、つまり現在ではなく、未来のHeロンドン出発」という事態に現在として対峙している観念的に自己分裂した話者であると見なす他ありません。そして、そこから現在に戻りHeロンドン出発」が明日のことであるのを確認し、tomorrowと言っていることになります。「話し手がそれをもはや変更の余地のない確実なことだと見なしている」のであれば、tomorrowと言う必要もないのですが、そのばあいは正に、He leaves  for Londonとなります。そうでないと、著者がb.の説明で現在の予測を強調している事実と整合しません。話し手の観念的自己分裂と移動なしに単に確信の相違だけではa.はあくまで現在の表現にとどまるしかありません。つまり、著者がはしなくも説明している通り、b.は「彼がロンドンへ出発するのは未来時(明日)に起こること」(強調はブロガー)を表現しているということです。

 このような時制表現の本質を捉えられない説明の誤りが、本書の「第3章 現在形は何を表すのか?(2)」で露呈し、次のように記しています。 

動作・出来事動詞の現在形の実況的報道機能は、特殊なコンテキスト(たとえばスポーツの実況放送)にしか用いられない機能で、文法学者たちによってあまり観察されてこなかった機能ですが、私たちは、この機能が、歴史的現在形の基盤になっているものと考えます。

 このように、「歴史的現在形」の本質を明らかにすることができずに、単に文の機能とするしかないことになります。そして、同じ章の「●未来の事柄が現在起こっているかのように確実」の節では、 

それは、現在形が,(11a-c),(12a,b)[現在形で未来の事柄を表している文例:ブロガー注]で述べる未来の動作や状態を、あたかもタイムスリップをして、現在起こっている動作や状態であるかのように描写しているためです。歴史的現在が、過去の事柄を現在形で表現し、それがあたかも現在起こっているかのように描写するものであることを先に述べましたが、(11a-c),(12a,b)は、このちょうど逆で、未来の事柄を現在形で表現し、それがあたかも現在起こっているかのように描写しています。

 と「あたかもタイムスリップをして」と、何が「タイムスリップ」をしているのかを捉えることが出来ずに比喩的に述べるしかない結果となります。今回はここまでにしておきましょう。■

  
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2015年09月02日

英文法に見るテンス解釈(5)

  『謎解きの英文法 ― 時の表現』久野すすむ・高見健一 (著)[くろしお出版 (2013/8/10)]

   ●動詞の現在形が現在時と未来時を表す(3)

 前回の、

 一方、動作動詞が現在時を指せるのは、次に示すように、習慣的動作を表す場合に限られます。(【付記2】参照) 

  私は毎朝ジョギングする。 [現在時]

 の【付記2】を見てみましょう。次の通りです。 

 「私は来年から毎朝ジョギングする。」は、未来時を指しますから、(10)の「私は毎朝ジョギングする」には、実は、現在時と未来時の両方の解釈があります。ただ、(10)がこのような文脈がなければ、現在時の解釈が圧倒的に強くなります。                                                   

  ここでも、話者の認識を無視し、文に示された「する」の解釈の問題にしてしまい、「圧倒的に強くなります」というのでは文脈とは何かが理解されていません。文を支えるのは話者の認識であり、これが文脈に示されているのですから、「圧倒的に強く」なるか否かの解釈の問題ではなく、話者がどのような認識を表現しているのかを追体験するのが読解です。 

 私は来年から毎朝ジョギングする。 

では、話者は「来年から」で観念的に来年に移動し、これに対峙することにより現在として、「毎朝ジョギングする」 と表現し、これが固い決意で確実な事実であるため、現在には戻らずに文を終えています。さらに、強調する場合は、 

 私は来年から毎朝ジョギングするつもりだ。

  私は来年から毎朝ジョギングするのだ。 

となります。ここから現在に戻り、未来の表現であることを確認した場合には。

  私は来年から毎朝ジョギングするだろう。 

 私は来年から毎朝ジョギングしよ 

と断定の助動詞「だ」の未然形+未来推量の助動詞「う」や未来推量に意志の加わった「う」が連加されます。

 このように、話者の認識と観念的な動きの表現としての時制を捉えることができずに、単に語の形と対象を直結する言語実体観では時制の本質を正しく理解できないことになります。■

  
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2015年08月31日

英文法に見るテンス解釈(4)

  『謎解きの英文法 ― 時の表現』久野すすむ・高見健一 (著)[くろしお出版 (2013/8/10)]

    ●動詞の現在形が現在時と未来時を表す(2 

 前回、著者らの日本語文法理解の誤りを指摘しましたが、まだ指摘すべきことがあります。もう一度前回の例文を再掲します。

   (7)  a私は花子が好きだ。      [現在時]

   b.太郎はフランス語が分かる  [現在時]

 (8)   a.彼は明日ロンドンへ出発する [未来時]

     b.太郎は来年大学を卒業する  [未来時] 

 この(7)の「好きだ」が動詞ではなく、形容詞「好き」+助動詞「だ」であることは前回とりあげましたが、(8)の「出発する」「卒業する」を動作動詞としている点にも問題があります。これらは、漢語の動作性名詞「出発」と「卒業」に抽象動詞「する」を連加したものです。漢語は活用をもたないため、そのまま動詞として使用したり、接尾語や助動詞を直接結びつけることができません。それで、抽象動詞「する」(活用:せ、し、す、する、すれ、せよ)を結びつけて抽象的に捉えなおして、この活用を利用したものです。従って、動作を表してはいますが、動詞は抽象動詞「する」です。過去形になれば、「し」+「た」で「した」となります。

なぜ、このような誤った理解に陥ったかは、前回の形容詞の場合と同じで、「出発する」を英語のdepartと、「卒業する」をgraduateと同一視してしまったからです。なお、「好き」を動的に捉えれば、 

  私はいずれ花子を好きになるだろう。 

と、抽象動詞「なる」を連加します。

このような粗雑な日本語理解は次に続いています。

 先の「状態動詞の現在形は未来時を表すことができません。」という誤断に続いて、次のように記しています。 

一方、動作動詞が現在時を指せるのは、次に示すように、習慣的動作を表す場合に限られます。(【付記2】参照) 

 私は毎朝ジョギングする。 [現在時]  

