2015年05月19日

山田孝雄(やまだ よしお)の<助動詞>「複語尾」説 4

  「陳述の力」はどこにあるのか?

  山田の言わんとするのは「花が咲く。」という文で、<動詞>の「咲く」が花の属性である「咲く」という運動概念と同時に、この文としての陳述、文に示された認識としての統一の作用も又、というより主に統一の作用こそを<動詞>「咲く」が担っているということです。従って「花が咲こう。」と推量の助動詞が累加された場合は、「咲く」の「く」→「こ(う)」という活用が陳述を担い、さらに複語尾の「う」が推量の陳述を担うといっているわけです。

 そうすると、一語文「火事!」や「花が綺麗。」「彼真っ青!」などでも陳述は存在すると見なすしかなく、一体どの語が陳述をになっているのかという事になります。また芭蕉の句か否かが疑われている、「奈良七重七堂伽藍八重ざくら」のように体言(名詞)だけを繋げた句が感動を齎すのは当然「陳述の力」に因る訳ですが、この場合「陳述の力」はどの語が担っているのかということになります。
  尾上圭介が山田の喚体の議論を、名詞一語文成立の議論として引き受けた『文法と意味〈1〉』では体言、即ち名詞が受け持つという議論にならざるをえません。

 この誤りを明らかにしたのが先の三浦の論で、「陳述の力」と称するものを認識構造として検討すれば、

  「陳述の力」なるものは概念の発展であるが概念とは区別されるところの認識のありかた、すなわち判断にほかならない、

ということです。「花が咲か―なく―あっ―た―らしい―です。」というのは、山田流に言えば「複語尾」が「その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。」ということになります。「文が用言で終わるときには形式と内容との間に矛盾が存在している」のですが、矛盾を認められない形而上学的発想ではこれを容認できないことになります。文が用言で終わる時だけでなく、上に見たように体言止め、<形容詞>終止形(<形容動詞の語幹(正しくは静詞)>)での文終止も同様です。この矛盾を正しく認め時枝は「陳述の本質を考へて見れば、それは客体的なものではなく、全く主体的な肯定判断そのものの表現であるから、明かにそれは辞と共通したものをもつてゐる」として零記号(■)を導入したわけです。従って、先の文は「花が咲く■。」と見なければなりません。

  アプリオリな言語の実在を主張する言語実体観では零記号を認めることができず、名詞やら活用形やら感動詞やら間投詞に「陳述の力」をもっていくしかなくなります。金田一や尾上圭介や渡辺實らすべてが論理的必然としてそのようになってしまいます。生成文法もまた、その矛盾に行きあたり方針転換を繰り返すことになります。

  金田一の「不変化助動詞の本質―主観的表現と客観的表現の別について―」では「ぼくは日本人だ。」の「だ」を「客観的な表現を表すものと思う。…ちっとも判断の気持ちは働いていない。」と記しています。この「だ」は、「ぼくは日本人■。」という文の判断の■(零記号)が「だ」と表現されたたものに他なりませんが、主体的表現を主観的表現としか理解できない金田一としては零記号を認めず、判断の存在しない客観的に述べている文ということになります。

 ここまでくれば、最初に問題にしたブログ「killhiguchiのお友達を作ろう」の「現代日本語において、複語尾の終止法独自の用法を、喚体メカニズムで説明する可能性について」なる論がどのようなものかは説明するまでもないかと思います。
 
  このような山田の「複語尾」なる名称は受け入れられませんでしたが、西欧屈折語文法に頼る現在の日本語文法は三上章から教科研文法、寺村文法、記述文法、渡辺文法、尾上文法と陰に陽に<助動詞>語尾説を採り入れざるをえなくなる論理的必然をもっています。■

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