2015年11月25日

助動詞「だ」について(18)

 
〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(5)

 標記論考の「2.主観性 21 命題とモダリティ」を見てみましょう。

 主観性ということばは多義に使われるが、本研究では、モダリティ論における話し手の心的態度の現れについて用いることにする。モダリティ論によると、一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる。「モダリティ」はさらに、話し手による客体世界の把握の仕方と関わる「命題態度のモダリティ」と、話し手の発話態度と関わる「発話態度のモダリティ」とに分けられる。図3は発話態度のモダリティの中に命題態度のモダリティが埋め込まれ、さらにその中に命題が埋め込まれる様子を示している。

    【〔〔命 題〕 命題態度のモダリティ〕 発話態度のモダリティ】

           図3 文の構造

 文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つとされます。しかし、文とは時枝が明らかにしたように、客体的表現と主体的表現の組み合わせが入れ子型になり、一纏まりの思想を表現したものです。「起立。」「暖かい。」などは一語文と呼ばれています。この入れ子型構造は主体的表現による話者の観念的移行を伴った複雑な一体としての立体的構造をなしています。ここで言われる命題自体が、話者の心的態度である主体的表現なしには成立しませんし、客体的世界の認識を客体的表現と主体的表現の個々の語に分解し、再度組み立てる心的態度なしには表現はありえません。ここに定義された文の構造は、立体的な構造をもった構築物である文を線状に単純化し、命題、命題態度のモダリティ、発話態度のモダリティに形式化したものといわなければなりません。ここから、展開される具体例をみましょう。

 このことを具体的な表現で説明する。

(3)[[[雨]だ]よ]。

(4)[[[かなり雨が降る]だろう]ね]。

例文(3)(4)で命題に相当するのは「雨(である)コト」と「激しい雨が降るコト」の部分である。これらは話し手の存在とは独立に客体世界に存在するものであるため、客観的な命題として機能する。これに対し、モダリティに相当するのは「だ」、「よ」、「だろう」、「ね」の部分である。このうち命題態度のモダリティに相当するのは「だ」と「だろう」の部分である。これらは「雨(である)コト」、「かなり雨が降るコト」という事態に対して、話し手が確言(「だ」)や概言(「だろう」)の判断を下したものである。一方、発話態度のモダリティに相当するのは「よ」と「ね」の部分である。これらは「雨だ」、「かなり雨が降るだろう」という判断を、話し手から聞き手への情報提供(「よ」)として伝えたり、話し手と聞き手の情報の共有(「ね」)として伝えたりする機能がある。
これらの表現は、話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能するのである。

 ここでもまた、機能が並べたてられていますが、命題に相当するのは「雨(である)コト」というのは、「である」つまり判断時、<助動詞>「だ」の連用形「で」+<助動詞>「ある」を補って解釈しています。これを補っておいて、命題態度のモダリティに相当するのは「だ」というのは、本来、<名詞>「雨」+<助動詞>「だ」であった句を無理やり分離し解釈したものでしかありません。これは、「命題+モダリティ」という解釈のために立体的な句を平面化した形式的な解釈の誤りを示しています。そして、(4)では、「だろう」を「命題態度のモダリティ」としていますが、これは、<助動詞>「だ」の連用形「だろ」+<助動詞>「う」の二語からなる異なった意義をもつ二語で、主体的表現の累加であり、肯定判断+推量という想像の世界から現実世界への話者の観念的移行が表現されています。

 さらに、発話態度のモダリティが「話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能する」などと機能的な解釈を述べていますが、これは言語規範としての主体的表現の語の本質によるものです。■

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