この文は、話し手が現在の習慣として定期的にジョギングを行うという、話し手の現在の状態を述べています。「ジョギングする」自体は動作動詞ですが、習慣的動作だと、その現在形がこのように、状態動詞の現在形と同じく、現在の状態を指し得るのは、習慣的動作が、1回から数回の動作とは異なり、定期的に繰り返し行われるため恒常性が強いからです。 

 この動作性動詞なるものも、外来語である名詞「ジョギング」は活用をもたないため、抽象動詞「する」を連加したものです。従って、日本語の動詞は抽象動詞「する」です。日本語の動詞では、「軽く走る」とでもいうところで、動詞「走る」を動作性動詞と呼ぶのは誤りではありませんが。

 さて、この動作動詞が現在時を指せるのは「習慣的動作を表す場合に限られます。」というこの説明の内容ですが、これは二重、三重に誤った説明です。「ジョギングする」でも「走る」でも良いのですが、2回目に歌舞伎の世話物狂言「弁天小僧」の台本の「ト書き」で示した通り、習慣的動作ではなく、その場の指示として現在形が用いられています。なにも、「習慣的動作」には限られていません。これは事実に相違した誤りです。さらに、

 習慣的動作だと、その現在形がこのように、状態動詞の現在形と同じく、現在の状態を指し得るのは、習慣的動作が、1回から数回の動作とは異なり、定期的に繰り返し行われるため恒常性が強いからです。

 と説明していますが、「恒常性が強い」動作でなくとも、

  晴れた、青空の日にはジョギングする。 

というような条件的な使い方は良くあります。動作動詞であろうとなかろうと、現在形が使用されるのは何ら習慣的動作に限定されるものではありません。そして、「定期的に繰り返し行われるため恒常性が強いからです。

」というのは、動作動詞が現在時を指せるのは「習慣的動作を表す場合に限られ」る理由の説明にはなっていません。単に著者の思い込みの事実を、現象として説明しているだけです。

 このような、現象的、機能的な粗雑な日本語文法理解からは日本語の時制の本質はもとより、英語の時制の理解も、さらにアスペクトの理解も望むべくもないものです。著者は、これまでの議論に基づき、 

 時間は、過去、現在、未来の3つがありますが、それらを表す時制は2つだけで、「未来時制」というものはないことになります。また、動詞の現在形が現在時と未来時を表すわけですから、動詞の現在形を「現在時制」と呼ぶのは、厳密には妥当ではなく、過去を表す「過去時制」に対して、「非過去時制」とでも呼ぶのが正確と言えるでしょう(ただ、本章では分かりやすさのため、「現在時制」という言い方を用います)。従って、時制は、中学生の頃おもっていたような1対1の対応はしていないことが以上から明らかです。 

と断定していますが、これが現在の生成文法の理解の現状です。ここでは、時制が対象の属性として固定的に捉えられているため、多くの事実誤認と論理の踏み外しを抱え込んでいます。この本では、次に英語の場合を考察し、さらに「現在形は何を表すか?(1) 第2章」と進みますので、さらに検討してみましょう。■

  
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2015年08月21日

英文法に見るテンス解釈(3)

  『謎解きの英文法時の表現』久野すすむ・高見健一 ()[くろしお出版 (2013/8/10)

   ●動詞の現在形が現在時と未来時を表す  (1)

 この節では、「動詞の現在形で、現在形は次に示すように、現在時と未来時の両方を指すことができます。」と、次の例文を挙げています。 

  (7)  a私は花子が好きだ。      [現在時]

   b.太郎はフランス語が分かる  [現在時]

(8)  a.彼は明日ロンドンへ出発する [未来時]

    b太郎は来年大学を卒業する  [未来時] 

 したがって、現在形は、現在時と未来時の両方を表すことが出来る、と結論しているわけですが、ここで、(7)(8)の決定的な違いは前者が「状態動詞」、後者が「動作動詞」であると奇妙なことを記しています。さらに、状態動詞の現在形は、次に示すように、未来時をあらわすことができません(【付記1】参照)、として次の文を挙げています。 

  a*この車は来年古い。 

    b*太郎は来年フランス語が分かる。 

 ここで、まず誤っているのは、(7a)の「好き」は動詞ではなく形容詞です。「好きだ」の「だ」は断定の助動詞です。a.の「古い」も形容詞です。なぜ、こんな初歩的な誤りが記されたのかは容易に推測できます。英語はSVO構文で、必ず主語と述語よりなり、述語は動詞Vなので、機械的にそれを日本語に適用してしまったためです。「*」は生成文法で使用する「非文」の表示です。これは主観的な判断であるだけでなく、そのために文字通り、文ならざるものを機械的・形式的に作成し文のごとく提示するという悪弊を生みだしていることに気づいていません。a.の文は、「古い」を「状態動詞」と思い込み、機械的・形式的に「この車は」という句に続けて並べただけの語の羅列で、対象を認識し表現した文ではないのです。b.も同様です。このような、機械的・形式的なプラグマティックな発想が生成文法の本質です。文として、これらを記せば、 

  aこの車は来年には古くなる。 

    b.太郎は来年にはフランス語が分かる。 

で、何ら問題のない文となります。「なる」は抽象動詞と呼ぶべきですが、現状は形式動詞と呼ばれています。「状態動詞の現在形は、次に示すように、未来時をあらわすことができません」などというのが誤りなのは明確で、生成文法なる発想の本質が明らかとなります。先の、【付記1】は次のように記されています。 

 ただ、状態動詞の現在形は未来時を表すことができないという制約は、次のような文が適格であることから、コピュラ(連結詞)で終わる形式には適用しないように思われます。

 (ia母は来年米寿です

b.私は来年の夏、ひとりぼっちです 

「コピュラ」とは繋辞で英語の場合「be」動詞で、判断辞ですbe」動詞はThere is a pen.の存在詞でもあるのですが、この点が著者に理解されているのかは後で分かります。この、(i)の2文の「です」は「状態動詞」ではなく、断定の助動詞「だ」の丁寧形です。「適格」などという判断も「非文」と対をなす主観的判断で、何ら論理的ではありません。この【付記】も、「状態動詞の現在形は、次に示すように、未来時をあらわすことができません」という誤りの根源が論理的に理解出来ずに、例外的な扱いでエクスキューズを記したものに他なりません。

