万葉集の巻二・一四七番歌、
天の原 振り放け見れば 大君の 御壽は長く 天足らしたり
を阿倍仲麻呂は知っていた、という所まで論及しましたが、この後次のように論じられています。第五項全部を引用します。
阿倍仲麻呂は、この歌を知っていた。わたしはそう思う。なぜなら、この先行歌を知らずに、偶然同じ場所(「天の原」)で、同じ上の句を使って、その歌を作った。そんな偶然など、あるものではない。だから、当然、知っていて作った。そう考えるほかはない。おそらく「本当の作歌者名(Y)」も、知っていたことであろう。
このように考えてみると、仲麻呂の歌は、かつてとは、全く異なった「光」を帯びて輝くことに気づかざるをえないであろう。
彼のおかれていた状況を摘記してみよう。
第一、(従来の理解とは異なり)九州近辺の出身だった。宝満山(三笠山)の西麓、大宰府近傍の地に久しく住んでいたように見える。
第二、彼の生きた八世紀前半、すでに「倭国」(九州王朝)は滅亡していた。代わって近畿天皇家による「日本国」の時代となっていた。
第三、彼は若くして俊秀、ために霊亀二年(七一六)遣唐使の一員に加えられたという。もちろん、「日本国」の一人としてである。
第四、彼は、故郷の九州の博多湾岸を出航し、壱岐の北端部「天の原」に至った。ここを過ぎれば、もはや九州を見ることはない。「日本を去る歌」を作ったのである。
第五、彼は、この地で、かつて先人が作った歌を知っていた。その先人は、今は滅亡した「倭国」(九州王朝)の将兵として、白村江の戦へと出発していった。その時「倭国の永遠」のみを信じていたのである。
しかし今(八世紀中葉)、その「倭国」は滅亡し、近畿中心の「日本国」にとって代わられた。
人々は、昨日の「倭国への忠誠」を忘れたように、新しい「日本国」の近畿に向って「忠誠の心」を転じていた。
その中における「日本国の遣唐使の一員」に、彼は加えられたのである。
以上のような「状況」において、彼の歌を再読してみよう。そこには次のような含意が感ぜられないであろうか。
<その一>かつて白村江の戦へと出で立っていた人々、その将兵の上にも、あの「三笠山に出でし月」はその光を照らしていた。
<その二>はるか古え“天国より降臨した”として侵入し、支配した「倭国の始祖」ニニギノミコトがこの博多湾を“満面の勝利感”を以て闊歩していた時、あの「三笠の山に出でし月」はその姿を照らしていたことであろう。
<その三>その後、「倭国」は白村江に敗れ、三〇年数年後、滅亡した。人々は筑紫への忠誠を止め、ひたすら心を大和へと向けはじめた。その人々の姿をもまた、「三笠の山に出でし月」は変わらず照らしていた。
<その四>そして今、奇しき運命を以て、「日本国から大唐へ」の遣支団の一員となって、日本を去ろうとしている自分、その面前に月が照っている。これもあの「三笠の山に出でし月」の変らぬ光なのであろう。
以上、仲麻呂は“変わりゆく世の相(すがた)”に対し、不変なるもののシンボルとして、「三笠の山に出でし月」を見つめていたのではあるまいか。
通説の大和の三笠山では、とてもこのような深い、古田氏の敗戦体験にも支えられた、心の琴線に触れる理解は望むべくもありません。■