2015年11月09日

助動詞「だ」について(7)

   
談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   語とは何か (6)

  三浦つとむ「語の分類について― 二 時枝誠記は客観主義に反対する」の引用を続けます。(注は省略)
 そこで時枝は、「言語の客体的存在としての把握を脱却して、言語をあるがま々の存在として、即ち主体的経験として、これを把握する」という、過程的言語観の立場から、「単位としての単語の本質を主体的な言語経験に於いて規定しようとする」のである。つまり言語の思想的単位を、表現主体から切りはなして客体的存在として扱うのではなく、表現主体自身の認識に求め主体的存在として扱い単語の本質をこのような一概念の音声に表現せられる一回的過程」に求めるのであって、それとともにつぎのような事実に注意を求めている。

 極単にいえば、甲によって単語として経験されたものが、乙には単語の結合即ち複合語として経験されることがありえるということである。しかしながさ、このことは当然認めなければならないことであって、時代を経、土地を隔てるならば右の様なことは当然起こり得ることであって、過去に二単語であったものが現今一単語として経験されることのあるのは寧ろ自然の事実であって、客観的に或語が過去の現在を通じて一単位であると断定されることが寧ろ事実に反すると考えなければならない。……

……「白墨」は現今の主体的意識に於いては「白い」「墨」といふ二個の概念単位に還元されるのではなくして、「チョーク」という一概念単位を表すに過ぎない。従って「赤い白墨」「青い白墨」といふことが可能なのであつて、若し主体的意識に於いて「白墨」が二の概念に分析されるとしたら、「赤い白墨」といふが如きは全く非論理的表現といはなければならない。

 日常生活でも同様の例が少なくない。「茶碗」ははじめ「茶」を注ぐ「碗」として二個の概念から成っていたのであろうが、現在では「茶」という意識は消滅して陶器の一種をさすこととなり、飯を盛る器でも、「茶碗」とよぶ。「薬罐」も同じように「薬」という意識は消滅して金属製の湯わかしをさすこととなり、落語のように「矢」が当ってカーンと音がしたから「ヤカン」なのだとこじつけることさえ行われている。しかしながら、「鉄瓶」はいまもって二個の概念から成っており、鉄製のものにしか用いられてない。「とうなす」「とうがらし」における「唐」すなわち中国産の意識も消滅しているし、「とうもろこし」に至っては「もろこし」がそもそも「唐」の意味でありながら植物の名となり、さらに「唐」を意識して加えたところそれすらも意識から消滅して、現在では「とうもろこし」全体が植物についての一概念である。「さつまいも」の「薩摩」という国の意識も消滅して、芋の一種を指す名となった。語の内容についても、辞書の説明どおりに解釈すれば正しいとはいえないのであって、流行語の「ハレンチ」は内容的に「破廉恥」とまったく異なっているから、これも表現主体の意識いかんから説明しなければならぬことは明白である。時枝の言語観は言語規範をネグっているから、正しくいいなおすと、一の語であるか否かは客観主義的に辞書的に規定された規範においてではなく、表現主体が無意識的に運用しているところの規範において決定されるのである。これが本質的な分類の基準である。すなわち、圧倒的多数の表現主体によって現に運用されている規範が、一般的な分類の基準となるわけであるから、時と場所から規定された相対的な分類となるので、絶対化してはならない。

それでは言語にとってもっとも根本的な語の分類は、どんな内容をもつものであろうか?それを把握するには、これまでの言語学がとらえることのできなかった言語の表現としての本質的な特徴を見なければならない。絵画や写真が客体的表現と主体的表現との直接的な統一であるのに対して、言語ではこの二種の表現が分離して別個の語によって行われることを、私は『日本語はどういう言語か』以後指摘してきた。語の分類にとってもっとも根本的なものは、この客体的表現と主体的表現のいづれに属するかという分類であって、これは日本語のみならずあらゆる言語に妥当する。松下大三郎があらゆる言語に普遍的な一般文法を論じて、<文節>的なものを<単性詞>と<複性詞>に先ず分類したのは、言語表現の本質を把握することなく与えられた言語表現の論理構造で区別するという、構造論的発想に自分をおしこめていた結果であった。

時枝が鈴木朖の言語観における<詞>と<辞>の区別に注目し、これを客体的表現と主体的表現との区別と受けとって西欧の言語学を超えたものと評価し、「この事実は、文法における品詞分類の第一基準として、文法学に重大な変革をもたらすものでなければならない」と主張したことは正当である。現在行われている<詞>と<辞>の区別は、橋本や空西に見るように内容における本質的な差異を意味するものではなく、形式における独立非独立に修正されているのであるから、朖の真意を読みとってここに分類の根本的な基準を置いた時枝の功績は高く評価されなければならない。けれども先の分類の一般論に照らして考えるなら、朖の言語観の再発見によってまず内容についての大きな分類を行うという仕事がようやく達成されたにすぎないのである。一般論として正しくとらえたということは、さらに具体化していく場合にすべて正しということを意味しない。蝙蝠を鳥ととらえ鯨を魚ととらえるような誤りは訂正しても、鳥と獣の中間に位置するような動物や生物と無生物の中間に位置するような存在にぶつかって、あれかこれかと機械的に区別することの限界を思い知らされる事実は、言語学にとっても教訓的である。すべての語が<詞>と<辞>に機械的に分類できるわけではなく、中間に位置するような存在にもぶつかるのだが、このときにこんどはそれまでの発想の裏返しに転落して、<詞>と<辞>を区別してきたことまで疑い、この区別をなげすててしまう学者が出てくるであろうと予想することもできる。》

 このような、語とは何かの本質的な定義もなく、語の分類にとってもっとも根本的なものが何かを捉えることもできずに、語の機能と形式にたよって分類を繰り返している現在の言語学では、助動詞とは何かを明らかにすることさえ出来ません。「語の分類について」は、さらに山田の分類と「<体言><用言>とは何をさすか」が論じられますが、これは後日、必要に応じて参照することとします。この、語の本質的な分類に基づき、次に助動詞とは何かを明らかにしましょう。■

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