ここでは、著者らの生成文法による日本語理解がいかに言語事実に相違した非論理的、非科学的な内容であるかが露呈しています。これらは、屈折語である英語の文法の誤りを機械的に日本語に適用した誤りであることもまた明らかにしています。これでは、日本語はもとより、英文法の謎ときなど不可能というしかありません。どのような謎ときになるのか、さらに追及していきましょう。■

  
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2015年08月20日

英文法に見るテンス解釈(2)

 『謎解きの英文法時の表現』久野すすむ・高見健一 ()[くろしお出版 (2013/8/10)

   ●「だろう/でしょう」は「推量」の助動詞 

 この節は、「だろう/でしょう」は、未来時を表す要素ではなく、話し手の推量を表す助動詞です、と始まります。そして、

 つまり、話し手がある事柄を真実であると考えつつも断定せず、言い切らないで保留する表現です。国語辞典などでは、推量を表す助動詞として、「う/よう」(明日は雨が降ろう/午後は晴れよう)が上がっていますが、現代語では「だろう」の方が自然で、その丁寧な形が「でしょう」です。したがって、この助動詞は次に示すように、過去、現在、未来のいずれの事柄についても用いられます。

 として次の例文を挙げています。 

  a.君は昨日事故にあって、さぞ怖かっただろうでしょう  [過去時]

   b.京都は今頃、紅葉がきれいだろうでしょう。       [現在時]

  c洋子は明日、パーティーにきっと来るだろうでしょう  [未来時] 

 以上から、「だろう/でしょう」は話し手の推量を表す助動詞で、未来を表すわけではなく、したがって未来時制要素でもないことが明らかです、と結論しています。そして、「●動詞の現在形が現在時と未来時を表す」と論じています。しかし、新聞記事で見た通り過去の事柄も現在形で表されます。いわゆる歴史的現在や、「ト書」等は現在形です。黙阿弥作の「弁天小僧」四幕目の稻瀬川勢揃の場の最後は次のようです。

 ト波の音、佃になり、南郷、辧天は花道へ、十三、忠信は東の假花道(あゆみ)へ、駄衛門は捕手の一人を踏まえ、一人を捻ぢ上げ後を見送る。四人は花道をはひる。これをいつぱいにきざみ、よろし                                      ひようし  幕

 つまり、現在形という表現と対象の事象そのものの時間的性質とが直接対応しているわけではないのです。先の例文で著者が時制を判断しているのは、昨日、今頃、明日等によるもので、時制表現による判断ではないのです。

 まず最初の文では、「君は昨日」で話者は観念的に過去に移動し、「事故にあって」と現在形で語られ、次に「さぞ怖かっ」と、現在に戻りそれまでの内容が過去であったことを表現しています。「た」と言っているのは現在なのです。そして、c.では、「洋子は明日」で話者は未来の明日に移動し、「きっと来るだ」と観念的に明日に対峙して現在形で「だ」と「来る」のを断定し、ここから現在に戻り「う」とそれまでの内容が未来の推量であったことを表現しているのです。「だろう」というのは、断定の助動詞「だ」+未来推量の助動詞「う」であり、「でしょう」というのは断定の助動詞「だ」の連用形「で」+未来推量の助動詞「う」なのです。「だろう/でしょう」が助動詞なのではなく、未来、推量を表しているのは助動詞「う」で多義なのです。未来の事は当然未確定であり推量するしかないためこのような表現を取ることになり、英語もまた同様で、この点は後で詳しく見てみましょう。

 新聞記事の所で述べたように、 

  過去現在未来は、属性ではなく、時間的な存在である二者の間あるいは二つのありかたの間の相対的な関係をさす言葉にほかなりません。……過去から現在への対象の変化は、現実そのものの持つ動きです。これを、言語は、話し手自身の観念的な動きによって表現します。ここに、言語における「時」の表現の特徴があるのです。(三浦は『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫 1976.6.30/初出1956.9)) 

 ということです。しかし、この話者の認識を扱えない生成文法や日本語文法では、対象の時間的属性と表現された文の内容を直結し、そこに示された時を表す語である、昨日、今頃、明日等を頼りに文の時制として丸ごと判断するしかないことになります。

 人間のダイナミックな対象―認識―表現の過程的構造を捉えられない言語本質観では、当然ながら日本語も、英語も、その表現を理解することができません。著者の解説を、さらに見てみましょう。■

  
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2015年08月17日

英文法に見るテンス解釈 (1)

   『謎解きの英文法時の表現』久野すすむ・高見健一 ()[くろしお出版(2013/8/10)  

  前回、機能的言語論の時制論について新聞記事を題材に欠陥を明らかにしましたが、当然ながら英文法の時制アスペクトの解明も同様なレベルでしかありません。先に紹介したバーナード コムリー  (), Bernard Comrie (原著), 久保 修三 (翻訳)『テンス』(開拓社 2014/9/19)の通り、典型的には<発話時>を基準として過去・現在・未来を定義しています。これでは、新聞記事一つ解明できないことを前回示しました。今回は首記の著書が「謎解き」を出来ているか否か見てみましょう。本書の著者の一人である久野暲(すすむ)氏は60年代より生成文法により日本語を研究しハーバード大学に渡り『The Structure of the Japanese Language』他、自動翻訳や文法論等多数のを著書を出され、名誉教授でもある88歳の大家として知られています。

 「はしがき」では、「The bus is stopping.」という文は「バスが止まっている」という意味なのでしょうか、と問題提起し次のように記しています。 

 本書は、このような英語の疑問に答え、「時制」と「相」(アスペクト)(動作や状態の完了や継続を表す文法事項)に焦点を当て、「時」の表現に関わる多くの謎を解こうとしたものです。 

