2015年05月16日

山田孝雄(やまだ よしお)の<助動詞>「複語尾」説 3

  「陳述の力」と活用と複語尾

  三浦の論を見る前に、これまで説いてきたところをもう少し詳しく検討してみましょう。
 まず、山田の言う「陳述の力」について考えてみましょう。これを正しく理解出来るか否かが、言語本質論の分かれ目となります。
 山田は「用言の用言たる特徴は実にその陳述の作用をあらはす点にあり。」としているように、<用言>という語(言葉)が「陳述の作用をあらはす」つまり、「表わして」いるのであり、「陳述の作用」を語(言葉)が生み出すとは言っていません。「この作用は人間の思想の統一作用」というのですから、人間の生み出すものと、この点は正しくとらえています。この点こそ、国学という和歌の解釈および創作という実践に裏打ちされた学問の伝統を引く山田の文法論の強み、健全性があるのですが、言語実体論をとる現在の記述文法では語自体が表すかの山田説との相性がよく引っ張りだされることとなります。これまで見て来たように、「言語を表現の一種」と看破した時枝の立場からは当然、人間の生み出したものとなり<助動詞>一品詞説となります。

 次に「凡そ人の思想を発表する機関として個々の概念の必要なることはいふを俟たざるところ」というのは、<体言>が概念であり、<用言>もまた概念であるということになります。この概念とは実体の概念<名詞>であり、その作用を表す属性の概念<動詞><形容詞>です。

 しかし「個々の概念のみ存してもこれらを統一判定する作用なくば、思想の完全なる結成となることなし。」と言う通り「個々の概念」とは認識の対象の概念ですが、「陳述の力」とは人間の認識のあり方であり、「かく統一判定する作用を言語にあらはしたるもの即ち用言なり。」と言うように、これを表したものが<用言>であると主張しているわけです。

 つまり、<用言>の本質は「陳述の力」を表現したものというわけですが、概念も又表しているわけで、「人間の対象の概念」と「人間自身の、かく統一判定する作用」という二つの全く異質なものの表現を<用言>が担うことになります。このため、「国語の動詞はその活用形にて種々の陳述をなすものなるが」と「活用形」が「種々の陳述をなす」ことにならざるを得なくなります。

 そして「それらのみにては、その属性の表現の状態、又は陳述の委曲なる点等をあらはし得ざることあるが故にさる時に、その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。」というように、「活用」だけでは表し切れない「その属性の表現の状態、又は陳述の委曲なる点等」を表すのが「複語尾」であり、「その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。」ということになります。しかし「その活用形より更に複語尾を分出せしめ」る主体は何かが問題です。これは「人間の思想の統一作用」と解するしかないでしょうね。なぜ「分出」なのかの論理性はありません。しいて言えば、語尾に独立性がなく、かつ接尾語のように何にでも付くというよな恣意性ではなく動詞の活用との必然的密着性に着目したということになります。

 先の、山田の論述の過程に一箇所おかしな点がありますが、気付かれたでしょうか。
 <用言>を<動詞><形容詞>として論じて来たのですが、最初に見て来た通りどちらも活用をもっています。第1回の引用で複語尾について述べるところで「「国語の動詞はその活用形にて種々の陳述をなすものなるが、それらのみにては」と「国語の動詞は」と<形容詞>は理由もなく除外され、「複語尾」を持たないことにされてしまいます。ここにも山田の論の恣意的な論理の非一貫性がみられます。これらの理由で「複語尾説」そのものは他の<助動詞>一品詞説をとる人々には受け入れられませんでした。
 
 ざっと見ても、こんな問題がありますが三浦の言語過程説の立場からの批判を聞いてみましょう。言語過程説の論理的展開はこれからですが、必要な点は説明しながら論をみてみましょう。「言語は表現の一種」であることを念頭におく必要があります。

 
 用言はそのつぎに助動詞が加えられると語形が変化するけれども、これは形式上の変化で何ら内容の変化を伴う物ではない。いわゆる活用の部分は何ら陳述の表現を意味するものではない。これは山田が「陳述の力」と称するものを、認識構造として理解すれば明かになる。彼は、概念を統一する作用そのものを陳述の作用と解釈した。しかし、ヘーゲルもいうように、概念以外に概念を統一する作用があるのではなく概念そのものの発展によって統一が行われるのであり、「概念の自己自身による規定作用」を「判断作用」とよぶ(ヘーゲル『大論理学』)のであるから、山田の、「陳述の力」なるものは概念の発展であるが概念とは区別されるところの認識のありかた、すなわち判断にほかならないのである。それゆえ複語尾の問題は、用言のあとに接尾語とか判断辞とか思われるものが多数加えられているときに、それらはすべて用言の内部の問題であり属性の表現といっしょに一語として扱うべきか否かの問題でもあることになる。
 時枝は複語尾説をとらず、判断辞を一語と認めている。そしてそれの欠けているものに「零(ゼロ)記号」を設定する。「陳述の存在といふこと自体は疑ふことの出来ない事実であって、若し陳述が表現されてゐないとしたならば、『水流る』は、『水』『流る』の単なる単語の羅列に過ぎないこととなる。そして陳述の本質を考へて見れば、それは客体的なものではなく、全く主体的な肯定判断そのものの表現であるから、明かにそれは辞と共通したものをもつてゐるのである。」
 「敬辞の加わつたものから逆推して行くならば、『咲くか』(―ね、よ、さ、わ)、『高いか』(―同上)『犬か』(―同上)等は皆零記号の判断辞のあるものであると考えることに合理性を認めることが出来るのである。」(時枝誠記『国語学原論』)
 判断は対象の属性認識とは区別しなければならないが、用言は対象の属性の認識を表現するにとどまっている。それゆえ、文が用言で終わるときには形式と内容との間に矛盾が存在しているのであって、内容としては判断が存在していながら形式には示されていないものと見なければならない。「水流る」にあっては、肯定判断そのものの表現は省略されているのであって、用言が文としての完結を示す形態をとっているために、この形態から判断の存在を推定することはできるが、この形態に肯定判断そのものが表現されていると見ることはできない。しかし山田は形式と内容を強引に一致させようとする。形而上学的に、内容として存在しているからには表現されていなければならないはずだときめてかかっている。それゆえ用言は属性と陳述とを「共に」あらわすものと解釈し、たとえ客体的表現としての性格をもたずに主体的表現としての性格を持つものに転化しても、これを転化とは認めずに、単に属性の表現を失ったものでむしろ用言の特徴を発揮したものと解釈する。


 最後の文は次に例がしめされますが、まずここまでを考えてみましょう。この内容が素直に理解出来ればほぼ言語過程説を理解できたことになりますが、残念ながら「零(ゼロ)記号」を認められない橋本進吉から、橋本文法を信頼し服部四郎に教えを受けた金田一春彦や、その流れを汲む南富士男や國廣哲彌、渡辺實、尾上圭介や近藤泰弘といった人々にはこれが全く理解できません。
 その元となっているのが金田一春彦の「不変化助動詞の本質―主観的表現と客観的表現の別について―」(『国語国文』第22巻2-3号/1953年)および「同、再論―時枝博士・水谷氏・に両家答えて―」という論文です。
 1953年(昭和28年)に発表されたこの論文は未だに多くの、語や文の機能を説く論文の拠り所とされています。
 その内容を検討するのは、ずっと後になりますが次は上の内容をかみ砕きながら金田一の論文の一旦にも触れてみましょう。■
  
Posted by mc1521 at 16:53Comments(0)TrackBack(0)文法