2015年11月23日

助動詞「だ」について(16)

   <助動詞>「だ」の捉え方(3)

 金田一春彦は昭和305月に研究社から刊行された市河三喜・服部四郎編の『世界言語概説 <下巻>』の日本語の条に「文法」を書いています。この中の、「十一 助動詞」の項を引用します。

 助動詞は、付属語のうちで語形変化をするものの称で、学校文典で助動詞と呼ばれるものは、二十語内外ある。が、服部四郎博士の創唱の基準(1)によれば、その中には、語の一部とは認められぬものが多く入っており、真に、単語と認められるもの、すなわち、助動詞と呼ぶのにふさわしいものは、ダ・ラシイの二語にすぎない。もし、これ以外に加えるとすれば、ダロウを加え得る。また、有坂秀世博士(2)に随って、勉強スル・運動スルなどのスルを加えることも許されよう。また、連語で、一箇の助動詞と同様に用いられるものには、ノダ・ソウダ・ヨウダなどがある。これら助動詞は、それが自立語についた場合、全体が一種の動詞・形容詞のような機能を帯びるもので、橋本博士(3)は、その点から、これらと、助詞のうちの準体詞その他を加えて、準用辞という品詞を立てられた。

 (1)「附属語と附属形式」(前出)に見える。()昭和十四年ごろ筆者に直接もらされたお考え。(3)『国語法研究』七九ページ

 ここでは、橋本文法をベースにアメリカ構造主義言語学の影響を受けた服部説や先に触れた<抽象動詞>である「スル」を加えるなど全く機能的、形式的な見方であることが示されています。一語とは何かについても確たる根拠を有していないことが見て取れます。「ダ」を<助動詞>としながら「ダロ‐ウ」を加えたり、連語としながら「ノ‐ダ」「ソウ‐ダ」「ヨウ‐ダ」に何ら注意を払っていないのにも明らかです。続けて、次のように「ダ」について記しています。

 は名詞につけば、そのものに一致すること、そのものに属することを表し、~ナ型の形容詞の語幹につけば、そういう属性を有すること、そういう状態にあることを表す。ダの用法中、注意すべきものは、長い句を、「意味の上で根幹をなす名詞+ダ」で表現する手法で、「雨ガ降ッテイル!」という文は「雨ダ!」と言い換えることができ、「君ハ何ヲ食ベル?」に対して、「ボクハウナギヲ食ウ」と答える代りに、「ボクハウナギダ」と短く言えるがごときである。(『金田一春彦著作集 第三巻』193195p)

 ここには、金田一の語義解釈の特徴である、「そのものに一致すること、そのものに属することを表し」たり、「そういう属性を有すること、そういう状態にあることを表す」とする理解が明示されています。時枝は先の論文で、この解釈の誤りを次のように指摘しています。

  金田一氏は、私の詞辞の別を、表現される内容に結びつけて考えたがために、辞の表現性を問題とせず、辞が付くところの詞の表現内容を以て、直に辞の性質を考えてしまったのである。……確かに、すべての助詞助動詞は、それが付く詞によって表現される客体的(金田一氏の云ふ客観的)な事実や状態に対応している。それ故に、助動詞は客観的表現であるとするならば、辞はおそらく、すべて客体的な表現である詞に繰り入れられるべきで、特に主体的な辞を区別する根拠を失うに違いないのである。

このように、詞辞という日本語の基本的区分を捉え、助動詞の本質を捉えることなしに機能的、形式主義的な見方をしていては、<助動詞>「だ」が主体的表現で、話者の肯定判断を表す語であるという本質をとらえることなど出来ずに混迷を深めるしかなくなります。「不変化助動詞の本質 ―主観的表現と客観的表現の別について―」という論稿がどの程度のレベルかは、これで明らかかと思います。

また、語の文中での意味と規範としての意義の区分が問題となりますが、時枝は意味論を正しく展開することは出来なかったため、十分な理解を得られなかった面もあります。

この金田一の誤りが渡辺実の構文論や寺村秀夫のシンタクス論に引き継がれ、教科研文法などとも結びついて仁田義雄らのモダリティ論へと混迷を深めて行きます。この誤りは先に挙げた、尾上圭介の「不変化助動詞とは何か―叙法論と主観表現要素論の分岐点」(『国語と国文学』平成二十四年三月号 八十九巻第三号)他の一連の論考にも明確に見られます。さらに、生成文法のHalle and Marantzの「分散形態論」と結びつけて論じられて、もっともらしい論文が展開されています。最近の「ダ」の論文を覗いて見ましょう。■

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