 と記されていますが、残念ながら現在の定義も、過去とは何かも、そして「相」(アスペクト)とは何かも解明出来ずに、単に現象や機能の説明に終始しています。機能とは「ある物事に備わっている作用、働き」でしかなく、それは本質の作用、機能であり、明らかにされるべきは本質でなくてはなりません。第2章では「現在形は何を表わすか(1)」と現象を問います。ここでは現在形が現在だけではなく、次のように過去も未来も表すのは、表現としてどのように異なっているのか、どのように説明されるかが問題とされます。言語表現における現在とは何か、何ゆえに過去や未来が表せるのかという本質を問うことは最初から放棄されています。それは、彼らの言語本質観がアプリオリに文として実在するとみなすところから出発する言語実体観でしかないからです。そこからは、言語、表現の本質を問う発想は生まれず、現象や機能を説明するしかありません。文を直接に支えているのは話者の認識ですが、これを扱えない言語論では文と対象を直結するしかなく、表現の過程的構造を取り上げられない論理的必然です。参考までに、「本質」について辞書を見てみましょう。

  大辞林第三版の解説   ほんしつ【本質】

①物事の本来の性質や姿。それなしにはその物が存在し得ない性質・要素。 「問題の-を見誤る」

  ②〘哲〙〔ラテン essentia;ドイツ Wesen

   ㋐伝統的には,存在者の何であるかを規定するもの。事物にたまたま付帯する性格に対して,事物の存在にかかわるもの。また,事物が現に実在するということに対して,事物の何であるかということ。

   ㋑ヘーゲルでは,存在から概念に至る弁証法的発展の中間段階。

   ㋒現象学では,本質直観によってとらえられる事象の形相。 


 第1章は<willは「未来時制」か?>と題し、最初に●willと「~だろう/でしょう」が論じられています。

ここでの問題は、次の文の助動詞willや日本語の「~だろう/でしょう」は、未来時を表す未来時制と言えるのかどうかです。 

  aHe will be in New York next year.  [現在時]

    b 彼は来年ニュ-ヨークにいるだろうでしょう [現在時] 

これらの表現が、現在時を表す要素と一緒に次のように用いられるのが指摘されます。 

  aShe will be out now.  [現在時]

    b.彼女は、外出中だろうでしょう [現在時] 

さらに次のように、未来時は動詞の現在形で表すこともできます。 

 a.He leaves for London tomorrow[未来時]

b.彼は明日ロンドンへ出発する。  [未来時] 

<「過去、現在、未来」という3つの時(time)と、それらを表す形、時制(tense)は、どのように対応しているのでしょうか。特に、学校文法(伝統文法)では、willは未来時を表す未来時制であると言われてきましたが、本当にそうなのでしょうか。日本語の「~だろう/でしょう」はどうなのでしょうか。英語や日本語に未来時を表す未来時制はあるのでしょうか。>と問題提起し、<●「~だろう/でしょう」は「推量」の助動詞>と論が進みます。まず、日本語の「~だろう/でしょう」から考えことになるので、次回、著者らの日本語理解の程度を含めじっくり検討することにしましょう。■

  
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2015年07月25日

新聞記事に見る時制表現について

 工藤 真由美著『現代日本語ムード・テンス・アスペクト論 (ひつじ研究叢書(言語編)111)』では時制を次のように定義している。

   <発話時>を基準にして、事象が発話以前に起こったのか否かを義務的に表し分ける文法的カテゴリーが<テンス>である。 

 また、バーナード コムリー  (), Bernard Comrie (原著), 久保 修三 (翻訳)『テンス』(開拓社 :2014/9/19)では、

  ①直示中心、②事象が直示中心より前なのか、後なのか、③事象が位置づけられる直示中心からの時間的距離について議論され、この直示(Deixis)の中心を任意の参照点として確立するためにもっとも典型的なものとして発話状況を上げている。そして、テンスは状況を現在時点と同じ(あるいは現在時点を含んでいる)時間か、現在・の前か、または現在点の後かに位置づける

 としている。いずれも、<発話時>を基準にして、それ以前を単純に過去と定義している。この定義に基づいて今日の新聞記事を検討してみよう。 

 自己ベスト一直線 2020年東京オリンピックまで5年  20157250500分 朝日新聞

 力強い踏み切りで大技 女子高飛び込み・板橋美波(15歳)

  404・20。掲示板に合計得点が表示されと、観客席がどよめい 

 6月に東京辰巳国際水泳場であっ飛び込みの日本室内選手権。女子高飛び込み決勝で、15歳の板橋美波(みなみ)が、日本女子初となる400点超えをマークして優勝し。2012年ロンドン五輪では銀メダル、13年の世界選手権では1位相当の好記録に「思わず、跳びはねてしまっ」。151センチの体をいっぱいに使って喜ん

  兄の影響で小学1年から水泳教室に通い始め。3年のときに飛び込みに誘わ、1カ月間の体験からスタート。走ってプールに飛び込練習が楽しくて夢中になっ。世界選手権銅メダリストの寺内健らを育て馬淵崇英(すうえい)コーチ(51)の指導を受けて才能を伸ば、24日開幕の世界選手権の日本代表に選ばれまでに成長し

  「踏み切力が、他の女子選手に比べてとても強い」と馬淵コーチ。日本水泳連盟の伊藤正明・飛込委員長は「彼女には恐怖心がない」。前宙返り4回半抱え型は、女子では現時点では板橋しかできない大技だ。6月の日本室内選手権でも成功させて96・20点の高得点をたたき出、400点超えにつなげ

  日本は、男女を通じ飛び込みの五輪メダルはない。ときに1日10時間を超え練習で目指すものは。「リオデジャネイロでは決勝に残って入賞できたらうれしい。そして、東京では金メダルを取たい」。力強く答え。(清水寿之)

  この記事では、発話時点は記者(清水寿之)が「自己ベスト一直線…」という記事を書いた時点ということで、これが現在ということになるであろう。そして、上に赤字で表示した時制を示す助動詞が「た」の場合は事象が過去に起こったことを示し、そうでない場合は現在の事象ということになる。しかし、これを現在とすると次の、「■力強い踏み切り…」は現在事象か過去の事象であろうか。この定義では、現在ということになってしまうであろう。それとも動詞は明示されていないので時制は表示されていないということか。この発話事体は記者によるもので、その意味で発話は現在であるが、事象「力強い踏み切り」は明らかに過去であろう。しかし、過去形に記すのであれば「力強い踏み切りで大技(をしめし。)」としなければならない。上記の時制の定義では、もうここで説明不能となってしまうのである。次の文を見てみよう。 

