2015年11月12日

助動詞「だ」について(9)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 (通巻 29 2010) 
   <助動詞>「だ」の自立した使い方について(1)

 劉 雅静論文で問題とされているのは、

   (2) 「桂太君かっこよくない!?」

       ね、一際目立ってるかも…」『虹色の約束』

に見られるような単独の<指定の助動詞>「だ」の使用法です。橋本文法や教科研文法では、付属語とか付属辞とよばれて、かならず上の語に付属することになっているため、<助動詞>とすることに疑問を呈されています。たしかに、「付属語で活用があり、体言・用言に意味を添える単語」とすると、「意味を添える」べき「体言・用言」が存在せずおかしなことになってしまいます。しかし、これまで見てきた通り形式や機能は語の本質ではなく、表現としての語の本質により品詞を決めねばなりません。従って、話者の主体的表現で、肯定判断を表す語として「だ」の使用法を検討しなければなりません。

 この論文では、最初に先行説の検討を行っています。それらは、すべて形式的、機能的な観点からの解釈でしかないのですが、その誤りを明らかに出来ずに同じ枠内でしか思考していません。時枝誠記の詞・辞の説もこれらと一括りにされています。言語とは、対象→認識→表現の過程的構造をもった表現であり、<指定の助動詞>「だ」もまたこの本質に基づく表現であることを基に論文を見直してみましょう。三項目の問題点が挙げられます。順次、検討しましょう。

 (a) 伝統文法で規定されている文法単位が話し言葉の分析において必ずしも有効ではない。

  この点は、これまで見てきた通り、伝統文法自体が形式や機能に頼った誤った分析ですので当然のことです。

 (b) 形式上、「だ」は多くの助動詞に見られない単独用法を持つ。

 例文に挙げられている通り、会話の場合には「だね」「だよね」「ですね」と使用され、これがいかなる使用法であるかを明らかにしなければなりません。これについては、三浦つとむの「<助動詞>と<助詞>の自立した使い方について」(『言語学と記号学』1977.7.10 勁草書房刊)という論文がありますので、これに依拠して例文(5)を検討してみましょう。

 (5) (いつも朝早くから出勤する田中さんの姿がいないことに気づいた社員たちのもとに課長がやってきた。

そして、課長が社員A に向かって)

「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということ

課長が座席に戻って行く。社員A が自分の後に座る社員B に、

そうです」/「ってさ」 (作例)

 この場合、課長の言った「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということで」という言葉を社員ABも同時に聞き、課長の立場にたって内容を追体験することにより内容を理解します。この理解のためには、聞き手は観念的な自己分裂によって観念的な自分が相手の立場に立ち、追体験をすすめていきます。課長の「田中さんは盲腸炎で緊急入院したそうです。今週はお休みということ」という表現を理解しようとするなら、追体験によって社長の体験を繰り返すことにより「だ」の連用形「で」をも追体験します。つまり、追判断が行われます。社員ABに、この体験を念押しのため表現する場合、この追体験をいま一度表現し、課長の言葉を「そう」と指定することにより、「そうです」となり、「だいうことさ」の「と」が「って」となり「いうこと」が省略されて「ってさ」となることにより、助動詞「だ」が文の先頭に現れます。これは、形式的には「だ」が自立していると同時に、内容的には追体験を媒介にして相手の判断に結びついているわけです

 さらに、三浦の論を筆者の責任で読みやすくアレンジし引用します。

判断辞が文の先頭に使われるのは、多くはこのような相手の追判断の表現ですが、相手の判断に直接結びついていない場合もあります。たとえば、面会時間におくれてやって来た相手が、「何とかとりついでくれませんか。事故で遅れたものですから。」と訴えた場合、聞き手はこれを追体験して、もっともと一応肯定しはしますが、とはいえ規則だからどうにもならないと考えた場合は、忠実に表現するならば、「それはそうです」とか「ごもっともです」とか、まず事情を肯定する形となりますが、「それはそう」「ごもっとも」を略して、肯定判断辞の「です」から表現するなら、ごもっともですが面会はいたしかねます。」が「ですが面会は致しかねます。」になり「です」が先頭にあらわれます。「です」に続く「が」は<接続助詞>で、逆説とよばれる使用法です。何に対して逆かといえば、表現されていない肯定した思想です。この「です」は相手の判断に直接むすびついているのではなく、追体験を媒介として聞き手の思想を形成し、聞き手独自の判断を示すという、媒介関係にある判断辞なのです。

 会話だけでなく、別れの挨拶をしたり、仲間に声をかけたりする場合にも、自分の思想を形成しいその判断を文の先頭に示しています。いろいろ考え合わせてみて、訪問の目的はこれで達したなとか、これではいくら話かけても拒否されるだけ無駄だとか、別の訪問客が来たので話さないのが賢明だとか、それなりに独自の判断を行って、「はこのへんで。」と表現します。あるいは、このくらい休憩すればみんなの疲れもいくらかとれたろう、出発する時が来たと判断して、「では行こうか」と表現してよびかけます。(引用終わり)

  このように見てくれば、肯定判断を表す<指定の助動詞>「だ」として論理的、合理的な使用法であり、談話という場面、前提を共有した直接的な文のやり取りという場で話者の追体験に対する判断辞が先頭に現れる文であることが判ります。

 この、言語表現の本質である過程的構造を理解出来ずに、言語実体観によりすべてを文・語の機能として理解するしかないところにこの論文の本質的な欠陥があります。それは、現在の言語学、国語学、日本語学の本質的な欠陥であり、時枝誠記が言語を表現と看破したコペルニクス的転回以前の学でしかないということです。

 次に、ここに言われている「多くの助動詞に見られない単独用法」とは何なのかを検討しましょう。■

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