前回、著者らの日本語文法理解の誤りを指摘しましたが、まだ指摘すべきことがあります。もう一度前回の例文を再掲します。
b.太郎はフランス語が分かる。 [現在時]
(8) a.彼は明日ロンドンへ出発する。 [未来時]
b.太郎は来年大学を卒業する。 [未来時]
この(7)の「好きだ」が動詞ではなく、形容詞「好き」+助動詞「だ」であることは前回とりあげましたが、(8)の「出発する」「卒業する」を動作動詞としている点にも問題があります。これらは、漢語の動作性名詞「出発」と「卒業」に抽象動詞「する」を連加したものです。漢語は活用をもたないため、そのまま動詞として使用したり、接尾語や助動詞を直接結びつけることができません。それで、抽象動詞「する」(活用:せ、し、す、する、すれ、せよ)を結びつけて抽象的に捉えなおして、この活用を利用したものです。従って、動作を表してはいますが、動詞は抽象動詞「する」です。過去形になれば、「し」+「た」で「した」となります。
なぜ、このような誤った理解に陥ったかは、前回の形容詞の場合と同じで、「出発する」を英語のdepartと、「卒業する」をgraduateと同一視してしまったからです。なお、「好き」を動的に捉えれば、
私はいずれ花子を好きになるだろう。
と、抽象動詞「なる」を連加します。
このような粗雑な日本語理解は次に続いています。
先の「状態動詞の現在形は未来時を表すことができません。」という誤断に続いて、次のように記しています。
一方、動作動詞が現在時を指せるのは、次に示すように、習慣的動作を表す場合に限られます。(【付記2】参照)
私は毎朝ジョギングする。 [現在時]
この文は、話し手が現在の習慣として定期的にジョギングを行うという、話し手の現在の状態を述べています。「ジョギングする」自体は動作動詞ですが、習慣的動作だと、その現在形がこのように、状態動詞の現在形と同じく、現在の状態を指し得るのは、習慣的動作が、1回から数回の動作とは異なり、定期的に繰り返し行われるため恒常性が強いからです。
この動作性動詞なるものも、外来語である名詞「ジョギング」は活用をもたないため、抽象動詞「する」を連加したものです。従って、日本語の動詞は抽象動詞「する」です。日本語の動詞では、「軽く走る」とでもいうところで、動詞「走る」を動作性動詞と呼ぶのは誤りではありませんが。
さて、この動作動詞が現在時を指せるのは「習慣的動作を表す場合に限られます。」というこの説明の内容ですが、これは二重、三重に誤った説明です。「ジョギングする」でも「走る」でも良いのですが、2回目に歌舞伎の世話物狂言「弁天小僧」の台本の「ト書き」で示した通り、習慣的動作ではなく、その場の指示として現在形が用いられています。なにも、「習慣的動作」には限られていません。これは事実に相違した誤りです。さらに、
習慣的動作だと、その現在形がこのように、状態動詞の現在形と同じく、現在の状態を指し得るのは、習慣的動作が、1回から数回の動作とは異なり、定期的に繰り返し行われるため恒常性が強いからです。
というような条件的な使い方は良くあります。動作動詞であろうとなかろうと、現在形が使用されるのは何ら習慣的動作に限定されるものではありません。そして、「定期的に繰り返し行われるため恒常性が強いからです。
」というのは、動作動詞が現在時を指せるのは「習慣的動作を表す場合に限られ」る理由の説明にはなっていません。単に著者の思い込みの事実を、現象として説明しているだけです。
このような、現象的、機能的な粗雑な日本語文法理解からは日本語の時制の本質はもとより、英語の時制の理解も、さらにアスペクトの理解も望むべくもないものです。著者は、これまでの議論に基づき、
時間は、過去、現在、未来の3つがありますが、それらを表す時制は2つだけで、「未来時制」というものはないことになります。また、動詞の現在形が現在時と未来時を表すわけですから、動詞の現在形を「現在時制」と呼ぶのは、厳密には妥当ではなく、過去を表す「過去時制」に対して、「非過去時制」とでも呼ぶのが正確と言えるでしょう(ただ、本章では分かりやすさのため、「現在時制」という言い方を用います)。従って、時制は、中学生の頃おもっていたような1対1の対応はしていないことが以上から明らかです。
と断定していますが、これが現在の生成文法の理解の現状です。ここでは、時制が対象の属性として固定的に捉えられているため、多くの事実誤認と論理の踏み外しを抱え込んでいます。この本では、次に英語の場合を考察し、さらに「現在形は何を表すか?(1) 第2章」と進みますので、さらに検討してみましょう。■