  404・20。掲示板に合計得点が表示されと、観客席がどよめい 

ここでは、「表示され」で現在形になっていて、文末で「どよめい。」と過去形になっている。先の定義では、現在と過去が入り混じることになる。この点はどう解釈されるのだろうか、ここは歴史的現在、あるいはテンスとアスペクトの二元説、あるいは相対時制で直示中心を振り分けることになるしかない。

 これが、教科研文法、西欧屈折語文法という形式主義文法の時制論の実態で、新聞記事一つ満足な説明が出来ないのである。国文法、日本語教育文法なるものも同様である。

 では、言語過程説ではどのように理解されるのであろうか。三浦は『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫 1976.6.30/初出1956.9)の「<助動詞>の役割」の「b 時の表現と現実の時間とのくいちがいの問題」で次のように述べている。

   過去現在未来は、属性ではなく、時間的な存在である二者の間あるいは二つのありかたの間の相対的な関係をさす言葉にほかなりません。……過去から現在への対象の変化は、現実そのものの持つ動きです。これを、言語は、話し手自身の観念的な動きによって表現します。ここに、言語における「時」の表現の特徴があるのです。……

 言語で表現する現在は、現実の現在ばかりでなく、観念的に設定した過去における現在や未来における現在、あるいは運動し変化する対象と行動を共にするかたちでの現在などいろいろなありかたをとりあげています。時制と時は無関係ではないし、また非論理的な表現でもないのです。話し手はその感ずるところを素朴に表現しているにもかかわらず、きわめて合理的であり論理的なものだということを理解しなければなりません。

   これによれば、「力強い踏み切りで大技」と、6月の事象を記者はタイトルで現在形で記しているが、このとき記者は観念的に6月の時点に移行し事象と向き合っているので現在形で記している。これは、事件の記事などでも過去の事象がタイトルで現在形に記され臨場感を齎すのと同じである。これを読む読者もまた、その事象に対峙していることになる。TVで、その場面を見ているのと同じ状況である。そして、記者はそのまま次の「404・20。掲示板に合計得点が表示されと、観客席がどよめい」まで過去のまま事象に対峙しており、ここから記事を書いている現在に戻り、(どよめい)「」と、それまでの事象が過去であったことを表現している。すなわち、過去の助詞と言われる「た」自身は観念的に移動した過去から現在に戻り、実際の生身の記者に合体した現在を表している。そしてまた過去に移行し、そこから戻り「た」と表現している。「兄の影響で小学1年から…通い始め」も過去に戻っており、「た」で現在に戻りる。また、過去に向き合い「3年のときに…」から「夢中になっ」までは過去に移行して現在として対峙しているため現在形で記され、(夢中になっ)「た」で現在に戻っている。そして、会話の引用内はその会話の時点に対峙しているので話者の言葉がそのまま引用されています。最後は、「力強く答え。」と現在に戻り過去を表す「」で締めくくられている。

 ここでは「話し手」は「記者」であるが、三浦の記す通り「話し手はその感ずるところを素朴に表現しているにもかかわらず、きわめて合理的であり論理的なものだということを理解しなければなりません。」ということが良く理解できる。

 このように、文、文章の中での複雑な記者の観念的な運動を形式主義的に―<発話時>を基準にして、事象が発話以前に起こったのか否かを義務的に表し分ける文法的カテゴリーが<テンス>である。―などとする理解がいかに言語事実と相違する誤謬であるかが分かる。■

  
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2015年05月27日

山田孝雄(やまだ よしお)の<助動詞>「複語尾」説 5

    <動詞>の陳述作用論による誤謬の展開と山田文法の意義

 「複語尾」なる誤りの根源は属性表現である<動詞>が陳述を担うという誤りから生まれたものですが、この<動詞>陳述説が生み出す誤りはそれだけにはとどまりません。先に挙げた一語文、体現止め、喚体の文等で陳述を担う語がなくなってしまうわけですが、感動詞の場合、

  そう■ね。

であり、客体的表現だけの、

  人がいる■。

も、「いる」が陳述の表現を表していることにせざるを得なくなります。つまり、内容と形式を無理やり一致させることになります。時枝の零記号は、内容と形式との間に矛盾が存在することを認め、乖離しうることを認めることに他なりません。形式論理という形而上学にしがみついていては言語の事実を解釈することは出来ないことを示しています。さらに、

  a. 本がある■。
  b. 本である■。

の場合、時枝はa.は存在を表す<動詞>ですがb.の「ある」は判断の<助動詞>で属性表現とは性格の異なる辞であることを指摘しています。つまり、詞から辞へ転成したものと見なければなりません。ところが、山田は「ある」を存在の属性と陳述の兼備だけではなく、判断単独で使う場合もあると解釈し、b.の「ある」を存在詞と名付けています。さらに、イ形容詞、ナ形容詞、形容動詞の問題へ発展していきますが、それでも山田文法から引き継ぐべき点は多く、現在再評価の動きがあります。が、残念ながら本来正すべき点を評価し、受け取るべき遺産を評価できないという逆立ちした状況にあります。釘貫亨著『「国語学」の形成と水脈』(ひつじ研究叢書<言語>編 第113巻 2013.12)や『山田文法の現代的意義』(斎藤倫明・大木一夫編:ひつじ書房 2010/12/24)等もそうした書です。

 参考までに、今から40年前の1975.2月刊の雑誌『試行』に発表された三浦つとむ稿「日本語のあいのこ的構造」から山田文法について記された一部を転載しておきます。


 山田孝雄の文法論には理論的な弱点がある。一語として扱うべき<助動詞>を語尾と解釈して<複語尾>とよんだり、<動詞>の「ある」と<助動詞>の「ある」を一括して<存在詞>とよんで<助動詞>の「だ」や「です」もここに入れたり、<形式名詞>の「の」を<格助詞>と解釈したり、訂正しなければならぬところが多い。それにも拘らず彼の問題意識は抜群であるし、それらは必ずしも後の学者に受けつがれていないのである。時枝誠記は山田の誤りを是正する仕事で大きな成果をあげたけれども、提出されている問題を受けとめることができずに山田から後退しているところもいろいろある。それゆえ、山田の文法論を理解できずに骨董扱いにすることには、私は反対である。
 欧米の言語学者あるいは左翼的哲学者の言語論は科学的・革新的で、国語学者の言語論は非科学的・保守的だという偏見も、まだ根強いようである。左翼的な学者や教科研文法を支持する教師にとって、皇国イデオロギーを鼓吹した国語学者の著書などは科学的精神とは無縁のものだと思えるかもしれない。山田が明治四十一年(一九〇八年)に公刊した大著『日本文法論』の序論をみよう。

