2015年11月11日

助動詞「だ」について(8)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
  <助動詞>とは何か

  現在の学校文法では助動詞>は、「付属語で活用があり、体言・用言に意味を添える単語」と形式的な規定を、「体言・用言に意味を添える」という機能主義で補強しています。このためリンク先の表にもある通り、<比況・例示・推定の助動詞>として「ようだ」、さらに、<伝聞の助動詞>「そうだ」と<様態の助動詞><そうだ>などが入っています。

しかし、これまで見てきたように語とは<表現主体が無意識的に運用しているところの規範において決定される>ものであり、語の分類にとってもっとも根本的なものは、<客体的表現と主体的表現のいずれに属するかという分類>からは、まず<助詞><助動詞><感動詞>等は<主体的表現>の語である<辞>として捉えられねばなりません。そして<助動詞>は話者の肯定判断、否定(打消し)判断、推量、その他を表現しています。これこそが、<助動詞>の本質的と言えます。<助動詞>という名称は英文法のAuxiliary verbを翻訳したものですが、日本語の<助動詞>は英語とは異質な、肯定判断、否定(打消し)判断、推量、その他を表現する主体的表現の語です。

このため、三浦つとむは、昔学者が使った<動辞>という名称を復活するのが妥当と提起しています。さらに、時枝はこの辞としての助動詞の定義から、『国語学原論』で新たに辞と認むべき「あり」及び「なし」の一用法辞より除外すべき受身可能使役謙譲の助動詞>を論じています。まず「あり」についてです。

 a. ここに梅の木がある。   b. これは梅の木である。

 aの「が」に続く「ある」は存在を表す<動詞>ですが、bの「で」に続く「ある」は判断的陳述を表しています。この「ある」は<動詞>から<助動詞>へ転成したものです。橋本文法では、補助動詞とされ、山田文法では「ある」を<存在詞>として別扱いしてこの違いを認識していません。bの「で」は肯定判断(断定)を表す<指定の助動詞>「だ」の連用形であり、判断辞の重加により肯定判断が強調されています。さらに強調を重ね「あるあります。」と、間に形式名詞の「の」を挟んで使用されます。橋本文法では、<補助動詞>とされ、山田文法では、「ある」は<存在詞>として一括特別扱いされています。

 また、動詞「ある」に対し「なし」は本来「お金がない」のように形容詞ですが、これが、「花が咲かない。」のように否定の判断辞となり<助動詞>に転成しています。橋本文法では<助動詞>に入れられていますが、山田文法では<動詞><存在詞>の複語尾とされています。これについては、以前〔山田孝雄(やまだよしお)の<助動詞>「複語尾」説 15〕で取り上げました。

 受身可能使役謙譲の<助動詞>、「れる られる」「す せる させる」は客体的表現であり<助動詞>から除いて<接尾語>に入れるべきと正当な主張をしています。

 さらに最初に記したように、<比況・例示・推定の助動詞>として「ようだ」、さらに、<伝聞の助動詞>「そうだ」と<様態の助動詞><そうだ>などが入っていますが、これらも助動詞ではないことを論じています。「ようだ」は<助動詞>「よう」+「だ」、「そうだ」は接尾語「そう」+<助動詞>「だ」と二語よりなっています。

 また、過去・完了の「た」が客体的表現ではなく、主体的表現である<辞>であることは、以前新聞記事に見る時制表現について〕で、

  過去現在未来は、属性ではなく、時間的な存在である二者の間あるいは二つのありかたの間の相対的な関係をさす言葉にほかなりません。……過去から現在への対象の変化は、現実そのものの持つ動きです。これを、言語は、話し手自身の観念的な動きによって表現します

と記した通りです。このような、助動詞、時制が現在も形式主義、機能主義的な国語学で正しく理解されていないのは、野村剛史稿「助動詞とは何か―その批判的再検討―」や、北原保雄著『日本語助動詞の研究』で「いわゆる助動詞」と記して明確な助動詞の定義が出来ないことからも明らかです。

 もっとも多く使われる<助動詞>が肯定判断を表す「ある」「だ」の系列で、これを<指定の助動詞>とよび、<敬辞>化したものが「です」「ます」の<敬意の助動詞>です。この<指定の助動詞>「だ」の本質である肯定判断に基づき、劉 雅静氏の論考を検討してみましょう。

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