2015年11月22日

助動詞「だ」について(15)

     <助動詞>「だ」の捉え方(2)

 金田一春彦の「不変化助動詞の本質 ―主観的表現と客観的表現の別について―」は、昭和281953)年2月刊『国語国文』第二二巻の二‐三号に発表されたもので、現在は『金田一春彦著作集 第三巻』に「同 再論」とともに集録されています。論旨は次の通りです。

1)意志・推量を表す「う」「よう」「まい」は助動詞と言われながら形が変わらない。(2)この意志・推量と言われる用法は終止形についてで、連体形では用法も意義も異なる。(3)終止形しかない助動詞は感動詞・感動助詞のように主観的表現をなし、他の活用形を具えた助動詞は客観的表現をなすのではなかろうか。(4)時枝の言語過程説では、主観的表現の語句を「辞」呼び、客観的表現の語句を「詞」と分類しているが、今回提唱する分類には適合しないので、主観的表現の語句を「主観表現」の語、あるいはmodusと呼び、客観的表現の語句を「客観的表現」の語、あるいはdictumの語と呼んでいただきたいと思う。

これは、表題からも判る通り、言語過程説で言う主体的表現と客体的表現を主観的表現と客観的表現にすり替えて、一部の形の変わらない助動詞の終止形だけが主観的表現の語とするものです。これまで、<助動詞>とは何か、<指定の助動詞>「だ」の本質とは何かを辿って来た視点から見れば、主観的・客観的の語義を理解できず、言語の表現とは何かも理解出来ていない形式主義的、機能主義的言語観の誤謬の論であることは明らかかと思います。当然、時枝は同巻の五号に【金田一春彦氏の「不変化助動詞の本質」を読んで】を寄せ、その誤りを指摘しています。同誌には水谷静夫の【金田一春彦氏「不変化助動詞の本質」に質す】も掲載されています。時枝は、その稿の結びで次のように記しています。

……氏の論旨をつきつめていけば、氏の立場において、主観的表現など云ふものは、当然考へ得られない筈なのである。

以上のような不合理は、どこから来るかと云えば、詞と辞の表現性、即ち、ある内容を客体化して表現するか否かといふことを全然不問に付して、ただその語が客観的事実を表現しているか否かの点だけから語性を決定しようとされたことから来たことである。しかしながら、これも、氏独自の文法体系の原理としてならば、自由であるが、言語過程説における詞辞論に対する批判といふことになれば、それは全く的を外れた所論であると云わなければならないのである。言語過程説における詞辞論の批判は、何よりも、主体的客体的といふ表現過程の別を考へることが、はたして正しいか否かの点に向けられなければならなかったのであるが、氏の論文は、それらの点には全く触れられるところが無かったのである。

以上、私は、金田一氏の所説の中、ただ私の学説に向けられた批判の点についてのみ釈明を試みて、他の点については、今回は保留しておきたいと思うのである。

 これに対し、金田一は同巻九号に「不変化助動詞の本質、再論―時枝博士・水谷氏・両家に答えて―」で返答していますが、全く時枝の主旨は理解されず平行線を辿って終わっています。そして、この金田一の誤りが渡辺実の『国語構文論』や尾上圭介の『文法と意味<1>』他の論に引き継がれ現在も大きな影響を与えています。ちなみに、尾上の先の著書には「不変化助動詞とは何か―叙法論と主観表現要素論の分岐点」(『国語と国文学』平成二十四年三月号 八十九巻第三号)他が集録されています。

 この要約だけでは、金田一の主張は良く理解いただけないと思いますが、そもそも言語表現そのものが主観的であるのは言うまでもないことであり、その内容が客観的であるか否かは別の問題です。対象―認識―表現の過程的構造、表現を支える認識とその相対的独立が理解されていません。先に紹介した野村剛史「助動詞とは何か―その批判的再検討―」でも主観―客観の関係が正しく理解されていません。これらの具体的な紹介と批判は別途とし、まず金田一の論で<助動詞>と<指定の助動詞>「だ」がどのように扱われているかを確認してみます。■

この記事へのトラックバックURL

http://gutokusyaku1.mediacat-blog.jp/t113216
上の画像に書かれている文字を入力して下さい