 凡、学問の成るは一朝一夕の故にあらず。必、其の由って来る所あるべし。而して其の一学説起るや、此れが短所を見て、茲に反対説生じ、更に、二者の総合説生じ、又反対生じとようにかの「ヘーゲル」の説きけむ弁証法の如き順序を以て進歩するものならむ。さても人の心の構造は一なり。人の考へ出すこと、多少精粗の差こそあれ、大体に於いてはしかく背違すべきものにあらず。今若学説の沿革を究めずして、直に自家の説を述べむか、時に或いは自家の創見なりと負めるものは既に幾十年の昔に古人が道破せしものなるをき々て呆然たることなからむや。これを以て、吾人は主として主要なる学説を歴史的に略説し、其の取るべきは取り、誤れるものは其の過を復せざらむ注意として、しかも之を自家立脚地の予示とせり。諺にいはずや、羅馬は一日にてはならざりきと。吾人がこの論も又先哲諸氏の苦心経営の結果なり。苦心惨憺の経営になりし先哲諸氏の説を何の容赦もなく攻撃追求するは頗る礼を欠くに似たりといえども、学問は交際によりて左右せらるべきものにあらず。また学問のことは師にだに仮さず。況んや先哲の説を補い、その説を訂すは、これ即進歩の宿る所にして、しかも先哲の本願ならずや。吾人は先哲の人格に対して満腔の熱誠を以て尊敬の意を表す。然れども学説の非に至りては毫末も寛仮せざるべし。それ学問は天下の共に議すべき所、一人の私すべきものにあらず。
 
 これが学者の態度であって、言語を解釈するだけのホコトン哲学者たちは学者の名に値しない。さらに山田のこの著書の巻頭には、本居宣長の『玉かつま』のことばが掲げてある。

 吾にしたがいて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむがへのいできたらむにはかならずわが説にななづみそ。わがあしきゆゑをいひてよき考えをひろめよ。すべておのが人ををしふるは道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも道をあきらかにせむぞ吾を用ふるには有ける。道を思はでいたづらにわれをたふとまんはわが心にあらざるぞかし。

 『毛沢東選集』にはこのようなことばがない。毛沢東主義を批判すると「階級敵」「反革命分子」として粛清される。日本の国学者の学問する態度は、中国の自称マルクス主義者よりも科学的であり、マルクス主義の精神に近かった。


  尾上圭介の誤りについては、「語列の意味と文の意味」という昭和五十二年発表の論文で詳細に検討することにし、複語尾説はここまでにして、時枝の『国語学原論』へ至る道に戻ることにしましょう。■  
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2015年05月19日

山田孝雄(やまだ よしお)の<助動詞>「複語尾」説 4

  「陳述の力」はどこにあるのか?

  山田の言わんとするのは「花が咲く。」という文で、<動詞>の「咲く」が花の属性である「咲く」という運動概念と同時に、この文としての陳述、文に示された認識としての統一の作用も又、というより主に統一の作用こそを<動詞>「咲く」が担っているということです。従って「花が咲こう。」と推量の助動詞が累加された場合は、「咲く」の「く」→「こ(う)」という活用が陳述を担い、さらに複語尾の「う」が推量の陳述を担うといっているわけです。

 そうすると、一語文「火事!」や「花が綺麗。」「彼真っ青!」などでも陳述は存在すると見なすしかなく、一体どの語が陳述をになっているのかという事になります。また芭蕉の句か否かが疑われている、「奈良七重七堂伽藍八重ざくら」のように体言(名詞)だけを繋げた句が感動を齎すのは当然「陳述の力」に因る訳ですが、この場合「陳述の力」はどの語が担っているのかということになります。
  尾上圭介が山田の喚体の議論を、名詞一語文成立の議論として引き受けた『文法と意味〈1〉』では体言、即ち名詞が受け持つという議論にならざるをえません。

 この誤りを明らかにしたのが先の三浦の論で、「陳述の力」と称するものを認識構造として検討すれば、

  「陳述の力」なるものは概念の発展であるが概念とは区別されるところの認識のありかた、すなわち判断にほかならない、

ということです。「花が咲か―なく―あっ―た―らしい―です。」というのは、山田流に言えば「複語尾」が「その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。」ということになります。「文が用言で終わるときには形式と内容との間に矛盾が存在している」のですが、矛盾を認められない形而上学的発想ではこれを容認できないことになります。文が用言で終わる時だけでなく、上に見たように体言止め、<形容詞>終止形(<形容動詞の語幹(正しくは静詞)>)での文終止も同様です。この矛盾を正しく認め時枝は「陳述の本質を考へて見れば、それは客体的なものではなく、全く主体的な肯定判断そのものの表現であるから、明かにそれは辞と共通したものをもつてゐる」として零記号(■)を導入したわけです。従って、先の文は「花が咲く■。」と見なければなりません。

  アプリオリな言語の実在を主張する言語実体観では零記号を認めることができず、名詞やら活用形やら感動詞やら間投詞に「陳述の力」をもっていくしかなくなります。金田一や尾上圭介や渡辺實らすべてが論理的必然としてそのようになってしまいます。生成文法もまた、その矛盾に行きあたり方針転換を繰り返すことになります。

  金田一の「不変化助動詞の本質―主観的表現と客観的表現の別について―」では「ぼくは日本人だ。」の「だ」を「客観的な表現を表すものと思う。…ちっとも判断の気持ちは働いていない。」と記しています。この「だ」は、「ぼくは日本人■。」という文の判断の■(零記号)が「だ」と表現されたたものに他なりませんが、主体的表現を主観的表現としか理解できない金田一としては零記号を認めず、判断の存在しない客観的に述べている文ということになります。

 ここまでくれば、最初に問題にしたブログ「killhiguchiのお友達を作ろう」の「現代日本語において、複語尾の終止法独自の用法を、喚体メカニズムで説明する可能性について」なる論がどのようなものかは説明するまでもないかと思います。
 
