2015年11月07日

助動詞「だ」について(5)

言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
  語とは何か。(4)

 続けて、三浦つとむ「語の分類について ― 二 時枝誠記は客観主義に反対する」を見て行きます。

 時枝は山田の述べた分類の基準を、『国語学言論』でつぎのように批判した。

 ……山田博士は、これを具象的な独立観念の有無といふことで説明されようとするのであるが、てにをは或は詞といはれるものが、他の語に比較して具象的な独立観念を持たないかといふのに、必ずしもさうとは云えないのである。博士が、観念語と云われるものの中にも、極めて抽象的な概念しかあらわさない「こと」「もの」のやうな語もあり、関係語の中にも、「か」「も」の如く疑問、強意の如き具象的な思想をあらはし得るものもあって、独立観念といふ点で、この両者を截然と分つことは困難である。山田博士は、更に独立的に思想をあらはし得るものと、さうでないものとの別を以て説明されようとする。この分類基準は、橋本進吉博士もとられたところのものであって、博士は語が文節を構成する手続きの上から、一はそれ自からで独立して文節を構成し得るもの、二は常に第一の語に伴って文節を構成し得るものに二大別され、前者を詞、後者を辞と命名された。しかしながら、語が独立して用いられるか否かといふことは、必ずしも絶対的なものでなく、語を分類する絶対的な条件とはすることが出来ないものである。例へば、用言の活用形、「行けば」の「行け」は、「ば」と結合してのみ用ゐられるものであって、「行け」はそれだけで文節を構成するものとは考へられない。また、「八百屋」「肉屋」の「屋」も、決してそれ自身独立して文節を構成するものとは考えられないにも拘はらず、「屋」を助詞の中に入れることはない。

<助詞><助動詞>はふつう独立して用いられないが、会話の場合にはしばしば独立することがある。「彼は私に気があるのよ。」「かもね。」とか、「この仕事をやってのけたらおやじも驚くぞ。」「だろうな。」とか、客体的表現の存在しないことが決して稀ではない。文法学者が会話における表現のありかたを正面からとりあげようとしない現状は、いろいろな意味で問題にする必要があろう。
 山田ないし橋本流の発想は、内容においてこれこそ基本的なものだという基準をとらえることができないために、その弱点を形式的な独立か非独立かでカヴァーするものである。それで内容で基準をとらえられない学者は、みな同じような発想になるけれども、内容をまったく無視するわけではないから、内容をどう考慮するかによっていろいろちがった分類が生まれてくる。》
 問題としている論稿は、正に<会話における表現のありかたを正面からとりあげようとしない現状>が、談話を取り上げるようになった現在での問題提起で、鋭い着眼です。しかし、何ゆえに<「だ」を「用言」と見なす先行研究>が4種類も存在するのか、<形式名詞>とは何であるかに疑問を抱くことなく、機能主義的な言語観の中で、新たな見解を加畳するだけという点に本質的な問題があります。
 さらに、この先でも明らかになるように先行研究の内容の検討が不十分であることが判ります。
 続けて、三浦の論の展開を見て行きましょう。■

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