これまで、主に王維の詩「送鼂監歸日本」の九州の理解に関する粗雑を取り上げてきましたが、この本ではその根源にある日本国の理解にこそもっとも粗雑な解釈が見られます。もっとも、これは著者である上野氏個人の問題というより、戦後古代史学、国語学そのものの体質、戦後レジュームと呼ぶべきものですが、この点に触れてみましょう。
「第二章 日本から唐へ」で「日本の遣唐使は大言壮語して真実を語らない」という節で『旧唐書』『新唐書』の疑惑について論じています。『旧唐書』の東夷伝は高麗・百済国・新羅国・倭国・日本の5国で構成されています。つまり、倭国と日本国は別国となっています。本書では、<「日本」という国号が、法の中に位置づけられたのは、大宝律令が最初であることはすでに述べた。>として、倭国から日本国への変更を単なる律令制定による国号の変更と見做しています。しかし、唐はそれに疑問を持ち、遣唐使に問い質しているのですが著者はこれを「日本側の虚勢」の問題に矮小化し、「自負と虚勢は、コインの表裏の関係にあると思う」と片づけています。『旧唐書』「日本伝」の記述を見てみましょう。
日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名
或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本
或云 日本舊小國 併倭國之地
其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉
又云 其國界東西南北各數千里 西界南界咸至大海 東界北界有大山爲限 山外即毛人之國
日本國は倭國の別種なり。其の國、以って日に在り。故に日本を以って名と爲す。
或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲すと。
或は云う。日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。
其の人、入朝する者は多く自ら矜大(きょうだい)にして實を以って對(こた)えず。故に中國、焉れを疑う。
このように、唐の史書に「多く自ら矜大(きょうだい)にして實を以って對(こた)えず」と記されているのですから、これを単なる「日本側の虚勢」で済ますのは粗雑な理解と言うしかありません。『新唐書』「日本伝」にも同様な記載があります。倭国は建武中元二(57)年に光武帝から金印をもらい、俾弥呼もまた金印をもらったように、中国とは古くから交流があり、7世紀には唐と白村江で戦い、敗れているのですから、互いの状況は良く分かっているはずです。そこへ、新興の日本国の遣使が訪い「實を以って對(こた)えず」というのですから、単に「日本側の虚勢」とするのは粗雑な理解というしかありません。「日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと」というのですから、ここに王朝の交替があったと見ねばなりません。古田氏は『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973/角川文庫、1979/朝日文庫、1993/ミネルヴァ書房、2010)の「序章 連鎖の論理」で次のように記しています。
以上によってみると、中国史書に一貫した中国側の視点からは「漢より唐のはじめまで」は一貫した王朝としての「倭国」だ。それ以後、新興の別王朝としての「日本国」となった、といっているのである。そして、中国側は、この新興「日本国」の使節と接触した最初の経験をつぎのように記している(先の「日本国」の項につづく)。「其の人、入朝する者、多く自ら衿大きょうだい、実を以て対こたえず。故に中国焉これを疑う」。ここで「実」といっているのは、古くから累積し、正史に記録されてきた中国側の認識のことである。しかるに新興の「日本」の使節の主張がそれとくいちがっている。そこで、中国側はこれに疑惑をいだいた、というのである。
これこそが、真の日本の歴史と見ねばなりません。この日本国(近畿大和朝廷)以前の倭国を古田氏は「九州王朝」と名付けたわけです。そして、その九州王朝の天子の直轄領を中国の伝統に倣い九州と名付けたということになります。
上野氏の粗雑の論理の根源は、実にこの九州王朝という日本の真実の歴史の無視にあると言わねばなりません。■