  このような山田の「複語尾」なる名称は受け入れられませんでしたが、西欧屈折語文法に頼る現在の日本語文法は三上章から教科研文法、寺村文法、記述文法、渡辺文法、尾上文法と陰に陽に<助動詞>語尾説を採り入れざるをえなくなる論理的必然をもっています。■
  
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2015年05月16日

山田孝雄(やまだ よしお)の<助動詞>「複語尾」説 3

  「陳述の力」と活用と複語尾

  三浦の論を見る前に、これまで説いてきたところをもう少し詳しく検討してみましょう。
 まず、山田の言う「陳述の力」について考えてみましょう。これを正しく理解出来るか否かが、言語本質論の分かれ目となります。
 山田は「用言の用言たる特徴は実にその陳述の作用をあらはす点にあり。」としているように、<用言>という語(言葉)が「陳述の作用をあらはす」つまり、「表わして」いるのであり、「陳述の作用」を語(言葉)が生み出すとは言っていません。「この作用は人間の思想の統一作用」というのですから、人間の生み出すものと、この点は正しくとらえています。この点こそ、国学という和歌の解釈および創作という実践に裏打ちされた学問の伝統を引く山田の文法論の強み、健全性があるのですが、言語実体論をとる現在の記述文法では語自体が表すかの山田説との相性がよく引っ張りだされることとなります。これまで見て来たように、「言語を表現の一種」と看破した時枝の立場からは当然、人間の生み出したものとなり<助動詞>一品詞説となります。

 次に「凡そ人の思想を発表する機関として個々の概念の必要なることはいふを俟たざるところ」というのは、<体言>が概念であり、<用言>もまた概念であるということになります。この概念とは実体の概念<名詞>であり、その作用を表す属性の概念<動詞><形容詞>です。

 しかし「個々の概念のみ存してもこれらを統一判定する作用なくば、思想の完全なる結成となることなし。」と言う通り「個々の概念」とは認識の対象の概念ですが、「陳述の力」とは人間の認識のあり方であり、「かく統一判定する作用を言語にあらはしたるもの即ち用言なり。」と言うように、これを表したものが<用言>であると主張しているわけです。

 つまり、<用言>の本質は「陳述の力」を表現したものというわけですが、概念も又表しているわけで、「人間の対象の概念」と「人間自身の、かく統一判定する作用」という二つの全く異質なものの表現を<用言>が担うことになります。このため、「国語の動詞はその活用形にて種々の陳述をなすものなるが」と「活用形」が「種々の陳述をなす」ことにならざるを得なくなります。

 そして「それらのみにては、その属性の表現の状態、又は陳述の委曲なる点等をあらはし得ざることあるが故にさる時に、その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。」というように、「活用」だけでは表し切れない「その属性の表現の状態、又は陳述の委曲なる点等」を表すのが「複語尾」であり、「その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。」ということになります。しかし「その活用形より更に複語尾を分出せしめ」る主体は何かが問題です。これは「人間の思想の統一作用」と解するしかないでしょうね。なぜ「分出」なのかの論理性はありません。しいて言えば、語尾に独立性がなく、かつ接尾語のように何にでも付くというよな恣意性ではなく動詞の活用との必然的密着性に着目したということになります。

 先の、山田の論述の過程に一箇所おかしな点がありますが、気付かれたでしょうか。
 <用言>を<動詞><形容詞>として論じて来たのですが、最初に見て来た通りどちらも活用をもっています。第1回の引用で複語尾について述べるところで「「国語の動詞はその活用形にて種々の陳述をなすものなるが、それらのみにては」と「国語の動詞は」と<形容詞>は理由もなく除外され、「複語尾」を持たないことにされてしまいます。ここにも山田の論の恣意的な論理の非一貫性がみられます。これらの理由で「複語尾説」そのものは他の<助動詞>一品詞説をとる人々には受け入れられませんでした。
 
 ざっと見ても、こんな問題がありますが三浦の言語過程説の立場からの批判を聞いてみましょう。言語過程説の論理的展開はこれからですが、必要な点は説明しながら論をみてみましょう。「言語は表現の一種」であることを念頭におく必要があります。

 
 用言はそのつぎに助動詞が加えられると語形が変化するけれども、これは形式上の変化で何ら内容の変化を伴う物ではない。いわゆる活用の部分は何ら陳述の表現を意味するものではない。これは山田が「陳述の力」と称するものを、認識構造として理解すれば明かになる。彼は、概念を統一する作用そのものを陳述の作用と解釈した。しかし、ヘーゲルもいうように、概念以外に概念を統一する作用があるのではなく概念そのものの発展によって統一が行われるのであり、「概念の自己自身による規定作用」を「判断作用」とよぶ(ヘーゲル『大論理学』)のであるから、山田の、「陳述の力」なるものは概念の発展であるが概念とは区別されるところの認識のありかた、すなわち判断にほかならないのである。それゆえ複語尾の問題は、用言のあとに接尾語とか判断辞とか思われるものが多数加えられているときに、それらはすべて用言の内部の問題であり属性の表現といっしょに一語として扱うべきか否かの問題でもあることになる。
 時枝は複語尾説をとらず、判断辞を一語と認めている。そしてそれの欠けているものに「零(ゼロ)記号」を設定する。「陳述の存在といふこと自体は疑ふことの出来ない事実であって、若し陳述が表現されてゐないとしたならば、『水流る』は、『水』『流る』の単なる単語の羅列に過ぎないこととなる。そして陳述の本質を考へて見れば、それは客体的なものではなく、全く主体的な肯定判断そのものの表現であるから、明かにそれは辞と共通したものをもつてゐるのである。」
 「敬辞の加わつたものから逆推して行くならば、『咲くか』(―ね、よ、さ、わ)、『高いか』(―同上)『犬か』(―同上)等は皆零記号の判断辞のあるものであると考えることに合理性を認めることが出来るのである。」(時枝誠記『国語学原論』)
 判断は対象の属性認識とは区別しなければならないが、用言は対象の属性の認識を表現するにとどまっている。それゆえ、文が用言で終わるときには形式と内容との間に矛盾が存在しているのであって、内容としては判断が存在していながら形式には示されていないものと見なければならない。「水流る」にあっては、肯定判断そのものの表現は省略されているのであって、用言が文としての完結を示す形態をとっているために、この形態から判断の存在を推定することはできるが、この形態に肯定判断そのものが表現されていると見ることはできない。しかし山田は形式と内容を強引に一致させようとする。形而上学的に、内容として存在しているからには表現されていなければならないはずだときめてかかっている。それゆえ用言は属性と陳述とを「共に」あらわすものと解釈し、たとえ客体的表現としての性格をもたずに主体的表現としての性格を持つものに転化しても、これを転化とは認めずに、単に属性の表現を失ったものでむしろ用言の特徴を発揮したものと解釈する。


 最後の文は次に例がしめされますが、まずここまでを考えてみましょう。この内容が素直に理解出来ればほぼ言語過程説を理解できたことになりますが、残念ながら「零(ゼロ)記号」を認められない橋本進吉から、橋本文法を信頼し服部四郎に教えを受けた金田一春彦や、その流れを汲む南富士男や國廣哲彌、渡辺實、尾上圭介や近藤泰弘といった人々にはこれが全く理解できません。
 その元となっているのが金田一春彦の「不変化助動詞の本質―主観的表現と客観的表現の別について―」(『国語国文』第22巻2-3号/1953年)および「同、再論―時枝博士・水谷氏・に両家答えて―」という論文です。
 1953年(昭和28年)に発表されたこの論文は未だに多くの、語や文の機能を説く論文の拠り所とされています。
 その内容を検討するのは、ずっと後になりますが次は上の内容をかみ砕きながら金田一の論文の一旦にも触れてみましょう。■
  
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2015年05月12日

山田孝雄(やまだ よしお)の<助動詞>「複語尾」説 2

  <体言>の「陳述の力」と「属性」

 先に<用言>を<動詞><形容詞>としましたが、山田が「陳述の力」と「属性」について論じていますので、これらの概念について説明するためにもまず、<体言><用言>の区分について述べましょう。山田は次のように主張しています。

 「元来体といふ語は用に対する語にして用は作用現象などの義、体はそれに基づく実体をさすものにして、支那の儒学特に宋学の盛に用ゐたる述語にして、それの基づく所は仏教にて体相用の三を相待的に用ゐしにあるが如し。これらの体は英語にていふ Substance の義なり。語の分類上にては哲学にていふが如き厳密の実体といふ程の意義にはあらざれども、かの形のみを見て、語尾変化なき語の一名なりとする如きは当らざること勿論なり。」

 つまり実体を表わす語を<体言>とし、その実体が及ぼす作用そのものや、作用の現象を表わす語を<用言>と名付けたわけで、実体を表わす語はすなわち<名詞>であり、その作用を表わすのが<動詞><形容詞>ということになります。そして、<名詞>には活用がなく、<動詞><形容詞>には活用があります。そのため、今度は体・用の区分の基準として内容だけではなく活用があるか、ないかという語形変化も基準に採り入れることになり混乱が始まります。先の学校文法の定義でも活用の有無が品詞分類の基準になっていますから、これを無視することができません。さらに実体を把握し表現する<名詞>には活用はありませんが、実体以外を表わす語にも形容動詞の語幹といわれる「きれい」「おだやか」「静か」「親切」には語形変化がなく体用の区分が当て嵌まりません。こうした問題がありに二文法も一筋縄ではいきません。

 しかし、ここでは<体言>を<名詞>、<用言>を<動詞><形容詞>と考えて先に進めましょう。そうすると<体言>である<名詞>が実体を表わし、<用言>である<動詞><形容詞>はその実体の属性を表わしていることが判ります。つまり、砂糖は甘く、川は流れ、人が走り、子供は学校へ行くというような関係になります。つまり、「川」「人」「子供」「学校」は実体としての<名詞>であり、「甘い」「流れる」「走る」「行く」が動詞として属性を表わしていることになります。

ところが、「個々の概念の必要なることはいふを俟たざるところなれど、個々の概念のみ存してもこれらを統一判定する作用なくば、思想の完全なる結成となることなし。かく統一判定する作用を言語にあらはしたるもの即ち用言なり」と「統一判定する作用」である「陳述の力」を<用言>である<形容詞>「甘い」や<動詞>「流れる」「走る」「行く」が「属性」と共に表わしていると主張するわけです。

 そのことは、三浦が説明しているように、
 
 「甘い」についていえば、「甘」という対象のの属性の表現はどれにも共通していてこれが用言には特有ではないと見、この属性を除いたところに用言の本質がある

 とし、<「甘」の部分を除いた残り、すなわち活用の部分が「陳述の作用をあらはす」ことにならないわけにはいかない。>ことになります。さらに、用言の本質は対象の属性をとらえた客体的表現ではないことになります。この「客体的表現」というのは時枝が「概念過程を含む形式で表現の素材を、一旦客体化し、概念化」した単語として「概念語」又は「詞」と名付け、三浦が「話し手が対象を概念として捉えて表現した語」と定義し、「客体的表現」と名付けたものです。

 従って、「国語の動詞はその活用形にて種々の陳述をなすもの」となるしかありません。つまり、先に記した文で「甘く」が「甘い」になると「く」「い」が「陳述の力」を表わすことになるしかありません。<動詞>では、「流れ」が「「流れる」になるように「れ」「れる」又は、「る」が「陳述の作用をあらはす」という奇妙なことになります。もっとも、言語実体論にたつ現代の言語学者や国語学者、先の記述文法を奉ずる人たちにとっては奇妙ではないかもしれません。

 さらに<動詞>+<助動詞>である「走ろう」「走るだろう」「行こう」「食べよう」の<助動詞>「」「だろう」「よう」が「その属性の表現の状態、又は陳述の委曲なる点等をあらはし得ざることあるが故にさる時に、その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。」と「複語尾」とされます。このようにして、

 「複語尾は用言の語尾の複雑に発達せるものにして、形体上用言の一部とみるべきものにして、いつも用言の或る活用形に密着して離れず、中間に他の語を容るることを許さず常に連続せる一体をなすものなり。」

 ということになります。これに対する、三浦の指摘を次に見ましょう。■  
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